第2話 拳聖
朝の食堂には、まだ空席が多かった。
窓の外はようやく白み始めたばかりで、通りを行き交う人影もまばらだ。夜の冷たさを残した空気が窓枠の隙間から入り込み、厨房では火を起こす音と、鍋の蓋が触れ合う小さな音が続いている。
そんな時間だというのに、グレイたちの前にはすでに朝食が並んでいた。
黒パンと卵。
厚めに切った燻製肉。
豆と根菜を煮込んだ温かなスープ。
そして、小さな器に盛られた酸味のある野菜の漬物。
グレイはスープを一口飲み、静かに匙を置いた。
「……やっぱり、ここの飯はうまいな」
「姫さん、飛竜より先に言うことがそれなんスか?」
向かいに座るライアンが呆れたように笑った。
「朝飯を食ってるんだから、飯の話をして何が悪い」
「悪くはないっスけど、今日これから飛竜を倒しに行く人の第一声じゃない気がするっス」
「にーちゃん。お姫ちゃんに格好のいい討伐理由を期待するだけ無駄です」
ライカはそう言いながら、丁寧にパンをちぎった。
その手元には、昨夜冒険者ギルドでもらってきた山周辺の地図が広げられている。
地図には赤い印が三つ。
一つは北側の牧場。
一つは山道。
最後の一つは、そこからさらに山へ入った岩場だった。
いずれも飛竜が目撃された場所だ。
「でも、お姫ちゃん。昨日より被害が増えていやがります。北の牧場では家畜だけで済みましたが、山道では荷馬車が襲われています」
「怪我人は?」
「御者が一人。腕を折りやがったそうですが、命に別状はないそうです」
「そうか」
グレイは地図へ視線を落とした。
昨夜のうちに正式な討伐依頼が出た。
対象は一頭の飛竜。
今のところ確認されているのは一頭だけで、つがいや幼体の存在は報告されていない。
山の奥に棲んでいた個体が、何らかの理由で人里近くまで行動範囲を広げているらしい。
討伐そのものは難しい依頼だった。
飛竜は空を飛ぶ。
硬い鱗を持つ。
爪と牙だけでなく、長い尾まで武器になる。
何より、地上の魔物とは違って逃げようと思えば空へ逃げられる。
普通の冒険者なら、相応の人数を揃える必要がある。
けれど。
「姫さん一人でも十分じゃないっスか?」
ライアンが燻製肉を摘まみながら言った。
「そうかもな」
「じゃあ俺ら、いらなくないっスか?」
「嫌なら宿で待っててもいいぞ」
「行かないとは言ってないっスよ」
「なら問題ない」
「そういうところっスよねぇ」
ライアンが肩をすくめる。
ライカは地図を指先で押さえた。
「飛竜が空へ逃げた場合はどうしやがります?」
「落とす」
「どうやって?」
「翼を潰す」
「その方法を聞いていやがります」
「空間を――」
そこまで言って、グレイは止まった。
ライアンとライカが同時にこちらを見る。
「……使わない」
「今、普通に使おうとしたっスよね?」
「癖だ」
「今日は武術の練習じゃありませんよ、お姫ちゃん。依頼として討伐する以上、必要なら魔法も使いやがってください」
「分かってる」
グレイは少し不満そうにスープを飲んだ。
ここしばらく、魔法を使わずに戦うことが増えていた。
特に空間魔法は便利すぎる。
距離を潰せる。
攻撃を逸らせる。
相手の死角へ移動できる。
使い方によっては、防御そのものを無視することさえできる。
だから武術を学ぶ時には意識して封じている。
それ自体はいい。
だが最近、普通の戦闘でもその癖が出始めていた。
「姫さん、別に魔法使ったら負けってわけじゃないっスからね」
「分かってるって」
「本当っスか?」
「しつこい」
「昨日も四つ足の魔物に崩しを試してたじゃないっスか」
「あれは試せそうだったから試しただけだ」
「飛竜にもやる気っス?」
グレイは答えなかった。
「姫さん?」
「……できるかもしれない」
「やる気じゃないっスか」
「お姫ちゃん」
「冗談だ」
二人の視線が痛い。
グレイは残っていたパンを口へ運んだ。
ちょうどその時、厨房から宿の主人が出てきた。
「お、今日は早いな」
「ああ。山に行く」
「山?」
主人の表情が曇る。
すぐに察したらしい。
「まさか、飛竜か?」
「そのまさかっス」
ライアンが答える。
主人は三人を順番に見た。
グレイ。
ライアン。
ライカ。
「三人で?」
「そうだ」
「いや、嬢ちゃんたちが冒険者なのは知ってるが……飛竜だぞ?」
「知ってる」
「危ないんじゃないか?」
「たぶん大丈夫だ」
「たぶんって……」
主人が困った顔をする。
グレイは首を傾げた。
「討伐依頼が出てるんだろ?」
「そりゃそうだが」
「なら誰かが行かないと終わらない」
主人は何か言おうとして、結局口を閉じた。
しばらくして、大きく息を吐く。
「無茶だけはするなよ」
「ああ」
「それと」
主人は少しだけ言いづらそうに頭を掻いた。
「昨日の話、気にしたのか?」
「昨日?」
「食材が入らなくなるって話だよ」
「ああ」
「いや、俺は別に嬢ちゃんたちに倒してくれって意味で言ったんじゃないからな」
「分かってる」
グレイは残っていたスープを飲み干した。
「でも、ここの飯が食えなくなるのは困る」
主人が目を丸くする。
隣でライアンが顔を覆った。
「姫さん、もうちょっと格好つけてもいいと思うっス」
「何でだ」
「そこは『町の人が困ってるから』とか」
「それもある」
「今付け足したっスよね?」
「細かいな」
ライカが小さく息を吐いた。
「せめて宿の主人の前では、もう少し格好のつく理由を言いやがってください」
「別に嘘じゃないだろ」
「嘘かどうかの話ではありません」
主人が堪えきれず笑った。
「ははっ。そりゃありがたいな。なら無事に戻ってきたら、何かうまいもん作ってやるよ」
グレイの目が少しだけ動く。
「本当か?」
「そこに一番食いつくんスね」
「約束だからな」
「まだ何を作るとも言ってねぇよ」
主人は笑いながら厨房へ戻っていった。
グレイは席を立つ。
「行くか」
「はいはい」
ライアンも立ち上がる。
ライカは地図を畳み、腰へ差した。
鉄扇も確認する。
三人が宿を出ると、朝の冷たい空気が頬を撫でた。
東の空から昇り始めた太陽が、遠くの山肌を薄く照らしている。
あのどこかに飛竜がいる。
そして三人はまだ知らなかった。
今日、そこで出会うのが飛竜だけではないことを。
◇
町の北門を抜けると、景色はすぐに変わった。
石畳の道は土の街道へ変わり、その両側には牧草地が広がっている。
普段なら家畜の姿が多いのだろう。
だが今日は少なかった。
飛竜の被害を警戒して、ほとんどが小屋へ入れられている。
街道を進む荷馬車もない。
風が草を撫でる音だけが、妙に大きく聞こえた。
「静かっスね」
「ああ」
ライアンはいつもの軽い調子を残していたが、視線は周囲を見ている。
人形の身体になっても、長年培った戦闘感覚は変わっていない。
ライカも同じだった。
「お姫ちゃん。最初の被害があった牧場は、あちらです」
ライカが右手を示す。
少し離れたところに、壊れた柵が見えた。
三人は街道を外れた。
近づくにつれて、地面に残った痕跡が見えてくる。
踏み荒らされた草。
深く抉れた土。
乾いた血。
大きな爪痕。
グレイはその場にしゃがみ込んだ。
「大きいな」
「成体っスか?」
「たぶん」
爪痕へ指を添える。
人間の手よりはるかに大きい。
飛竜が家畜を掴み、そのまま持ち去ったのだろう。
周囲には骨や肉片が残っていない。
「ここで食べたわけではなさそうですね」
「ああ。持っていった」
「巣に?」
「可能性はある」
グレイは立ち上がった。
山を見る。
ここからでも稜線がよく見えた。
「この辺りまで餌を探しに来てるなら、山で獲物が減ったんスかね」
ライアンの言葉に、グレイは少し考えた。
「分からない。縄張りを追われた可能性もある」
「別の飛竜に?」
「それもあるし、もっと強い何かかもしれない」
「嫌な話をしやがらないでください」
ライカが壊れた柵へ目を向ける。
「今のところ、他の大型魔物の報告はありません」
「なら考えても仕方ないな」
三人は再び歩き出した。
牧草地を抜けると、少しずつ傾斜が増していく。
草原から低木。
やがて木々が増え、山道へ入った。
朝の光は枝葉に遮られ、足元にはまだ夜露が残っている。
鳥の鳴き声。
葉の擦れる音。
遠くで水が流れる音。
グレイは時折立ち止まりながら進んだ。
「姫さん、何見てるんスか?」
「跡」
「あるんスか?」
「あそこ」
少し先の木。
太い枝が途中から折れている。
かなり高い位置だ。
その先には葉が不自然に散っていた。
「飛竜が通った?」
「たぶんな」
「飛んでるのに木に当たるんスかね」
「着地したか、低く飛んだか」
グレイは周囲を見る。
地面にも浅い爪痕があった。
方向は山の奥。
「追えるな」
「姫さん、こういうのも上手くなったっスよね」
「旅してれば覚える」
「最初の頃は道そのものを間違えてたっスけど」
「……そんなことあったか?」
「ありましたよ。山脈を越えた直後、お姫ちゃん一人なら真逆へ行っていやがりました」
「覚えてない」
「都合の悪いことだけ忘れやがりますね」
「昔のことだろ」
グレイは先へ進んだ。
「逃げたっス」
「逃げやがりましたね」
二人の声が後ろから追ってくる。
グレイは少しだけ口元を緩めた。
森を進むにつれ、道は険しくなった。
人が使う山道から外れ、獣道に近い場所へ入る。
岩。
根。
急な斜面。
生身の人間なら慎重に進まなければならないが、三人にとって大きな問題ではない。
ライアンが軽く岩を蹴り、一段高い場所へ飛び乗る。
ライカも続く。
グレイはその後ろを歩いた。
空間転移は使わない。
ただ登る。
足を置く場所を選び、重心を移し、身体を持ち上げる。
昨日まで道場で学んでいたことが、こういう場所でも役に立つ。
「……なるほど」
「何がっスか?」
「いや。昨日の歩法」
「山登りでも試してるんスか?」
「重心の移し方は同じだからな」
「飛竜討伐中っスよ、姫さん」
「まだ飛竜いないだろ」
「見つけたらちゃんと切り替えてくださいね」
「分かってる」
しばらく登ったところで、ライカが足を止めた。
「お姫ちゃん」
「ああ」
グレイも気付いていた。
匂い。
血だ。
新しい。
人間ではない。
三人は言葉を減らした。
木々の間を抜ける。
やがて、小さく開けた場所へ出た。
そこに鹿に似た魔物の死骸があった。
胴体が大きく裂けている。
腹部には爪。
首には牙。
周囲の土には、飛竜のものと思われる足跡が残っていた。
グレイは近づく。
「食い残しだな」
「まだ新しいっスね」
「血も乾ききっていやがりません」
グレイは傷口を見る。
鼻を掠める血の匂い。
昔なら、もっと強く意識を引かれていた。
今は違う。
血だと分かる。
身体も反応している。
けれど、それだけだ。
グレイは静かに息を吐いた。
「近いな」
「姫さん、大丈夫っスか?」
ライアンの声。
グレイは彼を見る。
「何が?」
「血」
「ああ」
もう一度死骸を見る。
「平気だ」
「ならいいっス」
それ以上、ライアンは何も言わなかった。
ライカも聞かない。
それがありがたかった。
グレイは立ち上がる。
「行こう」
足跡を追う。
さらに山を登る。
しばらくすると木々が減り、岩肌が増えてきた。
風も強くなる。
視界が開けるにつれて、町の姿が遠くに見え始めた。
「結構登ったっスね」
「飛竜ならこのくらいの方が都合いいんだろ」
「飛び立ちやすいですからね」
ライカが空を見る。
雲は少ない。
青い空。
飛竜の姿はない。
「姫さん」
「ん?」
「本当に空間魔法なしでやるつもりっスか?」
「必要なら使う」
「必要になるまで意地張らないでほしいっス」
「張らない」
「お姫ちゃんの場合、自覚なく張りやがりますからね」
「二人とも俺を何だと思ってるんだ」
「姫さん」
「お姫ちゃんです」
「答えになってない」
そんなやり取りをしながら、三人はさらに進んだ。
やがて。
グレイの足が止まった。
ライアンとライカも、ほぼ同時に止まる。
音がした。
遠い。
低い。
空気を震わせるような咆哮。
鳥たちが一斉に木々から飛び立つ。
「いたっスね」
「ああ」
グレイは咆哮の方向を見る。
山の上。
岩場の向こう。
だが。
もう一つ。
音がした。
鈍い衝撃音。
何か大きなものが岩へぶつかったような音。
続いて、再び飛竜の咆哮。
今度は明らかに怒っている。
「戦ってやがりますね」
ライカが鉄扇を抜いた。
「先客か」
ライアンも腰の短剣へ手を伸ばす。
グレイは一瞬だけ考えた。
「急ぐぞ」
三人が走り出した。
◇
岩場へ近づくほど、音は大きくなった。
翼が空気を叩く音。
岩が砕ける音。
飛竜の咆哮。
そして。
何かがぶつかる、短く重い音。
魔法の気配はない。
少なくとも、大規模な魔法が使われている様子はなかった。
「冒険者っスかね?」
「分からない」
グレイは岩を蹴って高所へ上がった。
視界が開ける。
その瞬間。
巨大な影が横切った。
「っ」
飛竜。
翼を広げれば十数メートルはある。
灰褐色の鱗。
長い尾。
鋭い爪。
その巨体が岩場の上を低く旋回している。
そして。
その下に、一人の男がいた。
「……一人?」
ライアンが思わず声を漏らす。
男は五十歳ほどに見えた。
大柄ではない。
むしろ、飛竜と並べばあまりにも小さい。
服装も簡素だった。
鎧は着ていない。
身体へ密着する動きやすそうな服の上から、最低限の防具を身につけているだけ。
両手には一対のトンファー。
それだけだった。
剣もない。
盾もない。
杖もない。
弓もない。
グレイは男を見た瞬間、眉を寄せた。
「……魔力が」
「どうしたっスか?」
「使ってない」
男から魔法の構築が感じられない。
身体強化すらない。
少なくとも、グレイが知っている魔法の使い方とは違う。
飛竜が上空で翼を傾けた。
男へ向かって急降下する。
「危ないっス!」
ライアンが動こうとした。
「待て」
グレイが止める。
「姫さん?」
「見ろ」
飛竜が迫る。
巨大な爪が男へ伸びた。
普通なら避ける。
横へ。
後ろへ。
あるいは盾で受ける。
男は違った。
一歩。
前へ出た。
「は?」
ライアンの声。
男の身体が、飛竜の爪へ自ら近づく。
次の瞬間。
トンファーが動いた。
大きく振らない。
爪の側面へ触れる。
ほんの僅かに角度を変える。
飛竜の爪が男の肩を掠めるように通過した。
いや。
掠めてもいない。
男は飛竜の懐へ入っていた。
右足が地面を踏む。
腰。
肩。
腕。
全てが一つに繋がる。
トンファーの先端が、飛竜の前脚の付け根へ突き込まれた。
――ドン。
音が遅れて響いた。
飛竜の巨体が傾く。
「……何だ、今の」
グレイの口から、無意識に言葉が漏れた。
強い。
それだけではない。
今まで見た武人とは、何かが違う。
力任せではない。
速さだけでもない。
飛竜の攻撃を受けていない。
避けたとも違う。
相手の力が通る場所から、自分だけが消えた。
そして、そのまま攻撃へ繋げた。
飛竜が着地する。
岩が砕ける。
怒りの咆哮。
男は動かない。
逃げない。
構えすら大きく変えない。
トンファーを腕へ沿わせ、静かに立っている。
「姫さん」
「ああ」
「強いっスね、あれ」
「……強い」
グレイの視線は男から離れなかった。
飛竜が尾を振るう。
横薙ぎ。
岩さえ砕く一撃。
男は腰を落とした。
トンファーを立てる。
「受ける気っスか!?」
尾が迫る。
衝突。
だが。
男の身体は吹き飛ばなかった。
足元の砂だけが大きく舞う。
「違う」
グレイが呟いた。
「受けてない」
「え?」
「流してる」
トンファーが尾へ触れた瞬間、男の身体が僅かに回転していた。
正面から止めていない。
尾の勢いを横へ逃がし、その力を自分の回転へ変えている。
そして。
回転した身体が、そのまま次の攻撃へ繋がる。
左のトンファー。
飛竜の脚。
低い打撃。
飛竜の足が浮く。
男は踏み込む。
今度は右。
腹部。
鱗に覆われた巨体へ打撃が入る。
一発。
二発。
三発。
どれも大振りではない。
なのに。
飛竜が後退した。
「おかしいっスよね?」
「何が?」
「あの体格差で、何で飛竜が押されるんスか」
「力だけじゃない」
グレイは男の足を見ていた。
足。
膝。
腰。
背中。
肩。
腕。
昨日まで何度も考えていたもの。
身体の繋がり。
だが男のそれは、道場で見てきたものより遥かに滑らかだった。
一つの動作が終わらない。
全てが次へ続いている。
立つことすら、次の動作の一部になっている。
「……綺麗だな」
「姫さん?」
「動きが」
飛竜が口を開いた。
喉の奥に熱が集まる。
「ブレス!」
ライカが声を上げる。
男も気付いている。
それでも動かない。
炎が吐き出された。
岩場を焼きながら、男へ迫る。
今度こそ避けなければならない。
グレイもそう思った。
男が踏み込んだ。
前へ。
「また!?」
炎へ向かって。
グレイの目が見開かれる。
男の身体を何かが覆っている。
魔力。
いや。
魔力だけではない。
見慣れない流れ。
薄い。
だが確かに身体へ纏わりついている。
「これ……」
炎が男を呑み込む直前。
トンファーが振るわれた。
空気が弾けた。
炎が割れる。
完全に消えたわけではない。
中央だけが強引に押し開かれた。
男はその隙間を駆け抜ける。
「嘘だろ」
グレイが呟く。
魔法ではない。
少なくとも、一般的な魔法では。
男が飛竜の正面へ出る。
飛竜が驚いたように首を引く。
遅い。
男は地面を蹴った。
跳ぶ。
飛竜の頭部まで。
右のトンファーを逆手に持ち替える。
身体が空中で捻れる。
打撃。
飛竜の顎が跳ね上がった。
巨体が揺れる。
男は着地。
すぐに距離を取る。
「……あれが」
グレイは知らず、拳を握っていた。
聞いたことがある。
この国で何度も。
魔法を使えない男。
それでもSランクへ到達した武人。
気と魔力を混ぜ合わせ、肉体へ巡らせる技術。
「《魔気闘法》」
ライカがグレイを見る。
「まさか」
「たぶん」
男の名前を、グレイは知らない。
だが。
二つ名なら知っている。
飛竜が再び飛び上がる。
片方の前脚を庇っている。
先ほどの攻撃が効いている。
男は追わない。
空を見上げる。
飛竜が高度を取る。
「逃げる気っスかね」
「いや」
グレイは空を見た。
飛竜が旋回した。
逃走ではない。
距離を取った。
そして再び男へ向きを変える。
「来る」
翼を畳む。
急降下。
今までより速い。
飛竜自身の重量と落下速度を使った突撃。
男は動かない。
「姫さん、あれはさすがに――」
「待て」
グレイの声が低くなる。
見たい。
あの男がどうするのか。
飛竜が迫る。
男が腰を落とした。
右足を半歩引く。
左のトンファーを前へ。
右は身体へ沿わせる。
呼吸。
グレイには、それが見えた気がした。
男の身体の中で。
何かが一つにまとまる。
飛竜との距離。
二十メートル。
十。
五。
男が踏み込んだ。
飛竜の爪が振り下ろされる。
男の左腕が動く。
爪へ触れる。
流す。
身体を捻る。
飛竜の頭が男の横を通る。
右腕。
トンファー。
そして。
一撃。
飛竜の首へ。
鈍い音だった。
派手な爆発もない。
光もない。
魔法陣もない。
ただ、一人の男が。
一歩踏み込み。
身体を回し。
武器を打ち込んだ。
それだけ。
飛竜の身体が地面へ叩きつけられた。
岩場が揺れた。
土煙が上がる。
「……は?」
ライアンが声を漏らす。
飛竜はすぐには起きない。
首が不自然に傾いている。
男は静かに近づいた。
まだ息がある。
飛竜の瞳が男を見る。
男はトンファーを握り直した。
首の付け根。
先ほどと同じ場所。
一撃。
飛竜の身体から力が抜けた。
風だけが残った。
男はしばらく飛竜を見下ろしていた。
それから。
「……見物は終わりか?」
低い声が響いた。
グレイたちへ向けて。
ライアンが苦笑する。
「バレてたっスね」
「最初からでしょうね」
ライカが鉄扇を収める。
グレイは岩陰から出た。
男がこちらを見る。
近くで見ると、やはり五十歳ほどに見える。
短く整えられた髪。
日に焼けた肌。
派手な傷跡はない。
身体も、見せつけるように大きいわけではない。
だが無駄がない。
立っているだけで分かる。
どこにも余計な力が入っていない。
グレイは男の足元を見る。
左右どちらにも動ける。
前にも後ろにも。
今この瞬間、襲いかかっても対応される。
そんな立ち方だった。
「悪い」
グレイが言う。
「邪魔する必要がなさそうだった」
「ならいい」
男はそれだけ答えた。
トンファーについた血を布で拭う。
興味がない。
グレイたちにも。
飛竜を倒したことにも。
まるで日課でも終えたような態度だった。
ライアンが飛竜を見る。
「これ、一人で倒したんスね」
「見てただろ」
「まあ、そうっスけど」
「なら聞くな」
「愛想ないっスねぇ」
「にーちゃん」
「はいはい」
ライアンが両手を上げる。
グレイは男から目を離さない。
気になることが多すぎた。
「一つ聞いていいか?」
「勝手にしろ」
「さっきのは魔法か?」
男の手が止まった。
僅かに。
「どれだ」
「ブレスを抜けた時と、最後の一撃」
「違う」
「身体強化も?」
「使えん」
やはり。
グレイは一歩近づいた。
「じゃあ、《魔気闘法》か?」
男が初めて、少しだけグレイを見た。
正確には。
見直した。
「知ってるのか」
「名前だけ」
「なら知らんのと同じだ」
「そうだな」
グレイは素直に頷いた。
「だから聞いてる」
男の眉が僅かに動いた。
「教える気はない」
「まだ教えてくれとは言ってない」
「顔に書いてある」
「そんなに分かりやすいか?」
「分かりやすいっスよ」
後ろからライアン。
「お姫ちゃん、今すごく楽しそうな顔をしやがっています」
ライカまで。
グレイは振り返った。
「二人とも黙ってろ」
「ほら」
「何がだ」
「否定しないんスね」
男が鼻から短く息を吐いた。
笑ったのかどうか、分からない程度だった。
グレイは改めて彼を見る。
「飛竜の討伐依頼を受けたのか?」
「知らん」
「知らない?」
「山にいた。襲ってきた。倒した。それだけだ」
「依頼を受けてないのか」
「興味ない」
ライアンが飛竜を見て、それから男を見る。
「じゃあ討伐証明どうするんスか?」
「いらん」
「報酬は?」
「いらん」
「素材は?」
「いらん」
「欲がないっスね」
「必要ない」
短い。
必要なことしか話さない。
だが、無口というよりは、話すことそのものに価値を感じていないようだった。
グレイは飛竜へ近づいた。
完全に死んでいる。
最後の一撃が致命傷だった。
首の骨。
外から見れば、鱗が少し割れている程度。
それなのに内部へ深く衝撃が通っている。
グレイは傷へ指を触れた。
「どうやった?」
「何が」
「これ」
「殴った」
「それは見た」
「なら分かるだろ」
「分からないから聞いてる」
「知らん」
「自分でやっただろ」
「身体が覚えてる。いちいち考えてない」
グレイが黙る。
男も黙る。
「姫さん」
ライアンが近づいてきた。
「その人、たぶん説明するの苦手なタイプっスよ」
「見れば分かる」
「お前ら、本人の前で好き勝手言うな」
「聞こえてたっスか」
「この距離で聞こえんと思ったのか」
「いや、思ってないっス」
男がライアンを見る。
次にライカ。
最後にグレイ。
「お前ら、飛竜を狩りに来たんだろ」
「ああ」
「なら持って帰れ」
「いいのか?」
「いらんと言った」
男はトンファーを腰へ戻した。
そのまま立ち去ろうとする。
「待ってくれ」
グレイが呼び止めた。
男が止まる。
振り返らない。
「まだ何かあるのか」
「ある」
「何だ」
グレイは少しだけ迷った。
確認する必要があるのか。
たぶんない。
それでも聞きたかった。
「あんた」
男が僅かに顔だけを向ける。
「もしかして、拳聖か?」
風が吹いた。
男の服が揺れる。
しばらく返事はなかった。
「……そう呼ぶ奴もいる」
それだけだった。
肯定でも否定でもない。
二つ名などどうでもいい。
そんな声音。
グレイの口元が、自然と上がった。
「やっぱり」
「それがどうした」
「探してたわけじゃないけど、会ってみたかった」
「そうか」
「一度戦ってみたいと思ってた」
「姫さん」
ライアンの声。
ライカも額へ手を当てる。
「お姫ちゃん。せめてもう少し段階を踏みやがってください」
「何でだ」
「初対面です」
「だから?」
「普通は会ってすぐ『戦いたい』とは言いやがりません」
拳聖は黙ってグレイを見ていた。
やがて口を開く。
「ガキ」
「何だ」
「お前、名前は」
グレイは少しだけ目を瞬いた。
名乗っていなかった。
「グレイ」
「そうか」
拳聖はそれだけ覚えたように頷く。
「今日はやらん」
「今日は?」
「飛竜を一匹潰した後だ。そんな状態の相手に勝って嬉しいか」
グレイの目が僅かに細くなった。
断る理由が。
疲れたから、ではなかった。
負けるからでもない。
万全ではない自分と戦っても意味がないだろう。
そう言っている。
「じゃあ、万全ならやってくれるのか?」
「気が向けばな」
「いつ?」
「知らん」
「どこにいる?」
「決めてない」
「宿は?」
「ない」
「じゃあ、どうやって探せばいい」
「知らん」
グレイが眉を寄せる。
拳聖は本当にどうでもよさそうだった。
「……面倒な奴だな」
「お前に言われたくない」
「姫さん、初対面でそこまで言われるの珍しいっスね」
「にーちゃんは黙っていやがってください」
拳聖が歩き出す。
グレイはその背中を見る。
「拳聖」
「その呼び方はやめろ」
「じゃあ名前」
男の足が。
一瞬だけ止まった。
「……いらん」
「は?」
「呼ぶ必要がないなら、それでいい」
「いや、必要あるだろ」
「ない」
「俺が困る」
「俺は困らん」
また歩き出す。
グレイはしばらくその背中を見送った。
男は山道へ入っていく。
迷いなく。
振り返らず。
やがて岩陰へ消えた。
沈黙。
「……変な人だったっスね」
ライアンが最初に口を開いた。
「にーちゃんに言われたら終わりですね」
「どういう意味っスか?」
グレイは答えない。
拳聖が消えた方向を見ていた。
最後の一撃。
足。
腰。
肩。
トンファー。
そして、あの身体を覆った見慣れない力。
魔力ではある。
けれど、魔力だけではない。
「《魔気闘法》……」
小さく呟く。
「姫さん」
「何だ」
「顔」
「何だよ」
「めちゃくちゃ楽しそうっス」
「そうか?」
「そうです。お姫ちゃん、今すぐ追いかけそうな顔をしやがっています」
グレイは拳聖が消えた方を見る。
追えば、たぶん追いつける。
空間魔法を使えばもっと簡単だ。
だが。
「今日はやらないって言ってたからな」
「意外と素直っスね」
「約束は守る」
「約束ではない気がしやがりますけど」
グレイは飛竜へ視線を戻した。
「とりあえず、こいつをどうにかするか」
「持って帰るんスか?」
「討伐依頼は終わっただろ」
「俺ら倒してないっスけど」
「本人がいらないって言った」
「それはそうっスけど」
ライカが飛竜の巨体を見上げる。
「この大きさを、そのまま町まで運ぶつもりですか?」
「収納する」
「そうしやがってください」
「あと」
グレイは飛竜の腹を見た。
「肉、食えるか聞いてみたい」
「結局そこっスか」
「せっかくだろ」
「飛竜を倒した拳聖に会った直後の感想がそれでいいんスか?」
「拳聖はまた会えばいい」
グレイは飛竜へ手を触れた。
空間が僅かに揺らぎ、巨大な死骸が消える。
残されたのは、砕けた岩と戦闘の痕跡だけ。
「また会える前提なんスね」
「ああ」
「何で?」
グレイは少し考えた。
理由などない。
ただ。
あの男も。
自分も。
武を学ぶ場所へ足を運んでいる。
同じ国にいる。
なら、どこかで会う気がした。
「分からない」
グレイは山を下りる方へ歩き出した。
「でも、会えるだろ」
◇
町へ戻った頃には、日はかなり傾いていた。
冒険者ギルドはいつもより騒がしかった。
飛竜討伐の結果を待っていた者が多かったらしい。
三人が入っただけで、何人かがこちらを見る。
受付へ行く。
「飛竜の討伐依頼を受けたグレイだ」
「はい。状況は――」
「終わった」
「え?」
「飛竜は死んだ」
受付の女性が固まった。
「……もう、ですか?」
「ああ」
「討伐証明は?」
「本体でいいか?」
「本体?」
「収納してる」
受付嬢の顔がさらに困惑する。
「そ、それでしたら、解体場へお願いします」
「分かった」
三人が移動しようとすると。
「姫さん」
ライアンが小声で呼んだ。
「何だ」
「拳聖のこと言わなくていいんスか?」
グレイは止まった。
「言った方がいいか?」
「俺らが倒したことになるっスよ」
「それは駄目だな」
グレイは受付へ戻った。
「悪い。訂正」
「はい?」
「倒したのは俺たちじゃない」
「……では、どなたが?」
「拳聖」
今度こそ。
周囲が静かになった。
受付嬢だけではない。
近くにいた冒険者まで。
「拳聖……?」
「ああ」
「お会いになったんですか?」
「山にいた」
ざわめきが広がる。
「拳聖がこの近くに?」
「北に行ったんじゃなかったのか?」
「いや、西だって聞いたぞ」
「飛竜を一人で?」
「そりゃ拳聖ならやるだろ」
グレイは少しだけ眉を寄せた。
本人より周囲の方が二つ名を大事にしている。
「討伐した本人は報酬も素材もいらないって言ってた」
「ですが……」
「俺たちは倒してない。必要なら討伐報酬はいらない」
受付嬢は困ったように考え込む。
「少々お待ちください。確認いたします」
「ああ」
三人は端へ移動した。
ライアンが笑う。
「有名人っスねぇ」
「本人は興味なさそうだったけどな」
「名前までいらないと言いやがっていましたね」
「あれは意味が分からない」
「姫さん、そこ気にしてたんスか?」
「名前がなかったら呼べないだろ」
「拳聖でいいんじゃないっスか?」
「本人が嫌がってた」
「じゃあ『あんた』とか」
「毎回?」
「まあ……」
グレイは腕を組んだ。
何となく納得できない。
名前など必要ない。
そう言った男の顔を思い出す。
冗談ではなかった。
本当に。
どうでもよさそうだった。
自分が何と呼ばれるか。
どんな二つ名を持つか。
どれほど有名なのか。
全部。
彼にとっては、拳を振るうことより価値が低いのかもしれない。
「変な奴だな」
「だから姫さんに言われたくないと思うっスよ」
「俺は名前ある」
「そこ?」
やがて受付嬢が戻ってきた。
討伐報酬については、飛竜の死骸を確認した上でギルド側が判断するらしい。
拳聖本人が受け取りを拒否した場合、討伐依頼を引き受け現場確認を行ったグレイたちにも一部が支払われる可能性があるという。
グレイはどちらでもよかった。
重要なのは、飛竜がいなくなったことだ。
これで街道は戻る。
食材も届く。
宿の料理も食べられる。
「姫さん、嬉しそうっスね」
「何が?」
「食材」
「人助けだ」
「まだ言うっスか」
◇
その夜。
宿の食堂には、いつもより豪華な料理が並んだ。
飛竜の肉ではない。
解体には時間がかかるらしい。
代わりに主人が約束通り、腕を振るった。
肉料理。
魚。
野菜。
焼きたてのパン。
香草を使ったスープ。
「おお……」
グレイが珍しく声を漏らした。
「姫さん、目が輝いてるっスよ」
「輝いてない」
「輝きやがっています」
「二人とも食わないなら俺が食うぞ」
「誰も食わないとは言ってないっス」
三人は席に着いた。
主人が料理を置きながら笑う。
「飛竜、本当に倒したんだってな」
「倒したのは俺たちじゃない」
「聞いたよ。拳聖だったんだろ?」
「ああ」
「運が良かったなぁ」
「そうなのか?」
「会おうと思って会える奴じゃないらしいぞ」
主人は空いた椅子を引き、少しだけ腰を休めた。
「ふらっと現れて、ふらっと消える。冒険者ギルドからの指名依頼も気が向かなきゃ受けない。国から呼ばれても行かない」
「よくSランクのままでいられるな」
「強いからだろ」
「雑だな」
「でも、それ以外に説明できねぇよ」
主人が笑う。
「昔はあいつに弟子入りしようとする連中も多かったらしいが、全部断ったって話だ」
グレイの手が止まる。
「弟子を取らないのか?」
「らしいぞ」
「何で?」
「知らん」
「そうか」
グレイは肉を口へ運んだ。
柔らかい。
香辛料もいい。
だが、少しだけ意識が別のところへ向いていた。
「姫さん」
「何だ」
「今、『じゃあどうやって教わろう』って考えてないっスか?」
「……考えてない」
「間がありやがりましたよ」
「考えてない」
「二回言ったっス」
「うるさい」
主人が笑いながら厨房へ戻る。
ライカがスープを飲む。
「弟子入りする気ですか?」
「まだ決めてない」
「まだ?」
「まず戦ってみたい」
「そちらが先なんですね」
「ああ」
グレイは今日の戦いを思い返す。
飛竜の爪。
尾。
ブレス。
急降下。
その全てを拳聖は正面から受け止めてはいなかった。
力をずらす。
流す。
外す。
そして、そのまま自分の攻撃へ繋げる。
魔法なし。
圧倒的な身体能力があるようにも見えなかった。
少なくとも真祖であるグレイとは比べるべくもない。
なのに。
強かった。
純粋に。
「俺が魔法なしで戦ったら」
グレイが呟く。
ライアンが肉を食べながら答える。
「負けるんじゃないっスか?」
「……即答するな」
「だって姫さん、あの人の動き全然読めてなかったっスよね」
「見てただけだ」
「見てても分からなかったっスよね?」
「全部じゃない」
「じゃあ半分?」
「……」
「三分の一?」
「ライアン」
「はい」
「後で相手しろ」
「八つ当たりっス!」
ライカが口元を隠して笑った。
「にーちゃん。余計なことを言いやがるからです」
「ねーちゃん助けてほしいっス」
「嫌です」
「ひどいっス」
グレイも少し笑った。
負ける。
そう言われて腹が立ったわけではない。
むしろ。
胸の奥が妙に軽かった。
自分より上手い。
自分の知らない技術を持っている。
それが、思っていた以上に嬉しい。
空間魔法なら。
真祖としての力まで使うなら。
勝敗はまた別の話になる。
だが、それでは意味がない。
今日見たもの。
あの立ち方。
足運び。
身体の繋がり。
《魔気闘法》。
それを知りたい。
そして。
同じ条件で。
戦ってみたい。
「姫さん」
「ん?」
「また会えるといいっスね」
ライアンが何気なく言った。
グレイは少しだけ目を瞬く。
「ああ」
それだけ答えた。
◇
食事を終えた後。
グレイは一人、宿の裏庭へ出た。
夜風が冷たい。
空には星が出ている。
月明かりが土の上へ薄く落ちていた。
ライアンとライカは中にいる。
別に隠れて出てきたわけではない。
少し試したかっただけだ。
グレイは靴を脱ぐ。
土を踏む。
目を閉じる。
思い出す。
飛竜が尾を振った時。
拳聖は受けなかった。
流した。
トンファーを当てる。
身体を回す。
力を逃がす。
「……こうか?」
グレイは右腕を前へ出した。
仮想の攻撃。
受ける。
回る。
違う。
もう一度。
腕。
肩。
腰。
足。
順番がおかしい。
「逆か」
拳聖は腕から動いていなかった。
足。
いや。
もっと前。
相手の攻撃が来る前に、すでに位置を選んでいた。
グレイは何度か動く。
上手くいかない。
道場で教わった型なら、見ればある程度真似できる。
今日の拳聖は違う。
形だけなら真似できる。
でも。
何をしていたのかが分からない。
「……面白い」
小さく笑う。
もう一度。
踏む。
回る。
腕を出す。
「違うな」
「何が違う」
声がした。
グレイの身体が止まる。
振り返る。
宿の裏庭。
石壁の上。
一人の男が座っていた。
昼間と同じ服。
腰には一対のトンファー。
「……拳聖」
「その呼び方はやめろと言った」
「じゃあ名前を教えろ」
「いらん」
「面倒だな、あんた」
「お前もな」
男が壁から降りた。
音がほとんどしない。
グレイの目が自然と足元へ向く。
「何でここにいる?」
「町を通っただけだ」
「宿に用が?」
「飯」
グレイが一瞬黙る。
「……ここの?」
「ああ」
「うまいよな」
「悪くない」
妙なところで意見が合った。
グレイは少しだけ笑う。
「なら中に入ればいい。まだ厨房は開いてる」
「そうする」
男が宿へ向かおうとする。
「待って」
「今度は何だ」
「さっきの」
グレイは自分の腕を見る。
「何が違う?」
拳聖はグレイを見る。
「教える気はない」
「教えなくていい。違うところだけ言ってくれ」
「同じだろ」
「違う」
「面倒なガキだな」
「あんたに言われたくない」
拳聖はしばらく黙った。
それから。
「全部だ」
「……全部?」
「腕で受けようとしてる」
「でも、あんたもトンファーで――」
「そこじゃない」
男がグレイへ近づく。
「殴ってみろ」
「いいのか?」
「早くしろ」
グレイは構えた。
魔法は使わない。
身体能力も抑える。
右拳。
男の胸へ。
軽く。
拳聖は避けなかった。
手を添える。
それだけ。
「っ?」
次の瞬間。
グレイの身体が横へ崩れた。
一歩。
二歩。
慌てて足を出し、転倒を避ける。
「……今、何した?」
「お前が勝手に崩れた」
「嘘つけ」
「嘘じゃない」
「触っただろ」
「触っただけだ」
「だから、それを聞いてる」
拳聖は自分の手を見る。
「お前は殴る時、もう殴る場所を決めてる」
「普通だろ」
「だから弱い」
グレイの眉が動く。
「……もう一回」
「嫌だ」
「何で」
「飯が冷める」
「まだ頼んでないだろ」
「これから頼む」
拳聖は本当に宿へ入っていった。
グレイだけが裏庭へ残される。
しばらく。
動けなかった。
自分の右手を見る。
殴った。
触られた。
崩れた。
それだけ。
「……何だ、今の」
分からない。
全くではない。
自分が前へ重心を乗せた。
そこへ何かをされた。
それは分かる。
だが。
どうやって。
どの瞬間に。
どの方向へ。
分からない。
グレイの口元が。
ゆっくりと上がった。
「いた」
探していたわけではない。
師匠が欲しかったわけでもない。
ただ。
自分の知らない強さを見てみたかった。
それが。
今。
目の前にいる。
グレイは靴を拾った。
急いで履く。
宿へ入る。
食堂では拳聖が一人、隅の席に座っていた。
主人が料理を運んでいる。
ライアンとライカも気付いたらしい。
二人とも何とも言えない顔をしている。
「姫さん」
「何だ」
「何で拳聖がいるんスか?」
「飯を食いに来た」
「何で姫さん嬉しそうなんスか?」
「別に」
「お姫ちゃん」
ライカがグレイの服についた土を見る。
「何をしやがったんですか?」
「少し殴った」
「誰を?」
グレイが拳聖を見る。
ライカも見る。
ライアンも見る。
拳聖は料理を食べている。
「……姫さん」
「向こうから殴れって言った」
「本当っスか?」
拳聖が食事を続けながら言う。
「本当だ」
「何で?」
「知らん」
「本人も知らないんスか」
ライアンが頭を抱える。
グレイは気にせず、拳聖の向かいへ座った。
「なあ」
「食ってる」
「食いながらでいい」
「うるさい」
「俺と戦ってくれ」
拳聖の手が止まった。
ライアンも。
ライカも。
少し離れたところにいた宿の主人まで。
拳聖が顔を上げる。
グレイと目が合う。
「今?」
「今日は飛竜の後だから嫌なんだろ」
「ああ」
「なら明日」
「……」
「魔法は使わない」
拳聖の目が少しだけ細くなる。
「何?」
「俺は魔法使いだ。でも、あんたと戦う時は使わない」
「舐めてるのか」
低い声。
グレイは首を振った。
「逆だ」
「何がだ」
「魔法で勝っても、俺が知りたいものは分からない」
拳聖は黙る。
グレイも視線を逸らさない。
「今日の飛竜との戦い。俺には分からないことが多かった」
「……」
「だから、同じ場所でやってみたい」
少しの沈黙。
拳聖は再び料理へ視線を戻した。
「好きにしろ」
グレイが目を瞬く。
「それは、いいってことか?」
「明日の朝、山の麓に来い」
「分かった」
「遅れたら帰る」
「遅れない」
拳聖はそれ以上話さなかった。
ただ食事を続ける。
グレイはしばらく座ったまま、彼を見ていた。
「姫さん」
ライアンが小声で呼ぶ。
「何だ」
「すっごい嬉しそうっスよ」
「そうか?」
「顔に出やがっていますよ」
グレイは自分の頬へ触れた。
分からない。
でも。
否定する気にはならなかった。
窓の外には、今日登った山の影が見える。
明日。
あの場所で。
戦える。
拳聖と。
グレイはもう一度、右手を握った。
昼間に見た動き。
先ほど崩された感覚。
まだ何一つ理解できていない。
だからこそ。
知りたいと思った。
拳聖と呼ばれる男は、何も語らない。
名さえどうでもいいと言う。
けれど、その拳だけは。
言葉よりもずっと多くのものを持っていた。
グレイは静かに、その手を開いた。
明日の朝。
まずは一度。
同じ場所に立ってみることにした。




