第9話 まだ、共に
二つの魂が、ほんのわずかにグレイの魔力へ触れ返した。
錯覚ではなかった。
ライアンの手を握る右手と、ライカの手を包む左手。そのどちらからも、肉体に残った魔力とは異なる微かな感触が伝わってくる。
弱い。
今にも途切れてしまいそうなほどに。
けれど、確かにそこにいる。
「……ライアン」
呼びかける。
「ライカ」
返事はない。
冷たくなり始めた身体は動かない。
それでも、グレイの魔力に触れた二つの何かだけが、かすかに揺れた。
グレイは俯いたまま目を閉じる。
感覚を研ぎ澄ませた。
血の匂い。
風の音。
遠くで燃えている木材が爆ぜる音。
すべてが邪魔だった。
意識を切り離すように、一つずつ遠ざけていく。
残すのは、自分と二人だけ。
ユニークスキルを使う時に感じる、馴染み深い魔力の糸。
これまで何度も触れてきた。
父を。
母を。
家臣たちを。
騎士を。
侍女を。
料理人を。
失った者たちを、この世界から完全に消したくなくて手を伸ばした。
記憶を拾った。
残った魔力を繋いだ。
身体に刻まれていた癖まで探し、人形という新しい器へ移した。
だから知っている。
今、指先へ触れているものは、それらのどれとも違う。
もっと深い。
記憶よりも。
魔力よりも。
身体よりも。
その人が、その人であるための中心。
「……これが」
グレイの唇が小さく動く。
「魂……」
今まで知らなかった。
あるのかどうかさえ考えたことがなかった。
けれど今は分かる。
ライアンとライカが死んだことで、肉体との結び付きが解けようとしている。
このまま何もしなければ、やがて完全に離れていく。
どこへ行くのか。
その先に何があるのか。
グレイには分からない。
分からないからこそ、怖かった。
「待ってくれ……」
魔力の糸を伸ばす。
触れる。
だが、掴もうとした瞬間、魂がわずかに遠ざかった。
「っ……」
グレイは慌てて力を緩めた。
違う。
強引に縛るものではない。
人形を操る時のように、魔力で掴んではいけない。
そう感じた。
グレイは呼吸を整える。
胸の奥には、まだ怒りが残っている。
広場を埋め尽くしていた人々。
二人へ石を投げた者。
罵った者。
実兄を褒め称えた者。
武器を向けてきた騎士。
全部。
消した。
自分が。
その事実を考える余裕は、まだなかった。
今はただ。
二人を失いたくない。
それだけだった。
「……俺の声、聞こえてるか」
問いかける。
魂が微かに揺れる。
グレイの喉が震えた。
「聞こえてるなら……」
そこで言葉が止まった。
何を言えばいい。
戻ってこい。
命令すればいいのか。
自分は真祖だ。
人形を作れる。
死者すら形として残せる。
なら。
力で繋ぎ止めれば。
「…………」
できるかもしれない。
けれど。
それは違う。
ライアンとライカは、自分の所有物ではない。
友達だ。
自分が一緒にいたいからという理由だけで、死んだ二人を勝手に縛っていいのか。
答えは出なかった。
グレイは二人の手を握ったまま、俯く。
「……ずるいよな」
声が掠れる。
「死んだ奴に聞いても、返事できないのに」
ライアンなら、こういう時に何と言うだろう。
『姫さん、急に重い話するっスねぇ』
きっと軽口を叩く。
ライカなら。
『にーちゃん。少しくらい真面目に答えやがってください』
そんなふうに呆れる。
簡単に想像できた。
それが余計に苦しい。
「俺は……」
グレイはライアンの手を少し強く握った。
「お前らと、まだ一緒にいたい」
ライカの手も。
「でも」
一度、息を呑む。
「俺がそう思ってるだけなら……駄目だ」
自分が失いたくないから。
それだけで家族を人形へした。
あの時は考える余裕などなかった。
国が滅び。
父も母も。
知っている人間が次々に死んだ。
幼い自分は、ただ嫌だと叫んだ。
消えないでほしいと願った。
だから人形へ変えた。
今も後悔しているわけではない。
母は母だ。
家臣たちも変わらない。
グレイにとって大切な家族であることに疑いはない。
けれど。
今、自分が触れているものが本当に魂なのだとしたら。
話は違う。
これは記憶ではない。
再現でもない。
ライアンとライカ自身だ。
「だから……」
グレイは目を閉じた。
「嫌なら、行っていい」
言葉にした瞬間、胸の奥が締め付けられた。
本当は行ってほしくない。
絶対に。
それでも言う。
「どこに行くのか知らないけど……俺が邪魔することじゃないなら、行っていい」
涙が落ちる。
「ただ」
握った手を離せなかった。
「もし」
声が震える。
「お前らも……」
ライアン。
ライカ。
三人で買った鍋。
焚き火を囲んだ夜。
釣り糸を垂らした川。
ライアンが一匹も釣れず、ライカが呆れていた顔。
知らない料理を食べた時。
自分が吸血鬼だと告げた夜。
二人は逃げなかった。
化け物とも言わなかった。
母に会いたいと言ってくれた。
故郷へ行きたいと言った。
「俺と」
喉の奥から、ようやく言葉を押し出す。
「まだ旅したいって思ってくれてるなら」
魔力の糸を開く。
縛らない。
引かない。
ただ。
二人へ差し出す。
「……戻ってきてくれ」
風が吹いた。
銀髪が揺れる。
返事はない。
グレイは待った。
一秒。
二秒。
それがどれほど長く感じられたか分からない。
やがて。
右手。
ライアンの魂が動いた。
「……っ」
グレイの魔力へ。
自ら触れる。
続いて左。
ライカも。
二つの魂から伸びた感覚が、グレイの糸へ絡む。
強引に引いたわけではない。
二人が。
選んだ。
「……馬鹿」
グレイの顔が歪む。
「本当に……馬鹿だな、お前ら」
涙を拭う余裕もなかった。
魔力を広げる。
魂を包む。
だが、そこで次の問題に気付いた。
器がない。
今の身体は死んでいる。
首は落とされ、血も大量に失われている。
このまま魂だけを留めても、長くは保てない。
なら。
作るしかない。
新しい身体を。
グレイは処刑台へ両手をついた。
「《愛おしく狂おしい人形劇》」
魔力が広がった。
血に濡れた木材。
砕けた石。
周囲に散らばった武器。
それらには触れない。
グレイが求める素材は、ここにはない。
指を動かす。
空間が開いた。
《ドールハウス》へ繋がる小さな門。
グレイ自身は入れない。
生者も入れない。
だが、物を出し入れすることはできる。
「母上」
呼びかける。
返事はすぐに来た。
『グレイ?』
声だけ。
向こう側から届く。
グレイは一瞬、言葉に詰まった。
『どうしたの?』
母の声が少しだけ強くなる。
『何かあったのね』
「……材料が欲しい」
『何を作るの?』
グレイは二人を見る。
「二人分の身体」
向こう側が静かになった。
母は何も聞かなかった。
誰の。
なぜ。
どうして。
今は必要ないと分かってくれたのだろう。
『分かったわ』
少しして。
白い素材が門の向こうから送られてくる。
魔導白磁。
旅立つ前から、人形たちの修復や改良に使ってきたもの。
魔力との親和性が高く、加工しやすい。
グレイはそれを受け取る。
「ありがとう」
『グレイ』
「ん?」
母の声が柔らかくなる。
『急がなくていいから。あなたが大切だと思う形にしてあげなさい』
グレイは唇を結んだ。
「ああ」
門を閉じる。
目の前に置かれた白磁へ魔力を通す。
形を作る。
骨格。
関節。
魔力回路。
外皮。
今までなら、残された身体を基準にすればいい。
だが今回は。
魂がある。
ライアンという存在が。
ライカという存在が。
そこにいる。
グレイは魂へ触れながら、一つずつ形を整えていく。
「ライアンは……」
背丈。
肩幅。
腕。
短剣を扱うための可動域。
軽さ。
踏み込み。
生前の身体より、ほんの少しだけ丈夫に。
けれど、動きを邪魔しない。
「お前、重い身体嫌いそうだもんな」
返事はない。
それでも魂が、ほんの少し揺れた気がした。
「文句は後で聞く」
次に。
「ライカ」
細身。
鉄扇を扱う腕。
氷魔法を流す魔力回路。
指先。
姿勢。
髪。
「髪型変えたら怒るか?」
微かな揺れ。
「……やめとくか」
グレイは鼻を啜った。
少しだけ。
笑えた。
作業を続ける。
急げば雑になる。
遅すぎれば魂が弱る。
その境目を探しながら。
グレイは集中した。
魔導白磁が形を変えていく。
白い人形。
そこへ色が宿る。
金色の髪。
獣人特有の耳。
顔。
目。
ライアン。
ライカ。
瓜二つではない。
双子であっても違う。
表情も。
立ち方も。
魔力の流れも。
グレイは知っている。
一緒に旅をしたから。
何度も見たから。
「……できた」
二体の人形が横たわっている。
眠っているように。
まだ動かない。
グレイは息を整えた。
ここからだ。
これまでは、記憶と人格を人形へ定着させていた。
今回は。
魂そのものを。
「……どうすればいい」
問いかけても答えはない。
けれど。
ユニークスキルは、自分自身の一部だ。
グレイは感覚を探る。
魂を糸で包む。
人形へ伸ばす。
胸の中心。
魔力核。
そこへ。
「ここか」
人形には心臓がない。
生物ではない。
けれど魔力を循環させる中心はある。
その中心へ、魂を置く。
違う。
置くのではない。
結ぶ。
魂と器を。
互いが離れないように。
魔力の糸を編み込む。
一重。
二重。
三重。
魂そのものを縛るのではなく。
魂が人形の身体を自分のものとして扱えるように。
神経の代わりに魔力を。
血管の代わりに回路を。
心臓の代わりに核を。
肉体と魂を繋いでいたものを、グレイの魔法で作り直す。
「……分かる」
初めてなのに。
少しずつ。
理解できる。
「こうすれば……」
ライアンの魂が、新しい身体へ触れる。
指先が。
ほんのわずかに動いた。
グレイの呼吸が止まる。
「ライアン?」
まだ目は開かない。
続いて。
ライカ。
魂を結ぶ。
魔力が流れる。
胸の核が淡く光る。
「……頼む」
グレイは二人の間に座った。
右手でライアン。
左手でライカ。
新しい手を握る。
白磁でできているはずなのに。
魔力が流れ始めたことで、少しずつ温度が変わっていく。
人間と同じではない。
それでも。
完全な冷たさではなくなった。
「戻ってこい」
魔力を送る。
「まだ終わってないだろ」
核が脈打つ。
一度。
魔力の光。
二度。
指が動く。
三度。
ライアンの胸が、呼吸を真似るようにゆっくり上下した。
必要のない動き。
人形なのだから、息をする必要はない。
それでも。
魂が身体を動かそうとしている。
「……姫……さん」
掠れた声。
グレイの瞳が大きく開く。
ライアンの瞼がゆっくり持ち上がった。
金色の瞳。
焦点が合わない。
何度か瞬きをする。
「…………」
「ライアン」
グレイが身を乗り出す。
「俺だ。分かるか」
ライアンはしばらく天井――ではなく、青空を見ていた。
次に。
グレイを見る。
「……姫さん?」
「ああ」
「なんで……泣いてるんスか」
グレイの顔が崩れた。
「お前のせいだよ……!」
ライアンが目を瞬く。
「えぇ……」
「えぇ、じゃねぇ!」
怒鳴った。
けれど。
声は途中で震えた。
「馬鹿……!」
ライアンの手を両手で握る。
「馬鹿野郎……!」
ライアンは自分の手を見る。
指を動かす。
白い。
皮膚のように見えるが、感覚が違う。
「これ……」
隣から。
「……にーちゃん、うるさいです」
二人の動きが止まった。
グレイが振り返る。
ライカの目が開いていた。
「ライカ……」
「頭に響きやがってください……」
言いながら、ゆっくり上体を起こす。
その途中で。
自分の首へ触れた。
「…………」
ライカの表情が止まる。
首。
繋がっている。
次に手を見る。
腕。
身体。
自分の胸へ触れる。
「……心臓が」
「ない」
グレイが答えた。
ライアンも胸へ手を当てる。
「……動いてないっスね」
「ああ」
しばらく。
三人とも黙った。
ライアンの記憶が戻っていく。
処刑台。
群衆。
兄。
刃。
最後に見た。
銀髪。
「俺ら」
ライアンがグレイを見る。
「死んだっスよね」
「ああ」
グレイは誤魔化さなかった。
「首を落とされた」
「やっぱり」
ライカも自分の身体を見下ろしている。
「では、この身体は」
「人形だ」
二人がグレイを見る。
「俺が作った」
グレイは拳を握った。
「……勝手に」
ライアンとライカは何も言わない。
グレイは続ける。
「死んだお前らの魂を見つけた」
「魂?」
「ああ。俺も初めて分かった。今まで作ってきた人形とは違う。お前ら自身が……そこにいた」
胸元を指す。
「だから、新しい身体を作って、魂を定着させた」
ライアンが自分の頬をつまむ。
「……痛い」
「感覚もある程度は再現してる」
「腹減るんスか?」
「知らん」
「姫さんが作ったのに?」
「初めてなんだよ!」
「そりゃそうっスよね」
ライアンが笑う。
その笑い方。
いつもの。
グレイの胸がまた痛んだ。
ライカは静かに自分の指を曲げ伸ばししていた。
やがて。
周囲を見る。
処刑台。
そして。
広場。
笑みが消えた。
「……お姫ちゃん」
グレイの肩が僅かに動く。
ライアンも気付いた。
起き上がる。
処刑台の向こうを見る。
「これ……」
声が止まった。
人が倒れている。
一人や二人ではない。
広場を埋めるほど。
壊れた石畳。
切断された武器。
焼けた建物。
血。
戦いの跡。
いや。
戦いと呼べるものだったのかも分からない。
ライアンの顔から表情が消える。
「姫さん」
「……俺がやった」
グレイは二人を見なかった。
「全部」
ライカがゆっくり立ち上がる。
まだ身体に慣れていないのか、少しふらついた。
グレイが反射的に支えようとする。
だがライカは自分で踏みとどまった。
「どうしてです」
責める声ではなかった。
だからこそ。
グレイは答えに詰まった。
「……お前らに」
拳を握る。
「石を投げた」
「はい」
「罵った」
「はい」
「反逆者って」
「聞こえていました」
「笑ってた」
グレイの声が低くなる。
「お前らが死んで。兄貴を褒めて。石投げて……」
呼吸が乱れる。
「俺は」
あの時の怒りが戻ってくる。
「許せなかった」
ライカは黙って聞いている。
「気付いたら」
グレイは広場を見る。
「こうなってた」
ライアンが目を伏せる。
「……何人っスか」
「分からない」
「分からないくらい?」
「ああ」
沈黙。
風が吹く。
血の匂いを運んでいく。
ライアンは頭を掻こうとして、手を止めた。
自分の髪の感触を確かめるように触る。
「姫さん」
「なんだ」
「それは駄目っスよ」
グレイは顔を上げた。
ライアンの表情に笑みはない。
「俺らが殺されたからって、ここにいた全員殺すのは違うっス」
「…………」
「石投げた奴もいた。罵った奴もいた。でも、何もしてない奴だっていたはずっスよ」
「……分かってる」
「本当に?」
グレイは答えられなかった。
ライアンが続ける。
「姫さんが怒ってくれたのは……嬉しいっスよ」
少しだけ。
苦い笑い。
「そこまで俺らのこと大事に思ってくれてたんだって分かるから」
グレイの指が震える。
「でも」
ライアンは広場を見る。
「これは、ありがとうって言えないっス」
「……ああ」
「俺らのためって言われても」
「分かってる」
「姫さん」
「分かってるって言ってんだろ……!」
声を荒らげた。
ライアンは黙った。
グレイの目から涙が落ちる。
「分かってるよ……」
唇を噛む。
「こんなの……お前らが喜ばないことくらい」
分かっていた。
だから。
余計に苦しい。
「でも……止まれなかった」
小さくなる。
「また、目の前で……」
父。
母。
燃える国。
あの日と重なった。
「また大事な奴が死んで……」
肩が震える。
「しかも笑ってる奴らがいて……」
ライカがグレイを見る。
「お姫ちゃん」
「……なんだよ」
「こちらを向きやがってください」
「嫌だ」
「向いてください」
「嫌だって」
「お姫ちゃん」
グレイは渋々顔を上げた。
次の瞬間。
額を指で弾かれた。
「痛っ」
反射的に額を押さえる。
「何すんだよ!」
「馬鹿なことをしたからです」
「……人形のくせに痛いぞ」
「お姫ちゃんが感覚を作りやがってくださいましたので」
「そうだけど!」
ライカは息を吐く。
そして。
グレイの前へ膝をついた。
視線を合わせる。
「怒ってくれたことは、私も嬉しいです」
「…………」
「私たちが死んで、お姫ちゃんが何も感じなかったのであれば、それは少し寂しいですから」
ライアンが横から頷く。
「かなり寂しいっスね」
「ですが」
ライカは続ける。
「怒ったから何をしてもいいわけではありません」
「……ああ」
「お姫ちゃんは強いです」
「…………」
「とても」
その言葉。
昔。
父にも似たことを言われた。
大きな力ほど。
扱い方を間違えてはいけない。
グレイは目を伏せる。
「……父上にも言われた」
「なら、忘れやがらないでください」
「うん」
短い返事。
王女でも。
真祖でもない。
叱られた少女の返事だった。
ライアンが肩を竦める。
「ま、俺らも人のこと言えないっスけどね」
ライカが振り返る。
「何がです?」
「兄上のこと。もっと早く気付けたかもしれないし、城で逃げる判断もできた」
「それとこれとは別です」
「ねーちゃん厳しいっスね」
「にーちゃんが甘すぎるだけです」
「死んだ直後くらい優しくしてくれてもよくないっスか?」
「もう死んでいます」
「それ言われると反論できないっス」
いつもの会話。
グレイは二人を見る。
ライアン。
ライカ。
本当に。
いる。
「……なあ」
二人が振り返る。
「なんで」
グレイは胸元を見る。
「戻ってきたんだ」
ライアンが首を傾げる。
「戻ってきた?」
「俺、最後に選ばせた」
魂へ手を伸ばした時。
無理に引かなかった。
「嫌なら行っていいって」
二人の表情が少し変わる。
「それでも、お前らがこっちを選んだ」
グレイは二人を見る。
「なんでだ」
ライアンとライカが顔を見合わせた。
数秒。
ライアンが吹き出した。
「何笑ってんだよ」
「いや」
笑いを堪えながら。
「姫さん、本気で聞いてるんスか?」
「本気だよ」
「ねーちゃん」
「にーちゃんから言いなさい」
「えぇ」
「こういうのはにーちゃんの役目です」
「どういう役っスか、それ」
ライアンは頭を掻く。
それから。
グレイを見る。
「まだ旅したかったからっスよ」
あまりにも。
簡単に言った。
グレイが目を瞬く。
「……それだけ?」
「それだけって」
ライアンは笑う。
「十分じゃないっスか?」
ライカも隣へ並ぶ。
「王都を案内していません」
「釣りの再戦もしてないっス」
「砂漠にも行っていません」
「姫さんの故郷も」
「お母様にも、またお会いすると言いました」
「鍋も使わないと」
「にーちゃんは料理を覚えやがってください」
「俺も?」
「当然です」
ライアンが嫌そうな顔をする。
ライカは無視した。
「それに」
グレイを見る。
「お姫ちゃん」
「ん?」
「私たちは、お姫ちゃんと旅をするのが楽しかったんです」
静かな声。
グレイは動けなかった。
「最初は心配だっただけです。一人で砂漠を越えてきた十歳くらいの子が、一人旅を続けると言うものですから」
「しかも全然言うこと聞かないっスし」
「お前らが勝手についてきたんだろ」
「そうっスね」
「ですが」
ライカが微笑む。
「途中からは違いました」
グレイも分かっていた。
いつからか。
二人はグレイを心配して同行しているのではなくなった。
三人で次の街を決めた。
三人で宿を探した。
三人で食事をした。
誰も。
いつまで一緒にいるのか聞かなくなった。
「私たちも」
ライカが続ける。
「まだ、共にいたかったんです」
グレイの瞳が揺れる。
「だから」
ライアンが笑う。
「姫さんが手ぇ伸ばしてくれたなら、そりゃ掴むっスよ」
「…………」
「まさか人形になるとは思ってなかったっスけど」
「嫌か?」
思わず聞いた。
ライアンは自分の腕を見る。
曲げる。
伸ばす。
耳を動かす。
尻尾も動かしてみる。
「うーん」
「何だよ」
「まだよく分かんないっスね」
正直な答えだった。
「死んだ実感も微妙だし、この身体がどんなもんかも分かんないし」
ライカも頷く。
「私も同じです」
グレイの顔が少し曇る。
それを見て、ライアンが笑った。
「でも」
グレイを見る。
「姫さんとまた話せてるのは、嬉しいっスよ」
ライカも。
「私もです」
そして。
「ありがとうございます、お姫ちゃん」
グレイの口が僅かに開いた。
「……俺」
何を言えばいいか分からない。
「勝手にやったんだぞ」
「知っています」
「お前らの身体まで勝手に作った」
「それも聞きました」
「しかも……」
周囲を見る。
「こんなことまでした」
「それは怒っています」
即答だった。
「うっ」
「反省しやがってください」
「……はい」
「二度と同じことをしないでください」
「……努力する」
「約束しやがってください」
グレイは少し黙った。
それから。
「ああ」
頷く。
「約束する」
ライカはようやく表情を緩めた。
ライアンが手を叩く。
「じゃ、帰るっスか」
グレイが振り返る。
「帰る?」
「宿」
「……あ」
「鍋置きっぱなしっスよね?」
「ああ」
「菓子も」
「買った」
「姫さんが?」
「悪いかよ」
「いやぁ」
ライアンがにやつく。
「俺らの分?」
「……ついでだ」
「絶対嘘っスね」
「うるさい」
ライカが二人の間へ入る。
「その前に」
広場を見る。
「ここから離れなければなりません」
空気が変わった。
グレイも理解している。
これだけのことをした。
国の中心。
王都の中央広場。
王族の公開処刑。
そこへ乱入し。
大量の人間を殺した。
この国に残れるはずがない。
「追手も来るでしょう」
ライカが言う。
「兄上がどう動くかも分かりません」
ライアンの表情が曇る。
「兄上……」
グレイは二人を見る。
「殺すか?」
「やめてください」
ライカが即座に止めた。
「即答だな」
「当たり前です」
「でも、あいつが」
「それでもです」
ライカの声は静かだった。
「兄上がしたことを許したわけではありません」
ライアンも頷く。
「俺ら殺されてるっスからね」
「ですが」
ライカは王城を見る。
「お姫ちゃんに殺してほしいわけではありません」
グレイは黙る。
「私たちの家族です」
その一言で。
グレイは何も言えなくなった。
家族。
その意味を。
自分は誰より知っている。
「……分かった」
「ありがとうございます」
「でも」
グレイは王城を睨む。
「またお前らに何かしようとしたら、その時は知らないぞ」
「その時は自分たちで殴るっスよ」
ライアンが笑う。
「ねーちゃんが鉄扇で」
「にーちゃんを先に殴ります」
「なんで!?」
「話をややこしくするからです」
「まだ何もしてないっスよ!」
グレイの口元が。
少しだけ。
上がった。
「……帰ろう」
今度は。
その言葉を言えた。
三人で。
処刑台を降りる。
ライアンとライカはまだ新しい身体に慣れていない。
歩幅が微妙に合わない。
ライアンは一度つまずきかけ。
ライカは尻尾の感覚に戸惑っている。
「お前ら、歩くの下手になったな」
「生まれたてっスからね」
「二十五歳です」
「身体は生まれたてじゃないっスか」
「言われてみればそうですね」
「納得すんのかよ」
グレイは呆れながら。
二人の間を歩いた。
広場を出る前。
ライアンが一度だけ振り返った。
自分たちが死んだ場所。
自分たちの国。
生まれ育った王都。
ライカも隣で足を止める。
「……ねーちゃん」
「はい」
「戻ってこられるっスかね」
ライカはすぐには答えなかった。
長い時間。
王城を見る。
「分かりません」
正直に答える。
「ですが」
隣を見る。
「生きていれば、いつか選べます」
ライアンは自分の胸へ触れた。
心臓は動いていない。
「生きてるって言っていいんスかね、俺ら」
ライカも少し考える。
「少なくとも」
グレイを見る。
「旅はできます」
「それで十分っスね」
二人は王都へ背を向けた。
◇
宿へ戻った頃には、陽が傾き始めていた。
街にも既に王都で起きた異変の噂が届き始めている。
グレイは外套のフードを深く被り、ライアンとライカにも目立たない格好をさせた。
宿の主人に怪しまれないよう、二人は少し離れて待つ。
部屋へ戻る。
朝と同じ。
卓上。
焼き菓子。
鍋。
グレイはそれを見て、しばらく動かなかった。
朝。
ここで。
今日くらい帰ってくるだろうと思っていた。
本当に。
帰ってきた。
形は。
想像していたものとは大きく違ったけれど。
扉が開く。
「姫さん」
ライアンが入ってくる。
続いてライカ。
「勝手に入るなよ」
「俺らの部屋でもあったじゃないっスか」
「今朝まではな」
「冷たいっスねぇ」
ライカが卓上を見る。
「鍋」
「ああ」
「本当に置いてありましたね」
「言っただろ」
ライアンが焼き菓子を見つける。
「あ」
「触るな」
「俺らの分じゃないんスか?」
「母上の分もあるんだよ」
「じゃあ俺のどれ?」
「知らん。適当に食え」
「いただきます」
「早い!」
ライアンが包みを開く。
一つ取る。
口へ入れる。
三人が止まった。
「…………」
ライアンが噛む。
もう一度。
首を傾げる。
「味する?」
グレイが聞く。
「するっス」
「本当か?」
「甘い」
ライアンの顔が明るくなる。
「普通に食えるっスよ!」
「うるさいです」
ライカも一つ取る。
小さく齧る。
「……本当ですね」
「腹は?」
「分かんないっス」
「満腹になるんでしょうか」
「今後確認だな」
グレイも一つ取った。
三人で。
食べる。
昨日。
そうするつもりで買った菓子。
誰も。
しばらく話さなかった。
ただ甘い。
それだけでよかった。
やがて。
ライアンが鍋を見る。
「姫さん」
「なんだ」
「これ、持ってくっスよね」
グレイは鍋を見る。
「……ああ」
「次どこ行くんスか?」
何気ない問い。
グレイは少し驚いた。
「もう行く気なのか」
「だって、この国いられないっスよ」
「それはそうだが」
「なら次決めないと」
ライカも頷く。
「できるだけ早く国境を越えた方がいいでしょう」
グレイは二人を見る。
「……お前ら」
「はい?」
「俺についてくるのか?」
ライアンとライカが顔を見合わせる。
「何言ってんスか?」
「いや」
「姫さんが戻したんじゃないっスか」
「そうだけど」
「まだ共にいてくれ、って」
グレイの顔が赤くなる。
「……聞こえてたのかよ」
「なんとなく?」
「全部ではありません」
ライカが補足する。
「ただ、お姫ちゃんが呼んでいることは分かりました」
「忘れろ」
「無理っスね」
「忘れやがりません」
「お前ら……」
グレイは額を押さえた。
少しして。
ライアンが椅子から立つ。
片膝をついた。
「何してんだ?」
「いや」
いつもの軽い笑み。
けれど。
少しだけ真面目だった。
「せっかく新しい身体もらったんで」
グレイを見る。
「これからもよろしく頼むっスよ、姫さん」
ライカも。
隣へ立つ。
片膝をつくようなことはしなかった。
代わりに。
いつものように腰へ手を当てる。
「にーちゃんだけ格好つけやがってください」
「いいじゃないっスか」
「私たちは友人でしょう」
ライアンが瞬く。
「あれ、従者とかそういう流れじゃないんスか?」
「誰が決めたんです」
「雰囲気?」
「馬鹿ですか」
「酷い」
グレイは二人を見る。
「……従者」
その言葉を口の中で転がす。
家族。
友達。
人形。
どれか一つだけでは足りない。
ライアンとライカは。
自分で出会った。
自分で大切になった。
失って。
それでも。
互いに、まだ共にいることを選んだ。
「どっちでもいい」
グレイは言った。
二人が見る。
「俺にとっては」
少しだけ迷って。
でも。
今度は言えた。
「家族みたいなもんだから」
ライアンの目が丸くなる。
ライカも。
「……姫さん」
「なんだよ」
「それ、結構恥ずかしいっスよ」
「殺すぞ」
「もう死んでるっス」
「もう一回人形に作り直すぞ!」
「怖っ!」
ライカが口元を押さえる。
小さく笑っていた。
「お姫ちゃん」
「なんだ」
「ありがとうございます」
「……何回言うんだよ」
「何度でも」
ライカは静かに答えた。
「この身体を、ではありません」
自分の胸へ手を置く。
「まだ一緒にいたいと、そう思ってくれたことにです」
グレイは目を逸らした。
「……俺も」
窓の外を見る。
夕暮れ。
街が橙色に染まっている。
「戻ってきてくれて、ありがとな」
それ以上は言わなかった。
ライアンも。
ライカも。
何も返さなかった。
その必要がなかった。
◇
日が沈む前に。
三人は街を出た。
荷物は少ない。
鍋はライアンが持っている。
「なんでまた俺なんスか」
「元々お前が持ってただろ」
「一回死んだんだからリセットじゃないっスか?」
「何がリセットだ」
「にーちゃん。黙って持ちやがってください」
「ねーちゃんも持ってよ」
「嫌です」
「理不尽!」
先を歩くグレイの背中へ。
二人の声が届く。
思わず。
口元が緩んだ。
「うるさいぞ」
「姫さんが持ってくれるなら静かになるっスよ」
「断る」
「即答!」
三人は街道を外れる。
追手を避けるため、しばらく人通りの少ない道を進むことになる。
国境まではまだ遠い。
夜になれば。
きっと野営する。
鍋を使うかもしれない。
ライカに料理を教わる。
ライアンは何か失敗するだろう。
それを三人で笑う。
そんな。
昨日までなら当たり前だった時間。
今は。
もう一度与えられた時間になった。
グレイは立ち止まる。
振り返った。
遠く。
夕焼けの向こうに、獣人の国の王都がある。
ライアンとライカの故郷。
グレイにとって。
二人と出会った国。
そして。
二人を一度失った国。
「姫さん?」
ライアンが隣へ来る。
「どうしました?」
ライカも。
グレイはしばらく王都の方角を見ていた。
やがて。
前を向く。
「行こう」
「どこへ?」
ライアンが聞く。
グレイは少し考えた。
まだ決めていない。
世界は広い。
砂漠の向こうにも。
この国のさらに向こうにも。
知らない場所がある。
「とりあえず」
歩き出す。
「この国の外」
「雑っスねぇ」
「追われてんだから仕方ないだろ」
「誰のせいですか」
ライカの一言。
グレイが黙る。
「……俺です」
「分かればよろしいです」
「ねーちゃん強いっスね」
「お前も何か言えよ」
「俺、姫さんに殺されたくないんで」
「もう死んでるだろ」
「そうだった」
三人の声が。
夕暮れの街道へ続いていく。
グレイは前を歩く。
少し後ろにライアン。
その隣にライカ。
最初に出会った頃と。
それほど変わらない。
ただ。
確かに変わったものもある。
ライアンとライカの胸には、もう心臓はない。
流れる血もない。
それでも。
二人は自分の足で歩いている。
自分の意思で笑っている。
自分の意思で。
グレイと共にいる。
グレイはそれを。
人形だからとは思わなかった。
従者だからとも。
ただ。
家族が増えた。
それでよかった。
「姫さん」
「なんだ」
「次、川あったら釣りするっスよ」
「いいぞ」
「今度は負けないっスから」
「一匹も釣れなかった奴がよく言うな」
「今回は身体も新しくなったんで」
「関係あるか?」
「あるかもしれないっス」
「ありません」
ライカが切り捨てる。
「ねーちゃん!」
「釣りの腕まで人形にしてもらえばよかったですね」
「姫さん、今から追加できる?」
「できてもやらん」
「そんなぁ」
笑い声。
グレイは空を見る。
夕焼けはもう薄れ。
東の空から夜が広がり始めていた。
旅は終わらない。
一度。
途切れた。
確かに。
二人の命は、あの処刑台で終わった。
それをなかったことにはできない。
グレイがどれほど強くなっても。
人形をどれほど精巧に作れても。
死そのものを消すことはできない。
けれど。
それでも。
まだ共に歩きたいと願う者がいるのなら。
その想いまで。
手放す必要はない。
グレイは少しだけ歩調を緩めた。
後ろを歩いていた二人が追いつく。
自然と。
三人が横に並ぶ。
「なあ」
「なんスか?」
「何でしょう」
グレイは前を見たまま言った。
「次の国でも」
一度だけ。
息を吸う。
「一緒に来るか?」
ライアンは一瞬きょとんとして。
すぐに笑った。
「何言ってんスか、姫さん」
ライカも呆れたように息を吐く。
「今さら聞きやがってください」
二人はそのまま歩いていく。
グレイは少し遅れて。
それから。
二人の間へ戻った。
三人分の足音が。
夜へ向かう道に重なる。
もう一度。
旅が始まった。




