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Last lachtara  作者: Tuile.
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第9話 森と狼

目の前に現れたそれは、漆黒に包まれた体毛と、丸太のように太い足を4本持ち、鋭い大牙、血液を染み込ませたような赤い瞳を宿らせている———狼。

 

 大体4m以上はありそうなほど大きな狼だ。歩くだけで地面を揺らす狼は、シドを見ると不気味に笑みを浮かべながら舌舐めずりをしている。手持ち照明で照らされ、チラリと見えた肉球は可愛らしいピンク色を宿していたが、そんなものどうでもいいくらい恐ろしい顔をしていた。


 暗闇の中で赤い目だけを光らせている様は、シドの恐怖を膨らませ、絶望を見せつけてくる。一瞬で理解した。これは勝てない、と。

 更には、狼は獲物を前に興奮じみた呼吸を鳴らし——


「いいもの持ってきてんじゃん、なァ?——オイ」


「喋ったァ!!!」


 低く、喉を響かせるような言葉は確とシドに届く。思わずシドは絶叫混じりの素直な感想を声に出した。しっかりとした言葉だ。しかし、その言葉が聞こえたところで、雰囲気的にシドに協力はしてくれないということは、まず分かる。


「ハァ?オマエ、その為に来たんじゃねェのか?オイ」


 急に気怠げになった声と、意味の分からない質問に、シドは体を強張らせながら首を横に振った。

 

 ——その為に……ってなんだ?なんのことだ!?

 

 シドのカバンに入っているものは全てシド自身が選んだもの。カバンは持ち出すまで倉庫の影に置いていたし、カルディラやアスターが勝手に何か「良いもの」なんて入れるはずもない。


「いや……何も良いものなんて持ってません……けど」

 

「嘘つくなよオマエ……寄越せよそれ、オイ!」


「いや、嘘とかついてなくて……俺はただこの森に逃げてきただけで——」


「寄越せって言ってんだよ!オイ!」


 途端、牙を鋭く剥き出しにした狼は声を荒らげて前足を傍にあった木々に落とす。すると、木々は弾け飛ぶような衝撃音を鳴らしながら破片をシドに飛ばした。

 衝撃が骨の髄まで浸透し、木の破片がシドの頬を掠り、シドの体は命の危機を前に足を動かす。

 まだ体の気持ち悪さが残っているこんな時に、狼はシドに一体何を求めているというのか。


「やべぇ、やっべぇッ——!!」


 ジタバタと藻掻くように手足を動かしながら、辿ってきたはずの道を引き返して、とにかく走った。

 あの狼が足を一振するだけで大きな木が粉砕されるならば、シドが同じものを受けて無事で済むわけがない。

 

 どうやら言葉は通じても話は通じないようだ。こちらの声に耳を傾けることなく、狼は感情最優先で木を根元から引っこ抜くと、怒りを込めながらシドに投げてくる。


「逃げんなァ!!テメェ逃げんな!オイ!」


「そりゃ逃げるだろーーーっ!!」


 後方に批判を叫びながら木の陰に滑り込み、飛んでくる物体から身を隠す。

 殺人鬼から身を隠すため、この森を利用しようと考えて来たのに、どうして今は森の中にいる謎の狼から身を隠しているのだろうか。やはり森は迂回して進むべきだったと、今更遅い後悔を頭に浮かべる。

 

 しかし後悔している場合では無い。狼はギョロギョロと赤い瞳を動かし、視界から消えたシドを追う。狼は黒い巨体を捻らせると、暴風を引き起こして周囲の全てを空へと吹き飛ばして見せた。


「——え」


 空へ舞い上がった木々や岩は重力に導かれ、槍や隕石の如く地面に降り注ぐ。

 シドはその光景に唖然とするしかなかった。自分より重さもあって、大きな物体が頭上に迫ってくるのだから。


「あああああっっ!」


 揺れる地面の上で足任せに逃げる。

 もはや森全体が脅威だ。木が、岩が空から降ってくる上に、背の高い雑草がシドの眼前を塞ぎ、後ろを振り向けば恐ろしい狼がお出迎えしてくるのだから。


「早く森を出なきゃ——!!」


「出させねェよ、オイ!」


 鳴り響く周囲の轟音など関係ない。狼はポツリと出たシドの言葉を聞き取ると、遮るように怒鳴り声を上げた。人間よりも優れた五感を使って獲物の声を、匂いを、位置を把握。

 優れているのは五感ではなく、対等に会話できる知性だったら良かったものを。





 ——————————————————




「ハァッ、ハァッ——」


 木の葉がシドの指を切って、足元のツタが走る速度を落とそうとしてくる。

 どれほど走り続けているだろうか。

 木の影から木の影へと、移動しながら逃げているが、狼は正確に位置を把握してくるようで、やがて逃げる意味が無くなってくる。息を切らしながら走れど、狼の追う速さは段々と速くなって——


「わかってんだよ、オイ!」


「ちょっと——待っ——!!」


 轟く獣の足音が近づいてきているのはわかるが、狼が次に何をしてくるのかは後ろを振り向かないとわからない。何を避けるにしても、奴の動きを見る必要がある。シドに予知能力なんて便利なスキルは無い。戦闘経験も無い、逃げられる保証もない。けれど逃げることしかできない。

 故に、考え無しに「待ってくれ」という哀れな交渉を持ちかけようと振り向いた瞬間 ——シドの目の前に巨大な爪が現れた。


「いっ————」


 爪を見た瞬間、足にツタが絡まり全身は地面に横たわる。ガリリと、すぐ後ろで狼の爪が地面を抉る音が聞こえ、シドは四つん這いになりながら、ツタをほどき、汗だくになりながら再度近くの木の影へ隠れた。

 それ以外に隠れる場所はない。それ以外に選択肢がなかった。自分の考え無しな行動が、命まで取らなかったことだけラッキー。


 隠れながら、左腕が熱くなっていることに気づく。視線を移すと、左腕の白い袖は真っ赤に染まり、ビリビリに破け、惨たらしく傷跡から流れる血を見た。


「う、わ——」


 血を見た瞬間、腕の熱さは一気に痛みへと変わる。

 経験したことのない強い痛みに、傷口を抑えながら流血を止めようとするも、無駄な行為だ。


「痛ぇえぇぇぇッッ!」


 シドの叫び声を聞き入れた狼は、躊躇することなく自身の前足を振り上げ、前方の木を粉々にする。

 背中から衝撃波を感じたシドは咄嗟に横に転がり、制服を土で汚しながらギリギリ回避する。目の前、隠れていた木が薙ぎ倒され、シドは左腕の痛みを一瞬で忘れてゴクリと唾を飲み込む。

 腕の痛みなんかより、命が消えようとしている恐怖が勝ったのだ。

 もし避けられていなかったらと思うと、震えが止まらない。落ちてきた自然の恵みが未だシドの周囲を囲み、もはや逃げる暇など与えてくれない。

 恐怖に飲み込まれる。


「——やべぇ、死ぬかも……」


 死の予感。

 誰か、助けて欲しいと願う。


 しかし迫る恐怖に立ち上がることができず、死を受け入れようとも考える。


 ごめんお母さん、お父さん、妹、皆……

 結局俺はなにもできず、魔法もろくに使えずに死ぬのか。

 あの時こうしておけばよかった。ああしておけばよかった。

 脳内に懐かしい過去の走馬燈が流れ込んできて——







 ——あれ



 

 ……前にもこんなことがあった。

 そうだ、カルディラと死闘した時。

 あの時も死を目の前にした。


 当時は流れるままに死を受け入れようとしたが、ヴァールの手助けによって回避したものだ。今思えば、本当にヴァールという存在がいてくれたことに感謝してもしきれない。


 その後、俺はどうした?


 ヴァールが作ってくれた隙を使ってカルディラの宝石を奪った。

 そうだ、咄嗟だった。無我夢中だった。やるしかなかった。それが運良くカルディラの弱点をつけただけで——


 今はどうだ?

 ヴァールはいない。隙を作ってくれる味方なんて居ない。この森にいるのは自分と、目の前の狼だけなのだから。

 また死を受け入れるか?それともこのまま逃げ続けて、またラッキーを待つか?

 

 ——違うだろ。


 俺はまだ、逃げて隠れて、幸運に縋ろうとしているだけで何もしてねぇじゃねぇか。なのに、もう諦めようとしている。


 ——惨めだ。


「嫌だ……」


「死にたくねぇ……」


 何もせず死ぬくらいなら、あの時みたいに無我夢中になるほど足掻いてから死にたい。だから、このまま死ぬのはダメだろ。かっこ悪いだろ。最初から俺はかっこ悪いけど、最後の最後までかっこ悪いのは嫌だろ!

 

 恐怖に埋もれた、運命に抗おうとする意志を掘り起こす。


「死にたくねぇ——俺は帰りたいんだよ——そうだ、俺は帰るんだよ——!」


 涙目になりながらも、シドはそう言い放つ。自分の弱さを実感した。これでもかと見せつけられてきた脅威を前に自分の実力の低さを改めて理解する。実力が低くても尚、周りに認められたいとほざく自分の愚かさを知っている。分かりきっている。


 ——だから、帰る為にもこのままで良いわけがない。


 振り返ってみろ。誘拐された後も、一人でカルディラとアスターをすぐに信用しようとせず、脱出を試みたのは事実だ。一人で荷物を集めることができた。一人でルートを発見しようとした。一人で誘導に成功した。一人で判断した。一人で行動できていた。

 

 自分一人で何もできないから助けを待つことは、一番愚かな行為だ。周りに期待ばっかりして、愚かで、かっこ悪い自分のまま死にたくない。


 だから、抗って自力で帰ってみせる——


「——クソッ!もうやるっきゃねぇだろ!死にたくねぇから!」


 意を決し、シドはカバンから果物ナイフを取り出し、握りしめる。正々堂々、狼の前に立って戦闘態勢を取った。

 狼との距離は約5mほど。近い。

 

 今のシドは震えるだけでは終わらない。なにせ、殺人鬼との死闘を経験し、殺人鬼と恐怖の生活をやり過ごしたのだから。また命を狙われている状況に変わりはないが、過去の経験はシドの味方となって現れる。

 

 怖い感情は残ったままだ。けれど、「シドくん大脱走計画」の最終目的はスカイア帝国に帰ること。こんな所で野垂れ死ねない。


「なんだオイ、舐めてんのか?……オイ!」


「舐めてねぇよビビってるよ!」


 狼の威嚇に弱音で対抗。

 足を震わせながらもナイフの先を向けてくるシドの有様に、狼は可笑しく嘲笑いながら——


「カスがよォ!!チビりそうな顔でよくオレ様の前に立ってやがんなァ!——オイ!」


 狼が意気地無い姿のシドをバカにした瞬間、シドの手の内側から金色に輝く光が漏れだし、暗い森を眩しく照らした。

 ただの強い光を出す魔法。シドの一番得意な魔法だ。

 けれども、その輝かしさは確かに狼の目の中に入り込み、微かな痛みを伴わせる。魔法は最終手段でしか使わないと決めていたのに、外に出てから数十分で使う羽目になるとは考えもしてなかったことだ。


「——うぉあ!!オイ、オマエ!」


 暗闇から一気に白い光の中へ。視界は対応しきれず、眩しさのあまり目を細める狼は、足を眼前に置いて光を遮ろうとする。

 

 内心、シドも驚いていた。普段ならこんなに眩しい光を出せるほどの技術はない。少しの目眩し程度になればいいと考えていたが、予想以上の効果だ。今のシドは魔力が湧き上がってくる感覚を覚える。それが、シドの魔法を強化したとでも言うのだろうか。


 ともかく、前にいる狼は眩しさで正確にシドの姿を見ることができなくなった。

 

 ——攻撃を与えられる隙が無いなら自分から作ってしまえばいい。

 

 光が消え始めてきた。狼の目もようやく慣れてきたようで、パチパチと瞬きをしながら周囲を確認しようとしている。

 

 だから、狼が完全にシドを見つける前に、片手にツタを握りしめ——


「うおおおお!!」


 足に力を入れて、踏み込み、勢いよく突進する。

 左手で狼の大きな腹部に狙いを定め、右手を大きく振り上げ、果物ナイフを刺そうとした。


 ブニ


「…………」


 が、思った以上に腹の皮膚は分厚いようだ。加えて、狼の体毛が果物ナイフの鋭さを鈍らせ、貫通できないようにしている。腹の皮なら他部分よりも柔らかいと考えたのだが、この狼は違ったようで。腹の前にいるシドに気づいた狼は、前足でシドの体を吹き飛ばそうとする。


「そんなんじゃ効かねぇよ!ボケ!」


「クソッ……やっぱ小せぇナイフなんかじゃ、この程度か——!」

 

 狼の行動パターンは意外と単純なもので。距離を置けば木々や岩を投げてくるが、至近距離になると必ず前足攻撃が来る。簡単なこと。近い距離は物体を投げるより自分の足を使った方が効率がいいから。だからこそ、しっかり見れば読みやすい。

 シドはしっかり前足の存在を確かめて身を縮めると、ピンク色に染まっている可愛らしい肉球に突っ込んだ。頑丈な手の中には爪もあるが、肉球もあるもんだ。


「やっぱその足で殴ってくると思ってたぜ!」

 

 衝突のダメージは肉球によって緩和され、爪に割かれずに済む。しかし、シドの体はそのまま吹っ飛ばされ岩に衝突すると、無造作に落ちてしまった。


 放った光は完全に消え、また森は暗闇に包まれる。

 シド残りわずかの力で顔を上げると、狼の足元を見てニヤリと笑った。


「ゴホッ——」


「オイ!あんま舐めたことしてんじゃ——」


「まだ、だぜ……?へへへへへへ」


 狼の罵倒に応えるように、咳払いをしながら乾いた笑いを響かせるシド。奇怪な笑い方をする彼に、狼は「頭おかしくなったのか?オイ」と当然の疑問を浮かべていると、死に損ないは口角を上げたまま——


「俺は今、お前に何をしようとしているでしょーか!」


「……ハァ?」


「正解は——」



 突如問題を突きつけ、更に疑問符を増やす狼を無視し、シドはフラフラの足で森の奥へと走り出す。何を言いかけたのか知らないが、背中を見せてヨロヨロと逃げる様は小物だ。狼は「ハッ」と小さく笑い声を上げ、シドの姿を追い詰めようと前足を出す。

 だが、片足の爪に違和感を感じ、止まった。


「——あ?」


 違和感を突き止めようと顔を下げる。するとそこには、少し飛び出た爪に雑に絡まるツタが見えた。

 死に損ないを吹き飛ばした時、手に持っていたツタが爪に引っかかったのだろう。


「————」


 とはいえ、なんの役にも立たないものだ。狼が足を動かしてしまえばツタは簡単にちぎれる。少しツタが狼に違和感を与えただけで、これではなんの攻撃にもなっていない。

 この程度で時間稼ぎになると思ったのか?この4本の足を使えば、すぐ死に損ないに追いつけるというのに。


「こんなん、痛くも痒くも——」


 ヒュ


 死に損ないの方へ振り向いたその瞬間、狼の瞳の、瞳孔の目の前に——果物ナイフがあった。

 それは、あの死に損ないが手に持っていた、ただの短いナイフ。狼の爪より鋭い訳でもなく、狼の体表を裂ける訳でもない。木もなぎ倒せない、岩も粉砕できない。ただの"ザコ"が使うナイフ。それなのに、


 よそ見をしていた隙に現れた果物ナイフを、避けることができなかったのだ。シドが投げた果物ナイフは狼の片目に深く突き刺さると、その瞳と同じ赤い血液を噴き出し始める。


「ウがァ、ガァアアアアアア!!!」


 眼球全体に走る激痛に悶えながら、断末魔を上げる狼。その響く悲鳴からして、小さな果物ナイフでも効果はバツグンらしい。地面を転がりながら唸り声を出す狼を見て、シドは思わずガッツポーズを決める。

 それから、ビシッと人差し指を狼に突きつけて、模範解答お披露目の時間だ。


「正解は——お前の眼球を貫く、でした!俺の力じゃ木を投げれないし、ナイフで腹を刺しても分厚い皮膚に塞がれて大した攻撃にならない!でも、お前は弱点を見せびらかしてただろ!それが眼球だ!」


「痛てぇよぉお!!」


「眼球は皮膚で覆われてるわけじゃねぇからな!果物ナイフでも飛ばして突き刺せば大ダメージ!お前の眼球はデカくて狙いやすくて助かったよ!————ええと、だから、もう行くわ!じゃあな!」


 もう少しカッコつけたセリフを吐きたかったが、悶え苦しんでいる狼の体にこちらも押しつぶされそうだ。何においてもまず命が最優先。狼が戦闘不能になっている今が、逃げるチャンスだ。

 解答を言い切ったら、シドはクルリと体の向きを変えてスキップ混じりの走り方で逃走。


「おぉ、おおお!!!やった、できたぜ!俺一人でも!やっぱやればできんじゃん!」


 自分を褒めて、褒めまくって自画自賛。

 これくらいは許してくれ。自分一人でなんとかやり遂げたんだから。あとは今の功績が夢じゃないことを必死に祈るのみ。ちょっぴり、自信がついた気がする。過去の自分に見せてやりたいくらい。

 学校で、周りの生徒に実力を追い越されて自信を無くし、下を向いていた自分に。


「——なんだ、できんじゃん俺!やるじゃん!ハハッ!」

 

 なんだ。周りからの褒め言葉を待つなんかより、自分で自分を褒めた方が手っ取り早いじゃないか。


 俺は確かに弱い。魔法の力は弱い。けれど、ちゃんと体は動く。誰かの役に立とうと行動することができるし、しっかり頭で考えることもできる。勉強面では役に立たないが、俺にだってできることは沢山あったじゃないか。


 ここから変われる気がする。帰ったら家族に感謝を伝えた後、もう一度魔法と向き合ってみよう。今度は、周りから褒められることを目標にするんじゃなくて、

 もっとちゃんと——




 


「おえッ——」

 

 


 胃の中から酸を吐き出し、ビシャビシャと地面に落とす。酸が通った喉は、傷を負った左腕は、アザだらけの体は、シドから立ち上がる力を奪っていった。


「なん、で——」


 膝から崩れ落ち、両手を地面に付けて、息を荒くする。先程まであった高揚感はどこへ消えたのか。顔を真っ青に染めたシドは、ただただ困惑を続けている。

 更に。


「ぶっ殺してやる……ぶっ殺してやる……!よくも、オレ様の目をォオオ……!!オォイ!」


「マジかよ……!!」


 森は、狼は、決してシドを逃がさないようだ。狼との戦闘で頭から抜けていたが、この森は最初入った時から味方ではなかった。

 森はシドに謎の方法で不快感を増幅させ、狼は血だらけの瞼を押さえつけながら、匂いを辿ってシドを追う。

 

 気持ち悪さがシドの四肢を震わせて、思うように動かせない。こちらは満身創痍。果物ナイフはもう手元に無い。残る術は——


 "魔法"だけ。



「くっ……やるしか……!」


 朦朧とする視界の中で、シドは両手を顔の前に翳して魔力を込め始めた。

 覚悟を決めろ。

 自分の魔法は力が弱いなんて言ってる場合じゃない。何かしなかったら殺される。


 帰る、帰るんだよ、俺は……!


「我、この世における栄光なる輝きを元に——」


 魔力を具現化させ、直径1m程度の魔法陣を展開し、詠唱。

 狼へ目眩しに使った、ただ強い光を放つ魔法は、魔法陣、詠唱無しでも出せるが、今の狼は目をつぶっていて"目眩し"なんて関係ないし、何より攻撃に特化しているわけじゃない。なら、別の攻撃に特化した魔法を放つしかない。


 集中して、狙いを狼に定めて、魔力を込め、詠唱を。その魔法でも倒せなくてもいい。また少しでも逃げることができれば、森から出ることができればそれでいい。

 

 これから、ちゃんと魔法と向き合うと決めたんだ。

 やってやる、やってやる。やれる。


 なのに——


 バキン


「は?」


 音が鳴りシドの魔法陣は割れた。魔力を失った魔法陣はガラスの破片のように砕け、静かに落ち、消える。

 狼の爪で裂かれてない。魔法陣を展開することは初歩的な行為だ。いくら弱いシドであっても、魔法陣展開くらいはガキの頃からやってる。じゃあ、なんで。


「なんで、こんな時に……?」



 魔法が使えないんだよ。

 なんで、なんでなんでなんでなんで、なんで。

 さっきはちゃんとできたじゃないか。

 なんで、なんでだよ。


 自信が、消えていく。

 何も分からない。原因がわからない。ここまでやったって言うのに、何も、できなくなる。


 狼の足音が近づく。森が不快感を誘う。全方向から死が迫る。味方はいない。誰もいない。独りだ。


「なんで——」


 どうして。










「——空気中魔素の過剰摂取だ。この森は"そういう森"だからな」



「え?」


 シドは、脳内に直接響くような心地良さを感じさせる声を聞き、後ろを振り返ると、少女が立っていた。


 月面のような色を宿した、美しい灰白色の長い髪を靡かせ、神が作り上げたような美しい顔を向け、シドと目を合わせる。

 本当に美しい少女だ。無表情が凛々しさを引き立たせ、より一層この世の者であるのか疑ってしまうほど。


 シドは知っている。その少女が誰なのか、知っている。

 シドを誘拐し、人生に恐怖を植え付けた最悪の殺人鬼。



 ——カルディラ。


「帰りたいんだろ?立て」

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