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十九時ちょうど。私はオフィスの喧騒を逃れるようにして、足早に指定された路地裏へと向かっていた。パンプスがアスファルトを叩く音が、静まり返った夜の空気の中で妙に大きく響く。
「……急がなきゃ」
一輝さんは、時間の乱れを何よりも嫌う。彼にとっての「十九時」は十九時ちょうどであって、一秒でも遅れれば、完璧に組み立てられた彼の予定を狂わせる嫌なノイズになってしまうからだ。
角を曲がると、薄暗い街灯の下にシルバーメタリックのプリウスが静かに停まっていた。周囲の夜景を鏡のように弾き返すその綺麗な車体は、都会の片隅でどこか冷たいオーラを放つ一輝さんそのもののようだった。私は呼吸を整える間もなく、助手席のドアを開けた。
「お待たせしました、一輝さん! 急いで片付けたんですけど……」
車内に滑り込むと、そこにはいつもの、隙のない一輝さんがいた。けれど、ふと目に入った彼の指先が、ハンドルを少しだけ強く握りしめているように見えて、私の胸の奥が小さく跳ねる。
「……三分の遅刻だ。お前の時間の感覚は、一体どうなっているんだ」
呆れたような、けれどどこか優しい温度を含んだ声。私はわざと膨れっ面を作ってみせた。
「もう、第一声がそれですか? せっかく頑張って来たのに」
シートベルトを締める私の隣で、一輝さんは何も言わずに車を発進させた。プリウスのエンジン音は驚くほど静かで、車内にはかすかなBGMと、彼がいつも身に纏っている、清潔な石鹸と微かなスパイスが混ざったような香りが漂っている。
「……ミケは?」
前方を見つめたまま、一輝さんが問いかけた。その声が少しだけ柔らかくなったのを、私は聞き逃さない。
「いい子でお留守番していますよ。でも、一輝さんが来ると分かると、玄関の方をずっと見てるんです。なんだかんだ言って、あの子も一輝さんのことが大好きなんですね」
「……当然だ。私はあの毛玉の命の恩人であり、最高級のささみを買ってやるパトロンだからな。懐かない理由がない」
パトロン、だなんて。相変わらずの言い草に、私は思わず噴き出してしまった。
夜の街を滑るように進む車内。窓の外を流れるネオンの光が、一輝さんの整った横顔を交互に照らし、また深い陰影の中に沈めていく。
「パトロンって……。でも、ミケだけじゃなくて、一輝さんの周りには本当はもっと人が集まってもいいはずなのに」
私は、流れていく夜景を見つめながら、ふと心に浮かんだことを口にしていた。
「顔も良くて、仕事もできて。……ただ、その口の悪さと性格の歪みが、全部を台無しにしてるんですよね。神様も、本当に配分を間違えたというか……」
オフィスでの彼は、誰もがひれ伏す完璧な人だ。けれどその鋭すぎる言葉のせいで、周囲から怖がられ、遠巻きにされているのも事実だった。
一輝さんはハンドルを握る手に少しだけ力を込め、低いけれど、どこかホッとしたような声で答えた。
「……その話はもういい。私は、今のままで十分だ」
多くの人間に好かれ、チヤホヤされることなんて、この人には必要ないのだろう。
「周りにどう思われようが構わない。私のこんな性格を知った上で、こうして隣にいる人間がお前一人いれば、それでいい」
前方をじっと見つめたまま、一輝さんはふっと口元を僅かに緩めた。
そう言って、一輝さんは左手をハンドルから離すと、私の膝の上にあった右手を無造作に包み込んだ。
性格が最悪で、ちっとも素直じゃない。
そんな彼のめんどくさくて愛おしい部分を、一番近くで受け止められるのは、世界中で私しかいない。そう思った瞬間、愛おしさがじわじわと胸に広がっていく。
大きな手のひらから伝わる確かな熱が、都会の冷たい夜を、一瞬で二人の温かい世界へと塗り替えていく。
「……さあ、帰るぞ。ミケを待たせるわけにはいかないからな」
ぶっきらぼうに放たれたその言葉の裏にある、不器用な優しさに胸を熱くしながら、私は絡められた指先にそっと力を込めた。
◇
私のマンションに到着し、ドアを開けた瞬間、小さな黒い影が勢いよく飛び出してきた。
「にゃあ!」
短く、どこか誇らしげな鳴き声。ミケは一輝さんの姿を認めるなり、その足元に体をすり寄せて、全力での大歓迎を始めた。
「ほら、一輝さん。ミケ、待ちくたびれていましたよ」
「……やれやれ。お前の教育がなっていない証拠だ。野生のプライドはどこへ捨ててきたんだ、この毛玉は」
不機嫌そうな言葉とは裏腹に、一輝さんはすぐにその場にしゃがみ込んだ。長い指先が、ミケの顎の下を優しく、気持ちよさそうな場所へ的確に触れていく。一輝さんに手入れをしてもらうようになってから、ミケの黒い毛並みは以前よりずっと艶やかになり、リビングの光を綺麗に弾いていた。ミケは喉をゴロゴロと鳴らし、幸せそうに目を細めている。
「さて、夕飯だ。お前は座って見ていろ。お前が包丁を握ると、ハラハラして私の寿命が縮む」
「そこまで言わなくてもいいじゃないですか! 私だって、パスタくらい茹でられますよ」
結局、私はキッチンの隅で大人しくレタスをちぎる係に任命された。
一輝さんは手慣れた動作でベーコンを炒め、卵とチーズのバランスをきっちり合わせながら、カルボナーラのソースを作っていく。狭いキッチンに、ガーリックとベーコンの食欲をそそる香りが一気に広がった。
一輝さんのような人が、こんな小さな部屋のキッチンに立ち、腕まくりをしてフライパンを振っている。その光景があまりにも現実離れしていて、不思議な気持ちになる。けれど、あの日雨の中で震えていた子猫を拾い上げた彼の手のぬくもりを思い出すと、これが本当の彼なのだと思えてくるのだった。
「できたぞ。冷めないうちに食べろ」
差し出されたパスタは、盛り付けまでレストランのように綺麗だった。
私たちは、小さなテーブルを挟んで向かい合った。足元には「僕も混ぜて」と甘えるミケ。
「ねえ、一輝さん」
「なんだ。パスタの味に文句があるなら聞かないぞ」
「……ううん。すごく美味しいです。……ただ、幸せだなって思っただけ」
私は、素直な気持ちを口にした。
華やかなレストランでのディナーでも、高い天井の別荘でもない。この、手が届く範囲に大切なものがすべて集まった、少し狭くて温かい空間。
その瞬間、一輝さんが動かしていたフォークの手がピタッと止まった。
彼は何かを堪えるように視線を落とし、それからゆっくりと私を見つめた。
「……はる。お前は、本当に欲がないな。私のような性格の男と、こんな狭い部屋で食事をするだけで幸せだなんて」
「性格が少し意地悪なのは、もう知ってますから。……でも、雨の日にミケを助けたときの、あの優しい顔を知ってるのは、世界で私だけでしょう?」
私の真っ直ぐな言葉に、一輝さんの瞳が微かに揺れた。
完璧な仮面の下に隠されていた、誰にも触れさせなかった寂しがり屋な部分。そこに、私の存在がそっと触れたような気がした。
一輝さんは、ゆっくりとフォークを置き、テーブルの上で私の手をそっと握った。
かつての彼は、他人の体温をどこか避けているようなところがあった。常に一線を引いていた彼の手が、今は驚くほど温かく、そして力強く私の指を包み込んでいる。
「……神は、本当に配分を間違えたようだ。私に、お前という存在を与えすぎた」
絞り出すような、けれど深い愛しさがこもった声。
一輝さんは私の方へ身を乗り出し、私の額に、祈るような静かなキスを落とした。
「一生、お前が私の目の前から消えることは許さないからな」
「……それ、プロポーズですか? それとも、ただの脅迫?」
私が少しだけからかうように尋ねると、彼はいつもの傲慢な、けれど世界で一番優しい微笑みを浮かべた。
「決まっているだろう。……私なりの、最高のプロポーズだ」
足元で、ミケが私たちの足の間に割り込むようにして「にゃあ」と鳴いた。




