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午前十時、プロジェクトの進捗会議。
会議室の重苦しい空気の中、私の視線はどうしても正面の席に釘付けになってしまう。そこには、昨日一輝さんに「無価値」だと断じられた若手社員の河野くんが座っていた。資料をめくる彼の指先は小刻みに震え、緊張のあまり思考が完全に停止しているのが見ていて痛いほど伝わってくる。
(……一輝さん、また彼を追い詰めるの?)
私がそう思って一輝さんの横顔を窺うと、彼もまた、河野くんに視線を向けていた。
……違う。今の彼の瞳には、いつもの冷徹な支配の光だけじゃない、何か別の感情が混じっている。一輝さんは会議室の片隅に座る私の存在に気づくと、一瞬だけ視線を止め、すぐに河野くんへと戻した。
彼が小さく息を吸い、低い声を出す。
「河野」
その響きだけで、河野くんは肩を跳ねさせた。フロア全体に緊張が走り、他の社員たちも「また始まるのか」と固唾を呑んで一輝さんの次の言葉を待つ。
一輝さんは昨日、突き返したばかりの河野くんの企画書に目を落とした。
「……この三ページの市場予測。データ自体は悪くない。だが、抽出のロジックに一貫性がない。……ここを昨年の実績値と入れ替えて再計算してみろ。そうすれば、お前の言わんとすることは成立する」
――耳を疑った。
会議室にいた全員が、一斉に息を止めるような気配を感じる。いつもなら容赦のない罵倒が飛んでくるはずの場面で、一輝さんが具体的な「助言」を口にしたからだ。この会社が始まって以来の異常事態に、私も思わず胸の中で息を漏らした。
「えっ……あ、はい! すぐに修正します!」
河野くんの顔に困惑の色が浮かぶ。けれど、それ以上に「救われた」という確かな光が宿るのを、私は見逃さなかった。
一方の一輝さんは、そんな彼を見ることもなく、わざとらしく椅子を回して窓の外へ視線を向けた。
「勘違いするな。お前に時間を割くのはこれが最後だ。次は、私の手を借りずに完璧なものを持ってこい」
言い方は相変わらず傲慢で、俺様全開。
けれど、窓の外を見つめるその背中を見つめながら、私は胸が熱くなるのを感じていた。
一輝さんの不器用な優しさ。その小さな、けれど決定的な変化が、誰よりも確かに私の目に映っていたから。
◇
会議の喧騒が遠ざかり、静寂が支配するエレベーターホール。一人、扉が開くのを待つ一輝さんの背中は、いつもの完璧な強さの中にも、どこか言いようのない孤独な影を落としていた。私はその背中に吸い寄せられるように、小走りで彼のもとへ向かった。
「瀬良さん!」
声をかけると、彼が振り返る。その瞳にわずかな驚きが過り、すぐにいつも通りの怜悧な光が宿った。周囲に誰もいないことを確かめ、私は一歩距離を詰める。勇気を振り絞って、彼の指先にそっと――触れるか触れないかの距離で指先を重ねた。
「……ありがとうございます。昨日のこと、……守ってくれたんですね。河野くん、本当に感謝していました」
彼は眉を寄せ、「馴れ馴れしく触るな、ここは会社だ」と冷たく言った。けれど、その手は私を遠ざけるどころか、彼の方から私の指先を優しく、確かめるように触れ返してくれた。その温もりが、彼の傲慢な仮面の奥にある真実を伝えてくる。
「……勘違いするな。私はあくまで、組織の効率を考え直しただけだ。無能を過度に怯えさせれば仕事の質が逆に低下する。そのロジックに改めて辿り着いた、ただそれだけの話だ」
理屈を並べる彼の言葉は、いつもの傲慢な彼そのもの。けれど、彼の耳の端が隠しきれずにほんのりと赤く染まっているのを、私は見逃さなかった。その不器用すぎる照れ隠しに、胸の奥がときめく。
「ふふ、そういうことにしておきます。……一輝さん、大好き」
思わずそんな言葉が零れ落ちた。
その言葉を聞いた瞬間、一輝さんの指先が小さく跳ねた。彼は動揺を隠すように一度強く瞬きをし、慌てたように視線を逸らす。
「いいか、今夜は残業などするな。七時に、マンションの下で待っている」
それは命令の形をした、彼なりの精一杯の愛の言葉だった。彼は私にそれ以上の言葉を許さないように、逃げるようにエレベーターへと乗り込む。私は閉まりゆく扉の向こうに微笑んで小さく手を振った。
本当に不器用で素直じゃない人だなぁと思う。
エレベーターが上がっていく音を聞きながら、私は願う。彼が父親によって植え付けられた呪縛から少しでも開放されるように。
彼が少しでも生きる幸せを知ることができるように。
少しでも息のしやすい世界になるように、と。




