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二泊三日の夢のような時間は、あっという間に過ぎていった。
最終日の午後、私たちは再びシルバーのプリウスに乗り込み、山梨の別荘を後にして帰路についた。
後部座席では、ミケがキャリーケースの中で丸くなって、旅の疲れを癒すように深い眠りについている。
中央道に入ると、案の定、激しい渋滞が始まっていた。
赤く連なるブレーキランプの列。本来なら、効率を何よりも愛する一輝さんにとって、この無駄な時間は耐えがたい苦痛のはずだ。なのに、彼の横顔に焦りの色はなかった。
「……明日からまた仕事かぁ。本当に、あっという間でしたね」
車内には、微かなBGMと、ミケの穏やかな呼吸音だけが満ちている。プリウスの優れた静粛性は、外の世界の喧騒を完全に遮断し、ここを二人だけの密室に変えていた。
時速五キロにも満たないノロノロ運転。
ふと、センターコンソールの近くに置かれた一輝さんの左手に目が止まった。長い指先が少しだけ、何かを探すように動いている。
私はためらいながらも、吸い寄せられるように自分の手を伸ばした。
指先が触れ、重なり、ゆっくりと深く絡み合う。
「……一輝さんの手、意外と温かいですね」
一輝さんはまっすぐ前を向いたまま、少しだけきまり悪そうに口を開いた。
「……黙れ。車の燃費効率が良すぎて、余った熱が指先に集まっているだけだ」
「ふふっ。そんなわけないでしょ」
彼のどこまでも苦しい言い訳に、私は声を殺して笑った。冷たい風の中で草紅葉を見たことも、昨夜のベッドの熱さも、すべてがこの絡まった指先から伝わってくる。一輝さんの力強い鼓動が、私の手のひらを叩いていた。
渋滞が解けなければいい。このまま、この銀色のシェルターの中で、ずっと時間が止まっていればいい。
そう願っているのは、きっと私だけではないはずだ。
普段はあんなに完璧な人が、完璧でない理屈をこねて、私の手を離さないでいてくれる。その不器用な矛盾こそが、私たちが手に入れた、新しい幸せの形だった。
月曜日、午前九時。
オフィスの自動ドアが開くと、そこにはいつもの、隙のない「瀬良一輝」が立っていた。
三揃いのスーツを完璧に着こなし、周囲を威圧するような冷徹なオーラを纏って、彼はいつもの戦場へと足を踏み入れる。
「おはようございます、瀬良さん」
すれ違いざまに声をかける部下たち。一輝さんは視線だけでそれをあしらい、迷いのない足取りで廊下を歩いていく。
かつての私なら、その冷たさに怯えていただろう。でも今の私は知っている。その完璧な仮面の下に、フレンチトーストの焼き加減を真剣に心配し、渋滞の中で私の手をずっと握りしめていた、あの愛おしい人が隠れていることを。
私はコピー機の前で資料を整えながら、彼と目が合う瞬間を待った。
一輝さんは私の横を通り過ぎる際、一瞬だけ足を止め、手元にあった資料を私のデスクに無造作に置いた。
「……はる。この資料の内容を精査しておけ。明日の朝までにだ」
「承知いたしました」
周囲の社員たちが、気の毒そうに私へ同情の視線を向ける。
「また瀬良さんに捕まったのか、大変だな」
けれど、彼らは何も知らない。
手渡された業務封筒の余白に、私にしか見えないほど薄い鉛筆の跡で、こう書き殴られていたことを。
『昨夜、ミケが不服そうに鳴いていた。……夕飯のメニューに、君の意見が必要だ。十九時に、いつもの場所で待て』
私は背中を向けたまま、小さく肩を揺らして笑った。ミケのせいにするなんて、どこまで素直じゃないのだろう。
性格は少し意地悪で、態度は傲慢。
神様は、確かに配分を間違えた。彼に余りある美しい外見や才能を与えながら、素直な気持ちを伝える言葉を削り取ってしまったのだから。
けれど、その欠落を埋めるために、神様が私を彼の隣に置いたのだとしたら。その不均等な采配も、決して悪くない。
「……はる、何をしている。さっさと作業に戻れ」
一輝さんの冷徹な叱咤する声がオフィスに響く。
私は完璧な「部下」の顔を作り、深く頭を下げた。
「失礼いたしました。すぐに取りかかります」
けれど、スーツのポケットに隠した合鍵と、指先に残るあの心地よい熱が。
夜になればまた「本当の私たち」に戻れることを、静かに約束してくれていた。




