第1話 山の向こう側
朝の冷気が、開け放たれた窓から静かに入り込んでいた。
山間の町らしく、夜が明けても空気にはわずかな冷たさが残っている。遠くでは荷馬車の車輪が石畳を鳴らし、どこかの店が戸板を外す乾いた音がした。パンを焼く匂いに、炭火で肉を炙る香りが混じっている。
グレイは窓辺の椅子に腰掛けたまま、片手を朝日にかざしていた。
白い指の隙間から光が落ちる。
かつてなら、これほど無造作に朝日を浴びようとは思わなかった。
肌が焼けるわけではない。
灰になるわけでもない。
それでも吸血鬼になったばかりの頃は、自分の身体について分からないことが多すぎた。何が危険で、何が平気なのか。血を飲まなければどうなるのか。どれほどの間隔で必要になるのか。どこまで傷つけば再生できなくなるのか。
何より、人の血を求める衝動をどう扱えばいいのか。
あの頃は、知らないことばかりだった。
「……六十年か」
小さく呟いて、グレイは手を下ろした。
六十年。
人にとっては、人生の大半にもなる時間だ。
けれどグレイの身体には、その長さがそのまま刻まれてはいない。
窓硝子へ薄く映った自分の姿は、十五歳ほどの少女に見える。
故郷を出た頃は十歳ほどだった。
少し背が伸び、顔立ちも幼さを残しながら少女らしく整った。白銀の髪も以前より長くなっている。
六十年で、たったそれだけだった。
自分でも時折、妙な気分になる。
何十年も前の出来事が昨日のことのように思える一方で、ほんの数年前の町の名前が、遠い記憶の底へ沈んでいることもある。
それでも。
「姫さん、起きてるっスか?」
扉の向こうから聞こえた声だけは、六十年前から変わらなかった。
「起きてる」
「朝飯、できてるっスよ。早く来ないと、ねーちゃんが姫さんの分まで食うっス」
「聞こえていやがりますよ、にーちゃん。朝から適当なことを言いふらしやがらないでください」
「ほら、元気っス」
「そうだな」
「そこで納得しやがらないでください、お姫ちゃん」
グレイは小さく笑った。
窓を閉じ、椅子から立ち上がる。
扉を開けると、廊下にはライアンが壁にもたれて待っていた。
六十年経っても、彼の姿はほとんど変わっていない。
当然だ。
ライアンもライカも、もう年を取らない。
魂そのものを宿した魔導白磁の身体。
血は流れず、老いることもない。それでも笑うし、怒るし、腹が減ったと言う。食べる必要はないのに食事を楽しみ、眠る必要がなくても夜になれば休むことがある。
グレイにとって、そこに違和感はなかった。
彼らは人形だから生きているのではない。
ライアンだから、ライアンなのだ。
ライカも同じだった。
「何見てるんスか?」
「別に」
「今、絶対なんか考えてたっスよね?」
「六十年経っても変わらないなと思ってた」
ライアンが自分の腕を見た。
「そりゃそうっスよ。姫さんがこの身体作ったんじゃないっスか」
「見た目じゃない」
「じゃあ何がっスか?」
「うるさいところ」
「ひどくないっスか?」
肩を落とすライアンの向こうから、ライカが顔を出した。
「そこはお姫ちゃんに同意しやがります。六十年あれば普通は少しくらい落ち着きやがるものです」
「ねーちゃんだって変わってないっスよ」
「私は元から完成されていやがりますので」
「自分で言う?」
「にーちゃんよりは」
「比較対象が俺なの納得いかないっス」
朝からよくやる。
グレイは二人の横を抜け、そのまま階段へ向かった。
「置いてくぞ」
「あ、姫さん待つっス」
「にーちゃんのせいで遅れやがったじゃないですか」
「俺だけ?」
三人分の足音が、古い宿の階段を下っていく。
その音を聞きながら、グレイはふと六十年前の旅を思い出した。
まだ二人が人間だった頃。
三人で歩いた。
三人で食べた。
三人でくだらない話をした。
一度、その時間は途切れた。
もう戻らないと思った。
それでも今は、また同じように三人で階段を下りている。
少しだけ違うのは。
「グレイ、おはよう」
一階から聞こえた声に、グレイの歩みがわずかに速くなった。
「ああ。おはよう、母上」
食堂の奥。
宿の厨房を借りて朝食の準備をしていた母が振り返った。
その隣には、故郷にいた料理人と侍女の姿もある。
彼らもまた、六十年前と変わらない。
朝食を並べる手つきも、皿の置き方も。
違うのは場所だけだ。
故郷の城ではない。
旅先の小さな宿。
それでも食卓を囲めば、不思議と昔と似た空気になる。
「今日は早いのね」
「目が覚めた」
「昨日、遅くまで本を読んでいたでしょう?」
「少しだけだ」
「少し、ね」
母の視線がテーブルの端へ向いた。
そこには昨夜グレイが読んでいた本が積まれている。
武術書が三冊。
人体の骨格について書かれたものが一冊。
この地方で使われている武器についてまとめた本が一冊。
グレイは何も言わず席に着いた。
「姫さん、あれで少しは無理あるっスよ」
「にーちゃん。余計なことを言いやがらないでください」
「ねーちゃんも昨日言ってたじゃないっスか。『お姫ちゃんはまた朝まで読む気です』って」
「言いやがりましたが、本人の前で告げ口しろとは言っていやがりません」
「二人とも座れ」
グレイが言うと、双子は顔を見合わせた。
「逃げたっスね」
「逃げやがりましたね」
「飯が冷める」
「はいはい」
ライアンがグレイの向かいへ座り、ライカは隣の椅子を引いた。
母も席に着く。
料理人が最後の皿を置いた。
焼きたての丸パン。
野菜と豆を煮込んだスープ。
薄切りにした燻製肉。
山で採れたという香草を混ぜた卵料理。
どれも珍しいものではない。
けれど、湯気の向こうに家族の顔がある。
それだけでグレイには十分だった。
母がパンをちぎる。
「今日は道場?」
「ああ」
「またですか、姫さん。昨日も行ったっスよね?」
「昨日は槍だ。今日は剣」
「一昨日は?」
「体術」
「その前は?」
「棒術」
ライアンが指を折り始めた。
「姫さん、この町に来てからほとんど毎日じゃないっスか」
「せっかく来たんだ。学べるものは学んでおきたい」
「お姫ちゃんの場合、学ぶというより道場破りになりかけていやがりますけどね」
「破ってない」
「昨日の槍の師範、最後ちょっと泣きそうだったっスよ」
「泣いてない」
「『これだけできるなら何を習いに来たんだ』って顔してたっス」
グレイはスープを口へ運んだ。
温かい。
豆の甘みと、細かく刻まれた香草の香りが広がる。
「できることと、知ってることは違う」
匙を置いてから、グレイは続けた。
「俺が強いのは分かってる。でも、強いから正しく身体を使えてるとは限らない」
ライアンの表情から、少しだけ冗談っぽさが消えた。
グレイは自分の右手を見た。
吸血鬼になってから、身体能力そのものは人間だった頃とは比較にならないほど高くなった。
真祖の力を取り込んでからは、なおさらだ。
速く動ける。
強く殴れる。
高く跳べる。
多少無理な姿勢からでも、筋力だけで身体を戻せる。
傷ついても再生する。
空間魔法を使えば、距離そのものを無視できる。
だからこそ。
長い間、気付かなかった。
自分はずっと、力で誤魔化していた。
それに気付いたのは、あの山を越えた後だった。
六十年前。
三人が獣人の国を離れて間もない頃。
追手を避ける意味もあり、人がほとんど通らない山岳地帯へ入った。
人間には踏破できないとまで言われる山だった。
切り立った岩壁。
雪。
足場のない谷。
魔物。
凍える夜。
生身の人間なら、どれか一つでも命を落としかねない。
だが三人には越えられた。
ライアンとライカは人形の身体。
グレイは真祖。
食料が尽きても死なない。
凍えても簡単には動けなくならない。
崖から落ちても、グレイなら空間魔法で戻れる。
普通なら越えられない場所を、三人は越えてしまった。
だからこそ、その途中でグレイは思った。
自分たちは、本当に山を越えたのだろうか、と。
危険を力で押し潰し、道がなければ空間を繋ぎ、疲労すれば休む。
それでも旅としては間違っていない。
だが、自分の身体について知ろうとするなら、それだけでは足りなかった。
その頃からだ。
グレイが、自分の身体そのものへ意識を向けるようになったのは。
吸血鬼としての身体。
血への渇き。
魔力。
再生。
そして、人間だった頃から持っていた身体の使い方。
六十年。
試して。
失敗して。
考えて。
また試した。
その結果、今では人の血を飲まなくても生きていける。
自分の魔力を変換し、血の代わりとして身体へ巡らせる。
完全に同じものではない。
それでも、吸血衝動を抑え込むには十分だった。
加えて、高ランクの魔物から得られる血であれば代用品として問題なく使える。
あの頃のように、人の血の匂い一つで部屋へ逃げ込むことはなくなった。
それはグレイにとって、強くなったこと以上に大きな変化だった。
人のそばにいられる。
誰かが怪我をしても、まず助けることを考えられる。
自分自身を恐れずに済む。
六十年かかった。
けれど長いとは思わなかった。
時間なら、これからいくらでもある。
「グレイ?」
母の声で、意識が戻った。
「ん?」
「また考え事?」
「少し」
「最近、多いわね」
「そうか?」
「昔からよ」
母が穏やかに笑う。
「ただ、昔より考えていることが顔に出なくなっただけ」
「……それはいいことなのか?」
「どうでしょうね」
母は少しだけ首を傾げた。
「私は、分かりやすかった頃のグレイも好きだったわ」
返事に困った。
グレイが黙ってパンをちぎると、向かいのライアンが笑いを堪えている。
「何だ」
「いや、姫さんって母上さん相手だと相変わらず弱いなって」
「にーちゃん、黙って食べやがってください」
「ねーちゃんも笑ってるっスよね?」
「気のせいです」
母まで笑った。
グレイは少しだけ眉を寄せ、それ以上何も言わずにパンを口へ入れた。
六十年。
変わったものは多い。
変わらないものも、それなりに多かった。
◇
昼前。
三人は町の西側にある道場へ向かっていた。
石造りの建物が多い町だった。
獣人の国でよく見た土壁の家とは違い、この辺りでは石を積んだ家屋が目立つ。道幅も広く、荷車だけでなく武装した者が歩いている姿が多い。
何より目につくのは、武器だった。
腰に剣を下げた者。
背中に大剣を負う者。
槍を持つ者。
斧。
棍。
弓。
中には武器を持たず、手甲だけを身につけて歩いている者もいる。
魔法使いらしい杖を持った人間もいないわけではない。
ただ、明らかに少ない。
この国へ来たばかりの頃、グレイはその違いを面白く感じた。
魔法を使えることは珍しくない。
世界の多くの国では、優秀な魔法使いは重宝される。
軍でも、冒険者でも、研究でも。
それはこの国でも変わらない。
ただし、価値の置き方が少し違った。
ここでは、武を磨く者への評価が高い。
魔法が使えるから強いのではない。
武器を持っているから戦士なのでもない。
身体を鍛え、技を磨き、それを積み上げた者を尊ぶ。
町ごとに道場があり、流派がある。
同じ剣でも、考え方が違う。
速さを重視するところ。
一撃を重くするところ。
受けを重視するところ。
足運びに多くの時間を費やすところ。
グレイにとって、それは新鮮だった。
「今日は何の道場だったっスか?」
「剣術。片手剣を中心に教えてるらしい」
「姫さん、剣も普通に使えるっスよね?」
「使える」
「じゃあ何しに行くんスか?」
グレイは歩きながら、ライアンを見た。
「お前、短剣使えるよな」
「そりゃまあ」
「じゃあ、俺と同じくらい剣が使えるか?」
「いや、それは話が違うっスよ。俺は短剣二刀が一番――」
そこまで言って、ライアンが止まった。
「ああ、そういうことっスか」
「そういうことだ」
同じ刃物でも違う。
同じ剣でも違う。
構え。
間合い。
重心。
握り。
踏み込み。
呼吸。
目線。
一つ違えば、同じ攻撃でも意味が変わる。
「お姫ちゃんは最近、特に足ばかり見ていやがりますね」
ライカが言った。
「分かるか?」
「何十年一緒にいると思ってやがりますか。道場でも師範の剣より足元を見ていることの方が多いです」
「剣は腕だけで振るものじゃないからな」
「それ、昔は姫さん言ってなかったっスよね」
「知らなかったからな」
グレイは素直に答えた。
知らないことを恥じる気はない。
六十年かけて、むしろ逆になった。
知らないことがあるなら、知ればいい。
できないことがあるなら、できるようになるまで試せばいい。
時間だけはある。
その考え方は、長命になってから少しずつ身についたものだった。
やがて道場が見えてくる。
広い敷地を低い石壁が囲み、中央には木造の大きな建物があった。
開け放たれた窓から、木剣同士がぶつかる音が響いている。
中へ入ると、汗と木の匂いがした。
十人ほどの門下生が二人一組になり、打ち込みを繰り返している。
その奥で腕を組んでいた男が、グレイたちに気付いた。
「見学か?」
「できれば教えてほしい」
グレイが答えると、男の視線が一度、彼女の全身を通った。
十五歳ほどに見える少女。
武器は持っていない。
隣には金獅子の獣人が二人。
男は少し考えてから顎をしゃくった。
「剣の経験は?」
「ある」
「どれくらいだ」
グレイは困った。
こういう質問は、いつも答えづらい。
「そこそこ」
「姫さんの『そこそこ』は信用しちゃ駄目っスよ」
横からライアンが口を挟んだ。
「余計なこと言うな」
「前の道場でも同じことになったじゃないっスか」
「にーちゃんの言う通りです。最初からある程度伝えやがった方が、お互い時間を無駄にしません」
「……分かった」
グレイは少し考え、道場主らしき男へ向き直った。
「魔法を使わない戦闘なら、Aランクの冒険者とも普通にやれる」
道場が少し静かになった。
近くにいた門下生の何人かがこちらを見る。
男も黙った。
「……冗談か?」
「言うと思ったっス」
「だから説明が面倒なんだ」
グレイが息を吐く。
道場主はしばらく彼女を見ていたが、やがて壁際に並べられた木剣へ歩いた。
一本を取り、グレイへ放る。
グレイは右手で受け取った。
「構えろ」
「いいのか?」
「見れば分かる」
なるほど。
グレイは少しだけ口元を緩めた。
こういう方が早い。
道場の中央へ進む。
門下生たちが場所を空けた。
ライアンとライカは壁際へ下がる。
「姫さん」
「ん?」
「ほどほどにするっスよ」
「分かってる」
「昨日も聞いたっス」
「昨日は事故だ」
「槍の柄折ったのは事故じゃないっス」
「古かったんだろ」
「師範が『先月新調した』って言っていやがりましたよ」
「……そうだったか?」
ライカがため息をついた。
「とぼけやがらないでください」
道場主の眉がわずかに動く。
「始めていいか?」
「ああ。悪い」
グレイは木剣を正眼に構えた。
向かいの男も構える。
その瞬間。
空気が変わった。
グレイの目が、男の剣ではなく身体全体を見る。
肩。
肘。
腰。
膝。
足先。
呼吸。
重心。
剣先は最後だった。
男が踏み込む。
速い。
木剣がグレイの肩口へ落ちる。
グレイは半歩だけ後ろへ引いた。
剣が鼻先を通る。
すぐに横薙ぎ。
今度は木剣を合わせる。
乾いた音が道場へ響いた。
力をぶつけない。
角度をつけて流す。
男の剣先が逸れる。
そのまま踏み込めば、グレイの剣が胴へ入る。
だが、入れなかった。
グレイは一歩退いた。
「……今の、もう一回やってくれ」
男が目を細めた。
「何?」
「二撃目。最初の縦から横へ繋いだ時、右足の向きが変わっただろ」
「見てたのか」
「見てた」
「何で打たなかった」
「打ったら終わるだろ」
男が黙った。
壁際からライアンの小さな声がした。
「また始まったっス」
「最近のお姫ちゃん、勝つより観察する方が目的になっていやがりますからね」
道場主はしばらくグレイを見ていたが、やがて構え直した。
「いいだろう」
今度は先ほどより低い構え。
「来い」
グレイの目が細くなる。
楽しかった。
知らない動きがある。
自分がまだ知らない身体の使い方がある。
それだけで、胸の奥に小さな熱が灯る。
六十年という時間は、グレイから多くのものを遠ざけた。
けれど、知らないものを知る時の感覚だけは、昔と変わらない。
そこからの時間は早かった。
打つ。
受ける。
止める。
尋ねる。
また打つ。
道場主が使う剣術は、グレイがこれまで学んだものより足運びを重視していた。
腕の力で剣を振るのではなく、踏み込みと腰の回転を刃へ繋げる。
特に面白かったのは、相手の間合いへ入る直前の一歩だった。
大きく踏まない。
むしろ小さい。
だが、その一歩で身体の軸が前へ移り、次の動きへ無駄なく繋がる。
グレイは何度も真似た。
「違う」
「どこだ?」
「足じゃない。腰が先に行ってる」
「こうか?」
「今度は肩が力んでる」
「……難しいな」
「そういうもんだ」
気付けば、教える側と教わる側が自然にできていた。
最初にあった警戒も消えている。
グレイは何度も同じ動きを繰り返した。
真祖の身体能力なら、形だけを真似るのは簡単だ。
けれど、それでは意味がない。
なぜそう動くのか。
どこへ力を逃がしているのか。
どの瞬間に重心を移しているのか。
そこまで理解しなければ、自分のものにはならない。
昼を過ぎても続いた。
最後には道場主の方が疲れていた。
「……お前、本当に何者だ」
床へ座り込んだ男が聞く。
グレイは木剣を壁へ戻した。
「冒険者」
「それは見れば分かる」
「じゃあ旅人」
「そういう意味じゃない」
「元王女っスよ」
ライアンが言った。
「にーちゃん」
「何でねーちゃんが怒るんスか?」
「話をややこしくしやがるからです」
道場主はグレイを見た。
「王女?」
「元だ」
「どこの?」
「もうない国」
それ以上は聞かなかった。
グレイも説明しなかった。
代わりに、道場主は壁際に置かれた水差しを取った。
「この国に来て長いのか?」
「何年かはいる」
「それで道場を回ってる?」
「ああ」
「変わった奴だな」
「よく言われる」
「褒めてねぇぞ」
「知ってる」
男が笑った。
その後、グレイは夕方まで道場に残った。
◇
「姫さん、ほんと飽きないっスねぇ」
帰り道。
夕日が石造りの町を橙色に染めていた。
グレイは歩きながら、右足を何度か小さく動かしていた。
「姫さん?」
「……ん」
「聞いてたっスか?」
「聞いてた」
「じゃあ何て言ったっス?」
「何だった?」
「聞いてないじゃないっスか」
ライカが呆れたようにグレイの足元を見る。
「さっきの歩法ですか?」
「ああ」
「宿へ戻ってからにしやがってください。人にぶつかりますよ」
「大丈夫だ」
「お姫ちゃんの大丈夫は信用しやがれません」
「俺、二人から信用なくないか?」
「あるっスよ」
「あります」
「じゃあ何でだ」
「姫さん、興味持ったもの見つけると周り見えなくなるじゃないっスか」
「六十年経ってもそこは変わりやがりませんね」
「……そうか?」
二人が同時に頷いた。
グレイは少し考えた。
自覚はない。
ただ、言われてみれば心当たりはある。
空間魔法を研究していた時もそうだった。
血の代替を探していた時も、数日間ほとんど同じことばかり考えていた。
最近は武術。
興味を持つと、理解するまで止まりにくい。
「まあ、いいんじゃないっスか」
ライアンが両手を頭の後ろへ回した。
「何が?」
「姫さんが楽しそうなら」
グレイは横目で彼を見た。
「楽しそうに見えるか?」
「見えるっスよ」
「そうか」
「お姫ちゃん、自分で思ってるより分かりやすいですから」
「母上と同じこと言うな」
「事実です」
グレイは前を向いた。
夕暮れの通りには人が多い。
仕事を終えた職人。
買い物帰りの親子。
道場帰りらしい若者たち。
食堂から漂う肉の焼ける匂い。
誰かの笑い声。
六十年前には知らなかった町。
六十年前には知らなかった人々。
旅を続けていると、そういうものが増えていく。
知っている場所より、知らない場所の方がまだ多い。
それが、少し嬉しかった。
宿へ戻ると、母たちはすでに《ドールハウス》へ帰っていた。
今夜は三人だけで夕食を取ることになっている。
食堂の隅に座り、料理が来るのを待つ。
「そういや姫さん」
「ん?」
「今日の道場でも言われてたっスけど、今って魔法なしだとどれくらいなんスか?」
「さあ」
「自分でAランクって言ってたじゃないっスか」
「目安だ」
グレイは水の入った杯を指先で回した。
「Aランクでも色々いる。相性もあるし、戦い方も違う。単純には比べられない」
「じゃあ俺とやったら?」
「ライアンと?」
「魔法なし。姫さんの吸血鬼の変な力もなし」
「変な力って言うな」
「空間魔法使われたら勝負にならないっスから」
グレイは少し考えた。
「今なら俺が勝つと思う」
「即答っスか」
「聞いたのはお前だろ」
「もうちょっと悩んでほしかったっス」
「にーちゃんは速度に頼りすぎですからね」
「ねーちゃんまで」
ライカが茶を一口飲む。
「短剣二本を活かした連撃と死角の取り方は上手いですが、最近のお姫ちゃんはそこを潰す練習ばかりしやがっています」
「ねーちゃん、姫さん側っスか?」
「事実を言っているだけです」
「ライカとは相性悪いかもな」
「私ですか?」
「氷魔法なしなら勝てると思う。でも鉄扇はやりにくい」
「なら今度やりますか?」
「いいな」
「ちょっと待つっス。何で俺との話からねーちゃんと姫さんの勝負になるんスか」
「にーちゃんも混ざればいいでしょう」
「二対一?」
「それ面白そうだな」
「姫さんまで乗らないでほしいっス」
料理が運ばれてきた。
肉と野菜を煮込んだもの。
黒いパン。
焼いた根菜。
三人の会話が一度止まる。
グレイはまず煮込みを一口食べた。
「……うまい」
「姫さん、最近飯の感想そればっかっスね」
「うまいものをうまいと言って何が悪い」
「悪くないっスけど」
「お姫ちゃん、昔より食べること好きになりやがりましたね」
言われてみればそうかもしれない。
血の代替を確立してから、食事に対する抵抗が減った。
吸血鬼だからといって普通の食事ができないわけではない。
必要性が薄いだけだ。
味は分かる。
匂いも分かる。
むしろ感覚が鋭くなった分、人間だった頃より細かく分かる。
だから旅先で知らない料理を食べるのは、いつの間にか楽しみの一つになっていた。
「この煮込み、母上にも食わせたいな」
「料理人に聞いてみるっスか?」
「そうする」
グレイはもう一口食べた。
肉は柔らかく、香辛料は強すぎない。
明日の朝、作り方を聞いてみよう。
そんなことを考えていると、隣のテーブルから声が聞こえた。
「――また拳聖かよ」
グレイの匙が止まった。
男たちが三人。
冒険者らしい。
一人は大剣。
一人は槍。
もう一人は腰に片手斧を下げている。
「この前も北の町にいたらしいぞ。道場の連中が全員まとめてやられたって」
「嘘だろ。何人だよ」
「知らん。十人だか二十人だか」
「そりゃ盛ってるだろ」
「でも拳聖だぞ?」
グレイは何も言わず、耳だけを向けた。
ライアンが気付く。
「あ」
「何だ」
「姫さん、今の顔まずいっス」
「何が?」
「興味持った顔っス」
ライカも隣の卓を見た。
「拳聖、ですか」
「知ってるか?」
「名前だけなら聞いたことはあります。お姫ちゃんも前に何度か聞いていやがりませんでしたか?」
「聞いた」
この国へ来てから、確かに何度か耳にした。
拳聖。
最初は二つ名だと思っただけだった。
実際、その通りなのだろう。
ただ、妙に名前が残る。
剣士からも聞いた。
槍使いからも。
体術の師範からも。
誰もが少し違う言い方をする。
化け物。
武術馬鹿。
人間じゃない。
無敗。
だが、一つだけ共通していた。
強い。
それも、ただ強いのではない。
武に生きる者ほど、その名を口にする時の声音が変わる。
「魔法を使わないらしいっスね」
ライアンが思い出すように言った。
「使わないんじゃない」
グレイは匙を置いた。
「使えないらしい」
「それでSランク、でしたか」
「ああ」
Sランク。
世界でもごく僅かしかいない冒険者。
そこへ魔法なしで到達した。
グレイが興味を持ったのは、その一点だった。
自分とは正反対だ。
グレイは魔法に恵まれた。
特に空間魔法。
生前から得意だったそれは、真祖になってからさらに大きく伸びた。
今では戦闘に使えば、ほとんどの相手は近づくことさえ難しい。
だからこそ、最近は意識して使わないことが増えた。
魔法を封じて戦う。
真祖としての力にも頼らない。
そうして初めて見えるものがある。
拳聖。
魔法を使えない。
それでもSランク。
「どうやってるんだろうな」
グレイが呟いた。
「姫さん?」
「身体強化も魔法だ。普通の戦士でも使う。あれなしでSランクまで行くなら、身体そのものが相当強くないと無理だ」
「何か技術があるんじゃなかったっスか?」
「《魔気闘法》」
ライカが先に答えた。
グレイが頷く。
「気と魔力を混ぜて身体に巡らせる。魔法とは違うらしい」
「よく分からないっスね」
「俺も分からない」
「姫さんが分からないって言うと、余計に分からないっス」
「だから興味がある」
ライアンが「ああ」と声を漏らした。
「やっぱりそうなるっスか」
「何がだ?」
「姫さん、その拳聖探しに行く気っスよね?」
「今のところは」
「今のところ?」
「居場所が分からない」
「分かったら?」
グレイは少しだけ考えた。
考える必要もなかった。
「会ってみたい」
「会うだけっスか?」
「できれば戦ってみたい」
「ほら」
ライアンが額を押さえた。
ライカは特に驚かなかった。
「まあ、そう言うと思っていやがりました」
「止めないのか?」
「止めて聞きやがりますか?」
「たぶん聞かない」
「なら無駄なことはしません」
六十年。
そういうところも変わらない。
ライアンはため息をつきながらも、もう止めようとはしていなかった。
「で、その拳聖ってどこにいるんスかね」
「知らない」
「探すんスか?」
「別に急がなくていい」
グレイは煮込みを口へ運んだ。
うまい。
今はこっちの方が大事だった。
「そのうち会うだろ」
「適当っスね」
「旅してるんだ。縁があれば会う」
「縁がなかったら?」
「それはそれでいい」
強くなりたい。
知らない技術は知りたい。
けれど、それだけのために旅をしているわけではない。
母と話す。
ライアンとくだらないことを言う。
ライカに叱られる。
知らない町へ行く。
知らない料理を食べる。
知らない景色を見る。
その全部が、今のグレイにとって旅だった。
拳聖とやらに会えなくても、困ることはない。
ただ。
もし会えたなら。
少しだけ、戦ってみたい。
◇
翌朝。
グレイは宿の裏庭にいた。
まだ町が完全には目を覚ましていない時間。
石壁の向こうから鳥の声が聞こえる。
地面には薄く朝露が残っていた。
グレイは靴を脱ぎ、裸足で土の上に立っている。
昨日教わった歩法を確かめるためだった。
右足を出す。
止める。
戻す。
もう一度。
今度は腰を遅らせる。
「違うな」
小さく呟く。
昨日、道場主が見せた動き。
見た。
覚えている。
だが、再現すると何かが違う。
形は合っているはずなのに、身体の中を通る力の流れが違う。
グレイは目を閉じた。
足裏。
足首。
膝。
股関節。
腰。
背中。
肩。
腕。
剣を持っていなくても、繋がりは分かる。
ゆっくり踏み込む。
今度は先ほどより滑らかだった。
「……これか?」
「惜しいっスね」
後ろから声がした。
グレイは振り返らない。
「いつからいた」
「ちょっと前っス」
「起きてたのか」
「寝る必要ないっスからね、俺」
「そうだったな」
「忘れないでほしいっス」
ライアンが隣へ来る。
彼も裸足になった。
「昨日のやつっスか?」
「ああ」
「ちょっとやってみていいっス?」
「分かるのか?」
「短剣でも足は使うっスよ」
「そうだった」
「姫さん、最近道場の技術に夢中すぎて俺らのこと忘れてないっスか?」
「忘れてない」
「じゃあ俺の得意な戦い方」
「短剣二刀。速度と死角を使った連続攻撃。正面から力をぶつけるより、相手の意識の外へ回る。左の方が少し速い」
「最後のは初耳っス」
「見てれば分かる」
「怖いっスねぇ」
言いながら、ライアンが構える。
武器はない。
それでも立ち方だけで、いつもの戦闘姿勢に近いのが分かる。
「昨日の師範、こうだったっスよね」
一歩。
グレイの目が細くなる。
「……違う」
「どこがっスか?」
「お前の方が速い」
「そりゃどうも」
「でも軽い」
「姫さん、それ褒めてないっスよね?」
「お前は次の一歩を前提にしてる。昨日のは、一歩で全部乗せてた」
「ああ」
ライアンがもう一度動く。
「じゃあこう?」
「少し近い」
二人で何度か繰り返す。
やがてライカも起きてきた。
「朝から何をしやがってるんですか」
「姫さんの練習に付き合ってるっス」
「なら私も見ます」
「ねーちゃんも?」
「にーちゃん一人では適当なことを教えそうですから」
「信用ないっスね」
「日頃の行いです」
気付けば三人になっていた。
六十年前も、こうだった気がする。
誰かが何かを始める。
もう一人が口を出す。
最後には三人でやっている。
朝日が石壁の上から差し込み始める。
グレイはもう一度、昨日の一歩を踏んだ。
今度は。
「あ」
感覚が繋がった。
足から入った力が腰へ通り、肩まで抜ける。
無理に速くしていない。
それでも身体が自然に前へ出る。
ライアンも気付いた。
「今のっスね」
「ああ」
グレイは自分の足元を見る。
たった一歩。
それだけ。
魔法なら、もっと速く動ける。
空間を繋げば、一歩どころか距離そのものを消せる。
けれど、今はそれとは違う満足感があった。
自分の身体だけで、昨日できなかったことができた。
「面白いな」
思わず口から出た。
ライカが小さく笑う。
「やっぱり楽しそうじゃないですか」
「……そうかもな」
グレイは否定しなかった。
◇
それから数日、三人は同じ町に滞在した。
グレイは道場へ通いながら、時折冒険者ギルドの依頼も受けた。
金に困っているわけではない。
実戦で試したかった。
近郊に出た魔物の討伐。
護衛。
街道の安全確認。
以前なら、どれも空間魔法を使えば簡単に終わる。
だが今は、なるべく使わない。
剣を持つ。
槍を持つ。
時には素手。
学んだ動きを試す。
上手くいくこともあれば、失敗することもある。
失敗しても、グレイの身体なら大抵はどうにかなる。
だからといって雑にはしない。
むしろ逆だった。
死なないからこそ、何が悪かったのかを考えられる。
ある日の夕方。
三人は街道近くの森から町へ戻っていた。
討伐依頼を終えた帰りだった。
「姫さん、最後のやつ普通に魔法使った方が早かったっスよ」
「分かってる」
「じゃあ何で使わなかったんスか」
「昨日覚えた崩しを試したかった」
「相手、四本足だったっスよ?」
「だから試した」
「発想がおかしいっス」
ライカが隣で鉄扇を閉じた。
「でも成功しやがりましたね」
「ああ。人間相手と同じじゃ駄目だったけどな」
相手の骨格が違えば、重心も違う。
当然と言えば当然だ。
それでも学んだ考え方そのものは使えた。
力の向きを変える。
相手が踏ん張る方向を読む。
足が四本あるなら、四本全部を崩す必要はない。
一つ浮けば、残りの三つへ負担が移る。
そこへ力を加えればいい。
「次はもう少し上手くできる」
「姫さん、魔物相手に次を期待しないでほしいっス」
「別のやつで試す」
「もっと駄目な気がするっス」
森を抜ける。
遠くに町の外壁が見えた。
夕方の光が長く伸び、街道を歩く三人の影が並ぶ。
その時。
前方から来た荷馬車が止まった。
御者がこちらへ手を上げる。
「おい、冒険者か?」
「そうっスよ」
ライアンが答えた。
「この先から来たのか?」
「ああ」
グレイが頷く。
「何かあったのか?」
御者は少し安心した顔をした。
「いや、魔物じゃない。山の方で飛竜を見たって話が出ててな」
グレイの視線がわずかに上がった。
「飛竜?」
「ああ。まだ町まで降りてきたわけじゃないらしいが、牧場の家畜が何頭かやられたとか。街道にも近づいてるって話だ」
「へえ」
「しばらく山沿いは避けた方がいいぞ」
「分かった。ありがとう」
御者は荷馬車を進めていった。
ライアンがグレイを見る。
「姫さん」
「何だ」
「今、また興味持ったっス?」
「飛竜には別に」
「じゃあ何で山見てるんスか」
グレイは遠くの山並みを見た。
夕焼けを背に、黒い稜線が連なっている。
「いや」
首を振る。
「何でもない」
その日は、それで終わった。
◇
夜。
宿の食堂はいつもより少し騒がしかった。
飛竜の噂が広がったらしい。
商人たちが街道の状況を話し、冒険者たちは討伐依頼が出るかどうかを気にしている。
グレイはいつもの席で夕食を食べていた。
今日は焼いた鶏肉に、香草と酸味のあるソースがかかっている。
一口。
グレイは少し目を細めた。
「これ、うまいな」
「また言ってるっス」
「本当にうまい」
「お姫ちゃん、ここ気に入りましたね」
「ああ」
この宿は飯がうまい。
部屋も悪くない。
主人も余計な詮索をしない。
道場も近い。
しばらく滞在してもいいと思っていた。
その時。
宿の主人が近くの客へ料理を運びながら、ため息をついた。
「参ったなぁ」
グレイが顔を上げた。
「何かあったのか?」
「ん? ああ、お嬢ちゃんたちか」
主人は空いた皿を片手に立ち止まった。
「飛竜の話、聞いたか?」
「今日聞いた」
「山から降りてきてるらしくてな。北の牧場がやられた。街道も危なくなるかもしれん」
「そうか」
「食材を運んでくる商人も、しばらく別の道を使うって言い始めててなぁ。この辺の野菜も肉も、北側から来るものが多いんだ」
グレイの手が止まった。
「……それは困るな」
「だろ? 値段も上がるし、仕入れられなくなるものも出る」
主人は肩を落とし、そのまま厨房へ戻っていった。
沈黙。
ライアンがゆっくりグレイを見る。
ライカも見る。
「何だ」
「いや」
「何だよ」
「姫さん、今すごく分かりやすい顔したっス」
「してない」
「しやがりました」
「二人とも何が言いたい」
ライアンが鶏肉を一切れ口へ入れた。
「飛竜、倒しに行くんスか?」
「……まだ何も言ってないだろ」
「行くんスね」
「お姫ちゃん、ここの料理かなり気に入っていやがりますからね」
グレイは皿を見る。
香草の香り。
焼けた皮の香ばしさ。
ソースの酸味。
もう一口食べる。
「明日、ギルドに行く」
「やっぱり」
「被害が出てるなら放っておく理由もない」
「今、後付けしやがりましたね」
「後付けじゃない」
「最初に出た言葉は『それは困るな』だったっス」
「人が困ってるからだ」
「食材が来なくなるからでしょう」
「同じだろ」
「全然違うっス」
グレイは無視して食事を続けた。
向かいでライアンが笑っている。
ライカも呆れてはいるが、本気で止めるつもりはなさそうだった。
「まあ、いいんじゃないっスか」
「何が?」
「理由なんて何でも。飛竜がいなくなって困る人はいないっスから」
「そうだ」
「ただし、お姫ちゃん」
ライカが鉄扇の先でグレイの皿を指した。
「討伐するなら、食材を駄目にしやがらない方法で倒してください」
「……食うのか?」
「飛竜の肉が食用になるならです」
グレイは少し考えた。
「それは気になるな」
「ほら、また食べ物っス」
「うるさい」
三人の笑い声が、小さな宿の食堂へ混ざる。
窓の外。
夜の向こうに山がある。
そこに何が待っているのか、グレイはまだ知らない。
飛竜のことしか考えていなかった。
いや。
正確には。
飛竜より、そのせいで食べられなくなるかもしれない宿の料理の方を気にしていた。
だから、その山で。
この先何百年も自分の傍らに立つことになる男と出会うなど、考えるはずもなかった。
◇
翌日。
冒険者ギルドの掲示板には、まだ飛竜の正式な討伐依頼は出ていなかった。
被害状況の確認中らしい。
グレイは受付で話を聞き、山へ入るなら自己責任だと念を押された。
「どうするっスか?」
ギルドを出たところでライアンが聞く。
「今日は行かない」
「意外っスね」
「被害がどこまで出てるか分からない。飛竜が一頭とも限らない」
グレイは通りを歩きながら答える。
「それに、今日は道場に約束してる」
「そっち優先なんスか」
「約束したからな」
ライカが小さく頷いた。
「なら、情報だけ集めておきますか」
「ああ。頼む」
「私がですか?」
「ライアンと二人で」
「姫さんは?」
「道場」
「完全に任せる気っスね」
「適材適所だ」
「便利な言葉覚えやがりましたね」
三人は町の中央で別れた。
グレイは一人、道場へ向かう。
朝の通りは活気がある。
鍛冶場から鉄を打つ音が響く。
店先には剣や槍が並ぶ。
広場の端では、子供たちが木の棒を持って打ち合っていた。
この国へ来てから何度も見た光景。
武が生活の近くにある。
だからこそ、拳聖という存在が特別なのだろう。
歩きながら、昨日聞いた話を思い出す。
魔法を使えない。
Sランク。
《魔気闘法》。
気と魔力を混ぜる。
理屈は聞いたことがある。
試したこともある。
できなかった。
魔力だけなら動かせる。
身体の中を巡らせることもできる。
だが、「気」が分からない。
生命力に近いとも聞いた。
身体を動かす意思そのものだと言う者もいた。
呼吸と共に生まれる力だと言う者もいる。
説明する人間によって違う。
だから余計に面白い。
魔法なら、グレイには見える。
魔力の流れ。
構築。
現象。
どこで何が起きているか、ある程度理解できる。
《魔気闘法》は違う。
分からない。
分からないものがある。
「……拳聖か」
もう一度、その名を口にした。
道場の門が見える。
グレイはそこで思考を切り替えた。
今は目の前のことだ。
◇
その日から、町には少しずつ飛竜の影が落ち始めた。
北側から来る荷馬車が減った。
牧場の被害が増えた。
山へ入った狩人が、大きな翼の影を見た。
冒険者ギルドには調査依頼が出され、やがて飛竜の存在が正式に確認された。
討伐依頼が出るのも時間の問題だった。
それでも町の日常は続いている。
鍛冶師は鉄を打つ。
道場では木剣の音が響く。
宿では料理が出る。
人々は笑う。
グレイも変わらず道場へ通った。
ただ一つ。
拳聖の噂を耳にする回数が、妙に増えていた。
「拳聖なら飛竜くらい一人でやるだろ」
「そもそも今どこにいるんだよ」
「西へ行ったって聞いたぞ」
「いや、北の山で修行してるって話だ」
別の日には。
「拳聖は剣も使えるらしい」
「拳聖なのに?」
「何でも使うんだと。槍でも棒でも斧でも」
「じゃあ何で拳聖なんだ?」
「一番強いのが素手だからじゃねぇの?」
また別の道場では。
「あの男に型なんてものはない」
老いた師範がそう言った。
グレイは稽古の後、興味を持って尋ねた。
「戦ったことがあるのか?」
「昔にな」
「勝った?」
「馬鹿を言え」
老人は笑った。
悔しそうでも、恥じてもいなかった。
「何もできんかったよ」
「何も?」
「ああ。剣を振る前に、立ち方を崩された」
グレイの目が細くなる。
「どうやって?」
「それが分かっていれば、今頃儂も拳聖を名乗っとる」
「確かに」
「お前、あいつを探してるのか?」
「探してるわけじゃない」
「なら、その顔は何だ」
「どんな顔だ?」
「若い頃の儂と同じ顔だ」
老人が笑う。
「一度やられてみたい、って顔だ」
グレイは少し黙った。
否定できなかった。
「……そんなに強いのか」
「強い」
老人は即答した。
「魔法も使えん。大層な血筋でもない。特別な武器を持っているわけでもない。それでも、あの男と向かい合えば分かる」
「何が?」
「自分が、どれだけ雑に立っていたかがな」
その言葉だけが、妙に残った。
雑に立つ。
グレイは帰り道でも考えた。
立つこと。
歩くこと。
呼吸すること。
拳を握ること。
どれも、生まれてから何度繰り返したか分からない。
けれど、本当に正しくできているのかと聞かれれば。
分からない。
魔法を覚えるより難しいのかもしれない。
「姫さん」
宿へ戻ると、入口でライアンが待っていた。
「どうした?」
「出たっスよ」
「何が?」
「飛竜の討伐依頼」
グレイの足が止まる。
ライアンが親指で背後を示した。
「ねーちゃんがギルドで詳しい話聞いてるっス。明日の朝には山へ入れるみたいっスよ」
「そうか」
「行くっスよね?」
「ああ」
「即答」
「宿の主人も困ってる」
「飯が食えなくなるから?」
「人助けだ」
「はいはい」
グレイは宿の扉を開けた。
中から、夕食の匂いが流れてくる。
今日は煮込みらしい。
腹が減っているわけではない。
それでも自然と足が食堂へ向いた。
「姫さん」
「ん?」
後ろからライアンが呼ぶ。
「拳聖の話、今日も聞いたっスか?」
「ああ」
「そんなに気になるんスね」
グレイは少しだけ振り返った。
六十年前。
自分は外の世界をほとんど知らなかった。
強さの形も、一つしか知らなかった。
圧倒的な魔力。
圧倒的な能力。
真祖。
それを倒すため、自分もまた大きな力を手に入れた。
けれど旅をして、知った。
強さは一つではない。
剣を振る者がいる。
槍を極める者がいる。
盾一枚で仲間を守る者がいる。
魔法を使えなくても、Sランクまで登った男がいる。
自分の知らない場所に、自分の知らない強さがある。
「気になるな」
グレイは素直に答えた。
「一度、戦ってみたい」
ライアンが苦笑する。
「やっぱりそこっスか」
「駄目か?」
「いや。姫さんらしいっスよ」
それだけ言って、ライアンは先に食堂へ入った。
グレイは一瞬だけ、その場に残った。
開いた扉の向こうから明かりが漏れている。
食器の音。
人の話し声。
ライカがこちらへ何か言っている声。
グレイはそれを聞きながら、ふと窓の外へ目を向けた。
町の向こう。
夜の山。
明日は、あそこへ行く。
目的は飛竜の討伐。
それだけのはずだった。
「お姫ちゃん、何をぼさっとしていやがるんですか。冷める前に来てください」
「ああ、今行く」
グレイは食堂へ入った。
扉が閉まる。
夜風の音が遠ざかる。
山の向こう側へ来てから、六十年。
知らないものを探して歩いてきた。
知らない国を見た。
知らない料理を食べた。
自分の身体を知った。
人の血に怯えなくてもいい方法を見つけた。
剣を握った。
槍を学んだ。
拳を振った。
それでも。
まだ、知らないものがある。
それでいい。
グレイは席に着き、湯気の立つ皿へ手を伸ばした。
明日も旅は続く。
その程度にしか考えていなかった。
まだ彼女は知らない。
明日登る山にいる一人の男が、これまで学んできたものを根元から揺さぶることを。
そして、その男がいつか――拳聖という二つ名ではなく。
グレイ自身が与えた名前を大切にして、長い時間を共に歩くことになることを。




