第8話 金獅子の最期
朝になっても、二人は戻ってこなかった。
窓の外では、昨日と変わらない街の朝が始まっている。
石畳を行き交う荷車の車輪が、乾いた音を立てていた。宿の向かいではパン屋が店先の木戸を開き、焼きたてのパンの匂いが通りへ流れている。少し離れた市場からは、朝一番の客を呼び込む威勢のいい声も聞こえてきた。
グレイは窓辺に腰掛けたまま、その景色を眺めていた。
卓上には、昨日買った焼き菓子の包みがある。
自分の分。
母の分。
それから、ライアンとライカが戻ってきたら一緒に食べるつもりで買ったもの。
その隣には、三人で選んだ鍋が置かれていた。
「……遅いな」
小さく呟く。
昨日までは、それほど気にならなかった。
王家の用事だ。
予定より少しくらい延びることもあるだろう。
ライアンは「すぐ戻るっスよ」と笑っていたし、ライカも王都での用事が終われば戻ると言っていた。
だから待っていた。
グレイにとって、一日や二日という時間はそれほど長いものではない。
それなのに。
妙に長く感じた。
窓枠へ預けていた頬を離し、卓上の包みを見る。
昨日と同じ場所。
当然だ。
誰も開けていないのだから。
「……菓子、悪くならないよな」
保存が利くものを選んだ。
店主にもそう聞いた。
だから数日は問題ない。
分かっているのに、そんなことを考えている自分がおかしくて、グレイは小さく鼻から息を抜いた。
「何やってんだ、俺」
待つと言ったのは自分だ。
なら、待てばいい。
ライアンたちは王族なのだ。
自分のように、気が向いたから次の街へ行く、というわけにはいかない。
父王との話もある。
王位継承の話もある。
兄とも会うだろう。
久しぶりに帰ったのだから、城の者たちに捕まっている可能性だってある。
ライアンなら、宴会にでも巻き込まれているかもしれない。
『姫さん、王都の酒って結構うまいんスよ』
そんなことを言いながら、悪びれもせず戻ってくる姿が浮かんだ。
グレイは眉を寄せる。
「……酒飲んで遅れてたら、一発殴る」
ライカなら止めるだろう。
いや。
『にーちゃん。お姫ちゃんを待たせて酒を飲みやがってくださいましたね?』
あの独特な言葉遣いで、先に殴っているかもしれない。
想像すると、少しだけ口元が緩んだ。
その時だった。
宿の下から、何かが落ちるような音がした。
続いて、慌ただしい足音。
誰かが駆け込んできたらしい。
グレイは窓の外から視線を外した。
階下が騒がしい。
最初は気に留めなかった。
宿屋なのだから、朝から客が出入りすることくらいある。
だが、聞こえてきた言葉に耳が止まった。
「――王子と王女が?」
グレイの指先が、窓枠の上で止まった。
意識を向ける。
真祖となってから、五感は人間だった頃とは比べものにならないほど鋭くなっている。
一階の食堂。
宿の主人と、駆け込んできた男。
距離があっても声を拾える。
「本当だって! 王都から来た商隊が言ってた! 昨日、城の前にも告示が出たらしい!」
「でも、あのお二人だぞ?」
「だからみんな騒いでるんだよ!」
椅子が鳴った。
「国に背いたって……」
その言葉だけが、妙にはっきり聞こえた。
グレイは動かなかった。
聞き間違いかと思った。
だが、続いた名前がそれを許さなかった。
「ライアン王子と、ライカ王女だ」
窓辺から足を下ろす。
床へ靴底が触れた。
「……は?」
声が、自分でも驚くほど低かった。
階下の会話は続いている。
「旅の途中で国の内情を探ってたとか、地方の連中を味方につけようとしてたとか……」
「そんな馬鹿な。あの二人は、各地を見て回ってただけじゃないのか?」
「俺に聞くなよ。ただ、王家が正式に発表したんだぞ」
「王は?」
「知らん。そこまでは」
「処分は?」
一瞬、会話が途切れた。
グレイは無意識に息を止めていた。
男の声が、少し小さくなる。
「……今日、裁きがあるらしい」
グレイは扉へ向かった。
焼き菓子も。
鍋も。
そのまま残した。
階段を下りる。
一段。
二段。
足取りは速くない。
だが、食堂へ入った時、宿の主人が驚いたように振り返った。
「あれ、お嬢ちゃん。どうした?」
「今の話」
「え?」
「ライアンとライカの話だ」
食堂にいた数人の視線が集まる。
普段なら気にならない。
今はどうでもよかった。
「どこで聞いた」
「いや……王都から来た商人が――」
「そいつはどこにいる」
宿の主人が口を閉じた。
グレイの声に何かを感じ取ったのだろう。
隣にいた旅装の男が答えた。
「西門近くの広場だ。商隊が休んでる。けど嬢ちゃん、知り合いなのか?」
「ああ」
それだけ答えて、グレイは宿を出た。
朝の光が眩しい。
通りにはいつも通り人がいる。
パンを買う者。
荷物を運ぶ者。
店を開ける者。
子供の手を引く母親。
昨日と同じ街。
なのに、耳へ入ってくる声だけが違った。
「王子たちが――」
「反逆だって」
「処刑になるんじゃないか?」
「まさか」
「でも王家の発表だろ?」
グレイは歩く。
少しずつ速くなる。
西門へ向かう途中、掲示板の前に人だかりができていた。
足が止まる。
紙が貼られている。
王都から届いたものを、この街でも掲示したらしい。
人の隙間から文字を読む。
金獅子の王家。
王子ライアン。
王女ライカ。
国家への反逆。
王家への背信。
裁き。
文章は堅苦しかった。
けれど、意味は分かった。
「……ふざけんな」
隣にいた男が振り返った。
グレイは気にしない。
紙を睨む。
二人が何をしていたのか、自分は知っている。
国を歩いていた。
町を見ていた。
村人と話していた。
困っている者がいれば手を貸していた。
魔物が出れば戦っていた。
夜になれば、その日に見たことを二人で話していた。
王になるため。
王にならなくても、国を支えられる者になるため。
あの二人は、自分の足で国を知ろうとしていた。
それを。
反逆?
「……違う」
思わず漏れた。
グレイは人混みを抜ける。
商隊を探す必要はなくなった。
王都へ行けばいい。
直接、二人に会う。
何が起きているのか聞く。
必要なら連れ出す。
それだけだ。
街の外へ出る。
人目が途切れたところで、グレイは空間へ意識を伸ばした。
王都の位置は知っている。
二人と別れた時に確認している。
まだ今の自分は、遠距離転移を自在に扱えるほど空間魔法を極めてはいない。
だが。
距離を縮めることならできる。
「待ってろ」
空間が歪む。
「今行く」
グレイの姿が消えた。
◇
石壁から染み込む冷気が、夜を越えても牢の中に残っていた。
ライアンは壁へ背を預けたまま、天井を見ていた。
小さな明かり取りから、わずかに朝の光が差し込んでいる。
「朝っスか」
「みたいですね」
隣の牢からライカの声が返る。
眠れてはいない。
それでも、互いに声を聞くだけで少し落ち着いた。
「姫さん、待ってるっスよね」
「待っているでしょうね」
「怒ってるかな」
「怒ってるでしょうね」
「即答っスね」
「当たり前です。にーちゃんが戻ると言いやがってくださいましたので」
「ねーちゃんも言ったっスよ」
「私はにーちゃんほど軽々しく言っていません」
「同じようなもんじゃないっスか?」
「違います」
いつもと変わらない。
そんな会話をしていると、ここが地下牢だということを一瞬だけ忘れられた。
ライアンは膝を立てる。
「鍋、宿に置きっぱなしっスね」
「お姫ちゃんが持っていくでしょう」
「いやぁ、姫さん料理できないじゃないっスか」
「だから教える約束だったでしょう」
「ねーちゃんが?」
「三人で、です」
鉄格子の向こう。
薄暗い通路。
そこに誰かの足音が響いた。
二人の会話が止まる。
複数人。
鎧の音。
鍵束が擦れる金属音。
ライアンが立ち上がる。
ライカも隣で動いた気配がした。
騎士たちが現れる。
見知った顔もいた。
城にいた頃、何度も訓練をした者。
幼い頃から知っている者。
だが、誰も二人と目を合わせない。
「ライアン殿下。ライカ殿下」
一人が告げる。
「王家の裁定が下りました」
ライアンの表情から笑みが消えた。
「父上は?」
返事はない。
ライカの声が続く。
「父上に会わせやがってください。裁定が下ったのであれば、なおさら直接確認します」
「……できません」
「なぜです」
「命令です」
「誰の?」
騎士は黙る。
ライカが鉄格子へ近づいた。
「兄上ですか」
誰も答えない。
その沈黙で十分だった。
「裁定の内容は?」
ライアンが聞く。
騎士の喉が動いた。
言いたくない。
そんな顔だった。
だが、命令を伝える者として逃げることもできない。
「王家への反逆、および国家転覆を企てた罪により――」
わずかな間。
「両名を、本日正午、処刑するとの裁定です」
牢の中から音が消えた。
ライアンは何も言わなかった。
ライカも。
ただ、遠くで水滴の落ちる音がした。
一度。
二度。
三度。
「……今日?」
ライアンが聞いた。
「はい」
「随分、急っスね」
笑おうとした。
けれど、いつもの調子にはならなかった。
「裁判もなし?」
「……既に審議は終了したと」
「俺ら抜きで?」
「はい」
「父上も?」
騎士は答えない。
ライアンは目を閉じた。
「そうっスか」
それ以上、聞かなかった。
聞いたところで、この騎士から答えが出るとは思えない。
ライカが静かに尋ねる。
「処刑はどこです」
「中央広場です」
「公開処刑ですか」
「……はい」
ライカは鉄格子を握った。
指に力が入る。
「私たちを殺すだけでは足りないようですね」
「ねーちゃん」
「分かっています」
低く息を吐く。
怒りに任せて暴れても意味がない。
今ならまだ、牢を破ること自体はできるかもしれない。
武器はない。
魔力も封じる拘束具を付けられている。
それでも二人なら、看守の数人程度はどうにかできる。
だが、城から逃げれば。
それこそ反逆者だ。
何より。
父がどうなっているのか分からない。
「……最後に、父上へ会わせてください」
ライカが言った。
騎士は俯いた。
「申し訳ありません」
「なら、兄上でも構いません」
「それも……」
「そうですか」
ライカの手が鉄格子から離れる。
「では、一つだけ」
騎士が顔を上げた。
「王都の外に、私たちを待っている子がいます」
ライアンが隣の牢を見る。
「十歳ほどの銀髪の女の子です。グレイという名前です」
騎士の表情が揺れた。
「その子へ、私たちが戻れないと――」
「ねーちゃん」
ライアンが遮った。
ライカが黙る。
「それ、言わなくていいっスよ」
「にーちゃん」
「戻れないって伝えたら、姫さん待たなくなるじゃないっスか」
「……何を言っているんです」
「だって」
ライアンは壁へ背を預けた。
無理に笑う。
「約束したじゃないっスか」
三人で。
また釣りをする。
砂漠へ行く。
グレイの故郷を見る。
鍋を使う。
料理をする。
王都の菓子を買う。
まだ何一つ終わっていない。
「だから、戻れないなんて言いたくないっス」
ライカはしばらく何も言わなかった。
「……馬鹿ですね」
「知ってるっス」
「本当に、馬鹿です」
「ねーちゃんにだけは言われたくないっスね」
ライカは目を閉じた。
「では、訂正します」
騎士へ向き直る。
「何も伝えなくて結構です」
「……しかし」
「お願いします」
騎士は唇を噛んだ。
やがて、深く頭を下げる。
「……承知しました」
足音が遠ざかっていく。
牢に静けさが戻った。
ライアンは天井を見る。
「姫さん、何してるかな」
「待っているでしょう」
「菓子買ってたりして」
「あり得ますね」
「母ちゃんの分も頼まれてたっスよ」
「買えませんでしたね」
「……そうっスね」
初めて。
その言葉に、二人とも続けられなかった。
◇
王都が見えた。
グレイは丘の上で一度足を止めた。
高い城壁。
その向こうに王城がある。
ライアンとライカが生まれた場所。
いつか案内すると言っていた街。
『姫さん、王都来たら俺が案内するっスよ』
『にーちゃんに任せると酒場ばかり連れていきますので、私が案内しやがってください』
『ねーちゃん、それ案内するの自分じゃないっスか』
聞いた時は笑った。
今は笑えない。
城門へ近づくにつれ、人の数が増えていく。
妙に多い。
しかも、皆が同じ方向へ向かっている。
中央広場。
グレイは足を速めた。
門を抜ける。
街の空気がおかしい。
祭りのように人が集まっているのに、楽しげではない。
噂話。
怒声。
好奇の視線。
それらが混ざっている。
「今日だってよ」
「反逆者の処刑だ」
「王子様と王女様がねぇ」
「兄君が見抜いたらしいぞ」
「やっぱり次の王は――」
グレイの足が止まりかける。
処刑。
その言葉を、頭が一度拒んだ。
「……いつだ」
近くの男の腕を掴む。
「うわっ!?」
「処刑はいつだ」
「な、なんだよ嬢ちゃん!」
「答えろ」
深紅が、ほんの一瞬だけ瞳の奥に滲んだ。
男の顔から血の気が引く。
「しょ、正午だ! 中央広場で……!」
「正午」
太陽を見る。
高い。
鐘楼を見る。
時間を計る。
まだ。
まだ間に合う。
グレイは男の腕を離した。
「悪い」
走り出す。
人の流れを逆らう必要はなかった。
全員が中央広場へ向かっている。
だからこそ進めない。
「邪魔だ……!」
肩がぶつかる。
小さな身体では、人波に呑まれる。
転移。
使おうとして、止める。
王都の内部構造を知らない。
中央広場の正確な位置も見えていない。
空間を誤れば建物の中へ出る。
上へ。
グレイは路地へ飛び込み、壁を蹴った。
屋根へ上がる。
視界が開ける。
王城。
大通り。
そして。
人が異常なほど集まっている広場。
「あそこか」
空間を折る。
屋根から屋根へ。
一度。
二度。
三度。
魔力が削れる。
構わない。
「待ってろ……!」
もっと速く。
もっと。
距離が縮まる。
◇
正午を告げる鐘が鳴った。
ライアンは空を見上げた。
「晴れてるっスね」
「そうですね」
両手は拘束されている。
足にも鎖。
二人は騎士たちに囲まれながら、王城から中央広場へ続く道を歩いていた。
沿道には人がいる。
知っている顔もあった。
旅へ出る前、笑って送り出してくれた者。
市場で何度も話した商人。
幼い頃に菓子をくれた老婆。
騎士の訓練を見に来ていた子供。
皆がいる。
けれど。
「裏切り者!」
誰かが叫んだ。
石が飛んできた。
ライアンの肩へ当たる。
小さな石だった。
痛みはほとんどない。
それより、投げた相手の顔の方が痛かった。
「国を売ろうとしたんだろ!」
「恥知らず!」
「王家の面汚し!」
声が増える。
ライカは前を向いていた。
「にーちゃん」
「大丈夫っス」
「聞いていません」
「じゃあ何っスか?」
「前を向きやがってください」
「……はいはい」
ライアンも前を見る。
中央広場。
高く作られた処刑台。
その奥。
王族用に設けられた席に、兄がいる。
父はいない。
最後まで。
姿を見せなかった。
ライカの目が細くなる。
「父上……」
その声は、群衆の喧騒に消えた。
二人は処刑台へ上げられる。
広場を埋め尽くす人々。
その数を見て、ライアンは乾いた笑いを漏らした。
「人気者っスね、俺ら」
「笑えません」
「笑わないとやってられないっスよ」
「それはそうですね」
ライカの口元も、ほんの少しだけ動いた。
二人の罪状が読み上げられる。
旅の途中で地方勢力と接触した。
王家に無断で各地の兵力を調査した。
民心を掌握しようとした。
王位を奪うため、国家の転覆を企てた。
聞けば聞くほど。
二人がしてきた旅が、別のものへ塗り替えられていく。
村人と話した。
それが民心の掌握。
騎士団を見学した。
それが兵力の調査。
魔物討伐へ協力した。
それが地方勢力への接触。
「よく作ったっスね」
「感心している場合ですか」
「いや、ここまで来ると逆に」
「黙りやがってください」
「はい」
罪状の読み上げが終わる。
兄が立ち上がった。
広場が静かになる。
「我が弟ライアン、妹ライカが、このような道を選んだことを――兄として、心より残念に思う」
ライアンは兄を見る。
ライカも。
「……上手いっスね」
「ええ」
「泣きそうな顔してる」
「昔から演技は得意でしたから」
小声だった。
誰にも届かない。
二人だけに届けばいい。
兄の演説が続く。
国を守る。
王家を守る。
民を守る。
そのためには身内であっても裁かなければならない。
群衆から声が上がる。
「さすがだ!」
「次の王はあなたしかいない!」
「国を守ってくれ!」
ライアンは目を伏せた。
「……あーあ」
「にーちゃん」
「俺、王になりたかったわけじゃないんスけどね」
「私もです」
「兄上に言えばよかったっスかね」
「言っても聞かなかったでしょう」
「そうっスよね」
ライカが空を見る。
「お姫ちゃん、怒るでしょうね」
「そりゃもう」
「勝手に死にやがってくださいまして、くらいは言われそうです」
「姫さん、そんな喋り方しないっスよ」
「私なら言います」
「知ってる」
笑う。
小さく。
二人だけで。
処刑人が近づいてくる。
首を置くための台。
それを見た瞬間。
さすがにライアンの喉が鳴った。
怖くないわけではない。
死ぬ。
理解した途端、身体は正直だった。
指先が冷える。
心臓が速くなる。
逃げたい。
生きたい。
まだ。
やりたいことがある。
「ねーちゃん」
「はい」
「俺、まだ釣り勝ってないんスよ」
「知っています」
「砂漠も行ってない」
「ええ」
「姫さんの城も」
「行っていません」
「鍋も」
「一度しか使っていません」
「菓子も買ってない」
「そうですね」
声が震えた。
ライアンは笑おうとした。
「……やり残し、多いっスね」
「本当に」
ライカも笑った。
目元が濡れていた。
「ですから」
一度、息を吸う。
「本当は、死にたくありません」
ライアンは隣を見る。
「俺もっス」
初めて、二人は素直に言った。
死にたくない。
まだ旅をしたい。
もっと国を見たい。
父と話したい。
兄とも。
そして。
銀髪の少女のところへ帰りたい。
「……姫さん」
ライアンが呟いた。
◇
鐘が鳴った。
グレイの足が屋根の上で止まりかけた。
一度目。
二度目。
正午。
「っ……!」
空間を掴む。
距離を無理やり縮める。
視界が歪んだ。
頭の奥が痛む。
構わない。
転移。
着地。
屋根瓦が砕ける。
また転移。
「どけ!」
広場が見えた。
人。
人。
人。
その中心。
処刑台。
金色。
二人。
「――ライアン!」
声を張り上げる。
遠い。
「ライカ!」
届いたか分からない。
群衆の声に呑まれる。
もっと近くへ。
空間を――
歪める。
その瞬間。
魔力の流れが乱れた。
王都全体。
特に王城周辺へ張られた結界。
空間へ干渉する魔法が弾かれる。
「なっ……!」
転移が失敗する。
グレイは屋根を蹴った。
走る。
飛ぶ。
次の屋根へ。
「待て!」
届かない。
「待てって言ってんだろ!」
処刑台で、二人が膝をつかされる。
首が置かれる。
「やめろ……!」
グレイは屋根から飛び降りた。
群衆の後方。
人を押し退ける。
「どけ!」
「なんだ、このガキ!」
「邪魔だ!」
身体を捻る。
隙間を抜ける。
前へ。
前へ。
処刑台が見える。
ライアン。
ライカ。
生きている。
まだ。
「ライアン!」
今度は届いた。
金色の耳が動いた。
ライアンが顔を上げる。
「ライカ!」
ライカも。
二人が同時にこちらを見た。
群衆の向こう。
銀髪の少女。
息を切らして。
必死な顔で。
こちらへ向かってくる。
ライアンの目が見開かれた。
「……姫さん」
ライカの唇が震える。
「お姫ちゃん……」
来てしまった。
待っていてほしかった。
何も知らないまま。
少なくとも、こんなものは見てほしくなかった。
ライアンの顔に、最初に浮かんだのは謝罪だった。
ごめん。
戻れなかった。
約束を守れなかった。
菓子も買えなかった。
釣りの再戦も。
砂漠も。
城も。
全部。
ライカも同じだった。
眉を下げる。
申し訳なさそうに。
泣きそうな顔で。
グレイは首を振った。
「待て……!」
手を伸ばす。
「今、行くから……!」
ライアンは、その姿を見た。
そして。
ふっと笑った。
いつもの。
少し軽薄で。
けれど、どこか優しい笑顔。
唇が動く。
『姫さん』
声は聞こえない。
けれど分かった。
ライカも笑う。
穏やかに。
いつものように少し呆れたような。
姉らしい顔で。
『お姫ちゃん』
「やめろ」
グレイは走る。
「笑うな」
嫌な予感がした。
「待ってろ」
処刑人が武器を振り上げる。
「待て」
グレイの瞳が深紅へ染まる。
「やめろ」
魔力が溢れる。
「やめろ……!」
処刑人の腕が動いた。
「やめろぉぉぉぉぉっ!!」
刃が落ちた。
二つ。
ほとんど同時に。
金色が宙を舞った。
時間が止まったように見えた。
ライアンの顔。
ライカの顔。
ほんの一瞬前まで。
笑っていた。
二つの首が、処刑台へ落ちる。
鈍い音。
遅れて。
身体が崩れた。
「…………」
グレイは止まった。
伸ばした手が。
空中で止まっている。
何も掴めない。
広場に歓声が上がった。
「よくやった!」
「裏切り者め!」
「これで国も安心だ!」
「王子様万歳!」
「次代の王に!」
声。
声。
声。
何を言っているのか、分からない。
グレイの視界には二人しか映らなかった。
金色の髪。
動かない身体。
血。
石畳へ流れていく赤。
血の匂い。
吸血鬼の身体が反応する。
喉が焼ける。
欲しい。
飲め。
本能が囁く。
「……黙れ」
誰に言ったのか。
自分でも分からない。
その時。
一つの石が飛んだ。
処刑台へ。
ライアンの身体へ当たった。
「裏切り者!」
もう一つ。
今度はライカの足元。
「王家の恥さらし!」
笑い声。
罵声。
石。
また石。
「やめろ」
グレイが呟く。
誰にも聞こえない。
「触るな」
石が飛ぶ。
「そいつらに……」
ライアンの頬へ、小さな石が当たった。
動かない。
避けない。
もう。
避けられない。
グレイの中で。
何かが切れた。
「触るなって言ってんだろ」
空気が沈んだ。
歓声が止まる。
何人かが振り返った。
少女がいる。
銀色の髪。
白い肌。
深紅の瞳。
その足元から。
目に見えない何かが広がっていく。
「なんだ……?」
誰かが呟いた。
グレイは歩いた。
一歩。
群衆が無意識に道を開ける。
二歩。
魔力が漏れる。
抑える気はなかった。
真祖の魔力。
まだ自分でも完全には理解していない力。
それが感情のままに広場を満たしていく。
「おい、あのガキ……」
「目が……」
「吸血鬼?」
その言葉。
化け物。
あの日の声が重なった。
けれど。
今はどうでもよかった。
グレイは処刑台だけを見る。
「ライアン」
返事はない。
「ライカ」
ない。
当然だ。
分かっている。
分かっているのに。
「……帰るぞ」
声が震えた。
「待たせすぎだ」
誰かが笑った。
「なんだあのガキ。反逆者の仲間か?」
グレイの足が止まった。
ゆっくり。
振り返る。
「今」
深紅の瞳が男を捉えた。
「何て言った?」
男が一歩下がる。
「い、いや……」
「反逆者?」
グレイの周囲で空間が軋んだ。
見えない亀裂が走る。
「こいつらが?」
魔力が膨れ上がる。
「国を歩いて」
石畳が震える。
「人の話を聞いて」
空気が重くなる。
「困ってる奴を助けて」
誰かが悲鳴を上げた。
「国のことを知ろうとして」
グレイの頬を、一筋だけ涙が伝った。
「それで」
笑った。
笑えていなかった。
「反逆者?」
空間が歪む。
処刑台を中心に。
広場そのものが。
逃げようとした者がいた。
だが、進めない。
「な、なんだ!?」
「壁が……!」
何もない場所。
そこに見えない壁がある。
広場を囲むように。
空間が閉じている。
グレイ自身も、何をしたのか完全には理解していなかった。
ただ。
逃がしたくなかった。
その感情へ、魔法が応えた。
「お前ら」
深紅の瞳が群衆を見渡す。
子供。
老人。
商人。
兵士。
貴族。
騎士。
王族。
誰も区別していなかった。
「こいつらが何してたか知ってんのか?」
誰も答えない。
「知らないよな」
一歩。
「俺は知ってる」
ライアンが笑っていた。
軽口ばかりで。
それでも、誰かが困っていれば最初に動いた。
ライカは呆れながら後を追った。
二人で村を歩いた。
畑を見た。
道を見た。
兵士と話した。
子供に笑った。
国を知ろうとしていた。
「俺は見てた」
グレイの指が震える。
「ずっと一緒にいた」
だから。
知っている。
この紙に書かれた罪より。
あの兄が語った言葉より。
ここで石を投げている者たちより。
「何も知らないくせに」
魔力が収束する。
「勝手なこと言うなよ」
騎士たちが武器を抜いた。
「魔族だ!」
「殿下を守れ!」
「捕らえろ!」
グレイは彼らを見る。
もう。
止めようと思わなかった。
「……遅い」
一人目が消えた。
正確には。
上半身と下半身の間の空間が切れた。
身体がずれる。
血が噴き出す。
悲鳴。
それを合図に、広場が崩れた。
「逃げろ!」
「出られない!」
「助けて!」
グレイは歩く。
手を振る。
空間が裂ける。
騎士の剣が届く前に腕が落ちる。
次の一歩で首が落ちる。
魔法が飛ぶ。
グレイの前で消える。
別の空間へ逃がした。
炎が術者の背後から現れ、その身体を焼いた。
「化け物!」
誰かが叫ぶ。
グレイはそちらを見た。
「……そうだな」
もう否定しなかった。
「今は、それでいい」
空間が閉じる。
声が途切れる。
血の匂いが濃くなる。
吸血衝動が喉を焼く。
それでも一滴も飲まなかった。
欲しいのは血ではない。
こんなものではない。
返してほしい。
ただ。
二人を。
「返せよ……」
魔法を放つ。
「返せ!」
誰も返せない。
「俺の友達を返せ!」
叫びと共に。
広場を満たす魔力が爆ぜた。
◇
どれほど経ったのか。
グレイには分からなかった。
音が消えていた。
さっきまで何千もの声が重なっていた広場。
今は。
静かだった。
風だけが吹いている。
旗が揺れる。
何かが燃えている。
石畳は砕け。
処刑台の周囲には、もう立っている者がいない。
グレイは一人。
その中を歩いた。
靴底が血を踏む。
何も感じなかった。
処刑台へ上がる。
ライアン。
ライカ。
二人のところへ行く。
膝をつく。
「……終わったぞ」
誰に言ったのか。
返事はない。
「もう、誰も石投げない」
ライアンの首へ手を伸ばす。
頬に触れる。
冷たくなり始めている。
「……なあ」
指が震える。
「起きろよ」
ライアンは笑わない。
「ねーちゃんに怒られるぞ」
何も返ってこない。
ライカへ触れる。
「お前も」
鉄扇はない。
いつも整っていた髪には血がついている。
「にーちゃん放っといていいのかよ」
沈黙。
「……俺、料理まだ教わってない」
声が掠れた。
「鍋、あるんだぞ」
宿に。
三人で買った鍋が。
置いてある。
「菓子も買った」
視界が滲む。
「母上の分も」
ぽたり。
ライカの頬へ雫が落ちた。
「釣りも……」
もう一つ。
「まだ、ライアン負けたままだろ」
笑おうとした。
できなかった。
「砂漠も」
喉が詰まる。
「俺の国も……」
肩が震える。
「来るって言っただろ……」
返事はない。
当たり前だ。
死んだ。
知っている。
自分は。
死を知っている。
父を失った。
国を失った。
何百、何千という死を見た。
人形にしたからといって。
死んだという事実が消えるわけではない。
分かっている。
それでも。
「……嫌だ」
グレイは二人の間で俯いた。
「嫌だ……」
十歳の少女の声だった。
「またかよ……」
旅に出た。
故郷を離れた。
世界を見ようと思った。
知らないものを知ろうと思った。
そうして。
初めて。
自分から出会った。
最初は勝手についてきた。
一人旅の子供を放っておけないと。
余計なお世話だった。
弱くもない。
守られる必要もなかった。
なのに。
気付けば三人だった。
「また……いなくなるのかよ」
家族を失った時とは違う。
あの時は奪われた。
何も選べなかった。
けれど二人は。
旅に出てから。
自分で出会った。
自分で話した。
自分で笑った。
自分で友達だと思った。
その二人が。
もういない。
グレイはライアンの手を握った。
冷たい。
ライカの手も。
冷たい。
「……まだ」
魔力が揺れた。
無意識だった。
糸。
これまで何度も使ってきた。
人形を作るための力。
失った家族を。
この世界から完全に消さないための力。
ライアンの身体へ糸が伸びる。
ライカへも。
けれど。
グレイは止まった。
「……違う」
今までと。
何かが違う。
父や母。
家臣たち。
あの時は。
死の直後。
絶望の中で。
ただ必死に残した。
記憶。
人格。
癖。
声。
魔力。
その人を形作っていたもの。
可能な限り。
人形へ。
けれど。
今。
ライアンとライカへ触れている魔力の奥に。
別のものがある。
小さい。
消えそうな。
それでも。
確かに。
二つ。
「……そこにいるのか?」
グレイが顔を上げる。
見えない。
触れない。
けれど。
感じる。
ライアン。
ライカ。
記憶ではない。
魔力でもない。
肉体でもない。
もっと奥。
その人自身。
グレイの瞳が見開かれる。
「これ……」
理解する。
理屈ではなかった。
ユニークスキルが。
グレイの願いへ応えるように。
教えてくる。
「魂……?」
指先の糸が変わる。
今までより細く。
けれど、どんな魔力よりも確かに。
二人の奥へ伸びていく。
消える。
このままなら。
二人は行く。
どこへ行くのかは知らない。
死後の世界があるのかも。
輪廻があるのかも。
グレイには分からない。
ただ。
離れていく。
「……待て」
糸を伸ばす。
「待ってくれ」
絡め取るのではない。
奪うのでもない。
グレイは震える手で。
二人の手を握った。
「俺は……」
涙が落ちる。
「俺は、お前らにまだ何も返してない」
血に濡れた処刑台。
その上で。
グレイは二人へ語りかける。
「勝手についてきて」
小さく息を吸う。
「勝手に飯食わせて」
声が震える。
「勝手に友達になって」
涙が止まらない。
「勝手に帰って」
唇を噛む。
「勝手に死ぬなよ……」
返事はない。
それでも。
グレイは言う。
「俺はまだ」
二つの魂へ。
初めて。
願う。
「お前らと旅がしたい」
魔力の糸が、淡く光った。
「まだ、共にいてくれ」
その瞬間。
二つの魂が。
ほんのわずかに。
グレイの魔力へ触れ返した。




