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うまい一歩手前と、なぜか来た客。


三日間。その言葉の重さを、俺は甘く見ていた。

「寝てない」

「まだ一日目だよ!?」

楓が元気すぎる。朝から目が爛々と輝いていて、こっちは昨晩から一睡もできていないというのに、この女は何かで充電でもされているのか。こっちはとっくに限界だ。朝から晩まで仕込みと温度管理、そして失敗してはやり直す。時計の針が進むたびに、俺の精神が薄く削り取られていく感覚がした。目の下がじんじんする。頭の中に綿が詰まっているような、あの独特の感覚。

「なんで発酵ってこんなに時間がかかるんだよ」

「自然の力だからね」

「急いでくれよ自然」

八百万の神に無茶な要求をしたところで、酵母が急いでくれるわけもない。俺は作業台に両肘をついて、タンクをじっと睨んだ。中身はまだ何も動いていない。沈黙だけがそこにある。

 

「で、今回は普通にやる」

仕込みの真っ最中、俺は宣言した。道具を並べながら、ざっと工程を頭の中で整理する。うん、いける。いけるはずだ。

「普通って?」

「温泉を入れない」

「それ普通なの!?」

楓が素っ頓狂な声を上げた。驚くな。それが醸造界の常識だ。ビールの原料はシンプルに決まっている。

「麦芽、ホップ、水、酵母。以上。余計なものは一切入れない」

「急にちゃんとしてる」

「最初からこれにすべきだったんだ」

自分でも心の底からそう思う。迷走しすぎた。前回の試作は何が入っているのかよくわからないものになっていた。反省している。深く。

だが、水の問題だけは残る。

「でも水はどうするの?」

「そこなんだよな」

旅館の水道水を使うか、わざわざ外から天然水を汲んでくるか。少し悩んで、俺は折衷案を出した。

「半分ずつ使う。普通の水と、ここの源泉を少しだけ混ぜるんだ」

楓の目がらんらんと輝いた。

「温泉入れるじゃん!」

「ちょっとだけだ!隠し味程度の比率にな!」

ここが重要だ。源泉に含まれるミネラル分は、適量なら発酵を助け、独特のキレを生む。入れすぎれば硫黄臭が勝って台無しだし、少なすぎれば何のために使ったのかわからなくなる。その境界線を探るのが、今回の核心だった。

「香りのクセを抑えつつ、個性だけを残す」

「それっぽいこと言ってる」

「それっぽいんじゃなくて、それそのものだ。今回はちゃんと勝算がある」

言い切ってから、少しだけ自分を疑う。勝算、あるか? …ある。たぶん。

 

二日目。

発酵は、順調だった。

今回仕込んだのは、いわゆる若ビールと呼ばれる状態のものだ。通常、ビールは発酵が終わった後に数週間から数ヶ月の熟成期間を経て、味を落ち着かせる。だが、今はそんな時間はない。若ビール、つまり主発酵が終わったばかりの、まだ荒削りでピリッとしたガス感が残る状態。熟成前特有のフレッシュさと、少しばかりの雑味が同居する、まさに生まれたてのビールだ。

ぶくぶくと、タンクの中で泡が生きている。小さく、でも確かに脈打つような動き。

「おお」

「動いてる!」

楓がタンクに顔を近づけて、目を丸くした。俺もその隣に立って、同じものを見る。

「生きてる感じするね」

「するだろ」

この感覚。元いた会社で何千リットルもダメにしたときには忘れていた、命の手応え。液体が自分の意思を持っているみたいに動き、変化していく。機械が計算してくれるわけじゃない。環境が少し変わるだけで、全然違う結果が出る。だから怖いし、だから面白い。これだけは、やっぱり嫌いになれない。

「いい匂い」

「まだ途中だけどな」

前回のような卵臭はない。若ビール特有の、青リンゴのような爽やかさと、麦のダイレクトな香りが混ざり合っている。ほんの少しだけ、肩の荷が下りた気がした。

「ちゃんとビールっぽい」

「ちゃんとビールだ」

「前のやつは何だったの」

「蒸留酒でも温泉でもない何かだった」

「哲学的だね」

まったく哲学的じゃない。ただの失敗作だ。

 

三日目。

「できた」

俺はグラスに注いだ。色は淡い金色。泡立ちもそこそこだ。熟成を経ていない分、液体は少し濁っているが、見た目は立派にビールだ。光を透かすと、うっすら黄色がかった霞のように見える。それが逆に、まだ生きているみたいで悪くない。

「いけそう?」

「わからん」

それが正直なところだ。若ビールの荒々しさが、吉と出るか凶と出るか。自信があるかと問われれば、ある。でも確信があるかと問われれば、それはまた別の話だ。

「呼んできたよ」

楓の声と共に、ドスドスと重い足音が響いた。この足音はもう聞き慣れた。

「誰をって…源蔵さんか」

「早いな」

「できたか」

源蔵が現れる。相変わらずの威圧感だ。この旅館の主人であり、俺たちのビール造りを黙認している張本人でもある。口数は少ないが、言葉の一つ一つが鋭利だ。俺は無言で、注ぎたてのグラスを差し出した。老人はそれをひっ掴むように受け取ると、一気に一口、喉へ放り込んだ。

ごくり。

静寂。頼む。頼むから、今度は噴き出さないでくれ。前回の惨劇が脳裏をよぎる。あの時の顔は、一生忘れない。

「…まずくはない」

「よし!」

楓がその場で飛び上がった。俺も肺の中の空気を、細く長く吐き出した。まずくはない。この老人の口からその言葉が出るだけで、もう十分な気がしてくる。

「だが」

来た。二段構えの「だが」だ。

「うまくもない」

「知ってた!」

食い気味に自分で言った。負けた気がしない。どちらかというと、自分で審判を下した気分だ。

「全体的に薄い。若ビール特有のトゲがある。特徴が弱く、記憶に残らん味だ」

「全部正しいよ」

ぐうの音も出ないほど正論で殴られた。熟成させていないから味の深みがないし、温泉水の比率を抑えすぎたせいで個性も消えかかっている。わかってはいた。わかっていたが、言葉にされると、改めてずしりとくる。

「だが」

また来た。

「前よりはマシだ。飲める」

楓がガッツポーズをした。

「進歩だね!」

「一歩だけな」

俺も小さく頷いた。ゴールではないが、ゼロでもない。確かな一歩だ。こういう一歩の積み重ねが、最終的に何かを作る。わかってはいる。じれったくはあるが、わかってはいる。

その時だった。

「すみませーん」

玄関の方から、聞き慣れない声がした。三人で一斉に振り向く。そこにいたのは、少し疲れた様子のスーツ姿の男だった。年は四十前後だろうか。ネクタイがわずかに緩んでいて、出張帰りの匂いがした。

「一泊、お願いできますか」

「え」

「え?」

「客だ」

源蔵が淡々と言った。

「見ればわかる!!」

なんで今来るんだ。この潰れかけのホラーハウスに、なんでこのタイミングで迷い込む。道を間違えたか。ナビが壊れていたか。どちらにせよ、もう少し別の旅館を探せばよかったのに、気の毒だとすら思う。

「部屋、空いてますか」

「空いてます!空きすぎてます!」

楓が再起動した。一秒前まで落ち込んでいたはずなのに、もう全開だ。猛烈な勢いで客を中へ案内していく。その切り替えの速さだけは、素直に尊敬する。

「ちょっと待て」

俺は小声で楓を呼び止めた。

「何」

「ビール、どうするんだ」

「出すに決まってるでしょ」

「正気か。まだ試作段階の、熟成もしてない若ビールだぞ」

「だからだよ。プロじゃない、本当のお客さんの感想が欲しいの」

楓の目は、いつになく真剣だった。いつもは軽率に動いているくせに、たまにこういう顔をする。こういう時の楓は、意外と侮れない。

「失敗したら?」

「その時は、私が全力で土下座する」

軽いな。だが、その覚悟は嫌いじゃない。

「わかった」

俺は頷き、サーバー代わりの簡易容器を食堂へ運んだ。

 

風呂上がり。例の客が、さっぱりした顔で食堂に現れた。

「いいお湯でした。本当に体が温まる」

「ありがとうございます!」

楓が完璧な若女将スマイルで応える。どこにそのスイッチがあるのか、俺には一生わからない気がする。

「実は、当館では今、オリジナルのビールを開発中でして。よろしければ一杯、いかがですか?」

やってねえだろ。今さっき生まれたばっかりだろ。「開発中」というのは正しいが、「当館のビール」と言い切るにはまだ百年早い。客は興味深そうに目を細めた。

「ほう。温泉でビールですか。では、いただこうかな」

来た。逃げ場はない。俺はグラスに慎重に注いだ。若ビールらしい、弾けるような泡が立つ。手が少しだけ震える。自覚はあった。震えないようにしようとすると、余計に震えるやつだ。

「どうぞ」

客はグラスを持ち、まず色を見た。鼻を近づけて、香りを確かめる。それから、一口。

ごくり。

食堂が異様な静寂に包まれる。楓も源蔵も、固唾を呑んで見守っている。数秒が、永遠のように長く感じられた。俺は心の中で数を数えた。一、二、三……。

「これは」

客が口を開いた。評価が来る。

「惜しいですね」

「惜しい!?」

予想外の、でも拒絶ではない言葉。

「あと一歩で、すごく良くなる気がします。風呂上がりにちょうどいい軽さですが、少し物足りなさが勝っている。でも、このスッとする後味のキレ……方向性はすごく好きですよ」

楓がこっちを見た。顔が、これ以上ないくらい嬉しそうだ。俺は客に向かって、小さく頭を下げた。

「また来ますよ。完成した頃に」

客は笑ってそう言い、部屋へ戻っていった。

 

その後ろ姿を見送りながら、俺は深いため息をついた。疲れている。骨まで疲れている。でも、さっきまでとは質の違う疲れだった。

「聞いたか」

「聞いた」

楓が深く頷く。

「惜しい、だって」

「ああ」

ダメとは言われなかった。捨てろとも言われなかった。惜しい。その一言が、今夜の俺には十分すぎるくらいの燃料だった。

源蔵も腕を組み、鼻を鳴らした。

「もう一歩だな」

「だな」

ゼロじゃない。ダメでもない。

「やるか」

俺は言った。

「やろう!」

楓が笑う。相変わらずうるさくて猪突猛進な女だが、今はその笑顔が少しだけ頼もしかった。

こうして、俺たちは初めて、迷走ではなく前進をした。

たった一歩。でも、確実な一歩だ。

そして、その一歩の先には、たぶんもっと面倒なトラブルや、解決不能な課題が山積みになっているんだろう。火を噴く設備かもしれないし、仕入れが止まるかもしれないし、源蔵が急に「やっぱり温泉だけでいい」と言い出すかもしれない。

でも、まあ。今はいい。

少なくとも、温泉の味で客を驚かせることだけは、回避できたのだから。

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