彼らの抵抗
フロレンヌにカリウスたちが来る前に、タルトたちイヤーロップの薬草師らは、すでにメース川の対岸へと逃げ延びていた。
しかし、彼らがたどり着いた場所もまた混乱のただ中にあった。
陶器類や毛布、わずかな医療機材をトラック数台に積み込み、患者とともに逃れてきたものの、手持ちの医療資源は底をつきかけている。
アルデナの森で戦闘が始まって以来、彼らが転々と仮設してきた中で3つ目となるこの野戦病院は、メース川鉄橋からわずか4キロほどしか離れていない、結核患者の隔離療養所だった。
サナトリウムは、医療というより静養のための宿泊施設に近い。
つまり、負傷兵を寝かせることはできても、治療するすべがなかった。
大人数を収容することはできても、本格的な外科手術や投薬を行えるような設備も資材も、そこには残されていなかったのだ。
さらに問題だったのは、彼らの姿を認めて、避難民たちが治療を求めて集まってきたことだった。
怪我だけでなく、生水を飲んで腹痛を訴えるもの、持病を訴えるものと様々な病状を抱えた避難民が彼らのもとにやってきた。
「昨日から腹が痛くてたまらないんだ。赤痢かもしれねぇ」
「兎人さん、魚の目が潰れちゃって痛いのよ。どうにかならない?」
「息子の喘息の薬がないんだが……あんたらもってないか?」
健康に問題を抱えた避難民がひっきりなしに来る。
そのたびにタルトは処方箋を作って回った。
「うんうん、カミツレとノコギリ草だね。お腹の痛み止めには」
「了解! 取ってくるんだよ、薬草を!」
「どうするんだい? 喘息は」
「お父さん、持ってるかい、薬のボトルを?」
「あぁ、でも、もう空っぽなんだけど……」
タルトは憔悴した様子の父から空になった喘息の薬の容器を受け取ると、ラベルを回してふむふむと頷いた。
「百里香とリコリスだね。これなら」
「な、なんとかなるのか?!」
「落ち着いて待ってて、今仲間たちが用意してくるから!」
幸いにしてイヤーロップには薬草の知識があった。
しかし、欠乏した医薬品を伝統的なハーブ類で補うにも限度があった。
本物の麻酔や消毒液、重症者用の代用血漿だけは、野山を歩いても手に入らない。
結局のところ、彼らは避難民の看病と並行して、乗り捨てられた軍用トラックや破壊された補給所を漁る廃品回収を日課にするしかなかった。
しかし、回収できたのは、食料や医療品だけに限らず、道中で保護した新たな負傷者や難民という「余計なお土産」を連れて帰ることもしばしばであった。
そうして膨れ上がる患者の数に対して、サナトリウムはあっという間に限界を迎えた。元は療養所に過ぎないサナトリウムの収容人数は、40床がせいぜい。
この施設を本格的な野戦病院へと仕立て直す必要に迫られたとき、大いに存在感を発揮したのは、意外にも帝国兵の捕虜たちだった。
帝国兵の捕虜は、ゼレガルド方面の避難民と一緒にやってきた。
驚いたことに彼らはベリエ兵の監視なしに避難民の肩を抱きながらやってきた。
首都まで攻め込まれたベリエは、もはや捕虜を収容所に集める余裕すらなくなり、彼らを避難民と一緒に後方に向かってたらい回しにしていたのだ。
彼らはベッドの上に剥き出しになった梁に包帯を結びつけ、その先にピンを使ってシーツを縫い止めて間仕切りを作った。
サナトリウムの一階は厨房で、そこでシェフとなったのは帝国の元戦車兵で、戦車に乗る前は炭鉱に仕出しをしていた食堂の店主だった。
捕虜となった帝国兵は雑用係として勤勉に働いた。
そのうち、彼ら帝国兵に担架や看病を任せることも当然になった。
ある日、伍長Xと呼ばれる兵士が運ばれてきた。
なぜ伍長Xかと言うと、彼は戦友に死んだと思われて、認識票をすでに剥ぎ取られていたからだ。そして、彼には顎がなかった。
砲弾の破片で下顎をまるごと吹き飛ばされた彼には、パンを噛むことも、スープを呑み込むことすらできなかった。
放っておけば餓死を待つだけの彼を生かしたのは、捕虜の元戦車兵――あの食堂の店主だった。
彼はパンと野菜を煮詰めておかゆ状にしたドロドロのスープを作り、ゴム管を取り付けた水差しで、伍長Xの喉奥へ一滴ずつ流し込んだ。
これには伍長Xが※誤嚥して窒息しないよう、ゆっくりと行う必要があった。
※誤嚥:飲食の際に飲み込み損なって、気管に入ること
彼の喉頭は顎がなくなったことで常に剥き出しだから乾ききっている。
飲み下した時に固形物が張り付いて、そのまま窒息するおそれがあるのだ。
この作業は伍長Xにも人並み外れた忍耐強さが必要とされた。
スープを流すと、傷から唾液とスープがまざったものがこぼれ落ちる。
それを何度も布で拭ぐいながら続けるのだが、ペースが合わないとすぐに伍長が咳込んでしまう。
咳き込むたびに伍長Xをうつ伏せにして中断し、彼が良いと合図したら再開する。
そんなだから、一杯ぶんのスープを飲ませるのに、毎日一時間以上を費やした。
看護婦が目を背けるような負傷者に対しても、彼らは懸命に看病した。
だが、数週間後、どれほど手を尽くしても抗えぬ限界が訪れ、伍長Xは静かに息を引き取った。
彼が旅立ったあと、制服のポケットの奥から、使い古された一通の便箋が見つかった。故郷の妻へ届けようとしたその手紙の署名によって、ようやく彼は「伍長X」ではなく、一人の人間――ジャン・デュポンであったことが判明したのだった。
それと――サナトリウムにあった代用石鹸の品質はひどく、洗濯に使うと色落ちがひどかった。砂と粘土でかさ増しされた石鹸は、思わぬ副作用を生んだ。
捕虜となった帝国兵。彼らの制服が何度も洗濯するうちに色褪せていくと、次第に人間らしい尊敬を得るようになったのだ。
もはやそこにいたのは敵国の人間ではなく、共に死に対して抗う戦友だった。
タルトたちイヤーロップは、
カリウスたちとは別ベクトルの地獄を見てるね…
ちなみに本エピソードは、ほとんどが史実からの引用です。
本当に戦争は地獄じゃ…




