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一輝が「歩く猛毒」と呼ばれるようになった背景には、瀬良家という逃げ場のない檻で過ごした少年時代があった。
◇
瀬良一輝の父・一成は、一代で巨大なコンサルティングファームを築き上げた男だった。
一成にとって人生とは、「勝つか負けるか」ですらない。
支配するか、支配されるか。
その二択しか存在しなかった。
「一輝、この模試の数学、なぜ一問間違えた?」
小学校低学年の一輝が差し出した答案を見ながら、一成は淡々と言った。
九十八点。
普通なら褒められてもおかしくない点数だった。
だが一成は、答案用紙を目の前でゆっくりと破り捨てる。
「どんな間違いも許されない。それが瀬良の跡継ぎとしての義務だ。この一問のミスが、将来何億という損失を生むかもしれない。無能な人間に生きる価値はない。……お前は無能か?」
「……いいえ、父さん」
一輝は震える拳を握り締めながら答えた。
家に温かな団らんなど存在しなかった。
母は一成の支配に耐えきれず、一輝が十歳になる頃には別邸で暮らしていた。
一輝が会いたいと願っても許されない。
「あのような感情に流される弱い女に、今のお前が会う必要はない」
一輝にとって家とは、安らぐ場所ではなかった。
常に査定される場所だった。
食事の作法。
英語でのスピーチ。
チェスの戦略。
何ひとつ父の基準を満たせなければ、容赦なく叱責された。
一成の言葉は、少しずつ一輝の心を蝕んでいく。
「お前は私が育てた道具に過ぎない」
「感情を捨てろ。それは弱者の言い訳だ」
「人を信じるな。支配するか、利用しろ」
中学生になった頃、一輝は学校でできた友人に、自作のプログラムを見せたことがあった。
数学の才能に恵まれた彼が、初めて心から楽しいと思って作った単純なゲームだった。
だが、そのことはすぐに父の耳に入る。
一成は激怒した。
そして友人の親が経営する会社への投資を引き上げ、会社を倒産へ追い込んだ。
「一輝。馴れ合いで堕落することは許さん。瀬良の跡継ぎとして何をすべきか考えろ。お前の甘さが、他人の人生を壊したんだ」
その日、一輝の中にいた少年は死んだ。
大切なものは、自分の弱さがある限り守れない。
ならば誰よりも強くなるしかない。
誰よりも冷酷になり、圧倒的な力で他者をねじ伏せるしかない。
彼は父の望む存在になることを選んだ。
感情を押し殺し、常に相手の数手先を読む。
弱みを握り、主導権を奪う。
そうすることでしか、自分の価値を証明できなかった。
そして、それ以外に大切なものを守る方法を知らなかった。
◇
一輝は自宅の暗いリビングで、度数の高いウォッカをストレートで呷った。
喉を通る焼けるような刺激よりも、はるに指摘された「猛毒」という言葉が、鋭い刃のように胸に突き刺さったまま抜けない。それはかつて、父が自分に刻み込んだ呪いの言葉そのものだった。
(……私は、あの男と同じことをしているのか?)
無能を切り捨て、恐怖で支配し、すべてを自分の掌の上で操ろうとする。はるを愛していると嘯きながら、彼女を所有物のように扱い、他者との繋がりすら遮断しようとする自分。その横暴さは、まさに自分が最も嫌悪し、拒絶していた父の写し鏡ではないか。
「……クソッ」
はるが会議室で見せた、あの悲痛な涙。その光景が脳裏から消えない。
暗闇の中で自分の手を見つめる。その指先が微かに震えていることに気づき、彼は拳を強く握りしめた。奥底に封じ込めたはずの傷ついた少年が、今、堰を切ったように揺り起こされる。
「……明日、謝罪くらいは、すべきだろうな」
暗闇へ向けた独り言は、驚くほど脆かった。
◇
翌朝、一輝はいつもより三十分早くオフィスに現れた。
皺ひとつないシャツに、完璧に磨き上げられた靴。外見は相変わらず冷徹な「歩く猛毒」そのものだったが、胸中には昨夜の自問自答による、奇妙なざわつきが残っている。
「おはようございます、瀬良さん」
出社してきたはるが、気まずそうに、けれど何かを探るような瞳で挨拶をした。いつもの彼なら、ここで容赦のない皮肉を投げつける場面だが、今朝の一輝にはその余裕がない。短い会釈で返すと、彼は自分のデスクへ逃げ込むように座った。
午前十時。プロジェクトの進捗会議。
一輝の正面には、昨日彼に「無価値」と断じられた若手社員、河野が座っていた。河野の手は資料をめくるたびに小刻みに震え、完全に思考が停止している。
(……はるは、この風景を見ていたのか)
一輝は、会議室の片隅に座るはるの存在を意識した。彼女の視線が怯える河野に向けられている。そのことに、胸の奥がチリりと焼け付くような不快感を覚えた。それはかつての「自分が支配できていない苛立ち」ではなく、自分が彼女の瞳を曇らせていたという「自責」に近いものだった。
「河野」
一輝の低い声に、河野が肩を跳ねさせる。フロア全体に緊張が走り、他の社員たちが「また始まるのか」と固唾を呑んだ。
一輝は昨日、突き返した河野の企画書に目を落とす。
「……この三ページの市場予測。データ自体は悪くない。だが、抽出のロジックに一貫性がない。……ここを昨年の実績値と入れ替えて再計算してみろ。そうすれば、お前の言わんとすることは成立する」
罵倒が飛んでくるのを予想していた全員が、同時に耳を疑った。
瀬良一輝が、具体的な「助言」を口にした。それは、この会社が始まって以来の異常事態だった。
「えっ……あ、はい! すぐに修正します!」
河野の顔に、困惑と、それ以上に「救われた」という光が宿る。
一輝はそんな彼の顔を見ようともせず、椅子を回して窓の外を向いた。
「勘違いするな。お前に時間を割くのはこれが最後だ。次は、私の手を借りずに完璧なものを持ってこい」
言い方は相変わらず傲慢で、俺様全開だった。
けれど、一輝の背中を見つめるはるの目には、その不器用な変化が、誰よりも確かに映っていた。




