断章 無能になる勇気を持て
厚いカーテンの隙間から、午後の光が部屋を断ち切るように差し込んでいる。
カリウスは緩み落ちかけた洗濯ばさみをつかみ、カーテンを留め直した。
振り返るやいなや、異様な雰囲気をまとった壁が彼の視界に飛び込んでくる。
シャルロッテ教授の研究室の壁は、無数の古地図や宗教画のレプリカで埋め尽くされていた。
どれもヨーロッパの宗教戦争にまつわるものだ。
信仰とは、つねに流血を伴うらしい。
イスパニアのレコンキスタは8世紀から15世紀まで続き、これに介入したフランクが信仰の守り手として、その権威を高めることになった。
教化されたバイキングによるノースマン・コンクエストは11世紀。ブリタニアの始まりはここからで、彼らの海兵魂はバイキングの伝統に由来するのかも知れない。
ゲルマニア騎士団の東方植民戦争は12世紀から始まり、帝国の成立へつながる。ゲルマニアは極東のセントール諸部族の侵攻からヨーロッパを守りきり、それが帝国の異種への嫌悪と、人間を至上とする思想を形作っている。
歴史を刻んだ絵画からは、今にも銃声や剣戟の音が聞こえてきそうだった。
しかし、いま室内を満たしているのは、息をのむような静寂だ。
積み上がった書籍が城壁となり、要塞化された研究室。
その壁の奥から、シャルロッテ教授が鉛筆を走らせる音が、かすかに響いてくる。
エルフというものは、鉛筆1つ取っても楽器に変えるのだろうか。
紙を擦るさらさらという繊細な音だけが、緩やかに時を刻んでいた。
カリウスは壁を回り込み、その向こうの銀髪のエルフに声をかけた。
「教授、今よろしいですか?」
「うん。」
「お借りした資料を戻しておきました。教授が置いてあったのはそのままです」
「ありがとう。む……」
「どうしました?」
「――時にカリウス。お前は無能になる勇気を持てるか」
「無能になる勇気……ですか?」
「あぁ。ただの思いつきなんだが、興味は?」
「あります。教えてください、教授」
「――では始めよう」
カリウスに向き直ったシャルロッテ教授は、銀の義手の指先でコツコツと音を刻む。あやふやな考えを言葉にまとめる、いつもの儀式だ。
「人間は誰でも間違える。私でも間違える。むしろ間違えることのほうが多かった。賢い人間にありがちな間違え方は、解くべきでない問題が解けてしまうことだ」
「えっと……解こうと思えば、難解な問題が解けてしまう?」
「そうだ。ある問題を目にした時、他の人間には無理だが、自分なら解けるだろう。そう思って手を付け、本当に解決してしまう。だが――」
「そもそも、普通の人が解けないような問題に取り掛かるべきではない?」
「良いぞ。――《《それ》》だ。指揮官であるお前は目的を達成するのが仕事であって、目的の達成と問題(障害)の解決はイコールではない」
「具体的に言えば……村の占領を目的として与えられた場合、そこにいる敵の排除は必須ではない、ということですよね?」
「そういうことになるな。無論、敵の存在が村の占領という目的を阻害するのであれば、これに対処する必要がある。だが、村の占領はなんのためだろう?」
「策源地、発起点の確保です」
「であれば、村の占領、それ自体が誤った問題となるかもしれない。違うか?」
「そもそも指示が間違っています、と具申せよと?」
「そうだ。これは恐らく近代国家の教育が問題を生じさせている。私の時は教育なんてものはなくて、何事も先達と共に学ぶものだったからな」
「1000年前だとそうなりますよね……」
「学校では、問題を出されたら問題を解いて、答えを出す必要がある。教師に向かって、『そもそも問題が間違っています』なんて言った日には、落第するに決まっている。だから誰もが問題を解く必要があると考えてしまう」
「あ、そういえば……教授って試験でよく正誤表と補足を出しますよね」
「……試験に使う問題を作るのは難しいんだぞ? 特に小問は難しい。5つに1つは破綻した問題と解答を作ることがあってな……正直申し訳ないと思っている」
「でも、認めずにそのまま試験を強行するほうが問題。なるほど、腑に落ちました」
「よし、次だ。ここからがちょっと難しくなる。解くべき問題と、そうでない問題。どうやって区別すべきだろう?」
「うーん……これは指揮官の文脈で考えていいですか?」
「お、いいぞ。指揮官の文脈だとどう区別する?」
「まず『村を確保せよ』という命令が出た場合、同時に『食料の確保』『村の奪回を試みる敵の撃破』『村の拠点化』『敵戦車部隊への備え』という命令が出ます」
「出るだろうな。それこそデパートの売り場のように」
「ですので、いったん要求を減らしてみます。相手が将軍だろうと国王だろうと関係ありません。むしろ権威ある相手から与えられたほうが危険です。忖度、便乗、単なる善意で余計な指示がついた可能性が高い」
「それで何をする?」
「不要と思える命令を削除します。これは削りすぎて事故が起きるぐらいでないと、やったとは言えません。 人間には『もしかしたら必要になるかもしれないから、この指示を追加しよう』と、何でもつけ足していく強力なバイアスがある。『もしも』の議論は、不安を糧として無限に広げることができるからです」
「なるほど。削除の結果として、どこまで単純化できた?」
「単純化の軸は、『最悪の結果を避ける』とします。指揮官としては最悪の置き場所が複数ありますが……今回は指揮する部隊の全滅、機能の喪失と置きます。その場合、『敵戦車部隊への備え』これを最重要とします」
「では、君の部隊は対戦車戦闘を重視するというわけだな?」
「そうなりますね。あとは部下と上司を集め、計画と実行、評価を繰り返します。これらを繰り返し、プロセスの品質が上がっていけば、教範となるでしょう」
「なるほど。戦車部隊が迂回して構築が無駄になり、食料が不足した場合は?」
「それは僕のミスです。最重要を『食料の確保』に切り替えて、再度実行します」
「部下からしてみれば、朝令暮改を繰り返す無能にしか見えないだろうな」
「それについては、正直申し訳ないと思ってます」
――拍手。
義手が打ち鳴らす硬質な音が、余韻を残して途切れた。
教授の研究室に、静寂が降り立つ。
カリウスの開き直りとも取れる答えに、シャルロッテは怒るどころか、どこか愛おしむような温かな笑みを深めた。
試練を乗り越え、自分の足で立ち上がった指揮官を祝福するかのように。
さすが教授。教えることについてはプロだわ
ちなみに1930年代の軍は官僚機構なので、シャルロッテ教授が教えていることは
軍からすれば0点どころかさっさと銃殺しろってレベルです。
西部戦線異状なしで書かれている通り、当時の大学は国のお題目を復唱するのが役目となっています。つまり、教授の発言をカリウス以外の人に聞かれたら、研究室を閉鎖され、大学の追放まで行くかもしれません。
しかし教授はハナから軍で立身出世する方法なんか教える気がなくて、
戦争を一種の災害とみて、それを生き抜く方法を教えてます。
実績を上げて後方勤務になろうとしても
自分の命を他人任せにしてたら、上官ガチャ失敗ですぐ死ぬよ
そういう視点ですね
実際、中世から近代にかけて、そして現代においても、
司令部と現場の認識が完全に一致したことって、ほとんど無いんじゃないかな?
また、分かりづらい部分ですが、
カリウスが対戦車戦闘の用意をすれば、当然、敵戦車は拠点を回避する。
なので彼が立てた計画は成功しています。
そもそも、シャルロッテは
単純化の軸とした「全滅を避ける」という重要事項の仮定も、
そこからの「対戦車戦闘」という選択も、
その成否を問うつもりが最初からありません。
やったことが合ってるかどうかは問題ではなく、
彼が混乱した指示や状況にたいして硬直せず、
無能とバカにされることを飲み込みつつ、
機動力を持って思考と決断ができるか?
シャルロッテが確認したかったことはこれです。




