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 アフガンを出たあと、一輝さんの車は美し森の駐車場へと滑り込んだ。

 車を降りた瞬間、私は思わず身震いをした。先ほどまでの森の奥とはまた違い、遮るもののない高原の風が、容赦なく吹き抜けていく。

「やはりここは冷えるな。はる、ちゃんと上着を着ろよ」

「大丈夫です、準備してありますから」

 そう言って、私は用意していた厚手のカーディガンを羽織った。一輝さんも、車から持ってきたチャコールグレーのジャケットを無造作に着こなしている。ただそれだけの動きなのに、相変わらず無駄に格好良くて、見惚れてしまう。

「にゃあ」

 後部座席のケージの中から、不満そうな声が響いた。別荘を引き払う際、車に乗せられたミケだ。

「ミケ、少しだけお留守番しててね」

 私がケージを覗き込むと、ミケは「僕を置いていくのか」と言いたげに、ふいっと後ろを向いて、別荘の床にいた時と同じようにおへそを天井に向けて丸くなってしまった。

 一輝さんは少しだけケージを開けると、手慣れた手つきでミケの顎の下を優しく撫でた。

「少しの間だ、大人しくしていろ。帰ったら、またあの美味いササミをやるからな」

「にゃおん」

 その言葉が理解できたのか、ミケは満足げに一つ鳴いて、そのまま目を閉じた。猫の扱いまで完璧なんて、今の一輝さんは本当に隙がない。

 一輝さんは車のドアを閉めると、いつものように私の手を自分のジャケットのポケットに引き入れるようにして握り直した。

 展望台までは、整備された木道を歩いて登っていく。

 一歩ずつ階段を上がるたびに視界が開け、目の前が圧倒的な色彩で埋め尽くされていった。

「……あ、すごい……! 一輝さん、見てください!」

 思わず声を上げた私に、一輝さんは「慌てるな、足元を見ろ」と苦笑しながらも、歩調を合わせてくれる。

 斜面一面に広がっていたのは、鮮やかな赤や山吹色に染まった草紅葉くさもみじだった。

 まだ木々の葉は緑なのに、足元の草むらやススキの原は、まるで夕日を浴びて燃えているかのように深く、鮮やかに色づいている。風が吹くたびに、その色彩の海がざわざわと波打ち、光を反射させていた。

「綺麗だな。木々の紅葉よりも一足早く、足元が秋色になるんだな……。お前とここに来られて良かった」

 木道に立ち止まり、遠くを見つめながらさらりと言った一輝さんの横顔は、この燃えるような草紅葉の背景によく映えていた。

 不意の言葉に、心臓がトクンと跳ねる。昨夜、この人の腕の中で聴いた鼓動の音を思い出してしまい、急に頬が熱くなった。一輝さんはそれに気づいているのかいないのか、私の手を握る力を少しだけ強めて、再び歩き出した。

 やがて到着した展望台からは、360度の大パノラマが広がっていた。

 眼下には清里の町が小さく広がり、見上げる先には、八ヶ岳の主峰である赤岳が雄大な稜線を描いてそびえ立っている。

「……はる、あそこを見ろ。富士山だ」

 一輝さんが指差した先、遠く雲の切れ間に、青みがかった富士山のシルエットが綺麗に浮かび上がっていた。

「あ、本当だ……! 今日は本当に天気がいいんですね」

「この場所から遮るものなく見えるのは、珍しいんだぞ。お前は運がいいな」

「一輝さんと一緒にいるから、ですよ」

 私がそう言って微笑むと、一輝さんは少し視線を外した。けれど、その端正な耳元が、ほんの少し赤くなっているのを私は見逃さなかった。

 展望台のベンチに二人で腰を下ろし、並んで遠くの山並みを眺めた。

 高原のひんやりとした風と隣にある一輝さんの体温。

「一輝さん」

「ん?」

「この三日間、本当に楽しかったです。なんだか、ずっと夢の中にいるみたいで……明日からまた東京での日常に戻るなんて、信じられないです」

 私が小さく溜息をつくと、一輝さんは私の肩を引き寄せ、自分の身体にぴたりと密着させた。

「夢じゃない。東京に戻っても、すぐにまた私の顔を見る事になるぞ。それとも、離れるのが寂しいか?」

「寂しいっていうか……あ、でも、仕事中に一輝さんのことばっかり考えちゃいそうです」

「ふん、ならいいが。お前がその気なら、私の部屋の鍵を閉めて、昨夜の続きを教えてやってもいいんだぞ」

「ちょっと……! 冗談でもそういうこと言わないでください」

 焦る私を見て、一輝さんは声を上げて楽しそうに笑った。意地悪な人。でも、その笑顔がたまらなく愛おしい。普段の冷徹な彼を知っているからこそ、私だけの前で見せるこの少年のような笑顔に、胸がいっぱいになってしまう。

 一輝さんは笑うのをやめると、真剣な目付きになって、私の髪を優しく耳に掛けた。

「はる。東京に帰っても、私のそばを離れるな。お前の居場所は私の隣だけだ」

 その言葉は、どこか私を失いたくないという切実な響きを孕んでいた。

「はい。言われなくても、ずっと一輝さんの隣にいます」

 私が真っ直ぐに見つめ返して答えると、一輝さんは満足そうに微笑み、私の額に優しく口づけを落とした。

 風が吹き抜け、足元の草紅葉がサラサラと音を立てて揺れる。

 この三日間の思い出がこの八ヶ岳の美しい景色の中に溶けて、決して忘れられない物になった。

「……少し冷えてきたな。そろそろ車に戻るぞ。ミケも待っているし、帰りの高速が混む前に山を降りよう」

 一輝さんは立ち上がり、私の手を引いた。

 私たちはもう一度、美しく燃える草紅葉の斜面を振り返り、木道を下り始めた。

 駐車場に戻って車のドアを開けると、「遅いぞ」と言いたげにミケがケージの隙間からこちらを覗いていた。一輝さんが約束通りササミのオヤツを少しだけ差し出すと、ミケは嬉しそうに喉を鳴らした。

 九月の八ヶ岳の風は冷たかったけれど、繋いだ手のひらと、車内に広がる愛おしい温度がとても温かかった。


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