20
清里から少し離れ、さらに深い森の奥へと車を走らせると、窓から入る風は驚くほど冷たくなっていました。九月の八ヶ岳は、湿り気を帯びた土と草の香りが混じり、深呼吸するだけで心が落ち着くような気がします。
「……着いたぞ」
一輝さんが車を停めたのは、木立の中にひっそりと佇む、一軒の落ち着いた木造ヴィラでした。「ヴィラ・アフガン」。八ヶ岳に来る人なら誰もが一度は憧れる、有名なカレー店です。
長い年月を経て深みを増した木の壁は、まるで森の一部であるかのように静かに佇んでいました。
「ここ、本当に素敵ですね……。森の中の隠れ家みたい」
「……以前からよく来ている店だ。今日は時間も遅いし、あまり待たずに入れそうだな。行くぞ、はる」
一輝さんは白いカットソーの袖を軽く捲り、入り口へと歩き出しました。休日のラフな格好をしていても、その背中からはどこか品のある、人を惹きつけるような雰囲気が漂っています。
普段は大行列の人気店ですが、時刻は午後一時を過ぎたところ。待合用のベンチには数組の先客がいるだけで、辺りには静かな時間が流れていました。
「……ねえ、あの人見て。すごく格好いい……」
「本当だ。モデルさんかな」
ベンチに座っていた女性たちが、一輝さんの姿に気づいてこっそりと顔を見合わせています。整った横顔と落ち着いた佇まいは、やはりこういう場所でも目立ってしまうようでした。けれど一輝さんはそんな視線には全く無頓着な様子で、重厚な木の扉を開けました。
店内に一歩足を踏み入れると、そこはスパイスの芳醇な香りに満ちた、温かみのある空間でした。
照明を落とした店内には、飴色のテーブルやアンティークなランプが並び、どこか異国のサロンのような雰囲気が漂っています。
「いい香り……。外とは全然空気が違いますね」
「……ここはスパイスの使い方が独特なんだ。嗅覚から食欲を刺激されるだろう。はる、こっちだ」
案内されたのは、窓際の落ち着いたテーブル席でした。壁にはアフガニスタン風の装飾品や民芸品が飾られ、ミステリアスでありながらも、どこかほっとするような居心地の良さがあります。
一輝さんは、仕事の資料を見る時と同じような真剣な眼差しで、革表紙のメニューを開きました。
「……はる。ここはどれを食べても美味いが、初めてなら『ショルダーベーコンのエッグカレー』がいい。私は『牛スネ肉の煮込みカレー』にする。……辛さは、スパイスの味が一番引き立つ『メジャー』でいいな?」
「あ、はい。一輝さんのおすすめなら、それでお願いします」
注文を受ける店員さんが、一輝さんの顔を間近で見て少し緊張したように頬を染めているのを、はるは密かに微笑ましく見守っていました。当の一輝さんは、窓の外で揺れる木々を眺めながら、料理を待つ時間を静かに楽しんでいるようです。
やがて運ばれてきたのは、深みのある黒褐色のルー。そして、はるの顔ほどもある大きなショルダーベーコンが、ライスの上にどっしりと乗っていました。
「……すごい。このベーコン、すごい迫力ですね」
「……見た目だけじゃないぞ。この厚みがあるからこそ、燻製の香りがスパイスに負けないんだ。熱いうちに食べてみろ」
はるがスプーンを入れると、ベーコンは驚くほど柔らかく、濃厚なルーとよく合いました。口に入れると、まず野菜や果実の甘みが広がり、その後に追いかけてくる複雑なスパイスの刺激が、じわじわと身体を温めてくれます。
「……美味しい! こんなに深い味のカレー、初めて食べました」
「……そうだろう。ここは肉の煮込み方もスパイスの配合も、本当に丁寧なんだ。情熱がなければ、ここまでの味は出せない」
一輝さんも自分のカレーを一口食べ、満足そうに目を細めました。
普段は厳しい仕事の顔を見せることが多い彼が、こうして純粋に食事を楽しんでいる姿は、はるにとって何よりも嬉しい光景でした。
「……何を見ている。そのベーコン、そのままだと少し食べにくいだろう」
「あ、いえ。ちょっと大きくて、どう切ろうかなと思って」
「貸せ。……私の牛スネ肉と交換してみるか。味のバランスがどう変わるか試してみたい」
一輝さんは自然な手つきで、はるの皿のベーコンを一口サイズに切り分けました。そして、その一片を自分のルーにくぐらせて、はるの口元へ差し出しました。
「え……っ、一輝さん!?」
「……ほら、食べてみろ。この組み合わせが一番美味いんだ」
静かな店内の中で、その光景はやはり少し目立っていました。整った顔立ちの男性が、優しく、けれど当たり前のように連れの女性に食べさせてあげている。周りの客たちも、思わず食事を止めて見惚れてしまうような、甘い空気がそこにはありました。
はるは少し照れながらも、彼の差し出した一口をぱくりと食べました。
「……美味しいです。本当に柔らかい……」
「……ふん。だろう? はる、私の好みを少しは理解できたか」
一輝さんは少し得意げに笑い、最後の一口を惜しむように食べ終えました。
店を出ると、外の空気はさらにひんやりとしていました。森の土の香りが、口の中に残ったスパイスの熱を心地よく冷ましていきます。
「一輝さん、ごちそうさまでした。素敵なお店に連れてきてくれて、本当に嬉しかったです」
一輝さんは言葉を返す代わりに、はるの肩をそっと抱き寄せました。
「……喜んでくれたなら、連れてきた甲斐があった。……さあ、次は展望台に行こう。景色もいいはずだ」
不器用な言い方でしたが、肩を抱く手の温もりから、彼の優しい気持ちが伝わってきます。
ヴィラを後にする二人の背後で、九月の森は少しずつ秋の深まりを見せていました。この後に控えている出来事など、今はまだ、アフガンの芳醇な香りがすべてを包み込んでくれていました。




