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温泉でビールを作ろうとしたらだいたい全部ダメだった

結論から言う。

「温泉でビールは作れない」

物理的に不可能だと言っているのではない。醸造家としてのプライドと、公衆衛生の概念と、あと純粋に「味」という観点から見て、それは神への冒涜に近い。

「いや、作れるでしょ?普通に。麦、水、ホップ、酵母。役者は揃ってるじゃん」

「無理だって言ってるだろうが!! 砂漠でシェイクスピアが上演できるか!」

俺は全力で否定した。

目の前には、朝霧に包まれて幻想的な情緒を醸し出す……はずだった露天風呂。創業明治だか何だか知らないが、その歴史の重みを一瞬で粉砕するような光景がそこにあった。

「じゃーん! 設備持ってきたよ! 楓特製、マイクロ・マイクロ・ブリュワリー一号!」

楓がドヤ顔で指差した先には、およそ「醸造」という言葉からは程遠い機材が並んでいた。いや、機材と呼ぶことすらおこがましい。

「一応確認するけど、これ何?」

「見ればわかるでしょ。寸胴鍋!」

「一家庭に一個あるかないかのサイズだな。で、その横のは?」

「カセットコンロ! 火力は強火からとろ火まで自由自在!」

「うん。で、その青いやつは」

「バケツ! 15リットル入るよ!」

「帰る!!」

思わず叫んだ。

ここは標高の高い山の中だ。空気が澄んでいるとか、水が綺麗だとか、そんなポジティブな要素をすべて帳消しにするほどの「文化祭クオリティ」がそこにある。

「いやいや、だってネットで見たもん! 『自宅で簡単! クラフトビール体験セット』みたいなやつ! あれと同じ原理でしょ?」

「それは“ちゃんとした室内環境で、滅菌された道具を使う”のが前提だ! 露天風呂の横が“ちゃんとした環境”なわけあるか!!」

硫黄の匂いがすごい。温泉特有の卵が腐ったような匂い。

これが麦汁に混ざったらどうなるか、想像しただけで喉の奥がキュッとなる。

「でもさ、このお湯使えば温度管理いけるんじゃない? 天然の湯煎だよ! エコじゃん!」

「いけるか!! 雑菌の温床だわ! 全部温泉の味になるわ!」

すでに嫌な予感しかしない。

俺は昨日、居酒屋でこの女の勢いに飲まれた自分を呪った。

「…悪い。昨日の話はなかったことにしてくれ。俺は帰る。まだハローワークの開いている時間だ」

「待って!!」

楓が俺の腕を、それこそ万力のような力で掴む。

「一回だけって言ったよね!? 『試作する』って言ったよね! 相沢湊、男に二言はないんでしょ!」

「言ったけど! それは“人間が飲むものを作れる最低限の設備”がある場合の話だ! これじゃあ闇鍋すら怪しい!」

「お願い! ほんとに、うちの全財産をはたいて買ったの、その麦とホップ!」

全財産でこれか。

この旅館の経営状態は、俺の想像を絶するスピードで崖を転がり落ちているらしい。

うつむき加減で俺を見上げる楓の瞳は、捨てられた子犬のよう……というには少しギラつきすぎていたが、そこには確かに「これしかない」という悲痛な覚悟があった。

「…チッ。わかったよ。やる。やればいいんだろ」

「やった!! さすが元・醸造家! 懐が深い!」

「ただし、いいか。絶対に変なことするな。俺の指示に従え。わかったな?」

「しないしない! 私はただの助手だから!」

「ほんとか?」

「たぶん!」

「不安しかねぇ!!」

こうして、地獄の(物理的に熱い)醸造が始まった。


「いいか、まずは麦芽を砕く。中身のデンプンを出しやすくするためだ。ただし、粉にしすぎちゃダメだ。殻の形を残しつつ――」

「了解! ゴリゴリいくよ!」

楓が鼻息荒く取り出したのは、年季の入ったすり鉢だった。

「…それ、おじいちゃんがとろろ作る時に使ってるやつじゃないよな?」

「洗ったから大丈夫! たぶん!」

「洗えよ! 確実に洗えよ!」

ゴリゴリ、という鈍い音が露天風呂に響く。

普通はミルを使う。自動で、均一に、素早く。

それを手作業のすり鉢で行う。この時点で、本来なら数時間で終わる工程が、永遠のように感じられた。

「……次。水と一緒に加熱する。マッシングだ」

「はい!」

寸胴鍋に水と、楓が全身全霊で粉砕した麦芽を入れて、カセットコンロに火をかける。

ここまでは、まあいい。家庭料理の延長線上だ。

問題はここからだ。ビール造りにおいて、温度管理は生命線だ。

「温度、65度前後をキープ。高すぎると酵素が壊れて糖にならない。低すぎると糖化が進まない。いいか、この1度は命の重みだと思え」

「オッケー! 命の1度ね。任せて!」

楓は片手に、100円ショップで買ってきたようなアナログの料理用温度計を握りしめている。

「…それ、キャリブレーション(校正)してあるのか?」

「なにそれ? 美味しいの?」

「…いい。もういい」

しばらくすると、麦の甘い香りが漂い始めた。

よし、ここまでは悪くない。硫黄の匂いに負けず、麦芽のポテンシャルが頑張っている。

「ねえ、相沢さん。ちょっと熱くない? これ」

「え? 何度だ」

「えっと……針が振り切れて、80度近くまでいってる!」

「アウトォォォォ!!」

俺はコンロの火を叩き消した。

終わった。

糖化が終わる前に、酵素が熱で全滅した。

ただの「麦のお粥」が完成した瞬間である。

「え、ダメなの? 熱いほうがよく出るんじゃないの?」

「出汁じゃないんだぞ! 酵素には適正温度があるんだ! あー……もう、一からやり直しだ!」

「…え、もう一回?」

「当たり前だ! ここで諦めたら、俺はただ『温泉旅館の横ですり鉢を回して麦を煮た変な人』で終わるだろ!」

「もうすでにその領域に入ってる気もするけど……」

否定できないのが一番辛かった。


二回目。

太陽はすでに高く昇り、観光客が……いや、観光客はいないが、近所のおじいちゃんが不審な顔をして俺たちを眺めて通り過ぎていく。

「今度は温度、絶対死守だぞ」

「任せて。私、学習するタイプだから」

楓が真剣な顔で温度計を睨みつけている。

湯気に蒸され、顔を赤くしながら鍋を見つめる彼女の横顔は、少しだけ、本当に少しだけ頼もしく見えた。

「今、何度だ」

「64.5度。…いい感じじゃない?」

「ああ。そのままキープだ。次はホップを入れて煮沸する」

順調だった。

カセットコンロの火力が安定しないことにキレそうになりながらも、なんとか「麦汁」としての体を成し始めている。

ホップの爽やかな苦味と香りが立ち上がり、温泉の匂いと絶妙に(そして奇跡的に)調和し始めた、その時だった。

ドボン。

隣で、何かが水面に落ちる音がした。

「…おい。今、何を入れた」

「え? 温泉。源泉100%」

「なんでぇぇぇぇぇ!!!」

俺の絶叫が山々にこだました。

「だって、せっかくの温泉旅館だよ!? ここでしか作れない味にするなら、隠し味に温泉入れるのが一番手っ取り早いじゃん!」

「コンセプトが早すぎるんだよ! まずは『普通のビール』を作れるようになってから応用しろ! しかも煮沸中に雑多なミネラルをぶち込むな! 味の設計が狂うだろ!」

「でも、ほら! 見てよこの色! 琥珀色で綺麗だよ!」

「匂いを嗅いでみろ! 完全に『ゆで卵の腐った汁』だろうが!」

鍋からは、ホップの香りと硫黄の香りが激しく殴り合っているような、未知の異臭が漂い始めていた。

「…これ、本当に飲むのか?」

「温泉ビール! 湯の香エール! 売れるよ、これ!」

「絶対流行らねぇよ! 公衆衛生が黙ってないわ!」


さらに数時間後。

冷却(といっても、バケツに氷水を張って鍋を突っ込んだだけだが)を終え、楓がどこからか持ってきた「怪しい培養液(自称・パン用酵母の残り)」を投入し、魔法瓶の中で無理やり短時間発酵させた――“それっぽい液体”が完成した。

本来なら数週間かかる工程を、楓の「待てない、今飲みたい」という暴論により、数時間で強引に形にした。もはやビールというより、ビールのなり損ないだ。

「できた…?」

「できた…のか、これは…」

色は、確かにビールっぽい。

グラス(俺が昨日持ってきたあのテイスティンググラスだ)に注ぐと、微かに、本当に微かにシュワっという音がした。

「…いくぞ」

「いけ!」

俺は、死刑宣告を待つ囚人のような心持ちで、その液体を口に運んだ。

ごくり。

「……」

「どう? 美味しい? 革命起きた?」

「……」

俺は、静かにグラスを置いた。

「まずい」

「即答!?」

「まずいというか…なんだこれ。舌の上が戦場だ。苦いし、酸っぱいし、ぬるいし、何より…」

俺は深く、深く溜息をついた。

「後味が、完全に、温泉」

「逆にすごくない!? 温泉の成分がしっかり生きてるってことでしょ!」

「褒めてない!! 口の中がおじいちゃんの背中みたいな匂いになってるんだよ!」

「失礼すぎるでしょ! ちょっと貸して!」

楓も勢いよく一口啜った。

そして、三秒後。

「うわ、なにこれ。泥水?」

「だろ?」

「これは…ないね。商品化したら訴えられるレベル」

「だろ!!」

満場一致で不採用である。

俺たちの記念すべき第一歩は、ただの「苦くて臭いお粥」に終わった。


沈黙が流れる。

パチパチとカセットコンロの火が消える音が虚しい。

目の前の露天風呂からは、相変わらず無慈悲なほど上質な湯気が立ち上がっている。

「…ダメかぁ」

楓がぽつりと呟いた。

その声は、今までの勢いが嘘のように弱々しかった。

「やっぱり、素人が思いつきでやっちゃダメだよね。お湯だけ良くても、それ以外が全部ボロボロなんだもん。私の考えが甘かった。……ごめん、相沢さん。変なことに巻き込んで」

楓はうつむいた。

その小さな肩が、少しだけ震えているように見えた。

その姿に。

なぜか、昨日の自分を見ているような気がして、無性に腹が立った。

「無理じゃねぇよ」

「え?」

「やり方が間違ってるだけだ。道具がゴミで、手順がクソで、材料の使い方が素人以下だっただけだ」

俺は、グラスに残った濁った液体をもう一度見た。

確かにひどい味だ。でも、その奥に。

一瞬だけ、本当に一瞬だけだが。

ホップの苦味が温泉のミネラル感と握手しようとした、奇跡的な瞬間が感じられた気がしたのだ。

「方向性は、悪くない」

「ほんとに!?」

「“風呂上がりの一杯”っていうコンセプト。温泉の後に、極限まで喉を潤すことに特化したビール。それは、大手の画一的なラガーじゃ到達できない領域かもしれない」

「相沢さん…」

「ただし」

俺は、楓の目を真っ直ぐに見つめた。

「次は、ちゃんとした設備を揃えろ。温度管理、衛生管理、水質の分析。全部プロの流儀でやる。温泉を使うなら、抽出方法も、入れるタイミングも、一万回考え抜け。…中途半端な気持ちでやるなら、俺は今度こそ帰る」

楓の顔が、ゆっくりと持ち上がる。

その瞳には、さっきのギラつきとは違う、静かな火が灯っていた。

「…じゃあ、もう一回、付き合ってくれる?」

「ああ。次は、ちゃんとうまいのを作る。俺のプライドにかけてな」

湯気の向こうで、旅館『藤崎屋』の看板がガタガタと風に揺れていた。

ボロい。間違いなくボロいし、前途は多難だ。

でも。

昨日まで死体のように静まり返っていた俺の心の中で。

今、確かに小さな泡が弾けた。

「…よし。まずは、その寸胴鍋を捨てろ。話はそれからだ」

「えっ! 高かったのに!」

「捨てろ!!」

山奥の静かな温泉街に、俺のツッコミが響き渡る。

俺の人生は、もう一度だけ、発酵のプロセスに入ったらしい。

たぶん。

いや、頼むから今度は途中で腐敗しないでくれ。

本当、マジで。

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