第7話 後継者争い
王都へ向かう街道は、朝から人の往来が絶えなかった。
荷を積んだ馬車が列を作り、行商人が荷車を引き、王都から地方へ向かう騎士たちと何度もすれ違う。
遠くに見えていた城壁は、歩くほどに大きくなっていった。
獣人の国の中心。
金獅子の王族が治める王都。
そして、ライアンとライカが生まれ育った場所。
「……久しぶりっスね」
ライアンが呟いた。
いつもの軽い調子ではなかった。
隣を歩くライカも、前を向いたまま小さく頷く。
「そうですね」
二人だけだった。
グレイの姿はない。
昨日まで三人で歩いていた道を、今日は二人で歩いている。
王都に近い街へ着いた翌朝。
二人は旅の記録をまとめ、必要な荷物だけを持って宿を出た。
グレイには、そこで待っていてもらうことになった。
『早く帰ってこいよ』
別れ際。
宿の前で、グレイはそう言った。
特別な言葉ではない。
まるで、少し買い物へ行く二人を送り出すような口調だった。
『王都の菓子も忘れるな』
『姫さん、そっちが本命じゃないっスよね?』
『母上の分も』
『俺たちの心配は!?』
『してるよ』
そう言って笑っていた。
銀色の髪を朝の風に揺らしながら。
だからライアンも笑った。
いつも通りに。
『じゃあ、行ってくるっス』
『ああ』
ライカも。
『待っていてください、お姫ちゃん』
『分かってる』
それだけ。
ほんの数日。
王城へ戻り、帰還を命じられた理由を聞く。
必要な話を済ませる。
それから、またグレイのところへ戻る。
三人で買った鍋も宿へ置いてきた。
戻ってくることを疑っていなかったから。
「にーちゃん」
「ん?」
「静かですね」
「そう?」
「はい」
ライアンは自分の頬を掻いた。
「まあ、久しぶりの実家なんで」
「王城を実家と呼ぶ王子は、にーちゃんくらいだと思います」
「ねーちゃんだって実家じゃないっスか」
「そうですが」
「じゃあいいでしょ」
「よくありません」
ライカの言葉はいつも通りだった。
けれど。
ライアンには分かる。
姉も少し緊張している。
二十五年。
双子として生まれ、ずっと隣にいた。
耳の動き。
尾の揺れ。
歩幅。
呼吸。
言葉にしなくても分かることは多い。
「ねーちゃんも気になってるんでしょ」
「何がです?」
「手紙」
「……当然です」
ライカは否定しなかった。
王家から届いた帰還命令。
王位継承に関する協議。
それだけなら、不自然ではない。
二人の旅そのものが、いずれ国を継ぐための修行だった。
王族として生まれた以上、いつかはその話をしなければならない。
問題は。
「早すぎるんスよね」
「はい」
本来なら、まだ旅を続けるはずだった。
国内にも、二人が訪れていない土地は残っている。
旅へ出る前に、その期間についても話はされていた。
それを途中で切り上げさせてまで呼び戻す。
「父上に何かあったと思う?」
「分かりません」
「体調とか」
「それなら、手紙に書くでしょう」
「だよね」
「少なくとも、私たちへ何も知らせずに帰還だけを急がせる理由にはなりません」
「じゃあ後継者の話?」
「それも……」
ライカの眉が僅かに寄る。
「分からないから戻るんでしょう」
「まあ、そうっスね」
結局はそこへ戻る。
王都へ行かなければ分からない。
「でもさ」
「はい」
「終わったら、姫さんのとこ戻るんでしょ?」
ライカが横を見る。
「当然です」
「だよね」
「何を確認しているんです?」
「いや」
ライアンは笑った。
「ねーちゃん、王城戻ったら急に真面目になるから」
「にーちゃんが真面目でなさすぎるだけです」
「俺だって王子やってる時はやるっスよ」
「いつです?」
「今から」
「信用できません」
「酷くない!?」
いつものやり取り。
ライカの口元がほんの少しだけ緩んだ。
それを見て。
ライアンも少しだけ肩の力を抜いた。
◇
王都の外壁へ近づくにつれ、街道はさらに広くなった。
巨大な門。
その両側には、槍を手にした衛兵たちが並んでいる。
石造りの城壁は高く、左右の果てが見えない。
門の上には、この国を象徴する紋章が掲げられていた。
故郷へ戻ってきた。
そのはずなのに。
ライカは、どこか落ち着かなかった。
「……?」
足を止めるほどではない。
ほんの小さな違和感。
門を守る兵士。
旅人。
商人。
いつもの王都。
何がおかしいのか。
「ねーちゃん?」
「何でもありません」
歩き続ける。
二人へ気付いた兵士が姿勢を正した。
「ライカ殿下、ライアン殿下」
「ご苦労様です」
ライカが応じる。
ライアンも軽く手を上げた。
「久しぶりっス」
「お帰りなさいませ」
言葉は普通。
態度も。
それでも。
兵士の視線が、一瞬だけ逸れた。
ライカはそれを見逃さなかった。
何かを言いたそうな。
けれど言えない。
そんな目。
「……にーちゃん」
「うん」
小さく返ってくる。
気付いていた。
それ以上は話さない。
二人は門を抜けた。
王都。
広い大通り。
石畳。
左右に並ぶ店。
行き交う多種多様な獣人たち。
遠くには王城。
高い建物の向こうからでも、その一部が見える。
「相変わらず人多いっスね」
「王都ですから」
「姫さん連れてきたら喜びそう」
「間違いなく、最初の店で止まるでしょうね」
「一日で城まで辿り着けなさそう」
「おそらく」
「連れてこなくて正解だった?」
「……いえ」
ライカは王城を見る。
「次は案内しましょう」
「そうっスね」
次。
その言葉が、何の迷いもなく出た。
グレイに見せたい場所はいくつもある。
王都の市場。
城壁の上から見える景色。
昔からある食堂。
王族だと知られずに二人で抜け出したことのある裏通り。
ライアンなら、もっと知っているだろう。
グレイはきっと、何を見るにも足を止める。
そのたびにライアンが急かして。
自分が二人を叱る。
簡単に想像できた。
「お姫ちゃん、絶対迷子になりますね」
「姫さん、気配分かるから迷子にはならないと思うっス」
「本人が目的地を忘れます」
「ああ、それはありそう」
二人で少し笑った。
けれど。
大通りを進むほど。
その笑みは少しずつ消えていった。
視線。
やはり。
多い。
王族である以上、見られること自体は珍しくない。
だが。
違う。
以前とは。
「……ねーちゃん」
「分かっています」
声を落とす。
王族への敬意。
旅から戻った二人への興味。
それだけではない。
戸惑い。
警戒。
中には。
明らかに二人を避ける者もいた。
「何かあったみたいっスね」
「そのようです」
「俺たちの知らないところで」
「王城へ行けば分かります」
ライカは歩みを速めた。
◇
王城へ着いた頃には、昼を少し過ぎていた。
城門。
見慣れた場所。
幼い頃から何度も通った。
旅へ出る時も、ここから出た。
あの日は、多くの者が二人を見送った。
今日。
門の前には、妙に多くの騎士がいた。
「……随分歓迎されてるっスね」
ライアンが小さく呟く。
「歓迎なら、もう少し笑顔があるでしょう」
「ですよね」
二人が近づく。
騎士たちが一斉に姿勢を正した。
「ライカ殿下。ライアン殿下」
「帰還しました」
ライカが答える。
「父上は?」
ライアンが続けた。
騎士が一瞬だけ黙る。
「まずは、お二人のお部屋へ」
「先に父上へ挨拶したいっス」
「命令です」
ライアンの金色の耳が僅かに動く。
「誰の?」
「……王城より」
「それ、答えになってないっスよ」
声は軽い。
けれど。
目は笑っていない。
「にーちゃん」
ライカが止める。
「行きましょう」
「ねーちゃん」
「ここで話しても仕方ありません」
「……そうっスね」
二人は城へ入った。
懐かしい匂い。
磨かれた石床。
高い天井。
長い廊下。
壁に飾られた歴代の王族の肖像。
何も変わっていない。
なのに。
人だけが違う。
使用人たちが二人を見て頭を下げる。
しかし、すぐに視線を落とす。
近づいてこない。
「…………」
ライカの尾が静かに揺れた。
不安を感じた時の癖。
ライアンは何も言わず、少しだけ姉の近くを歩いた。
案内されたのは、それぞれが以前使っていた部屋だった。
「夕刻、改めてお呼びいたします」
騎士が告げる。
「それまでお待ちください」
「待って」
ライカが呼び止める。
「はい」
「父上は?」
「……」
「王はどちらに?」
「私からは、お答えできません」
「なぜです?」
「申し訳ございません」
頭を下げる。
それだけ。
騎士は去った。
扉が閉まる。
「……にーちゃん」
「うん」
「何かあります」
「あるっスね」
ライアンは扉へ近づく。
開ける。
廊下。
左右に騎士。
「…………」
「…………」
扉を閉めた。
「見張り?」
「そう見えますね」
「俺たち、帰ってきたばっかなんスけど」
「知っています」
「何した?」
「私に聞かないでください」
ライアンは頭を掻く。
「帰還命令自体、怪しかった?」
「まだ分かりません」
「でも」
「はい」
ライカも扉を見る。
「少なくとも、私たちが考えていたような帰還ではなさそうです」
◇
夕刻。
二人は同時に呼ばれた。
案内された先は、王へ謁見するための広間ではなかった。
王族と重臣たちが話し合うために使われる一室。
重い扉。
その前にも騎士がいる。
ライアンとライカは一度だけ顔を見合わせた。
「行くっスよ」
「はい」
扉が開く。
二人が入る。
室内には既に何人もの者がいた。
王族。
重臣。
騎士。
見覚えのある顔。
幼い頃から知る者もいる。
そして。
その中に。
「……兄上」
ライカが呟いた。
二人の実兄。
先に生まれた王子がいた。
旅へ出る前にも顔を合わせている。
同じ王家に生まれた者。
同じ父を持つ兄。
その兄が。
部屋の奥から二人を見ていた。
「久しぶりだな、ライカ。ライアン」
穏やかな声だった。
「兄上」
ライアンが一歩前へ出る。
「これ、どういうことっスか?」
「どういうこと、とは?」
「帰還命令。城に入ってからの扱い。それに父上にも会わせてもらえない」
兄は表情を変えない。
「まず座れ」
「その前に――」
「にーちゃん」
ライカが止める。
指定された席へ二人は座った。
向かい側。
兄。
周囲を重臣たちが囲む。
妙だった。
父がいない。
この場に。
王がいない。
「兄上」
ライカが静かに尋ねる。
「父上はどちらに?」
「今は会えない」
「理由をお聞きしても?」
「必要があれば、いずれ」
ライカの目が細くなる。
「では、私たちが呼び戻された理由を」
「手紙に書いてあっただろう」
「王位継承について、と」
「そうだ」
「予定より早すぎます」
「状況が変わった」
「どのように?」
兄は答えない。
代わりに。
机の上へ、いくつかの書類が置かれた。
「これは?」
「お前たちの旅についての報告だ」
ライアンの表情から笑みが消えた。
「俺たちの?」
「読め」
ライカが最初の紙を取る。
目を通す。
次。
さらに次。
読み進めるほど。
金色の瞳から温度が消えていく。
「……何ですか、これは」
「書いてある通りだ」
「違います」
紙を机へ置く。
「私たちは、このようなことをしていません」
「ねーちゃん」
ライアンが紙を取る。
読む。
「…………」
旅の中で訪れた土地。
町。
村。
そこには確かに二人が通った場所の名がある。
だが。
内容が違う。
自分たちが見たもの。
聞いたもの。
行ったこと。
それらが。
少しずつ。
別の意味へ変えられていた。
「……よくできてるっスね」
ライアンが呟く。
「にーちゃん」
「だってそうでしょ」
紙を置く。
「俺たちが本当に行った場所ばっかりっス」
だからこそ。
知らない者が読めば。
信じる。
「誰が書いたんスか?」
「複数の報告をまとめたものだ」
「誰の?」
「それをお前たちへ教える必要はない」
「あるでしょ」
ライアンの声が低くなる。
「俺たちの話なんだから」
「ライアン」
「兄上」
ライアンは兄を見る。
「俺、こういう回りくどいの苦手なんスよ」
いつもの「〜っス」という口調。
それでも。
そこに軽さはない。
「何がしたいんスか?」
「…………」
「俺とねーちゃんを呼び戻して、父上には会わせない。城に入ったら見張り。今度は知らない報告書」
「言葉を慎め」
重臣の一人が声を上げる。
ライアンがそちらを見る。
「慎んでるっスよ」
「これ以上は――」
「にーちゃん」
ライカが手を上げる。
ライアンが止まる。
「私が話します」
「……分かった」
ライカは兄を見る。
「兄上」
「何だ」
「これは、後継者争いですか?」
室内が静まった。
誰も動かない。
「私とにーちゃんが旅へ出ている間に、何かがあった」
「…………」
「だから呼び戻した」
「…………」
「違いますか?」
兄は答えない。
その沈黙だけで。
十分だった。
「……そうですか」
ライカは小さく息を吐いた。
「ずっと妙だとは思っていました」
「ねーちゃん?」
「旅へ出る前からです」
ライカは兄を見たまま続ける。
「私たち二人が後継者候補として扱われることを、快く思わない者がいることくらいは知っていました」
王族。
後継者。
誰が王になるのか。
それは一人の問題ではない。
その背後には。
多くの者の思惑がある。
「ですが」
ライカの尾が一度だけ揺れる。
「私たちは、争うつもりなどありませんでした」
ライアンが姉を見る。
「にーちゃんと私のどちらが選ばれても、互いに支えるつもりでした」
「ああ」
ライアンも頷く。
「それはずっと話してたっス」
どちらが王になっても。
片方が消えるわけではない。
二人で国を見て。
二人で学んで。
選ばれた方を、もう片方が支える。
それでいい。
少なくとも。
二人はそう考えていた。
「兄上とも」
ライカの声が僅かに沈む。
「争うつもりはありませんでした」
兄の表情が。
ほんの少しだけ変わった。
「お前たちは、そうだろうな」
「……兄上?」
「お前たちは昔からそうだった」
静かな声。
「二人で何でも決める」
「…………」
「二人で何でもできる」
ライアンの眉が寄る。
「兄上」
「王都を離れても、人々から慕われる」
その言葉に。
初めて。
感情が混じった。
「父上からも」
ライカは黙って兄を見た。
「……それで?」
「ねーちゃん」
「大丈夫です」
ライカは視線を逸らさない。
「それで、私たちを陥れることにしたのですか?」
部屋の空気が変わる。
重臣たちの何人かが視線を逸らした。
誰も否定しない。
「兄上」
ライアンが立ち上がる。
「座れ」
「嫌っス」
「ライアン」
「俺たち、国を見るために旅してたんスよ」
拳が握られる。
「父上に言われたからだけじゃない。俺たちがこの国のこと知らなすぎたから」
村で出会った者。
町で働く者。
魔物に困っていた者。
商人。
職人。
子供。
老人。
「それを」
机の上の紙を見る。
「こんなもんに変えたんスか?」
「…………」
「俺たちが見てきたものまで」
怒り。
それは。
自分たちが陥れられたことだけではなかった。
旅で出会った人々。
そこで交わした言葉。
助けてもらったこと。
助けたこと。
その全部を。
利用された。
「ふざけんな」
最後だけ。
「っス」が消えた。
「にーちゃん」
ライカが立つ。
弟の腕へ触れる。
「……ねーちゃん」
「ここで怒っても仕方ありません」
「でも」
「分かっています」
ライカも怒っている。
ライアンには分かる。
声が静かすぎる。
こういう時の姉は。
本当に怒っている。
「兄上」
ライカが言う。
「父上に会わせてください」
「できない」
「なら、直接確認します」
「できないと言った」
「なぜです?」
「お前たちには、その権利がない」
「……何?」
ライアンが兄を見る。
兄が手を上げた。
それを合図に。
扉が開く。
騎士たちが入ってくる。
多い。
一人。
二人。
それどころではない。
廊下にもいる。
「兄上」
ライカが静かに呼ぶ。
「何の真似です?」
「お前たち二人には、ここで大人しくしてもらう」
「大人しく?」
「王家と国へ仇なす疑いが晴れるまで」
「…………」
ライアンが笑った。
乾いた笑い。
「疑いを作ったの、そっちじゃないっスか」
「連れていけ」
騎士たちが近づく。
ライアンの手が腰へ動いた。
短剣。
だが。
「にーちゃん」
ライカの声。
手が止まる。
「……ねーちゃん」
「抜いてはいけません」
「でも」
「ここで抜けば」
ライカは周囲を見る。
「それこそ、向こうの思うままです」
「…………」
ライアンは歯を食いしばる。
手を離した。
騎士たちが二人を囲む。
「武器を」
「自分で渡すっス」
ライアンは二本の短剣を外した。
机へ置く。
金属音。
ライカも。
腰に携えていた鉄扇を取り出す。
ゆっくり。
机へ置いた。
「兄上」
最後に。
ライカが尋ねる。
「一つだけ」
「何だ」
「父上は」
少し間を置く。
「本当に、このことをご存じなのですか?」
兄は。
答えなかった。
◇
二人は別々の部屋へ連れていかれた。
牢ではない。
王城の一室。
窓。
ベッド。
机。
椅子。
王族を閉じ込めるには、随分と上等な場所だった。
「……笑えるっスね」
ライアンは窓辺へ座った。
窓には外から魔法による封が施されている。
扉の外には騎士。
武器はない。
「姫さんに見せたら何て言うかな」
独り言。
返事はない。
いつもなら。
『間抜け』
くらいは言われそうだ。
「……間抜けっスよね」
自分で笑う。
帰還命令。
不自然だと思った。
それでも帰った。
当然だ。
自分たちの国だから。
父がいる。
兄がいる。
家族がいる。
疑うという発想そのものがなかった。
「ねーちゃん、怒ってるだろうなぁ」
あの姉は。
自分のことより、ライアンのことを心配する。
たぶん今も。
自分が無茶をしないか考えている。
「しないっスよ」
誰もいない部屋で言う。
「ねーちゃんが止めたから」
腰へ手を伸ばす。
短剣はない。
旅の間。
何度も握った武器。
グレイと初めて出会った時にも持っていた。
「……姫さん」
今頃。
何をしているのだろう。
市場でも見ているか。
宿で母親と話しているか。
もしかしたら。
もう新しい料理を見つけているかもしれない。
『早く帰ってこいよ』
「……帰るっスよ」
小さく答える。
「ちゃんと」
そうしなければ。
鍋も置いてきた。
王都の菓子も買っていない。
釣りの勝負も終わっていない。
砂漠も。
グレイの故郷も。
まだ行っていない。
「約束多すぎるっスよ、姫さん」
ライアンは目を閉じた。
◇
ライカの部屋も同じだった。
窓。
机。
椅子。
ベッド。
そして。
外へ出られない。
「…………」
ライカは椅子へ座っていた。
考える。
兄。
父。
重臣。
騎士。
報告書。
帰還命令。
一つずつ。
感情を脇へ置き。
整理する。
旅へ出ている間に。
王城で何かが起きた。
自分たちの知らないところで。
兄が後継者争いへ動いた。
それだけなら。
まだ分かる。
王位を望む。
自分が王になりたい。
そのために他の候補を排除する。
理解したくはないが。
理屈としては分かる。
だが。
「父上……」
父が出てこない。
それが一番おかしい。
自分たちを呼び戻すなら。
父が会わない理由がない。
王位継承について話すなら、なおさら。
兄は。
父がこの件を知っているのかと尋ねた時。
答えなかった。
「…………」
嫌な感覚。
胸の奥。
旅の途中で魔物の気配に気付いた時とは違う。
もっと。
形のない不安。
こんな時。
隣にライアンがいれば。
くだらないことを言う。
それを叱っている間に。
少しだけ頭が整理される。
「にーちゃん……」
無茶をしていないだろうか。
短剣へ手を伸ばした。
自分が止めた。
だから。
たぶん大丈夫。
でも。
「……お姫ちゃん」
もう一人。
思い浮かぶ。
銀色の髪。
小さな身体。
妙に強くて。
世間知らずで。
知らないものを見るとすぐに足を止める。
吸血鬼。
真祖。
元王女。
そんな大層なものをいくつも抱えているくせに。
魚を一匹釣っただけで、あれほど得意そうに笑った。
『待ってる』
そう言った。
「…………」
知らせるべきか。
一瞬。
考えた。
だが。
すぐに首を横へ振る。
どうやって。
この部屋から出られない。
それに。
知らせたところで。
何を頼む。
グレイはこの国の者ではない。
王家の後継者争いに巻き込むべきではない。
「……駄目です」
自分へ言い聞かせる。
これは。
自分たちの問題だ。
王族として生まれた。
その責任。
旅の途中で知り合った少女へ。
背負わせていいものではない。
「お姫ちゃんは、待っていてください」
静かな部屋で。
誰にも届かない言葉。
「私たちが帰りますから」
◇
翌朝。
二人は再び呼び出された。
今度は昨日とは違う部屋だった。
ライアンとライカは廊下で合流する。
「ねーちゃん」
「にーちゃん」
互いに顔を見る。
怪我はない。
「何もされてない?」
「はい。にーちゃんは?」
「俺も」
「無茶しませんでしたね」
「俺を何だと思ってるんスか」
「にーちゃんです」
「それ答えになってない!」
少しだけ。
いつもの調子。
「ねーちゃん」
「何です?」
「父上のこと」
「……はい」
「やっぱおかしいっスよね」
「私もそう思います」
「兄上、何か隠してる」
「でしょうね」
「どうする?」
ライカは前を見る。
騎士たちがいる。
ここで話せることではない。
「今は従います」
「……分かったっス」
扉の前へ着く。
開く。
中には。
昨日より多くの者がいた。
重臣。
王族に近い者たち。
騎士。
そして。
兄。
二人は並んで立った。
「座れ」
「今日は何の話っスか?」
ライアンが尋ねる。
「お前たちの処遇についてだ」
ライカの耳が僅かに動いた。
「処遇?」
「ああ」
兄が一枚の書状を開く。
「昨日提示した報告について、王家に対する重大な背信の疑いが認められた」
「疑い?」
ライアンが笑う。
「昨日帰ってきたばっかりなのに、もう?」
「十分な証拠がある」
「俺たちの話は?」
「聞く必要はない」
「…………」
ライアンの笑みが消えた。
「兄上」
ライカが口を開く。
「それでは、協議ではありません」
「何?」
「私たちを呼び戻す前から、結論は決まっていたのでしょう」
沈黙。
「違いますか?」
「…………」
「私たちの話を聞くつもりがない。反証する機会も与えない。ならば、この場は後継者について話し合うためのものではありません」
ライカは真っ直ぐ兄を見る。
「私たちを排除するための場です」
ざわめき。
「言葉を慎め!」
誰かが叫ぶ。
「慎む必要があるのはどちらです?」
ライカがそちらを見る。
声を荒げない。
それだけで。
相手が黙る。
「私はこの国の王女です」
鉄扇はない。
武器もない。
それでも。
背筋は伸びていた。
「そして、国を知るために旅へ出ました」
村。
町。
鉱山。
街道。
そこで暮らす人々。
「私たちが見てきたものを、自分たちの都合のいい言葉へ変えないでください」
「ライカ」
兄が呼ぶ。
「兄上もです」
「…………」
「王になりたいのであれば」
一瞬。
間。
「正面から言いやがってください」
室内が凍りついた。
ライアンが。
僅かに口元を緩める。
「ねーちゃん」
「何です?」
「それ言う?」
「言います」
「……そっスか」
兄の表情が変わる。
「お前たちは」
低い声。
「いつもそうだ」
立ち上がる。
「自分たちが正しいと思っている」
「そんなことは――」
「旅をして国を知った?」
兄が笑う。
「数ヶ月、数年、外を歩いただけで?」
「兄上」
「民に声をかけられ、助けを求められ、それに応えた。それで王になれるとでも思ったか?」
「思ってないっスよ」
ライアンが答える。
「何?」
「俺もねーちゃんも」
一歩前へ。
騎士が動く。
ライアンは止まった。
「王になるためだけに旅してたわけじゃないっス」
「では何のためだ」
「知らなかったから」
単純な答え。
「俺たち、城で育ったっス」
食事が出る。
服がある。
守られる。
命令すれば誰かが動く。
「でも、それが当たり前じゃないって知った」
旅へ出て。
初めて。
「腹減ってる奴もいた。魔物に困ってる村もあった。道が壊れて商売できないって人もいた」
自分たちが知らなかっただけ。
城の外には。
いくらでも。
「王になるなら、それくらい知らなきゃ駄目だろって思っただけっス」
「綺麗事だ」
「そうかもしれないっスね」
ライアンは否定しない。
「でも」
兄を見る。
「だからって、ねーちゃんを蹴落としてまで王になりたいとは思わない」
ライカが弟を見る。
「兄上を蹴落としてまでとも」
ライアンは続けた。
「……馬鹿にしているのか」
「してないっス」
「ならなぜ!」
兄の声が初めて大きくなる。
「なぜお前たちは、何も欲しがらない!」
室内が静まる。
ライアンとライカが兄を見る。
「王位も!」
拳が机を叩く。
「地位も!」
紙が揺れる。
「何もかも、最初から与えられているような顔をして!」
「兄上……?」
ライカの声が僅かに揺れる。
「父上は、お前たちの話ばかりだった」
兄の声。
「二人ならば」
幼い頃。
「二人ならば、この国を」
ライアンの表情が変わる。
「……それで」
静かな声。
「俺たちが邪魔だったんスか」
「…………」
「ねーちゃんと俺が」
「…………」
「兄上の弟と妹じゃなくて」
ライアンの耳が伏せる。
「王位を取る敵に見えてた?」
答えはない。
でも。
今度も。
沈黙が答えだった。
「……そっスか」
ライアンが視線を落とす。
怒りより。
少しだけ。
寂しそうだった。
「兄上」
ライカが呼ぶ。
「まだ間に合います」
「何?」
「ここで終わりにしましょう」
「……お前は」
「私も、にーちゃんも、王位を理由に兄上と争うつもりはありません」
「黙れ」
「父上を交えて話しましょう」
「黙れ!」
「三人で」
「黙れと言っている!」
兄が立ち上がる。
その顔に。
もう穏やかさはなかった。
「連れていけ」
騎士たちが動く。
「兄上!」
ライカが初めて声を強める。
「父上に会わせてください!」
「必要ない!」
「なら父上はどこです!」
「連れていけ!」
二人の腕を騎士が掴む。
ライアンが振り払おうとする。
だが。
「にーちゃん!」
ライカの声で止まった。
「……っ」
「今は駄目です!」
「分かってる!」
二人が引き離される。
扉へ。
「兄上!」
ライカが振り返る。
「最後に一つだけ答えてください!」
兄は見ない。
「父上は!」
声が響く。
「私たちが帰ってきたことを、本当に知っているのですか!」
扉が閉まった。
答えは。
最後までなかった。
◇
その夜。
雨が降り始めた。
強くはない。
王都の屋根を静かに濡らす程度の雨。
宿の窓辺。
グレイは椅子へ座り、外を眺めていた。
「雨か」
ぽつりと呟く。
王都近くの街。
ライアンとライカを送り出してから。
二日。
「…………」
まだ。
帰ってこない。
別におかしくはない。
王城へ戻ったのだ。
話し合いが長引くこともある。
グレイは王族だった。
城の中で物事を決めるのに時間がかかることくらい知っている。
「……暇だな」
机の上には。
三人で買った鍋。
今日。
市場で野菜を買った。
昨日は干し肉も。
次に三人で野営する時。
またスープを作ろうと思った。
今度はライカに全部聞かなくても作れる。
「…………」
グレイは窓の外を見る。
雨。
街灯の光。
道を急ぐ人。
王都はここから見えない。
昼なら。
城壁の一部くらいは遠くに見える。
今は。
暗闇と雨だけ。
「遅い」
誰に言うでもなく。
呟いた。
返事はない。
当然だ。
「菓子選ぶのに時間かかってるのか?」
自分で言って。
少し笑う。
「ライアンならありそう」
ライカに怒られて。
結局二人で選ぶ。
そんな姿が浮かぶ。
グレイは椅子から立つ。
「母上」
空間を開く。
《ドールハウス》から母を呼ぶ。
白磁の身体が静かに現れた。
「どうしたの、グレイ」
「暇」
「あら」
「二人が遅い」
「ライアンさんとライカさん?」
「ああ」
「まだ二日でしょう?」
「そうだけど」
母は机の上を見る。
鍋。
食材。
そして。
紙袋。
「これは?」
「菓子」
「また?」
「美味かったから」
「そう」
母が微笑む。
「二人が戻ってきたら一緒に食べるの?」
「……まあ」
「そう」
「何だよ」
「何も」
「その顔やめろ」
「どんな顔?」
「母上の顔」
「私はいつも私の顔よ」
「そういうことじゃない」
母が小さく笑う。
グレイはまた窓辺へ戻った。
「……遅い」
もう一度。
今度は。
さっきより小さく。
「心配?」
「別に」
「そう」
「王城だぞ」
「ええ」
「あいつらの家だ」
「そうね」
「何かあるわけない」
「……ええ」
母の返事。
ほんの少し。
間があった。
グレイが振り返る。
「何?」
「何もないわ」
「今、間があった」
「気のせいよ」
「母上」
「グレイ」
母は穏やかに娘を見る。
「二人を信じて待ってあげたら?」
「信じてるよ」
「なら」
「でも遅い」
「まだ二日よ」
「……分かってる」
グレイは窓の外を見る。
雨粒が硝子を伝う。
「帰ってきたら文句言う」
「何て?」
「遅いって」
「それだけ?」
「菓子忘れてたらもっと言う」
「ふふ」
「笑うなよ」
雨の音。
静かな夜。
グレイは。
まだ知らなかった。
◇
同じ頃。
王城の一室。
ライアンは扉の前に座っていた。
背中を預け。
天井を見る。
「……雨っスね」
窓の外から音が聞こえる。
グレイは雨が嫌いだと言っていた。
理由は。
詳しく聞いていない。
故郷の話をした時。
ほんの少しだけ。
顔が変わった。
「姫さん、待ってるだろうな」
まだ二日。
でも。
あの少女は。
意外と寂しがりだ。
本人は認めないだろうが。
「早く戻らないと」
立ち上がる。
その時。
廊下から。
足音が聞こえた。
一人ではない。
何人も。
「…………」
ライアンの耳が立つ。
扉の前で止まる。
鍵が開く。
騎士たちが入ってきた。
「ライアン殿下」
「何スか?」
先頭の騎士が。
目を合わせない。
「お迎えに参りました」
「こんな時間に?」
「はい」
「どこへ?」
返事がない。
ライアンは立ったまま。
騎士たちを見る。
「ねーちゃんは?」
「……ライカ殿下も」
「一緒?」
「はい」
少しだけ。
安心する。
「分かったっス」
歩き出す。
廊下。
角を曲がる。
そこで。
ライカがいた。
「にーちゃん」
「ねーちゃん」
二人の視線が合う。
その周囲にも騎士。
「どこ行くか聞いた?」
「答えてもらえませんでした」
「俺も」
並んで歩く。
「嫌な感じっスね」
「はい」
「逃げる?」
小声。
「今はまだ」
「分かった」
階段を下りる。
さらに。
下へ。
「……こっち」
ライアンが呟く。
王城で育った。
道は知っている。
この先に。
王族の生活区画はない。
会議室も。
謁見の間も。
「ねーちゃん」
「分かっています」
さらに進む。
空気が冷たくなる。
窓が減る。
石壁。
地下。
そして。
鉄格子。
「……は?」
ライアンが止まる。
「進んでください」
騎士が言う。
「いやいや」
ライアンは笑う。
「さすがにこれは説明してほしいっス」
「進んでください」
「ねーちゃん」
「…………」
ライカは前を見る。
顔から。
いつもの余裕が消えていた。
「進みましょう」
「本気?」
「はい」
「……分かった」
二人は進む。
牢。
今度は。
王族用の部屋ではない。
本物の。
地下牢。
「別々です」
騎士が告げる。
「それは嫌っス」
「命令です」
「誰の?」
「…………」
「また答えない」
「にーちゃん」
ライカが弟を見る。
「大丈夫です」
「ねーちゃん」
「何もしていないのですから」
「…………」
「大丈夫」
誰に言っているのか。
ライアンには分からなかった。
自分へか。
弟へか。
それとも。
ライカ自身へか。
「……分かったっス」
隣り合った牢。
それだけは。
許された。
鉄格子が閉じる。
鍵の音。
騎士たちが去る。
静かになる。
「ねーちゃん」
「はい」
「いる?」
「います」
「よかった」
「子供ですか」
「暗いんで」
「獣人でしょう。見えます」
「そういう問題じゃないっス」
少しだけ。
ライカが笑う。
それから。
長い沈黙。
「……姫さん」
ライアンが呟く。
「待ってますね」
「ああ」
「約束しました」
「うん」
「戻ると」
「……うん」
鉄格子越し。
二人は見えない。
隣にいる。
声だけ。
「にーちゃん」
「何?」
「絶対に」
ライカの声。
「戻りましょう」
「当たり前っス」
ライアンは壁へ背を預けた。
「姫さんに菓子買ってないっスから」
「そこですか?」
「大事でしょ」
「……そうですね」
「母ちゃんの分も」
「はい」
「鍋も置いてきた」
「はい」
「釣りも」
「終わっていませんね」
「砂漠も」
「行く約束です」
「姫さんの故郷も」
「……はい」
一つずつ。
数える。
まだ終わっていないこと。
まだ行っていない場所。
まだ果たしていない約束。
「いっぱいあるっスね」
「ありますね」
「じゃあ」
ライアンは目を閉じる。
「帰らないと」
「はい」
ライカも。
壁へ背を預けた。
雨の音は。
地下までは届かなかった。
◇
翌朝。
王都には。
一つの知らせが出された。
金獅子の王家に生まれた双子。
王子ライアン。
王女ライカ。
二人の名が。
王都の各所へ掲げられた。
人々が集まる。
文字を読む。
ざわめきが広がる。
昨日まで。
二人の帰還を知る者は少なかった。
だが。
その日。
王都中が。
二人が帰ってきたことを知った。
同時に。
別のことも。
旅から戻った王子と姫が。
王家と国に背いた者として拘束されたことを。
そして。
その罪について。
王家の名の下に裁きが行われることを。
◇
「……嘘だろ」
その知らせを見上げ。
一人の男が呟いた。
王都の大通り。
人だかり。
その中。
「ライアン殿下と、ライカ殿下が?」
「やっぱり旅ってのも……」
「何か企んでたんじゃないのか?」
「でも、あの二人が?」
「王家が発表したんだぞ」
「じゃあ本当なんだろ」
声。
声。
声。
少しずつ。
噂が形を変えていく。
誰も。
真実を知らない。
それでも。
言葉だけは広がる。
速く。
簡単に。
◇
その知らせは。
まだ。
王都近くの街には届いていなかった。
昼前。
グレイは市場を歩いていた。
「これ、二つ」
「毎度あり」
紙袋を受け取る。
中身は焼き菓子。
昨日とは違う店。
「母上、こっちの方が好きかな」
独り言。
少し考えて。
もう一つ買う。
「三つ」
「お嬢ちゃん、よく食べるねぇ」
「俺じゃない」
「家族かい?」
「ああ」
答えて。
少し笑う。
「友達も」
自分で言って。
ほんの少し。
足が止まった。
「……友達」
ライアン。
ライカ。
いつから。
そう呼ぶようになったのか。
分からない。
でも。
他に呼び方も思いつかなかった。
「まあ、いいか」
袋を抱える。
「今日くらい帰ってくるだろ」
空を見上げる。
昨日の雨は止んでいた。
薄い雲の隙間から。
柔らかな光が落ちている。
「遅かったら、全部食うからな」
届かない文句を口にして。
グレイは宿へ戻っていった。
机の上には。
三人で買った鍋がある。
その隣へ。
焼き菓子の袋を置く。
二人の帰りを待つために。
グレイは。
今日も。
そこへ戻った。




