調子に乗って量産したら全部ダメだったけどなぜか客は増えた
「いける」
翌朝、俺は根拠のない万能感と共に断言した。前日のあの感覚が、まだ体の中に残っていた。客が「惜しい」と言った。もう一杯と言った。方向性は好きだと言った。俺の人生において、あそこまで褒められたのはいつ以来だろう。少なくとも、前の会社にいた頃にはなかった。
「何が?」
「全部だ」
楓が露骨に嫌な顔をした。朝から全力で嫌な顔をするのはやめてくれ。こちらのテンションに水を差すな。
「その顔、盛大に失敗する人の顔だよ」
「違う。これは成功を確信した天才の顔だ」
「同じだよ!!」
失礼な。俺は頭の中で計画を広げた。昨日の試作で掴んだ感覚、客の言葉、源蔵の評価。全部がパズルのピースだ。あとはそれを組み合わせるだけでいい。
「昨日の客の反応を思い返せ。あと一歩なんだよ。だったら、その一歩を埋めるために分母を増やす」
「なんでそうなるの!?」
楓が叫んだが、俺の耳には届かない。数をこなすことで正解に近づく、それは論理だ。統計的にも正しい。たぶん。
「試作が成功しかけてるんだぞ。だったら、微調整したパターンをいくつか作れば正解にぶち当たるはずだ。数打ちゃ当たる」
「理論が雑!!」
俺はすでに、昨日より一回り大きい鍋を持ち出していた。ずっしりと重い。やる気の重さだ。
「今回は三種類同時にいくぞ」
「増えた!?」
「ゴクゴクいける『軽め』。ガツンとくる『苦め』。そして隠し味に全振りした『よくわからないやつ』だ」
「最後のを今すぐボツにして!!」
なぜだ。実験的な試みほど、当たった時のインパクトが大きい。大きいリターンにはそれ相応のリスクが伴う。これはビジネスの基本だ。俺は楓の言葉を右から左へ流しながら、麦芽の袋を三つ並べた。
… … …
一時間後。
「……なんでコンロが三つフル稼働してるの」
「三種類並行で作るからだ」
「場所を考えなよ!!」
厨房は完全にカオスと化していた。寸胴鍋が三つ並び、それぞれが猛烈な蒸気を吹き上げている。湿度は百パーセントを超え、視界は真っ白だ。自分の手元すらぼんやりとしか見えない。麦を煮る甘い匂いが充満して、サウナの中に麦の汁をぶちまけたような地獄絵図だった。旅館の厨房は、こんな使われ方をするために作られたわけでは絶対にない。
「温度管理はどうするの、これ。あんた腕二本しかないでしょ」
「勘だ」
「終わったな」
自分でも口にしてから背筋が凍った。勘。そうだ、勘で三口同時に管理しようとしている。勘とは本来、積み重ねた経験が瞬時に出力される高精度な直感のことだ。しかし俺の勘は、試作二回分の経験しかない。そんな勘は、もはや勘ではなく運試しだ。
「いや、でもほら、昨日の成功した感覚が指先に残ってるから」
「その感覚、一晩寝てリセットされてない?」
「……たぶん」
「一番ダメなやつだよ!!」
楓が両手で頭を抱えた。その気持ちは、薄々わかる。
「……やばい」
最初に白旗を上げたのは、他ならぬ俺だった。蒸気が晴れて視界が戻ってきた頃、俺は三つの鍋に向かい合って、ゆっくりと現実を受け入れた。
「どれが?」
「全部だ」
三つの鍋の中身をサンプリングして、俺は悟った。グラスに少量ずつ取り分けて、光に透かして、香りを嗅いで。うん、まずい。三方向にまずい。
「『軽め』が温度が上がりきらずに、ただのぬるい麦水だ」
「うん」
「『苦め』はホップを投入するタイミングを間違えて、後味が完全に苦いだけの劇薬になってる」
「うん」
「『よくわからないやつ』は……本当に自分でも何を作ろうとしたのか分からなくなった」
「それはそうだよ!!」
楓が深く頷いた。納得するな、悲しくなる。楓に納得されると、失敗の輪郭がくっきりと際立つ。
「なんでこうなった……」
「キャパオーバーしたからに決まってるでしょ。一つをちゃんとやるだけで精一杯なのに、三つ同時にやろうとするから」
「正論で俺を殺すのはやめてくれ」
頭ではわかっていた。集中力は有限で、注意は分散すれば薄まる。それでも手を広げたのは、昨日の客の言葉が嬉しすぎたからだ。「惜しい」と言われて、浮かれた。完全に浮かれた。
反省している。
数時間後。主発酵を強引に進めた、三種類の「それっぽい何か(若ビール未満)」が完成した。完成、という言葉が正しいのかどうかは、もはや考えないことにした。存在するというだけで、十分だ。
「いくぞ、楓」
「どれから飲むの?」
「全部だ」
「雑!!」
まずは『軽め』から。グラスに注ぐと、泡立ちがほとんどない。色も薄い。嫌な予感しかしないが、意を決して口に含む。
ごくり。
「……水?」
「ビールのプライドを持ってくれ!!」
プライドを持てるほどの根拠がない。麦が溶けたお湯、といった風味だ。炭酸もなければコクもない。水よりは少し複雑な味がするが、それはただの麦の風味であって、ビールの個性とは呼べない。
次、『苦め』。こちらは色だけは濃い。琥珀色で見た目は悪くない。
ごくり。
「……うわっ、にがっ! 舌が痺れる!」
「顔に出すぎだろ!!」
出る。これは顔に出る。苦みというのは本来、ホップの華やかさと絡み合ってこそ成立するものだ。単体で暴走した苦みは、ただの罰ゲームだった。
最後、『よくわからないやつ』。注ぐと微妙に濁っていて、香りがほんのりと酸っぱい。嫌な予感が最高潮に達している。
ごくり。
「……何これ。酸っぱいし、なんか変な匂いがする」
「俺に聞くな!!」
全滅である。見事なまでの三連敗だった。打率ゼロ。安打なし、三振三つ。試合にすらなっていない。
「終わった……」
俺は厨房の床にそのまま座り込んだ。タイル張りの冷たい床が、今は妙に心地よかった。蒸気で火照った体が、ゆっくりと冷えていく。
「諦めるのが早いな」
「いや、これは無理だろ。ゴミを三つ量産しただけだ」
楓も隣にどかっと座る。制服のまま床に座ることをまったく気にしない女だ。それが今は少しだけ頼もしかった。
「さっきまで『いける』って言ってたのに」
「人は過ちから学ぶんだよ」
「一時間で学んだの?」
学習効率だけは異常に高いらしい。本当に何も残っていないなら、こんなに悔しくはないはずだ。何かが残っているから、悔しい。
「でもさ」
楓がぽつりと呟いた。声が少し、柔らかくなった。
「『惜しい』のはあったよね。昨日のやつ」
「……ああ。あれだけは、ちゃんとビールしてたな」
他の三つは、ビールを名乗ることすら許されない「液体の失敗」だった。だが昨日の若ビールは、確かにビールだった。不完全だったが、方向は合っていた。その差が、今日の三つには完全に欠けている。
ため息をついた。
その時だった。
「すみませーん。ごめんください」
まただ。またこのタイミングで声がした。昨日と同じ玄関のほうから、聞き慣れない声が響く。俺と楓は顔を見合わせた。
「えっ」
楓が弾かれたように立ち上がる。
「また来た!!」
玄関に向かうと、今度は若い二人組の客だった。二十代後半か三十前後くらい。旅行の格好で、リュックを背負っている。
「今日、泊まれますか?」
「泊まれます! 全力で泊まれます!」
即答である。楓の切り替えは相変わらず神速だ。
「昨日泊まった人に聞いたんです。面白いビールが飲める旅館があるって」
「来たな口コミ!!」
展開が早すぎる。あのスーツの男が誰かに話したのか、今どきSNSか何かに投稿したのか。いずれにせよ、情報の伝わるスピードに体がついていっていない。
「ビール、ありますよね?」
「あります!!」
「あるのかよ!?」
思わず裏声でツッコんだ。楓が小声で俺を睨む。目が笑っていない。
「あることにするの。いいから作りなさいよ!」
「鋼のメンタルだな、お前……」
俺はふらつく足で厨房に戻った。
風呂上がり。二人の客が食堂のテーブルにつく。
「ビール、楽しみにしてたんですよ」
プレッシャーがナイフのように突き刺さった。楽しみにしてた、という言葉がこんなに怖いのは初めてだ。
「……おい、楓。どれ出すんだよ。全部ゴミだぞ」
俺は楓を台所の隅に引っ張り込んで、小声で問い詰めた。
「……選べない。全部出しちゃダメ?」
「殺す気か」
食堂に三種類の失敗作を並べたら、この旅館の評判は今夜中に消滅する。口コミは広がるのも早ければ、悪評が広がるのも早い。
俺は必死に頭を回転させた。
「どうするの?」
「……混ぜる」
「やめろ!!」
だが、他に手がない。単体では飲めたもんじゃないが、合わせれば中和されるかもしれない。水っぽさと苦みは足し合わせれば多少バランスが取れる。あくまで可能性だが。
「ちょっとだけ比率を調整するから」
「その『ちょっと』が命取りなんだよ!!」
楓の指摘は正しい。俺もそう思う。でも今夜、他に選択肢はない。
俺は震える手で、三つを慎重にブレンドした。『軽め(麦水)』を土台に、『苦め(劇薬)』を少量、『よくわからないやつ(謎の酸味)』をほんの少し。ブレンドしながら、自分でも何をしているのかよくわからなくなってくる。
「できた……」
「本当にそれ、人が飲んで大丈夫なやつ?」
「知らん。祈れ」
出した。もう逃げられない。グラスに注いで、食堂のテーブルへ運ぶ。液体の色は、昨日よりやや濁っている。泡は立っているが、頼りない。
二人の客が、同時にグラスを傾ける。
ごくり。
沈黙。
やめてくれ、その「間」が一番心臓に悪い。壁の時計の音が妙に大きく聞こえる。俺は目を閉じたいのをこらえて、客の顔を見た。
「……どうですか?」
楓がおそるおそる尋ねた。
「これ」
一人が、ゆっくりと口を開いた。
「ちょっと荒削りで、バラバラな感じもしますけど……」
来た。まずい方向の感想だ、と思ったその瞬間。
「でも、すごく面白い味です。複雑というか」
「あと一歩で、中毒的にハマりそうな気がする」
まただ。またこのパターンだ。俺の「失敗作」は、なぜか毎回「惜しい」というゾーンに着地する。なぜなのか、自分でもよくわからない。
「惜しいなあ」
出た。魔の言葉。
だが、客の顔は笑っていた。不満ではなく、好奇心の顔だった。
「もう一杯、いただけますか?」
「えっ」
楓が固まる。
「いいんですか? 本当に?」
「はい。この変な感じ、嫌いじゃないですよ」
俺は、思わず小さく吹き出した。
「……いいらしいぞ、楓」
「マジで!? 何が起きてるの……?」
俺にもわからない。ただ、何かが起きているのは確かだった。
こうして。
なぜか、本当に意味がわからないのだが、客は増えた。
ビールはまだ、完成からは程遠い。三種類作って三種類ダメで、それをブレンドして出すという、冷静に考えれば正気の沙汰ではない行為をしている。でも、それを「惜しい」と言いながらもう一杯頼む客がいる。
何かの歯車が、確実にギシギシと動き始めている感覚があった。
そしてたぶん、このまま調子に乗ると、俺はまた派手にやらかすんだろう。キャパを超えて、根拠のない自信を持ち、大きな鍋を三つ並べて視界が真っ白になるまで蒸気を浴びる。そういう人間なのだ、たぶん。
でも、まあ。それも含めて。
俺は厨房を片付けながら、三つの鍋を洗った。
また明日、一つだけ丁寧にやろうと思いながら。




