第3話 同じ場所で
朝の山には、まだ薄い霧が残っていた。
町を出た頃には白み始めたばかりだった空も、今では木々の隙間から淡い光を落としている。湿った土と草の匂いが風に混じり、少し離れた沢から絶え間なく水音が届いていた。
昨日、拳聖から指定された山裾。
グレイはそこで腕を組み、何度目になるか分からないほど山道の先へ目を向けていた。
「……姫さん。さすがに早すぎたんじゃないっスか?」
少し離れた岩に腰掛けたライアンが、欠伸交じりに声を投げてくる。
「遅れるよりいいだろ。あいつ、遅れたら帰るって言ってたし」
「だからって、宿の主人が起きる前に出る必要はなかったと思うんスけどね」
「にーちゃん、諦めやがってください」
隣に座るライカも小さな欠伸を噛み殺し、呆れたようにグレイを見る。
「昨夜からお姫ちゃんが落ち着かなかったことくらい、分かっていやがったでしょう。夕食の後も拳聖殿のところへ行き、部屋へ戻ってからは右手を握ったり開いたり……あれで早起きしないと思う方が無理です」
「……見てたのか?」
「同じ部屋にいれば嫌でも見えやがります」
グレイは気まずそうに視線を逸らした。
否定したところで無駄だろう。
実際、昨夜から頭に残っているものがあった。
飛竜の爪を受け流した動き。巨大な尾を真正面から受けながら、力と力をぶつけることなく勢いを逃がした身体の使い方。そして何より、宿の裏庭で自分の拳へ軽く手を添えただけで姿勢を崩された、あの感覚。
大まかな理屈なら理解できる。
前へ乗った重心を利用され、拳を引こうとした時には身体の軸そのものがずらされていた。
だが、理解できることと再現できることはまるで違う。
だからこそ確かめたかった。
自分とあの男の間に、何があるのか。
「姫さん」
「今度は何だ」
「楽しみなのは分かるっスけど、無茶しないでくださいね。姫さん、技を覚えようとしてる時だけ、自分の身体が頑丈なのを忘れるところあるんで」
軽い口調だったが、ライアンの目は笑っていなかった。
グレイは少し黙ってから、小さく頷く。
「分かってる。今日は殺し合いじゃない。知らないものを見たいだけだ」
「それならいいっス」
「それにしても……遅いな」
「姫さんが早いんスよ」
「帰ったんじゃないだろうな」
「まだ来てもいないのに、どうやって帰りやがるんですか」
「……それもそうか」
「お姫ちゃん、本当に落ち着きやがってください」
ライカの呆れた声が飛んできた、その時だった。
「朝っぱらからうるせぇな」
三人が同時に振り向く。
少し上の山道に、拳聖が立っていた。
いつからいたのか分からない。
簡素な服に最低限の防具。一対のトンファーを腰に差した姿は昨日と変わらないが、グレイが真っ先に見たのはそこではなかった。
足元だ。
拳聖が傾斜を下ってくる。
石を踏み、柔らかな土へ足を置き、木の根を跨ぐ。それなのに上体がほとんど揺れない。
ただ歩いているだけなのに、一つ一つの動作に無駄がなかった。
「何見てやがる」
「足」
「朝一番で人の足眺める趣味でもあんのか。気持ち悪ぃな」
「違う。歩き方を見てる。昨日から思ってたけど、重心がほとんど上下してない」
拳聖がわずかに眉を上げる。
「……そんなところ見てる暇があったら歩け。ここじゃ狭い」
それだけ言うと、三人の前を通り過ぎて森へ入っていった。
グレイはすぐに後を追う。
獣道すらない木々の間をしばらく進むと、突然視界が開けた。
山の斜面にできた天然の平地だった。周囲を木々と岩壁に囲まれ、中央には短い草が広がっている。人目はなく、多少激しく動いても誰かを巻き込む心配はない。
拳聖は中央まで進むと、振り返った。
「ここなら多少壊しても誰も困らん。来い」
「もう?」
「何しに来た」
「戦いに来た」
「なら来い。準備が必要なら勝手にしろ」
拳聖は腰から二本のトンファーを抜いた。
構えらしい構えは取らない。
両腕を自然に下ろし、武器を前腕へ沿わせただけだった。
その姿を見ながら、グレイは上着を脱いで後ろのライカへ放る。
剣は持ってこなかった。
今日確かめたいのは剣術ではない。
「確認しておく。魔法は使わない。それと、身体の力もできるだけ抑える」
「勝手にしろ」
「吸血鬼としての力もだ」
拳聖の眉がわずかに動いた。
「……吸血鬼?」
「あ」
後ろでライアンが声を漏らす。
グレイも口を閉じた。
そういえば、まだ言っていなかった。
「そうだけど」
「そうか」
拳聖の返事は、それだけだった。
あまりに淡白で、むしろグレイの方が戸惑う。
「驚かないのか?」
「何にだ」
「俺が吸血鬼だってことに」
「お前が何だろうが、今から殴り合うことに何か関係あんのか?」
グレイは一瞬だけ黙り、それから口元を緩めた。
「……ないな」
「ならどうでもいい。さっさと来い」
「分かった」
足を開き、腰を落とす。
これまでの旅で、剣だけを学んできたわけではない。拳も蹴りも、投げも崩しも、多くの場所で見て、試し、実戦でも使ってきた。
魔法を封じても、それなりには戦える。
少なくとも、一方的に転がされるほどではない。
そう思っていた。
「行くぞ」
「口じゃなくて身体を動かせ」
「言われなくても!」
グレイが踏み込んだ。
抑えているとはいえ、その加速は並の人間よりずっと速い。一息で間合いへ入り、右拳を胸元へ伸ばす。
拳聖の腕がわずかに動いた。
昨日と同じ、触れるような受け方。
それを見た瞬間、グレイは拳を止めた。
「同じ手には――」
右は囮。
左足を踏み込みながら軸をずらし、空いた脇腹へ左拳を滑り込ませる。
「――引っかからない」
「ほう。考えてきたか」
拳聖の身体が半歩だけずれた。
拳が空を切る。
だがグレイも止まらない。左を振り抜かず、身体を捻って右肘へ繋げた。
この距離なら大きく避けられない。
「これなら――」
「考えるのが一手遅ぇ」
トンファーが肘へ軽く触れた。
受け止められた感触はない。
なのに、肘の進む方向が僅かに変わった。
それだけでグレイの上体が前へ流れる。
「っ……!」
「ほら、もう立ててねぇぞ」
「まだ――!」
地面を蹴って強引に姿勢を戻そうとした瞬間、拳聖の掌が腹へ添えられた。
衝撃らしい衝撃はなかった。
だが次の瞬間には足が浮き、視界いっぱいに空が広がっていた。
「え?」
背中から落ちる直前に受け身を取り、その勢いのまま横へ転がる。
直後、さっきまで頭があった場所へトンファーが振り下ろされた。
地面が鈍く沈む。
グレイは片手をついて跳ね起き、距離を取った。
「……今の、どうやった?」
「一回死んだな」
「質問に答えろよ。あと生きてる」
「実戦なら頭が割れてる。最後のは俺が止めただけだ」
「避けた」
「俺が止めた」
「……もう一回」
拳聖が面倒そうに鼻を鳴らす。
「好きにしろ。ただ、同じことして同じように転がるなら帰れ」
「しない」
今度は飛び込まない。
グレイは拳聖の間合いの外で小さく足を動かした。
右へ。
左へ。
肩、腰、足、視線。
どこを見れば動き出しが分かる。
「……何してやがる」
「考えてる」
「戦いながら考えろ。俺が待ってやると思うな」
言葉が終わるより先に、拳聖が動いた。
速い。
だが、純粋な速度だけなら追えないほどではない。
問題はそこではなかった。
肩が揺れない。腰も沈まない。踏み込む直前に現れるはずの予備動作が、ほとんど見えない。
気づいた時には、すでに間合いの内側だった。
左のトンファーが迫る。
グレイは前腕で受けた。
重い衝撃が骨まで響く。
「このくらいなら――」
「だから、それが違ぇって言ってんだ」
受けたはずの腕へトンファーが絡む。
引かれた。
そう感じた瞬間、グレイは違和感に気づいた。
違う。
引かれたのではない。
自分から前へ出ている。
「お前、受けた瞬間に力入れただろ」
「っ……!」
「だったら、こっちへ来る」
拳聖の膝が腹へ迫る。
グレイは咄嗟に左手を差し込み、直撃だけは防いだ。そのまま後方へ跳び、今度は倒れずに着地する。
「どうだ。今のは?」
「今度は死んでない」
「馬鹿か。人間なら左手が使い物にならなくなってる。その状態で次を受けられると思うか?」
グレイは左手を見る。
自分の身体なら、すでに痛みも薄れ始めている。
だが、それを基準にしてはいけない。
「……なるほど」
「何がなるほどだ」
「じゃあ次は、受けない」
「できるならやってみろ」
拳聖の口元が、ほんの僅かに上がった。
そこから何度も攻防が続いた。
グレイが攻めれば、拳聖は正面から力で止めることなく、その勢いを僅かに逸らして次の動きを限定する。
ならばと距離を取り、今度は攻撃せずに観察へ徹した。
「右から来る」
「口に出すな」
「別にいいだろ。右――いや、そっちは囮だ」
「ほう?」
右のトンファーを見せながら、拳聖の左足が動く。
今度は先に気づいた。
グレイは蹴りの軌道から身体を外す。
「見えた!」
「そうか。なら、その先も見ろ」
「え?」
空振りしたはずの足が地面を踏み、その力で拳聖の身体が回る。
次のトンファーが、避けた先へ待っていた。
額の指一本手前で止まる。
グレイの目が寄った。
「……それはずるくないか?」
「何がだ」
「避けた先に次がある」
「当たり前だろ。一発避けたら相手が止まってくれると思ってんのか?」
「思ってないけど……」
「思ってる動きだったぞ」
「もう一回」
「お前、負けず嫌いだな」
「今気づいたのか?」
「面倒くせぇ」
「知ってる」
「自覚あんのかよ」
拳聖が呆れたようにトンファーを下ろす。
それでも、グレイが再び構えると付き合った。
何度か攻防を重ねるうち、グレイにも少しずつ見えてくる。
拳聖の攻撃は、一撃ずつ独立していない。
右を避ければ左へ。
左を警戒すれば足元へ。
後ろへ逃げれば、その先へ。
こちらの選択肢を一つずつ消している。
しかも、無理やり追い込んでいるようには見えない。
自分で選んだつもりの場所へ、自分から入ってしまう。
「……嫌な戦い方するな」
「褒めてんのか?」
「最高に」
「気持ち悪ぃ奴だな」
グレイが笑う。
だが、その笑みも長くは続かなかった。
右からの攻撃を警戒した瞬間、足を払われ、また草の上へ転がされる。
「くそっ……今のは分かったのに」
「分かっただけで防げるなら苦労しねぇよ」
「腕を取って、俺が前に力を入れたところへ足を入れただろ」
「で?」
「分かってた」
「それで転んでりゃ世話ねぇな」
「もう一回」
「その前に少し頭冷やせ」
意外なところから声が飛んできた。
「姫さん、俺もそう思うっス」
振り返ると、ライアンが水筒を片手に立っていた。
「まだ平気だぞ」
「身体の話じゃないっスよ。さっきから勝とうとしすぎて、何を試してたのか分からなくなってません?」
「そんなこと――」
「では、お姫ちゃん」
ライカも静かに続ける。
「先ほどの三回で、それぞれ何を変えやがりました?」
グレイの口が止まった。
言い返そうとして、やめる。
思い出せないわけではない。
だが、最初ほど明確ではなかった。
最初は、何をされているのか知りたかった。
いつの間にか、次こそは倒されまいということばかり考えていた。
「……休む」
「珍しく素直っスね」
「うるさい。水」
「はいはい」
ライアンから水筒を受け取り、草の上へ座る。
冷たい水を喉へ流し込むと、身体ではなく頭の熱が少しずつ引いていった。
拳聖も少し離れた岩へ座り、トンファーを腰へ戻している。
「なあ」
「何だ」
「俺、何回負けた?」
「知らん」
「数えてないのか?」
「数える意味がねぇだろ。ほとんど同じ理由で負けてんだから」
グレイが水筒から口を離す。
「同じ?」
「お前が勝手に崩れて、勝手に負けてる。俺は大したことしてねぇ」
「それ、嫌味か?」
「事実だ」
「じゃあ教えろよ。重心か? 俺が前へ出た瞬間にずらしてる?」
「自分で考えろ」
「答え合わせくらいいいだろ」
「嫌だ」
「ケチ」
「ガキ」
グレイは口を尖らせたが、それ以上は聞かなかった。
拳聖の言葉を頭の中で転がす。
勝手に崩れている。
思えば昨日も同じことを言われた。
拳聖に倒されたのではなく、自分が倒れる状態を作っているのだとすれば――。
「もう一回やる」
「休憩終わりか?」
「ああ。ただし今度は俺から攻撃しない。全部避ける」
「逃げるだけなら誰でもできるぞ」
「逃げない。見る」
「……好きにしろ」
二人が再び向かい合った。
今度のグレイは拳を固めない。
拳聖の足だけを見ることも、肩だけを追うこともしなかった。
全体を見る。
左が来る。
身体をずらす。
低い蹴りへ繋がる。
足を引く。
次が――。
来ない。
「っ……!」
グレイだけが先に動いてしまった。
そこへ拳聖の足が入り、簡単に重心を奪われる。
倒れたグレイを見下ろし、拳聖が鼻を鳴らした。
「相手が何もしてねぇのに勝手に逃げるな。攻撃を見ることと、攻撃が来ると思い込むことは別だ」
「……今のは分かった」
「なら次は転ぶな」
「言われなくても」
再び立つ。
今度は待つ。
拳聖が一歩入る。
左を避け、続く足を外し、三つ目を待つ。
来た。
腕。
受けずに身体をずらす。
「いいぞ。そのまま見ろ」
「急に教えるじゃん」
「喋る余裕があんなら後ろ見ろ」
「後ろ?」
背中に木の幹が当たった。
「……あ」
逃げ続けた結果、自分から退路を消していた。
喉元へトンファーが止まる。
「視界の中にいる相手だけが戦場じゃねぇ。自分がどこに立ってるか忘れる奴から死ぬ」
「……もう一回」
「まだやんのか」
「今のはもう一回やれば、もう少しできる」
「そうやって熱くなるなっつってんだろ」
「熱くなってない」
「その顔で言うな」
後ろからライアンの笑い声が聞こえた。
グレイはそちらを睨みつける。
「笑うな」
「いや、だって拳聖の言ってること、さっき俺らが言ったのと同じっスよ」
「後で覚えてろ」
「何で俺が!?」
「にーちゃん。余計なことを言うからです」
「ねーちゃんまで!?」
拳聖が呆れたように三人を眺める。
「本当にうるせぇの連れてんな」
「昔からこんな感じだ」
「姫さん!?」
山の静けさが一瞬だけ崩れた。
それが、ちょうどよかったのかもしれない。
肩から余計な力が抜けた。
グレイは息を吐き、改めて拳聖へ向き直る。
「続き」
「……来い」
今度は、さっきまでより少しだけ動きが見えた。
◇
日が高くなった頃、拳聖の方から手合わせを止めた。
「休むぞ。腹減った」
「俺はまだできる」
「お前の都合なんざ知らん。俺が飯を食う」
「そういう理由なのか……」
「他に何がいる」
拳聖が当然のようにトンファーをしまう。
ライアンが荷物を開きながら笑った。
「一応、俺らの昼飯は持ってきてるっスよ」
「俺の分は?」
「ないっス」
「そうか。じゃあ帰る」
「いやいや、そこで普通に帰らないでくださいよ!」
グレイは小さく息を吐き、《ドールハウス》へ繋がる空間を開いた。
「一人分増やせるか?」
向こう側へ声をかけると、少し待てば用意できるという返事が返ってくる。
「あるって」
「そうか」
拳聖は何事もなかったように戻ってきた。
「飯で釣れたっスね」
「聞こえてんぞ」
「聞こえるように言ったっス」
「にーちゃん……」
木陰へ移動し、四人で腰を下ろす。
しばらくすると、《ドールハウス》から料理を担当する家族が食事を運んできた。
その姿を見た時だけ、拳聖の手が止まった。
人形が歩き、料理を運び、グレイと言葉を交わしている。
グレイはその視線に気づいた。
「気になる?」
「……まあな」
「聞かないのか?」
「今は飯だ。冷める」
「そっち優先なんだな」
「当たり前だろ」
それ以上、拳聖は何も聞かなかった。
料理を一口食べ、少しだけ目を細める。
「うまいな」
「だろ?」
「姫さんが作ったわけじゃないっスけどね」
「家族が褒められたんだからいいだろ」
その言葉に、拳聖の箸がほんの一瞬だけ止まった。
けれど、やはり何も尋ねない。
グレイも説明しなかった。
今はそれでいいと思えた。
「午後もやる?」
「お前、飯食いながらそれしか考えてねぇのか」
「今はこれが一番面白い」
「散々転がされて何が面白ぇんだ」
「分からないから」
グレイはパンをちぎりながら、向かいの男を見る。
「何をされてるか分からない。分かったと思ったら、その先がある。だから面白い」
拳聖はしばらく黙っていた。
やがて食事を続けながら、何でもないことのように尋ねる。
「お前、何で強くなりてぇ」
グレイの手が止まった。
ライアンとライカも口を挟まない。
「何でって……」
すぐには答えが出なかった。
守りたいものがある。
それは今も変わらない。
けれど、拳聖を追いたい理由は、それだけではなかった。
「……知りたいから、かな」
「何を」
「世界に、俺の知らないものがどれだけあるのか。魔法も武術もそうだ。知らないものを見ると、自分でもやってみたくなる」
「ガキだな」
「悪いか?」
「別に。好きにしろ」
「言われなくても」
「ただし」
拳聖が箸を置いた。
「力でどうにかできると思ってるうちは、俺には届かん」
グレイの表情から笑みが消えた。
「……俺は力を抑えてる」
「だから何だ」
「身体能力で押してない」
「押してる」
「押してない」
「じゃあ聞くぞ。崩された時、お前はどうした?」
グレイが黙る。
「地面を強く蹴って無理やり戻しただろ。投げられそうになれば踏ん張る。間に合わなきゃ速さで逃げる。受け損なえば頑丈な身体で耐える。それを力に頼ってねぇって言うのか?」
返す言葉がなかった。
全部やっていた。
「使えるもんを使うのが悪いとは言わん。実戦なら俺だってそうする。だがな」
拳聖が自分の胸を指先で叩く。
「それで失敗を誤魔化してる間は、自分がどこで間違えたか分からねぇ。お前は自分が思ってるほど、身体の使い方が上手くねぇぞ」
腹が立った。
かなり。
けれど、朝から地面へ転がされ続けた身体が、何より雄弁にその言葉を肯定していた。
「……午後はもっと落とす」
「何をだ」
「身体能力。力で誤魔化せないくらいまで」
「姫さん」
ライアンが心配そうに声を上げる。
グレイはそちらへ手を向けた。
「大丈夫。手合わせだ。拳聖も本気で殺しには来ない」
「俺を信用すんのか?」
「そこは信用してる」
「勝手にしろ」
「それなら、少しは分かると思う?」
「知らん」
「そこは分かるって言えよ」
「俺がお前の身体じゃねぇのに分かるか。自分で試せ」
「本当に教える気ないな」
「最初からそう言ってる」
拳聖は何事もなかったように食事へ戻った。
グレイも冷め始めたスープを口へ運ぶ。
味はうまい。
けれど頭の中では、もう次の手合わせが始まっていた。
◇
午後。
結果だけなら、朝よりひどかった。
身体能力を人間の武人と大きく変わらないところまで落とした途端、今まで無意識に使っていた逃げ道がすべて消えた。
姿勢を崩されても、脚力で戻せない。
間合いを誤っても、速度で逃げられない。
受け損なった攻撃を、頑丈さで無視することもできない。
だからこそ、一つ一つの失敗がはっきりと分かった。
拳聖の右手が伸びる。
グレイは反射的に左へ逃げようとして、途中で止まった。
「そっちは誘ってるだろ」
「だったらどうする」
「こっちだ!」
右へ踏み直す。
拳聖の足が空を切った。
初めて完全に一つ避けた。
「よし!」
「戦ってる途中で喜ぶな」
「え――」
次の瞬間、頭へ軽い衝撃が走った。
グレイは草の上へ転がる。
「……はい」
「急に素直だな」
「今のは忘れろ」
「何をだ」
「何でもない」
起き上がりながら、グレイは口元を拭った。
悔しい。
だが、朝とは違う。
今は何を間違えたのか分かる。
「もう一回」
「来い」
拳聖が踏み込む。
グレイは逃げない。
伸びてきた手が腕へ触れた。
いつもなら力を入れて抵抗するところを、今度は抜く。
「そうじゃねぇ。全部抜くな。抜いたらただの棒だ」
「注文多いな!」
「俺は何も頼んでねぇ。勝手に真似してんのはお前だろ」
「じゃあ黙ってろ!」
「それで転んでも知らねぇぞ」
「それは困る!」
「面倒くせぇ奴だな!」
言い合いながらも、二人の動きは止まらない。
拳聖の手に導かれるように重心が横へ流れる。
踏ん張らない。
代わりに足を一歩出す。
身体を倒れまいと引き戻すのではなく、崩された方向へついていかせる。
初めて。
拳聖に触れられたまま、立っていられた。
「……できた」
「まだだ」
「え?」
目の前に拳聖の肩があった。
次の瞬間、身体が弾き飛ばされる。
数メートル先の草の上を転がり、ようやく止まった。
「痛い!」
「当たり前だ」
「今の絶対ちょっと強かっただろ!」
「気のせいだ」
「嘘つけ!」
「立て。今ので終わりなら、できたなんて言うんじゃねぇ」
グレイは一瞬だけ拳聖を睨み、それから笑った。
「……分かった。じゃあ次は、その先までやる」
「できるならな」
「やる」
立ち上がる。
今度は急がない。
分からないものを、分からないまま力で壊さない。
見て、触れて、失敗して、もう一度考える。
それを繰り返した。
拳聖は相変わらず答えを教えなかった。
だが、間違えば「違う」と言う。
余計な力を入れればそこを狙う。
同じ癖を見せれば、次には必ず利用する。
それだけで十分だった。
日が傾き始めた頃、拳聖がトンファーを腰へ戻した。
「今日は終わりだ」
「まだできる」
「暗くなる」
グレイは木々の向こうを見上げた。
いつの間にか、光がかなり低い位置から差し込んでいる。
「……早いな」
「姫さん、朝からやってるっスよ」
ライアンが呆れながら近づいてくる。
ライカから上着を受け取り、グレイは袖へ腕を通した。
拳聖はもう帰るつもりらしい。
「なあ」
「何だ」
「今日、俺、一回でも勝った?」
「勝ってねぇ」
「一本くらいは?」
「取ってねぇ」
「惜しかったのは?」
「ねぇな」
「……そこまで言う?」
「聞いたのお前だろ」
拳聖が歩き出す。
その背中を見送りかけて、グレイはふと眉を寄せた。
朝からずっと違和感があった。
昨日、飛竜を相手にした時に見せたもの。
気と魔力を混ぜ合わせ、肉体そのものを強化していた技術。
「なあ、拳聖!」
「その呼び方やめろ」
「今日、《魔気闘法》使った?」
拳聖の足が止まる。
「使ってねぇよ」
「……一度も?」
「あんなもん使う必要あったか?」
今度こそ、言葉が出なかった。
悔しさが胸の奥からじわじわと広がってくる。
魔法を封じた。
身体能力も抑えた。
それでも少しくらいは戦えると思っていた。
だが拳聖もまた、自分の切り札を使っていなかった。
「……なかったな」
「だろ」
拳聖はまた歩き出す。
「また来る」
「勝手にしろ」
「明日?」
「来んな」
「じゃあ次の日」
「来んな」
「いつならいい?」
「知らん。お前、旅してんだろ」
「ああ」
「なら旅しろ」
グレイが眉を寄せる。
「でも、もっと戦わないと分からない」
「俺んところで転がってるだけじゃ、いつまで経っても同じだ」
拳聖が振り返った。
「お前の動きは色んな奴から拾ってきたもんだ。拳も蹴りも投げも、それなりに知ってる。悪いことじゃねぇ」
「じゃあ何が駄目なんだ」
「覚えたものを並べてるだけだからだ」
拳聖が腰のトンファーを軽く叩く。
「一つ覚えたら使え。失敗しろ。何で失敗したか考えろ。それでも分からなきゃ、また別の奴を見ろ。使って、失敗して、直して、それで初めて自分のもんになる」
グレイは黙って聞いていた。
今日初めて、拳聖が明確に道を示した。
「……それ、教えてる?」
「あ?」
「今の完全に教えてただろ」
「独り言だ」
「俺を見ながら?」
「うるせぇ」
拳聖は今度こそ背を向ける。
「また来るからな!」
グレイが声を投げると、拳聖は振り返らず片手だけを上げた。
追い払っているのか、了承したのか。
どちらとも取れる仕草だった。
やがて、その背中が木々の向こうへ消える。
「姫さん」
ライアンが隣へ来た。
「どうだったっスか?」
グレイは少し考える。
強かった。
それだけでは足りない。
技術が上だった。
それでも足りない。
自分が今まで積み上げてきたものが無意味だったわけではない。
ただ、その先があった。
今まで見えていなかった場所に、当たり前のように立っている人間がいた。
「……遠いな」
「遠い?」
「ああ。でも、見えた」
グレイは自分の掌を見つめる。
拳聖に触れられた感覚が、まだ残っている気がした。
「次に会うまでに、一つは盗む」
「何をっスか?」
「今日やられたこと」
「多すぎません?」
「全部じゃない。一つずつだ」
ライカがその言葉に小さく頷く。
「それならよろしいです。お姫ちゃんは一度に全部やろうとしやがりますから」
「そんなことない」
「今日の自分を思い出してから言いやがってください」
「……帰るぞ」
「逃げたっスね」
「うるさい」
三人は山道を下り始めた。
身体の痛みはすでに薄れている。
それでも歩きながら、グレイは何度も右手を開いては閉じた。
押されたわけではない。
強く引かれたわけでもない。
自分の力と、自分の動きを利用された。
ならば、まずはそこからだ。
歩きながら右足を出し、力を入れすぎないよう身体を前へ運んでみる。
「……違うな」
「姫さん、歩きながら始めないでくださいよ」
「今ちょっと分かりそうだった」
「町へ戻ってからにしやがってください」
「忘れるかもしれないだろ」
「お姫ちゃん」
ライカの声が少し低くなった。
「前を見やがってください」
「見てるって」
「見てません」
言った直後、足先が木の根に触れた。
身体が僅かに前へ傾く。
グレイは反射的に踏ん張り――途中でやめた。
一歩。
前へ足を出す。
そのまま自然に姿勢を戻す。
「……あ」
ライアンが笑いかけて、途中で止まった。
グレイは自分の足元を見る。
拳聖にされたものとはまるで違う。
それでも。
さっきまでなら、力で身体を引き戻していた。
「今の……」
「姫さん?」
「いや」
グレイは顔を上げた。
「忘れないうちに、もう一回やる」
「だから町へ帰ってからにしてくださいって!」
「歩くのも練習になる」
「せめて前見てやりやがってください」
二人の声を聞きながら、グレイは山道を歩いていく。
何もできなかった。
自分が思っていたより、ずっと下手だった。
それを知ったはずなのに、足取りは不思議と軽かった。
まだ知らないものがある。
届かない場所がある。
そして、そこに立っている人間を知った。
なら、追えばいい。
◇
翌朝、グレイは拳聖を探さなかった。
代わりに向かったのは、以前にも顔を出したことのある町の道場だった。
体術を中心に教える小さな道場では、すでに何人もの門下生が汗を流している。
向かいに立った師範が、グレイの構えを見て首を傾げた。
「今日は妙に静かだな。前に来た時は、もっと自分から攻めてきただろう」
「今日は試したいことがある」
「ほう?」
「俺を崩してくれ。できるだけ、力を使わずに」
師範は一瞬黙り、それから面白そうに笑った。
「……拳聖にでも会ったか?」
「何で分かった?」
「この辺りで武をやっていて、急にそんなことを言い出す奴の理由なんて大体同じだ。やられたのか?」
「何回も」
「そうか。なら今日は面白そうだ」
師範が構える。
グレイも腰を落とした。
拳聖とは違う。
踏み込みも、肩の動きも、腰の沈みも見える。
だからこそ試せる。
師範の腕が伸びる。
受け止めそうになったところで、グレイは拳聖の言葉を思い出した。
力で止めない。
触れる。
流す。
失敗した。
「痛っ」
「何だ今のは。流すどころか俺の腕を叩いただけだぞ」
「分かってる。もう一回」
「何を教わった?」
「何も」
「嘘をつけ」
「本当だよ。教えてくれないから――」
再び拳が来る。
グレイは今度こそ腕を添え、相手の力が進む方向を探る。
「――盗むことにした」
師範の拳が僅かに逸れた。
ほんの少し。
それだけだった。
けれど、昨日まではできなかった。
グレイの口元が自然と緩む。
「もう一回」
今度の言葉は、昨日までとは少しだけ意味が違っていた。
◇
それからしばらく、三人は町に滞在した。
グレイは拳聖を探さず、いくつもの道場へ足を運んだ。
覚えたものを使う。
失敗する。
なぜ失敗したのか考える。
宿へ戻ればライアンに相手を頼み、ライカには横から動きを見てもらった。
「姫さん、普通に殴れって言われても困るんスけど」
「普通でいい」
「だから、その普通が分からないっスよ」
「じゃあ倒すつもりで」
「それは普通じゃないっス!」
文句を言いながらも、ライアンは付き合ってくれた。
拳が来る。
グレイは腕を添える。
「痛っ」
「姫さん、それ流してないっス。俺の腕を殴ってるだけっス」
「今のはちょっと失敗した」
「ちょっと?」
「にーちゃん。続けてあげやがってください」
「ねーちゃん、絶対楽しんでるよね?」
「そんなことありません」
「ライカ、肩に力入ってたら言って」
「今すぐ抜きやがってください」
「早いな」
「構えた時点で入っていやがります」
少し離れた場所から飛んでくる指摘に、グレイは渋々肩を落とす。
そんな日が続いた。
夜、家族と食事をしている時、母に「最近、随分楽しそうね」と言われた。
グレイは少し考えてから、
「そう?」
とだけ返した。
母もそれ以上は聞かなかった。
ただ柔らかく笑っていた。
◇
町を出る朝。
宿の主人へ礼を告げ、三人は山へ続く道へ出た。
「また来いよ。次は飛竜連れてくんなよ」
「俺が連れてきたわけじゃない」
「分かってるよ」
「飯、うまかった」
「最後はそっちか」
「大事だろ」
主人の笑い声を背中に受けながら、グレイたちは町を離れた。
次の目的地にも、武術で知られた場所があるらしい。
「姫さん」
「ん?」
「結局、拳聖は見つからなかったっスね」
「ああ」
「探さなくてよかったんスか?」
グレイは少しだけ山を振り返った。
拳聖が今どこにいるのかは知らない。
すでに遠くへ行ったのかもしれない。
それでも構わなかった。
「あいつが旅しろって言ったから」
「素直に聞くんスね」
「一つ覚えたら使え。失敗して、考えろって言ってた」
「それ、やっぱり完全に教えてるっスよね」
「あいつは違うって言うけどな」
「素直じゃない人っスね。姫さんと似てるんじゃないっスか?」
「どこがだ」
ライアンが隣の姉へ振る。
「ねーちゃん、どう思う?」
「似ているところはありますね」
「どこ?」
「面倒なところです」
「俺は面倒じゃない」
「自覚がないところも似ていやがります」
「ライカ」
「何でしょう」
「後で手合わせ」
「八つ当たりはお断りします」
ライアンが吹き出した。
グレイは不満そうに前へ向き直る。
道は山の向こうまで続いている。
この先にも、まだ知らない町がある。
知らない武術があり、知らない人間がいる。
グレイは歩きながら、ふと右手を握った。
少し力が入る。
気づいて、抜いた。
肩から肘へ。
肘から手首へ。
余計な力を落としてから、もう一度だけ拳を作る。
「……よし」
「何がっスか?」
「何でもない」
拳聖がどこにいるのかは分からない。
次に会う日も、場所も決めていない。
それでいい。
次に会った時、今日と同じ自分では意味がない。
一つでいい。
あの男がほんの少しでも目を見開くものを持っていく。
教えてくれないのなら、盗めばいい。
盗んだものを使い、失敗して、自分のものにすればいい。
グレイは前を向いた。
まだ遠い。
だから、追いかける価値があった。




