番頭が来たのでとりあえず飲ませたら戦争になった
翌日。俺は、朝靄に包まれた旅館「藤崎屋」の玄関先で、呆然と立ち尽くしていた。
「……帰りたい」
「早いよ!? まだ一歩も中に入ってないじゃん!」
横から楓の鋭いツッコミが飛んでくる。
いや、無理もないだろう。目の前にそびえ立つのは、立派というよりは「かつて立派だった残骸」と呼ぶにふさわしい代物だ。木造三階建ての威容は、長年の風雨に晒されて外壁の至るところが剥がれ落ち、看板は微妙に右肩下がり。風が吹くたびに「ギィ……ギィ……」と、まるで建物自体が関節痛を訴えているような不気味な音を立てている。
「ホラー映画のロケ地かよ」
「失礼な! 風情って言って、風情!」
「その風情が今、断末魔の悲鳴を上げてるぞ」
正直な感想を述べたまでだ。だが、楓は意に介さず俺の背中をぐいぐいと押し、無理やり中へと引きずり込んだ。
「大丈夫だって! 中はちゃんと綺麗にしてあるから!」
「そのセリフを聞いて安心した試しが一回もないんだが……」
観念して靴を脱ぐ。床板は磨かれているが、歩くたびに「ミシッ」と鳴る。廊下はやたらと長く、奥の方は照明が届かず暗がりに沈んでいる。この距離を歩いている間に、これまでの人生の失敗を三回くらいは反芻できそうな長さだ。
「で、設備は。昨日言った通り、最低限のものは揃ってるんだろうな」
「もちろん! 期待していいよ!」
楓が元気よく答える。その明るさが、かえって嫌な予感に拍車をかけた。
「……」
「どうだ! 相沢さん、これならいけるでしょ!」
通されたのは、かつて厨房として使われていたらしい広いスペースの一角だった。俺は、そこにある「設備」を二度見し、三度見して、深いため息を吐いた。
「帰る」
「待って! どこ行くの!?」
「出口だよ。今すぐ帰って履歴書を書く。俺はもっとまともな世界で生きたい」
そこにあったのは、昨日と大差ない絶望的な光景だった。
バカでかい寸胴鍋。業務用というよりは「炊き出し」用に近いコンロ。プラスチックのバケツ。そして、蛇口から伸びた、用途不明の蛇腹ホース。
「昨日より数だけ増えて、質が全く変わってねえ! これはビール醸造所じゃなくて、ただの巨大な台所だ!」
「ホースあるよ!? ほら、水も出るし!」
「ホースが主役の醸造所があるか! 衛生管理はどうなってるんだ!」
俺の抗議が響き渡る中、突如として背後から冷ややかな空気が流れ込んできた。
「……何をしておる」
低い、地を這うような声。
振り向くと、そこには一人の老人が立っていた。背筋が定規を当てたように真っ直ぐ伸びており、着古した法被を羽織っているが、纏っている威圧感はタダモノではない。眉間の皺が、これまでの人生で一度も笑ったことがないと言わんばかりの深さだ。
「げっ」
楓が、これ以上ないほど露骨な嫌な顔をした。
「源蔵さん……。何、起きてたの?」
「誰が『げっ』だ。この時間に起きるのは当たり前だろう」
源蔵。どうやらこの旅館を影で支える番頭らしい。老人は鷹のような鋭い眼光で、俺を頭の先からつま先まで舐めるように見た。
「その、うだつの上がらん男は何だ。泥棒か」
「違うよ! ビール作る人! 私がスカウトしてきた醸造家の相沢さん!」
「醸造家だと? ふん……帰れ」
「即追い出しかよ。話が早くて助かるわ」
俺は出口に向かおうとしたが、楓に服の裾をガシッと掴まれた。
「ちょっと待って源蔵さん! この人、本当にすごいんだって! 大手のビール会社で働いてたんだよ!」
「見た目がちっとも凄くない。ただの無愛想な若造だ。だいたい、この旅館はな、名湯の『湯』だけで勝負してきた。酒で客を釣るなど、老舗の誇りが許さん」
「その誇りの結果が、昨日の客数三人(うち二人は迷い込んだバイカー)じゃない。ねえ、源蔵さん、このままじゃ藤崎屋は終わっちゃうよ!」
楓が必死に食い下がるが、源蔵はぴくりとも動じない。
「湯で勝負して負けるなら、それは宿の運命だ。邪道に走って生き延びるくらいなら、潔く暖簾を下ろす。だいたい、その台所の延長線のような設備で何ができる」
「台所の延長線……」
俺は思わず呟いた。
「おい、爺さん。あんた、目は確かだな」
「何?」
「台所の延長線。その通りだ。ここでビールを造るなんて、正気の沙汰じゃない」
源蔵の目がさらに細くなる。
「分かっておるなら、とっとと荷物をまとめて失せろ」
「だがな」
俺は、楓が昨日無理やり持ち帰らせた「例のブツ」を取り出した。
「判断は、飲んでからにしろ」
俺は、昨日の歴史的失敗作――「温泉水仕込みのビール(仮)」を、源蔵の前に差し出した。
「…匂いがすでにおかしい」
源蔵は、差し出されたグラスを遠巻きに眺め、眉をひそめた。
「当然だ。醸造の基礎を無視して、ただ温泉に麦汁を放り込んだだけの代物だからな。温泉特有の硫黄臭と、ローストした麦の苦味が、最悪の形で衝突している」
「それを、私に飲めと言うのか」
「ああ。これが、今の俺たちが立っている『どん底』だ」
源蔵は不快感を隠そうともせず、だが覚悟を決めたようにグラスを掴んだ。
そして、一気に喉に流し込む。
「……ッ!!!」
源蔵の顔が、見たこともない色に染まった。赤、青、そして土気色。
彼は数秒間、声も出せずに固まった後、胃の底から絞り出すような絶叫を上げた。
「何だこれは!!! 毒か! 毒を盛ったのか!!!」
「だろ!! マズイだろ!!」
楓と俺の声が、見事なまでにハモった。
「温泉をそのまま飲まされておる気分だ! 喉の奥で火山が爆発しておる!」
「ほぼ正解だ。温泉のミネラルが強すぎて、酵母がパニックを起こした結果だ」
「警察を呼べ! こんなものを客に出したら、藤崎屋の歴史が犯罪歴に変わるぞ!」
源蔵の怒号が厨房に響き渡る。だが、俺は冷静に言い放った。
「だから言っただろ。これは失敗作だ。……だが、爺さん。これが基準だ」
「基準だと?」
「これより上を作る。それ以外に道はない」
源蔵は、激しく咳き込みながらも、じっと俺を見据えた。
「……ならば、なぜわざわざこの『地獄の汁』を飲ませた」
「昨日、こいつ(楓)に言われたからだ。温泉のビールを造れと。俺はそれが間違いだと証明するためにこれを造った。そして、あんたが飲んで証明された。温泉とビールは、そのままじゃ共存できない」
俺はコンロの上の汚い鍋を指差した。
「でも、逃げない。この最悪の結果をスタート地点にして、ここから上に行ってみせる」
楓が横で、息を呑んで俺を見ている。まぶしい。その純粋な期待がまぶしすぎる。
源蔵は、ゆっくりと空になったグラスを置いた。その手は、怒りからか、あるいは別の何かからか、微かに震えていた。
「…三日だ」
「は?」
「三日だけ時間をやる。この台所で、飲めるものを作ってみせろ。もし三日経ってもこの『温泉毒』のままなら、お前も、その鍋も、まとめて川に投げ捨ててやる」
「シンプルに重いな…。だが、いい。受けて立つ」
俺は不敵に笑って見せた。
「ただし、条件がある」
「何だ」
「設備は俺の言う通りに整えろ。楓、ホームセンターに行くぞ。あと、今度から、仕込みの最中に勝手に温泉を入れるなよ。絶対にだ」
俺が釘を刺すと、楓が気まずそうに目を逸らした。
「少しだけなら、隠し味に…」
「隠し味どころか、全部を隠蔽する味になるんだよ! ダメだ!!」
こうして、崩壊寸前の旅館「藤崎屋」に、偏屈な醸造家、無鉄砲な看板娘、そして頑固一徹な番頭が揃った。
三日間という、短すぎる挑戦期間。
まともな冷却設備も、自動制御のタンクもない。
あるのは、情熱という名の無謀と、昨日飲まされた「温泉の味」というトラウマだけだ。
「よし、やるぞ。今度は本物のビールを造る」
「期待してるよ、相沢さん!」
「ふん……。口だけではないことを見せてもらおう」
俺たちの、騒がしくて不衛生で、それでいて奇妙な熱気に満ちた戦いが始まった。
願わくば、三日後。
温泉の香りがしない、黄金色の奇跡が生まれていますように。
マジで、それだけを祈りながら俺は鍋に火をかけた。




