28
月曜日の朝。オフィスを包む空気は、いつも以上に張り詰めていた。
「……やり直しだ。この程度の市場調査で、私が納得するとでも思っているのか?」
一輝の冷徹な声がフロアに響き渡る。デスクに投げ出された企画書を前に、若手社員が青ざめた顔で立ち尽くしているのが視界に入った。一輝は椅子に深く背を預け、完璧に整えられた前髪の奥から、射るような視線を向ける。
「君の時間は無価値なのか? 次に私のデスクへ来る時は、せめて『プロ』としてのプライドを持ってこい。……以上だ、戻れ」
一言も反論を許さない、圧倒的な「歩く猛毒」としてのマウント。周囲の社員たちが毒に当てられたかのように黙々とPCに向き直る中、私は心の中で小さく息を吐き、コーヒーを啜った。
あの情熱的な夜や、パーティーで見せた命懸けの献身が嘘のように、オフィスでの彼は血も涙もない「支配者」そのものだ。私と一輝の仲は、社内では徹底して秘密。彼が「仕事とプライベートを混同するのは無能の極みだ」と公言している以上、接触は最小限に抑えなければならない。あの「俺様」な顔と、家で見せる「甘い」顔のギャップに、私はいつも心臓を握りつぶされるような思いでいた。
午後、会議資料の確認のため、私は一輝の役員室へ向かった。
ノックをして入ると、彼はタブレット端末を高速で操作していた。
「失礼します。……一輝さん、午後の経営会議の資料をお持ちしました」
「そこに置いておけ」
顔も上げずに短く命じられた事務的な声。寂しさを感じながら資料を置いた時、ふと視線が合った。眼鏡の奥の瞳が、本当に一瞬だけ和らいだのを、私は見逃さなかった。
「……はる。言ったはずだ、社内では役職で呼べと。それから……」
一輝は周囲を窺うようにドアに目をやり、鍵が閉まっているか確認すると、無言で立ち上がった。そのまま私の横を通り過ぎ、静かにドアの鍵を掛ける。
「え、一輝さん……? イチャイチャ禁止だって、自分でおっしゃって……っ」
「……禁止だ。だが、私の忍耐にも限界がある」
彼は私をデスクと自身の体の間に閉じ込めるようにして、壁に手を突いた。いわゆる「壁ドン」の形。でも、彼が放つオーラは甘い誘惑というより、獲物を逃さない狩人の威圧感そのものだった。
「朝からずっと、君が他の男と笑顔で話しているのを見ていた。……五分、いや三分だ」
「なんのこと……っ、あ、営業の佐藤さんと資料の相談をしてただけですよ?」
「理由などどうでもいい。私の視界に入る場所で、私以外の男にその笑顔を向けるなと言っている」
一輝は私の顎をクイと持ち上げ、強引に唇を奪った。
「んんっ……、一輝、さん……っ、誰か来たら……!」
「来ない。今、鍵をロックした」
彼は囁くと、ブラウスのすぐ内側、私の首筋に深く顔を埋め、吸い付くように痕を残した。
「あっ、そこは……! 隠すのが大変なんです……っ」
「お前が私のものだということを、私が認識するために必要だ」
独占欲か、それともただのワガママか。満足げに唇を離すと、彼は何事もなかったかのようにデスクへ戻った。
「……十分だ。戻っていい。資料については、後で論理的にフィードバックを行う。覚悟しておけ」
「……はい、瀬良役員」
私は紅潮した顔を隠すように、足早に役員室を後にした。デスクに戻ると、隣の同僚が声を潜めて話しかけてくる。
「ねえ、はるちゃん。さっき役員室に行ったでしょ? 瀬良さん、機嫌どうだった? さっき営業部の課長が呼び出されて、ボロクソに論破されて帰ってきたんだけど……」
「えっ……あ、ええと……いつも通り、厳しかったです……」
嘘ではない。一輝の傲慢さは健在だ。ただ、その向かう先が「仕事のミス」なのか「他の男との会話」なのかという、違いがあるだけなのだから。
定時を過ぎ、オフィスに空席が目立ち始めた頃。私のPCに一通のチャットが届いた。
『本日の資料、確認した。ロジックの甘い箇所が散見される。20分後に第4会議室へ来い。再教育を行う。』
文面は「上司から部下への呼び出し」そのもの。けれど、私には分かっていた。20分後、それは会議室フロアから人がいなくなる時間帯だ。
(再教育、かぁ……)
私は内心で苦笑し、ノートPCと資料を抱えて席を立った。
第4会議室はフロアの隅にあり、防音設備が特にしっかりした部屋だ。ドアを開けると、上着を脱ぎ、シャツの袖を捲り上げた一輝が夜景を背に立っていた。
「遅い。30秒オーバーだ」
「すみません。それで、資料のどこに問題が……?」
私が資料を広げようとすると、彼はその手からノートPCを無造作に取り上げ、机へ置いた。
「資料などどうでもいい。……昼間の続きだ」
有無を言わせぬ力で腰を抱き寄せられ、私は会議室のテーブルの上に座らされた。
「ちょっ……一輝さん! ここ、会議室ですよ! 誰か来たら……」
「予約システムで、この部屋は今から1時間、私がセーブしている。誰も入ってこられない設定にしてある」
彼はそう言い放つと、私の両太ももの間に割り込むようにして立った。
「……オフィスで君が他の男と馴れ合っている間、私がどれほど不快だったか」
「馴れ合ってなんて……佐藤さんは、ただの仕事仲間で……っ」
「言い訳はいらない」
一輝は私の唇を、今度は貪るように塞いだ。役員室での短いキスとは比べものにならないほど深く、熱い。彼の舌が侵入し、口内を支配していくたびに、指先から力が抜けていく。
彼の手がスカートの裾から滑り込み、熱を持った掌がストッキング越しに太ももをなぞった。
「……はる。ここで君が乱れる姿が見たいな。ここで必死に耐える君の顔も可愛いだろうな」
「い、意地悪……っ」
「最高の褒め言葉だ」
一輝は不敵に笑うと、指先でデリケートな場所をわざと強く圧迫した。
(この人、本当に……独占欲の塊なんだから)
私は彼の肩を強く掴み、こぼれそうになる吐息を必死に飲み込んだ。




