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一輝さんとあの夜を過ごしてから、私たちの関係は、密やか、けれど確実に熱を帯びたものへと変わっていきました。
会社では今まで通り、厳しい上司と部下。けれど一歩外に出れば、彼は驚くほど真っ直ぐな想いを向けてくれる、一人の男性になります。
何度かの逢瀬を重ね、彼のマンションのスペアキーが私のキーケースに馴染み始めた、そんなある週末のことです。
事件は、私の部屋で一輝さんと過ごす、穏やかな午後に起こりました。
「……はる、この資料だが、もう少し項目を分けた方が見やすくなると思わないか?」
一輝さんは私の部屋のソファで、眼鏡を少しずらしながら仕事のチェックをしていました。休日だというのに、彼はいつものように手際よく作業を進めています。私はといえば、その隣でミケを撫でながら、一輝さんが淹れてくれたハーブティーを啜る……。そんな、穏やかな幸せに浸っていました。
しかし、その静寂を切り裂くように、玄関のチャイムが激しく連打されたのです。
「はるー! いるんだろ? 兄ちゃんが入っちゃうぞー!」
その声を聞いた瞬間、私の全身から血の気が引きました。
聞き間違えるはずもありません。自由奔放で、嵐のようにすべてを掻き乱す私の兄、なおです。
「えっ、なおお兄ちゃん!? なんで今……っ!」
「……お兄さんか。以前会った、あの男だな」
一輝さんの瞳が、一瞬で鋭い輝きに戻りました。
返事をする間もなく、スペアキーを使ってガチャリとドアが開く音がしました。
「よお、はる! 近くまで来たから、美味い菓子でも……って、えっ」
リビングに踏み込んできたなおは、手に持っていた紙袋を落としそうになりながら、固まりました。
そこには、くつろいだ格好でソファに座る一輝さんと、動揺して立ち上がった私の姿。
「……また、瀬良さんがここにいるのか」
なおの顔から、いつものヘラヘラとした笑みが消えました。彼は私に対して、少し過保護なところがあるのです。
「それはこちらの台詞だ。家族とはいえ、独身女性の部屋に無断で立ち入るのは感心しないな」
一輝さんは立ち上がることもなく、冷静に言い放ちました。その堂々とした態度が、なおの火に油を注ぎます。
「感心しないだぁ!? お前、はるに何してんだ! さっきから距離が近すぎるだろ!」
「何をしたか、か。……休日を一緒に過ごしているんだ。それ以上の説明が必要か?」
「一輝さん、煽らないでくださいっ!」
私は慌てて二人の間に割って入りました。
なおは顔を真っ赤にして、一輝さんを指差します。
「はる! 騙されるなよ、この男は冷たい理屈屋なんだぞ! お前みたいな可愛い妹が、こんな奴に捕まってたまるか!」
「……冷たい、か。心外だな。私は私なりに、彼女のことを大切にしているつもりだが」
一輝さんはゆっくりと立ち上がると、なおの前に歩み寄りました。
「君に許可を求めるつもりはない。私は、はるのことを……その、心から……必要としているんだ」
一輝さんが少しだけ言い淀み、耳たぶを赤くして放ったその言葉に、なおは毒気を抜かれたように呆然としました。
「二度は言わない。帰ってくれ。今は、二人で過ごす大切な時間なんだ」
一輝さんはそう言うと、なおの背中を玄関の方へ促しました。
「ちょっと待て! 話は終わってないぞ! はる、本当にお前、こいつでいいのか!?」
「私は、一輝さんがいいの! お兄ちゃん、お願いだから今日は帰って!」
バタン、と勢いよく閉められたドアの向こうから、なおの叫び声が遠ざかっていきます。嵐が去った後の室内で、一輝さんは深くため息をつきました。
「……やれやれ。君のお兄さんは、本当に予測不能な人だな」
「……ごめんなさい、一輝さん。びっくりしたよね」
私は申し訳なくて俯きましたが、一輝さんは私の手を取り、そっと引き寄せました。
「……いや。おかげで、はっきり分かったことがある」
「えっ?」
「私は、君を誰にも渡したくないと思っているようだ。……たとえ、肉親が相手でもな」
そう言って、彼は少しだけ独占欲の滲む、けれどこの上なく優しい微笑みを浮かべました。
私はそんな彼の胸に顔を埋め、また一つ、彼を好きになってしまうのを止められませんでした。
「一輝さん……本当に、ごめんなさい」
私は一輝さんの胸に顔を埋めたまま、小さく謝りました。
せっかく彼が淹れてくれたハーブティーも、もうすっかり冷めてしまっています。完璧主義で、何事も予定通りに進むことを好む彼にとって、なおのような存在は、さぞかし不快だったに違いありません。
しかし、私の頭を撫でる彼の掌は、驚くほど温かでした。
「謝る必要はない。……ただ、君があの男の前で、はっきりと『一輝さんがいい』と言ってくれたのは……想定外の収穫だった」
「えっ……」
顔を上げると、至近距離に一輝さんの瞳がありました。眼鏡の奥、熱を帯びた眼差しが私をじっと見つめています。
「いつもは私に翻弄されているばかりの君が、あんなに毅然とした態度を取るとは思わなかった。……はる、もう一度言ってみろ」
「え、えぇっ……!? い、今のは、お兄ちゃんを追い出すための勢いで……っ」
恥ずかしくなって顔を逸らそうとしましたが、彼の指先が私の顎を優しく、けれど逃がさないように捉えました。
「勢いでも構わない。君の口から、もう一度聞きたいんだ」
低い声が、耳元でとろけるように響きます。
彼の瞳は、さっきなおを追い出した時の鋭い表情とは一変して、蕩けるような甘さと、隠しきれない独占欲に満ちていました。
「……一輝さんが、いいです。一輝さんじゃなきゃ、嫌です」
消え入りそうな声で答えると、一輝さんの口元が満足げに綻びました。
次の瞬間、彼は私を軽々と抱き上げると、そのままソファへと押し倒しました。
「あ……一輝、さん……?」
「……彼に邪魔をされて、少し気分が立っている。……責任を取ってくれるだろう?」
そう囁く彼の指先が、私のブラウスのボタンに掛かります。
「一輝さん、まだ、お昼なのに……っ」
「関係ない。……君が、私をこんなに『余裕のない男』にしたんだ」
重なり合う体温。
一輝さんの唇が、奪い取るように私の唇を塞ぎました。
なおの訪問というアクシデントが、皮肉にも彼の中にある理性の防波堤を壊してしまったようです。
足元では、ミケが寝床を求めて再び奥の部屋へ消えていきました。
昼下がりの柔らかな陽光が差し込む中、私たちは再び、二人だけの深い熱の中に溶け込んでいくのでした。




