27
なおside
レセプションパーティー当日。
会場となった都内屈指のホテルの大広間は、幾千のクリスタルが煌めくシャンデリアの眩い光と、着飾った財界人たちの華やかな喧騒に包まれていた。
なおは、公式カメラマンという名目で、愛用のライカを手に会場の隅に立っていた。ファインダー越しに群衆を覗く彼の目は、いつになく鋭く、一人の男の姿だけを執拗に追い求めている。
「……いたな」
なおの視線の先。
そこには、漆黒のタキシードを完璧に着こなした一輝と、その隣で少し緊張した面持ちで佇むはるの姿があった。
はるは一輝が選んだであろう、淡いシャンパンゴールドのドレスを身に纏っている。その姿は、兄であるなおが見ても息を呑むほど可憐で、けれどどこか、あまりに美しい「籠の中の小鳥」のような危うさを感じさせた。
「はる、背筋を伸ばせ。君は私のパートナーとしてここにいるんだ。もっと堂々としていろ」
一輝の声が、周囲のざわめきを抜けてなおの耳に届く。
その声は、はるを励ましているようにも聞こえたが、なおには部下を支配下に置くような「絶対君主」の響きにしか聞こえなかった。
「……やっぱり、どこまでもマウント取ってやがる。あんなハレの舞台でまで説教かよ」
なおは忌々しげにシャッターを切った。
レンズ越しに見る一輝は、近づいてくる取引先の重役たちに対し、隙のない完璧な笑みを浮かべながらも、その瞳の奥には一切の感情を許さない冷徹さを湛えていた。挨拶に来た格下の若手起業家が少しでも的外れなビジネス論を口にすれば、一輝は一瞬で容赦のない言葉のナイフを突き立て、相手を完璧に沈黙させていた。
まさに、会場の空気を支配する「歩く猛毒」。
しかし、そんな一輝が、ふとした瞬間に隣のはるへ視線を落とした。
「……疲れたか? 喉が渇いたなら、何か飲み物を持ってこさせよう」
その瞬間、一輝の瞳から周囲を威圧していた鋭い「毒」が、ふっと消え去ったのをなおは見逃さなかった。
一輝は自分のジャケットを、空調で少し冷えたはるの肩にそっと掛ける。その動作はあまりに自然で、かつてなおが見たこともないような、深い執着と愛惜が入り混じった男の顔をしていた。
(……あいつ、あんな顔をするのか?)
なおは動揺し、シャッターを押す指が一瞬止まった。
麗が言っていた「毒を抜かれたただの男」。それは演技にしてはあまりにも生々しく、一輝という男の根幹を激しく揺るがしているように見えた。
しかし、なおの疑念が晴れることはない。
むしろ、その「特別扱い」の重さこそが、はるを誰の手も届かない暗闇へ閉じ込めようとする、より深い独占欲の表れに思えてならないのだ。
「……麗。見てるか? あいつ、完全に自分のテリトリーにはるを閉じ込めてやがる」
なおは、会場の壁際に立っていた麗に目配せを送った。麗はカクテルグラスを傾けながら、面白そうに一輝とはるの様子を観察している。
「そうね。でも夏緒、よく見て。彼がはるさんを支配しているように見えるのは、そうしないと、自分を保てないからかもしれないわよ?」
「……どういう意味だよ」
「毒を吐いてばかりの男が、自分からはるさんが離れていかないように必死に繋ぎ止めている。毒しか吐けないからはるさんを失うことを恐れてあんな風になってる。毒に侵されているのは、案外、瀬良一輝の方かもしれないわね」
麗の言葉に、なおは再びファインダーを覗いた。
一輝が、はるの耳元で何かを低く囁いている。それに対し、はるが恥ずかしそうに、けれど心から幸せそうに微笑み、一輝の腕をぎゅっと掴み返した。
その瞬間、一輝はほんの僅か、ほとんど他人には気付かせない位の優しい瞳をした。
「……ふん。気に入らねえ。あんな危ねえ男に、はるを任せられるかよ」
なおは、ライカのダイヤルを回し、露出を一段下げた。
「真実」を写すための準備は整った。次に一輝が、はるの前で「猛毒」の本性を覗かせたその瞬間を、彼は逃さず切り取るつもりだった。
しかし、なおの知らないところで、事態はさらに不穏に動き出そうとしていた。
会場の華やかな光の反対側から、一輝に激しい恨みを持つ別の「影」が、不気味な足取りで二人の背後へと近づいていたのだった。
◇
会場の喧騒を切り裂くように、一人の男がフラフラとした足取りで近づいてきた。
かつて一輝に不正を暴かれ、業界を追われた元取引先の男だ。酒臭い息を吐き、血走った目で一輝とはるを睨みつけている。
「……瀬良、一輝……っ! よくも、よくも俺の人生を……!」
男が懐から何かを取り出そうとしたその瞬間、カメラマンとしてのなおの全身に電流が走った。「決定的瞬間」を察知する本能が、最悪の事態を告げている。
「はる……っ!」
なおが叫び、人混みを掻き分けようとしたとき――それよりも速く動いた影があった。一輝だ。
彼は男が手にしたナイフを認めるやいなや、はるの肩を掴んで背後へ引き寄せ、自らが盾となって立ちはだかった。
「下がるんだ、はる!」
その声は、冷徹な上司のそれではない。愛する者を守ろうとする、一人の男の咆哮だった。
狂乱した男がナイフを突き出した瞬間、一輝は眉一つ動かさず、左腕を犠牲にしてその刃を弾き飛ばした。鋭い刃先が高級なタキシードを切り裂き、鮮血が床に飛び散る。
「きゃあぁっ!」
「一輝さん……っ!!」
悲鳴が上がる中、なおは無我夢中で駆け寄り、警備員よりも早く男を体当たりで組み伏せた。
「この野郎、はるに……はるに何しようとしてんだ!」
激しい怒りに肩を震わせるなお。しかし、ふと振り返ったとき、目に入ってきた光景に息を呑んだ。
そこには、腕から血を流しながらも、傷など一切顧みずにはるを強く抱きしめる一輝の姿があった。
「……大丈夫だ、はる。怖くない。私がついている」
一輝の声は、微かに震えていた。
それは恐怖ではなく、彼女を失いかけたことへの怒りと、無事であったことへの安堵――あまりにも人間臭く、剥き出しの動揺だった。
「一輝さん、血が……っ、私のせいで……!」
「君のせいじゃない。君が無事なら、それでいい」
泣きじゃくるはるを、一輝は血のついた手で愛おしそうに撫でた。周囲の目など、今の彼には一ミリも入っていない。
「……計算外だな。私が、自分の命より君を優先してしまうなんて」
自嘲気味に呟き、一輝ははるの額に深く口づけを落とした。
その姿に、傲慢な「歩く猛毒」の面影はなかった。ただ、一人の女性を命懸けで愛してしまった、不器用な男がいるだけだった。
なおは、構えていたライカをゆっくりと下ろした。
ファインダー越しではなく、肉眼で見たその光景は、どんな調査資料よりも雄弁に一輝の「本気」を物語っていた。
麗が隣に歩み寄り、静かに囁く。
「……見た? なお。あんな風に自分を犠牲にしてまで誰かを守るのが、彼の本当の姿なのよ。あれを見てもまだ、二人を別れさせるつもりなの?」
なおは苦々しく地面を見つめ、それから抱き合う二人をもう一度睨みつけた。
「……チッ。認めねえよ、絶対。……でも、あいつ以外にはるを守れる奴がいないってことくらいは、分かってやるよ」
吐き捨てた声には、妹を託すしかないという苦い諦めと、わずかな安堵が混じっていた。兄として、一輝という男の器に完敗した瞬間だった。
一輝ははるを抱きかかえたまま、ふと顔を上げた。なおの視線に気づいた彼の瞳には、いつもの冷徹さはない。ただ、愛する女を命懸けで守り抜いた男特有の、静かな覚悟だけが宿っていた。
それは、言葉を介さぬ「これからも彼女を守る」という無言の宣誓だった。
一輝は薄く笑みを浮かべ、はるを抱きしめる手に力を込める。
◇
パーティー会場の喧騒を離れ、都心を見下ろす麗のマンション。
間接照明だけが灯る静かな空間で、なおはバルコニーから夜風を浴びていた。まだ鼓動が早鐘を打っている。
「……はい、着替え。いつまでもそんな血生臭い格好をしていないで」
麗が差し出したのは、ここへ置き去りにしている私服だ。なおは礼も言わずそれを受け取ると、タキシードを床に脱ぎ捨て、迷わずバスルームへ向かった。
冷たい水で火照った頭を冷やし、シャワーを浴びる。鏡の前でボサボサになった髪をオールバックにかき上げ、数日放置していた無精髭をシェーバーで無造作に剃り落とした。
鏡の中にいたのは、パーティー会場にいた冴えないカメラマンではなかった。
彫りの深い目元と精悍な顎のライン。隠そうとしても滲み出る、造形美がそこにあった。
「……あんまり見んなよ。落ち着かない」
部屋に戻ると、ソファでワインを傾けていた麗が、ふっと意地悪く目を細めた。
「もったいないわね、夏緒。海外の戦場やスラムで防犯のためにその顔を隠しているのは知っているけれど。日本にいる時くらい、その宝の持ち腐れをどうにかしたら?」
「めんどくせぇよ。俺は顔で仕事してるわけじゃない」
なおは麗の隣にどさりと腰を下ろすと、彼女の手からグラスを奪い、中身を一気に飲み干した。
「……瀬良の野郎。あんな俺様全開でさ……はるを自分の一部だなんて、よくもまあ平気な顔で言えたもんだ」
「口ではそう言っても、結局あなたは安心しているんじゃない? 自分よりも先に身体が動いて妹を助ける男だって、目の当たりにしたんだもの」
麗が細い指先で、なおの整った頬をなぞる。
彼女の指を掴むと、なおはそのまま引き寄せるようにして、彼女をソファへと押し倒した。
「……その話はもういい。今は、はるのことも、あいつのことも全部忘れたい」
なおの瞳の奥に欲望の熱が宿る。
麗は彼の首に腕を回し、耳元で吐息混じりに囁く。
「いいわよ……。忘れさせてあげる」
唇が重なる。
なおの大きな掌が、麗のドレスのジッパーをゆっくりと引き下げていく。
普段の無頓着で粗野な姿からは想像もつかない色気と、抗えない強引さがそこにはあった。
「……麗、お前。さっきからやけに瀬良を褒めすぎる」
「あら……嫉妬? 可愛いこと言うのね」
「うるせぇ。……黙れ」
なおは独占欲をむき出しにして、彼女の言葉を深い接吻で塞いだ。
薄暗いリビングに、衣擦れの音と重なる吐息が響く。
そして、なおは麗との刹那的な快楽に深く沈んでいった。




