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風呂上がりに飲むやつ

人生には、どうしようもなく「終わる日」がある。

それは往々にして、ドラマチックな雷鳴と共に訪れるわけではない。むしろ、あまりにも静かで、あまりにも呆気なく、日常の延長線上で牙を剥く。

俺にとってのそれは――発酵が止まった日だった。

「…は?」

タンクの前で、俺は間抜けな声を漏らした。

ステンレスの冷たい壁の向こう側。昨日まで、ぶくぶくと元気に、それこそ「生きている」と主張するように泡を吹いていたはずの液体が、今は鏡のように静まり返っている。

本来なら、そこには鼻腔をくすぐるエステル香や、ホップの青々とした苦味、そして酵母たちが懸命に糖を分解している熱気があるはずだった。だが、今のタンクから漂うのは、ただの死臭に似た、間の抜けた甘さだけだ。

「…ただの、甘い麦汁だ」

指先を濡らし、舐めるまでもない。見た瞬間にわかった。

終わったのだ。

俺がこの三年間、寝食を惜しんで向き合ってきた研究も。

新進気鋭のクラフトビールメーカーとして積み上げてきた会社の信用も。

そして、たぶん、俺という人間の価値も。

「相沢ぁぁぁぁ!!」

背後から、鼓膜を突き破らんばかりの怒号が響いた。

あ、来た。地獄の門が開く音がする。

「どういうことだこれはァ!! 納品まであと一週間だぞ! 予約で完売してる限定品なんだぞ分かってんのか!?」

「いや、あの酵母が……その、急に活性を失って……」

「言い訳を聞いてるんじゃない! なぜ予備のピッチング(酵母投入)を準備していなかった! 管理ミスだろうが!」

「……ストライキ、ですかね」

「酵母に労働組合はねぇんだよ!!」

ぐうの音も出ない正論だった。

その後の記憶は、ひどく断片的だ。

怒鳴られ、なじられ、取引先への謝罪行脚を命じられる前に「お前はもういらん」と突き放された。責任をなすりつけられる形で、俺は実質的な解雇を言い渡された。

気づいたときには、俺は会社の勝手口の外に立っていた。

手には、湿った段ボールが一箱。

中身は使い古したノートと、数冊の専門書。それから、なぜか手癖で掴んでしまったらしい、会社オリジナルのテイスティンググラスが一個。

「これ、返さなきゃな」

そう呟きながらも、足は駅の方へと向かっていた。

人間、極限状態に陥ると、脳がシャットダウンして「とりあえず移動する」という原始的な行動しか取れなくなるらしい。


その日の夜。俺は駅前の、どこにでもあるような安居酒屋のカウンターにいた。

目の前には、キンキンに冷えた中ジョッキ。

「……まあ、飲むよな」

自嘲気味に笑い、黄金色の液体を喉に流し込む。

大手メーカーが誇る、徹底的な品質管理のもとで作られたラガービール。雑味はなく、喉越しは鋭い。本来なら「ぷはぁ、生き返る」なんてセリフの一つも出るはずの代物だ。

「……くそまずいな」

口をついて出たのは、あまりにも正直すぎる感想だった。

いや、ビールが悪いんじゃない。このビールに罪はない。

ただ、今の俺にとっては、これがただの「苦い水」にしか感じられないのだ。

香りを探そうとしても、鼻が拒絶する。

コクを感じようとしても、舌が麻痺している。

情熱を注いできた対象に裏切られ、その情熱自体が死んでしまった男にとって、ビールはもはや救いでも何でもなかった。

「終わったな、俺。……すいませーん、もう一杯。次は、あー、ハイボールで」

ビールを諦め、逃げ道を探そうとした、その時だった。

「ねえ、あんた」

隣から、不躾な声が飛んできた。

反射的に振り向くと、そこに一人の女が座っていた。

「……え、俺?」

「そう。あんた。今、このビールを『まずい』って言ったでしょ」

女は二十代後半くらいだろうか。

お世辞にも手入れされているとは言えない、後ろで適当にお団子にした髪。化粧は薄く、着ているパーカーの袖口には少しだけ汚れがついている。

だが、その目だけはやたらと強かった。爛々と輝いているというよりは、背水の陣を敷いている人間のギラつきだ。

「いや、まずいっていうか。俺の気分の問題で……」

「いいよ、そんな言い訳。それよりさ」

女はグイと俺の方に椅子を寄せ、身を乗り出した。

至近距離で、彼女は爆弾を投下した。

「うちの旅館、潰れそうなんだけど」

「…は?」

あまりに唐突なカミングアウトに、俺の思考は停止した。

ハイボールを注文しようとしていた右手が、空中で行き場を失う。

「いや、自己紹介としてどうなんですか、それ」

「だから、潰れそうなの。崖っぷちなの。もう指一本でぶら下がってる感じ」

「知りませんよ。銀行にでも行ってください」

「銀行はもう相手にしてくれないの。だから、あんたみたいな『終わってる顔』した人間が必要なの」

失礼極まりない理屈だ。

俺は溜息をつき、改めて女を見た。

藤崎楓ふじさき かえで。一応、実家の温泉旅館の若女将……になる予定だった人間」

相沢湊あいざわ みなと。元ビール醸造家。今さっきクビになった人間」

「元なんだ」

「ええ、過去形です。今はただの無職です」

「最高じゃん。タイミング完璧」

お前が言うな、とツッコむ気力も起きなかった。

楓と名乗った女は、俺のジョッキを指差して言った。

「それ、なんでまずいの?」

「さあな。多分、俺がビールを信じられなくなったからだ。酵母も、香りも、何もかもが俺を置いていった気がして」

「ふーん。理屈っぽいね」

楓はどかっと背もたれに体重を預けると、天井を見上げた。

「ねえ、うちの旅館さ。温泉だけは最高なのよ。源泉掛け流し。美肌の湯。入れば肌はツルツル、体は芯からポカポカ。お湯だけなら全国の有名温泉地にだって負けない自信がある。……でも、客が来ない。今月なんて、予約が三人だけ」

「それは……お気の毒に」

「そのうち一人は、近所に住んでるうちのおじいちゃんだから。実質二人」

「……」

想像以上に終わっていた。

「で、考えたわけ。なんで客が来ないのか。それはね、『ここでしか味わえない感動』が足りないからよ。温泉だけじゃ、今の時代、人は動かない」

「まあ、そうかもしれませんね。で、それが俺と何の関係が?」

「温泉に入って、火照った体で、最高の景色を見ながら、そこでしか飲めない『究極のビール』を流し込む。……想像してみてよ。それって、最強じゃない?」

楓の目が、一段と強く光った。

「あんた、ビール作れるんでしょ。うちで作りなよ。旅館の再建をかけた、秘密兵器を」



 「無理だ」

俺は即答した。

夢を見るのは自由だが、現実はそんなに甘くない。

「ビール造りは魔法じゃない。設備が必要だ。タンク、チラー、ボイラー、粉砕機……数千万、いや億単位の投資が必要になる。潰れかけの旅館にそんな金があるわけないだろう」

「あるよ」

「あるのか!?」

「ないけど、何とかする。クラファンとか、助成金とか、あと裏山の木を売るとか」

「何ともならねぇよ! 裏山の木で醸造所が建つか!」

思わず声を荒らげてしまった。

周りの客が「なんだなんだ」という目でこちらを見ている。恥ずかしい。

「いいか、藤崎さん。俺はさっき、自分の不手際で何千リットルものビールをダメにしたんだ。酵母を殺した。醸造家としてのキャリアは死んだんだよ。そんな人間に、誰が命運を託すんだ?」

「私が託すって言ってるじゃん」

楓は一歩も引かなかった。

「あんたさ、さっき『ビールを信じられなくなった』って言ったよね。でも、そうやって絶望してるってことは、それだけビールを愛してたってことでしょ。適当に仕事してた奴は、そんな顔して飲まないよ」

「…勝手な憶測だ」

「終わってる人は、たまにすごいことする。守るものがないから、一番純粋なものを作れる。私はそう信じてるの」

楓の言葉が、冷え切った俺の胸に、微かな熱を持って突き刺さった。

発酵の止まった俺の心に、小さな、本当に小さな気泡が生まれたような気がした。

「…仮にだ」

「うん」

「仮にやるとして。あんたの言う『究極のビール』って、どんなもんだよ。IPAか? スタウトか? それとも、最近流行りのサワーエールか?」

楓は、待っていましたと言わんばかりに身を乗り出した。

そして、人差し指を立てて、自信満々に言い放った。

「風呂上がりに飲むやつ!」

「…………雑ぅ!!」

俺は本日最大級のツッコミを炸裂させた。

コンセプトでも何でもない。それはただの「シチュエーション」だ。

「だってそうでしょ! 温泉で汗をかいて、喉がカラカラで、そこに冷たいビールが流れてくる。『ああ、生きててよかった!』って心から思えるやつ。それ以上に大切なコンセプトなんてある?」

「……それは……まあ、本質ではあるけど。でも、具体的にどんな味を求めてるんだよ。キレ重視なのか、それとも香りで癒やされたいのか……」

「え、それはプロのあんたに任せる」

「丸投げかよ!」

なんて女だ。

計画性はない。知識もない。あるのは根拠のない自信と、凄まじい行動力だけ。

普通なら、こんな話には絶対に乗らない。

でも。

さっきまで、ただの「苦い液体」だった目の前のジョッキが、なぜか少しだけ輝いて見えた。

「…一回だけだ」

「え?」

「一回だけ、試作する。旅館の厨房かどこかで、小規模な設備を借りて。それで、あんたが『これだ』と思わなければ、俺はそのまま消える。それでいいな?」

楓の顔が、太陽が昇ったかのようにぱっと明るくなった。

彼女は俺の手を、両手で力強く握りしめた。

「決まり! さすが相沢湊、話がわかる!」

「おい、まだ『やると決まった』わけじゃ……」

「条件は? 何かある?」

「ああ。もし試作が成功したら、ちゃんと売る方法を考えろ。俺は作る専門だ。経営の泥をかぶるのはあんたの役目だぞ」

「任せて! 泥でもお湯でも何でもかぶるから!」

「あと設備だ。本当に何とかしろよ。適当なタンクじゃビールは作れない」

「何とかする! おじいちゃんに土下座してくる!」

「それが一番不安なんだよ!!」

店内に俺の声が響き渡る。

店員が「あのお客さん、元気ですね」と笑っている。

さっきまで死ぬことばかり考えていた男が、今は見ず知らずの女に怒鳴り散らしている。

人生、何が起こるかわからない。

俺の人生は、今日、確かに一度終わった。

発酵は止まり、おりとなって沈殿したはずだった。

けれど。

この嵐のような女に巻き込まれて、沈んでいた感情が、もう一度だけ撹拌かくはんされようとしている。

「明日、始発で来るから。住所教えろ」

「やった! じゃあ、駅まで迎えに行くね。……あ、ガソリン代ないから自転車でいい?」

「…歩くよ。案内だけしろ」

俺は、段ボール箱の中のテイスティンググラスをそっと撫でた。

これが、新しい物語の最初の一杯になるのかもしれない。

「いい、相沢さん。目指すのはね、『日本一、風呂上がりが幸せになるビール』だよ!」

楓の宣言を聞きながら、俺は深い溜息をついた。

前途は多難、という言葉すら生ぬるい。

だが、心のどこかで、あの止まってしまった発酵の続きが、今この瞬間から始まっているような気がしていた。

「頼むから、今度はちゃんと発酵してくれよ。マジで」

俺たちの「温泉×クラフトビール」という無謀な挑戦。

その火蓋は、場違いな居酒屋の喧騒の中で、唐突に切って落とされたのだった。

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