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八ヶ岳の朝は、都会のそれとは全く違っていた。
窓の外から聞こえてくるのは、鳥たちの涼やかなさえずり。遮光カーテンの隙間から差し込む光が、高原の清らかな空気を含んで白く輝いている。
ゆっくりと意識が戻るのと同時に、昨夜、一輝さんの激しい熱に何度も浮かされた記憶が鮮明に蘇り、途端に頬が熱くなった。シーツの擦れる音さえ恥ずかしくて、私はそっとベッドから抜け出す。
昨夜の熱情の痕跡がまだ少しだけ残る身体を愛おしく抱えながら、リビングへと向かうと、そこにはすでに、信じられないほど甘くていい香りが満ちていた。
「……ふわぁ。いい匂い」
キッチンのカウンターには、非接触型の温度計を片手に、フライパンの中をじっと凝視する一輝さんの姿があった。上質なニットを纏った彼は、まるで研究室の科学者のような真剣さで、フレンチトーストと対峙している。
昨夜、私のすべてを乱し、あれほど狂おしい表情を見せていた人と同一人物だなんて、にわかには信じられない。その端正な横顔をぼんやりと見つめていると、一輝さんがふっとこちらに視線を向けた。
「おはよう、はる。……まだ、少し眠そうだな」
いつもの冷徹な響きの中に、昨夜の余韻を残したような、どこか低く甘いテノール。見つめ返してくる瞳には、過保護なほどの優しさが滲んでいて、私はそれだけでまた心臓を小さく跳ねさせてしまう。
「あと三分でここは完成だ。その前にリクエストのコーヒーを飲むか? 私の淹れたのは上手いぞ」
「わぁ……一輝さんが、これを作ってくれたんですか?」
フライパンの中では、厚切りのブリオッシュが綺麗な黄金色に染まり、バターの芳醇な香りと、キャラメリゼされた砂糖の甘い匂いが鼻をくすぐる。時刻はもうすぐ10時。時間的にはブランチだ。
「当然だ。私が作ったんだ、そこらの中途半端なカフェに劣るはずがないだろう」
差し出された一皿は、盛り付けまで完璧だった。自家製のベリーソースが鮮やかなコントラストを描き、メイプルシロップが朝の光を反射して宝石のように光っている。
「食べていいぞ。ただし、一口目は何もつけずに、生地の弾力と香りを堪能すること」
「はい、いただきます!」
フォークを入れ、一口食べる。その瞬間、外側は驚くほどカリッとしているのに、中は温かなプリンのようにとろりと解けた。隠し味だというリキュールの香りが鼻を抜け、口いっぱいに幸せが広がる。
「……んん! 美味しい……っ! 一輝さん、これ本当にお店出せますよ!」
「当たり前だ。私は妥協しない」
澄ました顔でコーヒーを啜る一輝さん。けれど、私が「美味しい」と言うたびに、彼の指先がわずかにピクリと動くのを私は見逃さなかった。
きっと、私が昨夜の疲れで深く眠っている間、彼はベッドを抜け出して、何度も何度も火加減や材料の配合を調整してくれていたのだ。そう思うと、胸の奥がじんわりと温かいもので満たされていく。
「一輝さん……ありがとうございます。とっても、幸せです」
私がフォークを持ったまま彼を見つめると、一輝さんはコーヒーカップを置いた。少しだけ耳を赤くしながら、私の唇の端についたシロップを、長い親指でそっと拭い取る。
そして、その指を自分の唇へと運び、昨夜のように妖艶に舐めとった。
「……はる。そんな顔で私を見るな。せっかくのブランチが冷める前に、またベッドに連れ戻したくなる」
「っ……!」
囁かれた掠れた声に、顔が火を噴くように真っ赤になる。彼は、形勢を逆転させたことに満足したように、意地悪で愛おしい微笑みを浮かべた。
◇
「にゃあ」
二人の甘い空気を断ち切るように、足元から鋭い鳴き声が響いた。
いつの間にか起きてきていたミケが、「僕のごはんは?」と催促するように、一輝さんのスリッパを前足でペシペシと叩いている。
昨夜、空気を読んで自ら退場してくれた「漆黒の王子」の登場に、一輝さんは苦笑しながら、ミケ専用に用意された皿を差し出した。塩分抜きで丁寧に、絶妙な火加減で焼かれた鶏のささみだ。
「にゃおん!」
王子も満足げに喉を鳴らし、自分のブランチに夢中になり始める。
窓外に広がる青い空と、八ヶ岳の雄大な自然。
少しだけ面倒で、けれど言葉にできないほど優しい一輝さんの愛に包まれながら、私たちの休日が、今日も始まろうとしていた。




