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なおside
はるの兄・夏緒は、都心の喧騒を縫うように走る愛車のハンドルを限界まで握りしめたまま、忌々しげに舌打ちをした。
「瀬良一輝……。歩く猛毒なんて物騒な二つ名で呼ばれてる男が、はるの隣にいていいはずがないだろ」
なおの脳裏には、業界の知人やビジネスパーソンたちの間で囁かれる一輝の悪評が、黒い霧のように次々と浮かんでは消えていく。
仕事においては一切の妥協を許さず、部下を冷徹な正論で徹底的に追い詰め、その自尊心を完膚なきまでに破壊する。その姿はまさに、静かに、けれど確実に全身へ回っていく「猛毒」そのもの。関わった人間は皆、一輝の圧倒的な能力の前にただ平伏すか、さもなければ再起不能になるまで叩き潰される――それが、彼に纏わりつく恐ろしい噂の正体だった。
「そんな毒に、あいつが耐えられるわけがないんだ。今はまだ、あいつの顔の良さと、大人の色気に誤魔化されてるだけだ……」
なおはプロのカメラマンとして、ファインダー越しに数多の「嘘」と「虚飾」を見てきた。美しく着飾ったモデルの裏にある醜い虚栄心、完璧な構図の裏に隠された歪み。だからこそ信じられなかった。一輝のあのはるに対する態度は、本性である「猛毒」を隠し、世間知らずな妹を籠絡するための巧妙な演技ではないのか。
なおは車を路肩に止めると、スマートフォンを取り出し、迷わず一人の女性に電話をかけた。
「もしもし、麗か。……ああ、俺だ。ちょっと頼みたいことがある」
電話の相手は、なおの古い知人であり、企業間のトラブルや内部調査を得意とする美人弁護士の麗だ。彼女は表のメディアには決して出ない、業界の深い情報網を持っていた。
「……瀬良一輝という男について、徹底的に洗ってほしい。会社でのパワハラ、モラハラ、部下への執拗なマウント行為……あいつの『歩く猛毒』としての本性を裏付ける、決定的な証拠が欲しいんだ」
受話器の向こうから、麗の含みのある、艶やかな声が返ってくる。
『瀬良一輝? あの若き天才役員ね。……夏緒、珍しく必死じゃない。もしかして、前に話していたあの可愛い妹さんの件?』
「ああ」と、なおは苦々しく吐き捨てた。「あいつがもし、会社での傲慢なマウント体質をそのままはるに向けてるんだとしたら、俺は兄として絶対に黙っていられない。あいつがどれだけ有能で、どれだけ社会的成功を収めていようが関係ないんだ。はるを傷つける毒なら、俺がこの手で排除する」
『いいわ。彼の「毒」がどれほどのものか、私がプロの視点で鑑定してあげる。……でも覚悟しておいてね、夏緒。もしその毒が、妹さんにとっては甘い「特効薬」だったとしても、あなたは納得できるのかしら?』
「……そんなわけないだろ。あんな傲慢な男、はるには不釣り合いだ」
一方的に電話を切ったあと、なおは助手席に置かれた愛機、ライカのカメラを見つめた。
カメラマンとして、彼は常にレンズの前に剥き出しになる真実を写すことを信条としている。もし一輝が、はるを都合よく利用しているだけの「猛毒」ならば、その冷徹な仮面を白日の下に剥ぎ取り、地獄に叩き落としてやる。なおの瞳には、プロとしての鋭い観察眼と、妹を何としてでも守ろうとする執念が、暗い炎となって宿っていた。
その頃、そんな兄の深刻な懸念など露知らず、はるは一輝の腕の中で、その「猛毒」に心地よく痺れ、深く、深く溺れていくのだった。
数日後、なおは都内の超高層ビルにオフィスを構える法律事務所を訪ねていた。
「……で、結果はどうだったんだ、麗」
なおは案内されたシックな応接室の革椅子に深く腰掛け、焦れったさを隠そうともせずに切り出した。対面に座る麗は、仕立ての良いタイトなスーツを完璧に着こなし、知的な眼鏡の奥で楽しそうに目を細めている。彼女は細い指先で、丁寧にファイリングされた数枚の秘密性の高い資料を、なおの前へと滑らせた。
「結論から言うわね。あなたの予想通りよ、夏緒。瀬良一輝は、文字通り『歩く猛毒』……いえ、それ以上かもしれないわ」
なおは突きつけられた資料に目を落とした。そこには、一輝がこれまで社内で残してきた、冷徹なまでの実績と容赦のないエピソードが並んでいる。
「部下の些細なミスを全否定する冷酷なロジック、会議での敵を寄せ付けない圧倒的なマウント、気に入らない取引先を瞬時に切り捨てる迅速さ……。社内では、彼が通り過ぎた後のフロアは物理的に凍りつくとさえ言われているわ。間違いなく重度のモラハラ気質、そして救いようのないパワハラ体質ね。並の人間なら三日と精神が持たないわ」
「……やっぱりな」
なおはギリ、と拳を握りしめた。人間の内面の歪みを見抜く目には自信があった。一輝のあの完璧すぎる佇まいは、周囲を威圧し、自身の凶悪な毒性を隠すための防護服に過ぎなかったのだ。
「はるは、あいつのあの傲慢さに当てられて、正常な判断ができなくなってるだけだ。あんな男と一緒にいたら、いつかあいつの柔らかい自尊心は粉々にボロボロにされる。……麗、これだけで十分だ。あいつとはるを引き離すための材料としてはな」
「待ちなさい、夏緒。話にはまだ続きがあるのよ」
麗は優雅に足を組み替え、琥珀色の瞳でなおを真っ直ぐに見つめた。
「彼の私生活を徹底的に調べて驚いたわ。瀬良一輝という男は、これまで業界で一度も浮いた話がないの。それどころか、プライベートで誰かを自宅に招き入れた形跡すら、ここ数年は皆無。極度の人間嫌いで、他人の体温を拒絶しているような男。……そんな男が、あなたの妹さんだけを自分のマンションに連れ込み、あまつさえスペアキーまで渡している」
「それがなんだ。はるを新しく手に入れた、都合のいい『玩具』に選んだだけだろ」
「いいえ。彼の周辺調査で浮き彫りになったのは、彼がはるさんのためだけに、不可能なはずの定時退社をしようと死に物狂いで仕事を詰め込み、彼女の好む料理や猫のオヤツを必死にリサーチしている姿よ」
麗は、なおの動揺を買い楽しむようにクスッと笑った。
「社内では触れる者すべてを傷つける『歩く猛毒』。でも、あなたの妹さんの前では、牙を抜かれたただの男……いえ、恋に狂って余裕をなくしている男になっている可能性があるわ。……もちろん、それが独占欲から来る異常な執着だとしたら、別の意味で危険な男だけどね」
なおは言葉を失い、黙り込んだ。
あの日、妹のマンションのリビングで対峙した一輝の顔が、鮮明に蘇る。自分を追い出す時のあの冷徹で傲慢な目は、確かに資料にある「猛毒」そのものだった。けれど、はるを引き寄せ、その手を握ったときのあのわずかな「余裕のなさ」と、ほんのりと赤くなった耳元は、演技にしてはあまりにも生々しく、泥臭かった。
「……それでも俺は認めない。あいつははるを自分の色に『支配』しようとしているだけだ。あんな冷酷なマウント男に、はるの未来を預けられるかよ」
「そうね。なら、あなたのその自慢のレンズで、直接確かめてみればいいじゃない」
麗は意味深な笑みを浮かべると、マニキュアの塗られた指で、新しい資料を一枚追加した。
「来週、瀬良一輝が主催する大規模なレセプションパーティーがあるわ。彼の会社が手がける一大プロジェクトの記念式典よ。当然、秘書的なポジションとして、はるさんも同行するはず。……夏緒、カメラマンとしてその会場に潜り込むなら、特別な招待状を用意してあげてもいいわよ?」
なおは、麗の手からその資料をひったくるようにして受け取った。
「ああ、行ってやるよ。……大勢の人間が見ている前であいつの仮面を剥いで、はるの前でその『猛毒』の本性をぶちまけさせてやる」
なおの心は、妹への歪んだほどの愛と、瀬良一輝という完璧な男への強烈な対抗心で、激しく燃え盛っていた。
一方、そんな兄の不穏な動向など知る由もないはるは、今日もオフィスで一輝の冷たい視線――という名の、彼なりの不器用で熱い視線を全身に浴びながら、恋と仕事の境界線で、甘く揺れ動いているのだった。




