第4話 盗む者
拳聖と別れてからも、三人の旅は以前と変わらず続いていた。
山を越え、町へ入り、数日を過ごせばまた次の土地へ向かう。
時には冒険者ギルドで依頼を受け、街道を荒らす魔物を討つ。宿の主人から近くに面白い場所があると聞けば寄り道をし、ライアンが酒場で余計な話を拾ってきては、ライカに呆れられる。
旅そのものは何も変わっていない。
変わったのは、グレイの方だった。
「姫さん」
「何だ」
「さっきから何してるんスか?」
山間の街道を歩きながら、ライアンが横から顔を覗き込んでくる。
グレイは答えず、もう一歩踏み出した。
右足で地面を踏み、身体を前へ運ぶ。
肩には余計な力を入れない。腰も落としすぎず、前へ進むために必要な分だけ身体を動かす。
頭に浮かべているのは、拳聖の姿だった。
歩いているだけにしか見えないのに、次の瞬間には間合いの内側へいる。拳を振るう時でさえ、直前まで身体のどこにも力が入っているようには見えなかった。
その足運びを、自分の身体でなぞってみる。
――違う。
グレイはわずかに眉を寄せ、もう一度足を出した。
「……歩いてる」
「それは見れば分かるっス。普通に歩いてないから聞いてるんスよ」
困ったようなライアンの声に、少し後ろを歩いていたライカがため息をつく。
「にーちゃん。放っておきやがってください。ここ数日、ずっとあれです」
「知ってるっスよ。でも気になるじゃないっスか」
「気にしたら負けです」
「俺、何と戦ってるんスか?」
「お姫ちゃんの奇行です」
「奇行じゃない」
グレイは前を向いたまま反論した。
「足運びを試してる」
「歩きながら?」
「ああ」
「普通の道で?」
「ああ」
「宿の廊下でもやってたっスよね?」
「あれは床が平らだったから」
「昨日、食堂でもやっていやがりました」
「あれは椅子を避ける練習」
「一昨日は部屋で壁にぶつかってましたよね」
「……あれは失敗」
「やっぱり奇行っスよ」
「うるさい」
言い返しながらも、グレイは足を止めた。
街道の脇に、大きな石がある。
そこへ真っ直ぐ歩いていき、ぶつかる直前で身体の向きを変える。今度は反対側から近づき、同じように避けた。
それを見ていたライアンが首を傾げる。
「何か分かったんスか?」
「少し」
「どんな?」
グレイは石の前で立ち止まり、拳聖との手合わせを思い返した。
「俺、動く時に力を入れすぎてた」
踏み込む時は脚へ。
強く殴ろうとすれば腰と肩へ。
攻撃を受け止める時には、足を踏ん張る。
それ自体が間違っているわけではない。けれど、一つの動作をするたびに身体を固めれば、その瞬間に次の動きが遅れる。
拳聖には、それがなかった。
「拳聖は、殴ったところからそのまま次に動いてた。蹴った足を下ろした時には、もう別の動きに入ってる。たぶん俺は、一つ一つの動作を区切りすぎてる」
「だから力を抜いてるんスか?」
「ああ」
「それで強くなるんスか?」
「分からない」
「分からないんスか」
「分からないから試してる」
グレイが再び歩き始めると、ライアンも少し考えながら隣へ並んだ。
「拳聖に聞けばいいんじゃないっスか?」
「教えてくれない」
「でしょうね」
「だから盗む」
「本人の前で言ったら怒られそうっスね」
「別にいい。あいつも気付いてるだろ」
見る。
試す。
失敗する。
なぜ失敗したのかを考えて、また試す。
拳聖は答えを教えなかった。なら、自分で見つけるしかない。
「次に会った時、同じように何もできないのは嫌だからな」
「やっぱり負けず嫌いじゃないっスか」
「違う」
「何が違うんスか?」
「負けたことが嫌なんじゃない」
グレイは少しだけ考えてから続けた。
「何もできなかったのが嫌なんだ」
ライアンが目を瞬く。
その後ろから、ライカの呆れた声が飛んできた。
「それを世間では負けず嫌いと言いやがるのでは?」
「違うと思う」
「お姫ちゃんがそう思うなら、もうそれでいいです」
完全に諦めた声だった。
グレイは少し不満だったが、それ以上は言い返さなかった。
次の町までは、夕方には着く。
そこまでの道のりだけでも、試せることはいくらでもあった。
◇
その町には、三つの道場があった。
剣、槍、そして体術。
宿へ荷物を置いたグレイは、その日のうちに体術の道場へ向かった。
「姫さん、今日くらい休んでもいいんじゃないっスか?」
「歩いただけだろ」
「山越えてきたんスけど」
「いつものことだ」
「そう言われると何も言えないっスね……」
結局、ライアンとライカもついてきた。
町外れにある道場には広い土の稽古場があり、十数人ほどが組み合っている。
入口から中を覗いていると、一人の男が気付いて近づいてきた。
「見学か?」
「できれば手合わせしたい」
「いきなりだな」
「駄目か?」
「いや。この国じゃ珍しくもない」
男はグレイを上から下まで眺めた。
見た目だけなら十五歳ほどの少女で、武器も持っていない。
「体術の経験は?」
「ある」
「どのくらい?」
「色々」
「……色々?」
「色々だ」
男が困ったように笑う。
すると、後ろからライアンが顔を出した。
「すみません。姫さん、こういう説明苦手なんスよ」
「誰が苦手だ」
「じゃあ説明してくださいよ」
「体術を使える」
「ほら」
ライアンが男へ向き直る。
「こんな感じっス」
「お前は黙ってろ」
そんなやり取りを面白がったのか、男は笑いながら三人を中へ案内した。
しばらくして現れたのは、三十代後半ほどの男だった。
大柄ではない。
それでも立ち姿にほとんど隙がなく、身体の中心がぶれていない。
グレイは、それだけで相応の使い手だと判断した。
「旅人が手合わせをしたいそうだな」
「ああ」
「名前は?」
「グレイ」
「俺はバルドだ。どんな手合わせを望む?」
「魔法なし。武器なし」
「いいだろう」
「あと、できれば投げと崩しを多めに使ってほしい」
バルドの眉が上がった。
「変わった注文だな」
「今、それを覚えたい」
「なるほど」
今度は楽しそうに笑う。
「分かった。怪我をしても恨むなよ」
「大丈夫だ」
二人は稽古場の中央へ進んだ。
グレイは吸血鬼としての身体能力を意識して抑える。
勝つためではない。
自分の技術だけで、どこまでできるのかを知るためだ。
「始めるぞ」
「ああ」
先に動いたのはバルドだった。
鋭く踏み込み、右拳が伸びてくる。
グレイは身体をずらしてかわし、続く左拳へ腕を添えた。
受け止めない。
流す。
拳聖がやっていた動きを思い出しながら、触れた場所から相手の力を逃がそうとする。
「っ」
失敗した。
流しきれなかった拳が肩へ当たる。
それでも離れず、グレイは腕へ触れたまま相手の身体を探った。
重さが前へ移っている。
ほんの少し右。
なら――。
腕を引く。
バルドの身体がわずかに動いた。
「……!」
グレイの目が開く。
動いた。
ほんの少しだが、自分の力で相手の重心をずらせた。
だが、その感覚に気を取られた次の瞬間には腕を取られていた。
「そこだ」
「あ」
足を払われ、背中から土の上へ転がる。
「……またこれか」
「また?」
「いや、何でもない」
すぐに起き上がると、バルドが楽しそうに笑っていた。
「面白いな、お前」
「何が?」
「技は知っているし、身体も動く。なのに、今使おうとしているものだけ妙に下手だ」
「覚え始めたばかりだからな」
「誰に習った?」
「習ってない」
「では、見たのか?」
「ああ」
グレイは構え直した。
「だから盗んでる」
「堂々と言うものではないぞ」
「本人が教えてくれないから仕方ない」
「なるほどな」
バルドはそれ以上聞かなかった。
再び手合わせが始まる。
今度のグレイは拳を当てることを考えなかった。
触れた瞬間に何が伝わってくるのか。
腕だけではない。
肩、腰、足。
どこへ重さが乗り、次にどちらへ進もうとしているのか。
何度も失敗した。
押しすぎて反撃され、引きすぎて逆に崩される。
それでも繰り返した末、バルドが踏み込んできた瞬間だった。
グレイは伸びてきた腕へ触れ、半歩だけ横へ動いた。
押さない。
引かない。
進んでくる力へ、ほんの少しだけ別の方向を与える。
「――っ」
バルドの足が予定より一歩前へ出た。
身体が流れる。
今だ。
グレイは足を掛けた。
バルドの身体が土の上へ倒れ、大きな音を立てる。
周囲が静まり返った。
倒した本人も、しばらく動かなかった。
「……できた」
やがて、地面に倒れたままバルドが笑い出した。
「なるほど。そういうものを盗んでいるのか」
グレイは手を差し出した。
「たぶん」
「たぶんで投げるな」
「まだ合ってるか分からない」
「誰から盗んだ?」
「拳聖」
差し出された手を取ろうとしていたバルドの動きが止まった。
「……本当か?」
「ああ」
「手合わせしたのか?」
「した」
「どうだった?」
「何もできなかった」
しばらくグレイを見つめた後、バルドはその手を取って立ち上がった。
「なら、今のはまだ入口だな」
「そう思う」
「だが、悪くない」
服についた土を払いながら告げられた言葉に、グレイは小さく笑った。
「ありがとう」
◇
町を出てからも、それは続いた。
剣の道場、槍の道場、体術、格闘術。
旅先に立ち寄れる場所があれば、グレイは可能な限り足を運んだ。
拳聖と同じ技を教えてくれる者はいない。
だが、それでよかった。
剣士には剣士の間合いがある。槍使いならさらに遠く、拳を使う者は近い。蹴りを主体とする者なら、同じ体術でも足運びが違った。
相手が違えば、重心も、呼吸も、攻撃へ移る瞬間も変わる。
見るだけでは分からないことは、実際に触れて確かめた。
そして考える。
失敗すれば、また試す。
そんな日々を続けるうちに、数か月が過ぎていた。
◇
拳聖と再び出会ったのは、さらに季節が一つ変わった頃だった。
偶然だった。
三人が立ち寄った町で宿へ向かっていると、道の向こうから見覚えのある男が歩いてくる。
グレイが止まった。
拳聖も止まる。
「……」
「……」
二人とも何も言わない。
しばらく待ったライアンが、耐えきれなくなったように口を挟んだ。
「何か言ったらどうっスか?」
「久しぶり」
グレイが先に言った。
「そうだな」
拳聖はそれだけ答え、そのまま横を通り過ぎようとする。
「待て」
「何だ」
「手合わせ」
「嫌だ」
「何で」
「今着いたばっかだ」
「俺もだ」
「なら宿探せ」
「先に手合わせ」
「飯」
「終わったら食えばいい」
「腹減ってんだよ」
「……」
グレイは少し考えた。
「じゃあ飯食ってから」
「勝手にしろ」
「それはやるってこと?」
「知らん」
拳聖はそのまま歩いていく。
グレイは当然のようについていった。
「姫さん、宿は?」
「後」
「俺らもついてくんスか?」
「嫌なら先に探してていいぞ」
ライアンとライカが顔を見合わせる。
「ねーちゃん」
「どうせお姫ちゃんは止まりません」
「っスよね」
二人も後を追った。
結局、その日は四人で飯を食った。
そして食事が終わる頃には、拳聖も完全に諦めていた。
「……少しだけだぞ」
その言葉を聞いた瞬間、グレイの口元が上がる。
「分かった」
「その顔やめろ」
「どの顔」
「面倒くせぇ顔だ」
「どんな顔だよ」
◇
町外れの草原。
人のいない場所まで来ると、二人は向かい合った。
「条件は前と同じか」
「ああ」
「魔法なし」
「ああ」
「吸血鬼の力も抑える」
「ああ」
「好きにしろ」
拳聖がトンファーを構える。
グレイも腰を落とした。
久しぶりだった。
それなのに、目の前に立つと身体が思い出す。
この距離。
この立ち方。
何をしてくるのか分からない感覚。
「来い」
「ああ」
グレイが踏み込む。
拳を出す。
拳聖の腕が触れた。
以前なら、それだけで崩されていた。
今度は力を入れない。
流されることに逆らわず、その方向へ自分から一歩出る。
拳聖の眉がわずかに動いた。
それを見逃さない。
トンファーが来る。
身体を横へ逃がす。
続く一撃にも下がらず、間合いの内側へ残った。
拳を返す。
届かない。
それでもいい。
拳聖の反撃を腕で受けると、身体が傾いた。
踏ん張らない。
崩された方向へ自分から足を出し、体勢を繋ぐ。
続けて放たれた蹴りが目の前を抜けていった。
「よし」
思わず声が漏れる。
「喜ぶな」
「あ」
次の瞬間、額の寸前でトンファーが止まった。
「……またこれか」
「同じ失敗すんな」
「久しぶりだから忘れてた」
「馬鹿か」
グレイは額を押さえながら距離を取った。
「もう一回」
「まだやんのか」
「今のは惜しかった」
「どこがだ」
「前より長く立ってた」
「基準が低いな」
「前が酷かったからな」
「自覚はあるのか」
「ああ」
それから二度、三度と挑んだ。
勝てない。
だが、以前とは違う。
何も分からないまま転がされていた頃とは違って、拳聖が何を狙っているのか、その一部だけなら見えるようになっていた。
五度目。
拳聖が右から入る。
グレイは左へ動きかけ――止まった。
誘われている。
以前なら、そのまま動いていた。
拳聖も止まる。
一瞬だけ二人の間に静かな間が生まれ、その口元がわずかに上がった。
「覚えてやがったか」
「ああ」
グレイも笑う。
「盗んだからな」
「堂々と言うな」
「教えてくれないから仕方ない」
「だからって俺から盗むな」
「嫌だ」
「即答かよ」
拳聖が踏み込んだ。
グレイも逃げない。
腕へ触れる。
そこから伝わってくる力の方向を読む。
前。
なら。
ほんの少しだけ横へ。
「――」
拳聖の上体が僅かに傾いた。
グレイの目が見開かれる。
初めてだった。
足一歩にも満たない。
それでも確かに、自分の技術で拳聖の姿勢を崩した。
嬉しさが胸へ込み上げた、その直後。
「ぐっ!」
腹へ衝撃を受け、グレイの身体が地面を転がった。
数回転して、ようやく止まる。
「痛い……」
「そこで止まるからだ」
拳聖が立っている。
グレイは腹を押さえながら起き上がった。
「でも今、崩れた」
「だから何だ」
「崩れただろ。認めろ」
「嫌だ」
「何でだよ」
「その後お前が吹っ飛んだ」
「それは別だろ」
「同じだ」
「違う」
拳聖はトンファーを腰へ戻した。
「今日は終わり」
「まだ――」
「少しって言った」
「……分かった」
グレイも渋々構えを解く。
拳聖が背を向ける。
「拳聖」
「あ?」
「次はもっと崩す」
「好きにしろ」
「その次は倒す」
「寝言は寝て言え」
「じゃあ、その次は勝つ」
拳聖が足を止めた。
振り返り、グレイを見る。
「まず俺に一発当ててから言え」
「分かった」
「……」
「約束な」
「してねぇよ」
拳聖は再び歩き出した。
その背中を眺めながら、グレイは自分の手を開く。
前より近い。
まだ遠い。
それでも、もう届かない距離ではない。
そう思えるようになっていた。
◇
それからも旅は続いた。
拳聖と会えば戦う。
負ければ別の場所へ行き、学ぶ。
また会えば試す。
決まった日でも、決まった場所でもない。
拳聖も旅をしている。
グレイたちも旅をしている。
数週間で再会することもあれば、数か月顔を合わせないこともあった。
それでも会えば――。
「手合わせ」
「嫌だ」
「飯奢る」
「……何食わせる気だ」
「釣れたっスね」
「うるせぇぞ金髪」
「俺、ライアンって名前あるんスけど」
「知るか」
「ひどいっス!」
そんなやり取りの末に、結局は戦うことになる。
そして少しずつ、本当に少しずつ、グレイは変わっていった。
最初は何十回挑んでも一撃すら届かなかった。
やがて拳聖の服へ指が触れた。
次は腕を掴んだ。
その次には、ほんの一瞬だけ姿勢を崩した。
だが、グレイだけが成長するわけではない。
一つ覚えれば、拳聖は同じ技を使わなくなる。
別の崩し方を見せ、別の足運びで翻弄する。
そしてグレイは、それをまた盗もうとする。
「今の何?」
「知らん」
「やった本人だろ」
「自分で考えろ」
「足?」
「知らん」
「腰?」
「知らん」
「重心?」
「知らん」
「絶対知ってるだろ」
「うるせぇ」
拳聖は教えない。
少なくとも本人は、頑としてそう言い張った。
けれど、グレイが完全に間違った方向へ進もうとした時だけは違った。
「違う」
ぽつりと、それだけ言う。
「何が?」
「全部」
「もう少し教えろよ」
「嫌だ」
「ケチ」
「ガキ」
「爺」
「殴るぞ」
「今殴り合ってるだろ」
「……」
「……」
少し離れた場所でライアンが吹き出し、ライカも口元を押さえる。
いつからだったのか。
誰も気付いていなかった。
ただの目標だったはずの拳聖が、少しずつ三人の旅の中へ混ざり始めていた。
◇
ある日の夕方。
手合わせを終えた後も、拳聖は珍しく帰らなかった。
近くに町もなく、日も落ち始めている。
「飯食っていけば?」
グレイがそう言うと、拳聖は少し考えただけで、
「そうする」
と答えた。
それだけだった。
焚き火を囲み、鍋を用意する。
料理を担当する家族が《ドールハウス》から姿を現しても、拳聖はもう驚かなかった。
最初こそ怪訝そうにしていたが、今では詳しく聞くこともない。
グレイが家族と呼ぶのなら、そういうものなのだろう。
それ以上、踏み込んでくることはなかった。
「拳聖殿」
ライカが皿を渡す。
「何だ」
「野菜も食べやがってください」
「食ってる」
「肉ばかり選んでいやがります」
「細けぇな」
「健康管理も大切です」
「俺の健康をお前が管理すんな」
「では自分でしやがってください」
ライアンが笑った。
「ねーちゃん、完全に世話焼いてるっスね」
「にーちゃんは黙って食べやがってください」
「はいはい」
グレイはスープを飲みながら、そのやり取りを眺めていた。
少し、不思議だった。
最初はただの目標だった。
強い男。
自分の知らない技術を持っている男。
それだけだったはずなのに、今では同じ焚き火を囲んでいる。
「何見てんだ」
拳聖が気付いた。
「別に」
「気持ち悪ぃな」
「見るくらいいいだろ」
「嫌だ」
「面倒だな」
「お前に言われたくねぇ」
グレイは小さく笑った。
食事が終わり、夜が深くなる。
山から吹き下ろしてくる風は冷たかった。
ライアンとライカは少し離れた場所で話している。
拳聖は焚き火の向こう側。
グレイは昼間の手合わせを思い返しながら、ふと口を開いた。
「なあ」
「何だ」
「《魔気闘法》」
拳聖の目がわずかに上がる。
「何で気と魔力を合わせる?」
「そのままだ」
「答えになってない」
「両方使うからだ」
「だから、何で」
「自分で考えろ」
「……またそれか」
拳聖は焚き火へ一本、枝を放り込んだ。
火の粉が小さく舞う。
「お前、魔力は扱えるんだろ」
「ああ」
「気は?」
「多少なら」
「なら試せ」
グレイが顔を上げた。
「教えてくれるのか?」
「誰が」
「……」
「自分でやれ」
「どうやって?」
「知るか」
「お前はできるんだろ」
「俺にできるからって、お前にも同じやり方が合うとは限らねぇ」
それ以上は何も言わない。
グレイは少し考えてから、自分の手を見た。
拳聖は魔法を使えない。
魔力そのものをまったく持たないわけではないが、その量も適性も、魔法使いと呼べるようなものではなかった。
それでも、あの男は戦う。
その僅かな魔力さえ、自分が長い年月をかけて鍛え上げてきた「気」と合わせ、身体を動かす力として利用している。
それが《魔気闘法》。
少なくとも、グレイはそう見ていた。
「魔力はお前のもんだ」
拳聖が言った。
「ああ」
「気もお前のもんだ」
「ああ」
「なら俺に聞くな」
「……」
「自分の身体に聞け」
それだけ言って、拳聖は地面へ横になった。
「寝る」
「今の説明で?」
「十分だ」
「全然分からない」
「考えろ」
目を閉じる。
本当にこれ以上教えるつもりはないらしい。
グレイはしばらく拳聖を睨んでいたが、やがて諦めて焚き火へ向き直った。
魔力なら分かる。
身体の内側にある、慣れ親しんだ力だ。
空間を歪め、距離を折り、物を異空間へ収納する。血の代わりへ変換する術まで身につけている。
操作には自信があった。
問題は、気だった。
武人たちがそう呼ぶ、身体の内側から生まれる力。
魔力と似ているようで違う。
グレイは目を閉じ、呼吸を整えた。
心臓の鼓動。
血の巡り。
筋肉。
骨。
さらにその奥。
普段、魔法を使う時には意識しない部分へ集中していく。
やがて、微かな感覚を見つけた。
「……これか?」
魔力とは違う。
少し温かい。
それを逃さないよう意識しながら、魔力を近づける。
瞬間。
「痛っ」
右腕が弾かれたように跳ねた。
焚き火の向こうで、拳聖が片目だけを開く。
「下手くそ」
「起きてるじゃないか」
「うるせぇからだ」
「今、何が悪かった?」
「全部」
「またそれか」
傷はない。
けれど、身体の内側で二つの力が反発したのは分かった。
グレイはもう一度目を閉じる。
今度はゆっくり。
それでも、結果は同じだった。
気へ魔力を近づけようとするたびに反発する。
「っ……」
「姫さん?」
ライアンが気付いた。
「何してるんスか?」
「《魔気闘法》」
「もう始めたんスか? 拳聖に教わったんスね」
「教えてねぇ」
寝転がったまま拳聖が言う。
「教えてもらってない」
グレイも同意する。
「じゃあ何でやってるんスか?」
「試せって言われた」
「それを世間では教えたって言うんじゃないっスか?」
「言わねぇ」
「言わない」
「何で二人ともそこだけ意見合うんスか……」
ライカが小さく笑った。
「にーちゃん。邪魔をしない方がいいですよ」
「そうっスね」
再び静かになる。
グレイは何度も試した。
しかし、その夜は最後まで二つの力を重ねることはできなかった。
◇
翌朝。
グレイが目を覚ますと、拳聖はすでに起きていた。
少し離れた場所で、一人で型を繰り返している。
トンファーは使っていない。
ゆっくりと拳を出し、足を運び、呼吸に合わせて身体を動かしていく。
グレイは声をかけなかった。
ただ見る。
昨夜、自分は気と魔力を別々に捉え、後から合わせようとした。
結果は反発しただけだった。
なら拳聖はどうしている。
目を凝らす。
魔力の流れはある。
だが、あまりにも小さい。
普通の魔法使いと比べれば、ほとんど無いに等しい。
それでも、その僅かな力が身体の内側を巡る別の流れと重なっていた。
「……」
グレイは無意識に息を止める。
混ぜている。
そう思った直後、違和感を覚えた。
「……違う」
拳聖の動きが止まる。
「朝からうるせぇな」
グレイは答えず、その姿を見つめた。
昨夜の自分は、気を作り、そこへ魔力を持っていこうとした。
拳聖は違う。
二つがぶつかるような瞬間そのものがない。
「後から混ぜてないのか」
「知らん」
「……」
返事はない。
けれど、否定もしない。
グレイは自分の胸へ手を置いた。
別々に出して、後からぶつけるのではない。
もっと前。
身体の内側で、それぞれの力が動き出す時から同じ方向へ流す。
目を閉じる。
息を吸い、ゆっくりと吐く。
気を感じる。
その流れを壊さないよう、ほんの僅かに魔力を添えてみる。
「……っ」
右手に、昨日とは違う感覚が生まれた。
温かい。
反発しない。
ほんの一瞬。
次の瞬間には消えてしまった。
グレイが目を開く。
「……今の」
拳聖を見る。
男は何も言わない。
「見てただろ」
「見てねぇ」
「絶対見てた」
「知らん」
グレイは右拳を握った。
《魔気闘法》と呼べるものではない。
気と魔力を自在に重ねられたわけでもなければ、それを維持することすらできない。
偶然、一瞬だけ反発しなかった。
今は、それだけだ。
それでも昨日までとは違う。
「拳聖」
「何だ」
「手合わせ」
「朝飯前だ」
「終わってから」
「今日は行く」
「どこに」
「知らん」
「じゃあ途中まで」
「嫌だ」
「少しだけ」
「嫌だ」
「一回」
「嫌だ」
「ケチ」
「ガキ」
「爺」
「ぶっ飛ばすぞ」
「それでいい」
拳聖の足が止まった。
グレイは笑う。
「一回だけ」
「……」
拳聖がゆっくりと振り返った。
「一回だけだ」
「よし」
少し離れたところで、ライアンが目を覚ます。
「……朝から元気っスねぇ」
ライカも身体を起こした。
「にーちゃん」
「何?」
「止めても無駄です」
「分かってるっス」
朝靄の中で二人が向かい合う。
グレイは右拳を握った。
昨夜から何度も失敗した感覚を思い返す。
気。
魔力。
無理に混ぜない。
同じ方向へ。
ほんの一瞬だけ。
右腕の内側で、二つの力が重なる。
拳聖は何も言わなかった。
ただ、その目が僅かに細くなる。
それだけでグレイには十分だった。
「行くぞ」
「来い」
踏み込む。
右拳を振るう。
拳聖のトンファーとぶつかった。
短い音が響く。
そして次の瞬間には――。
「……」
グレイは地面に転がっていた。
朝の白い空が視界いっぱいに広がっている。
「全然駄目だ」
「当たり前だ」
拳聖が見下ろしていた。
「形にもなってねぇ」
「でも」
グレイは寝転がったまま右手を持ち上げた。
もう何も感じない。
重なったのは本当に一瞬だった。
「昨日よりは分かった」
「そうか」
「次はもう少し上手くやる」
「好きにしろ」
拳聖はそれ以上何も言わず、背を向けた。
「じゃあな」
「また会おう」
「知らん」
「俺は会うつもりだから」
「勝手にしろ」
男はそのまま山道を歩いていった。
グレイはすぐには起き上がらなかった。
その背中が見えなくなるまで眺め、それから右手を開いて、もう一度握る。
まだ使えない。
《魔気闘法》には程遠い。
拳聖にも届かない。
今日だって簡単に転がされた。
それでも、何も知らなかった昨日とは違う。
「姫さん」
ライアンが上から覗き込んできた。
「いつまで寝てるんスか?」
「今考えてる」
「地面で?」
「ああ」
「朝飯冷めるっスよ」
グレイはすぐに起き上がった。
「それは困る」
「そこは即決なんスね」
「当たり前だろ」
ライカが朝食を用意していた。
《ドールハウス》から出てきた家族たちも手伝っている。
焼いたパンの香ばしい匂いが、朝の冷たい空気へ混ざっていた。
グレイはそちらへ歩きながら、もう一度だけ右手を握る。
一瞬だった。
なら、次はその一瞬を少し長くすればいい。
それができたら、動いてみる。
動けたら、戦ってみる。
失敗したら、また考える。
教えてもらえないのなら、見る。
分からないのなら、試す。
それでも分からないのなら、何度でも失敗すればいい。
グレイは一度だけ振り返った。
もう拳聖の姿は見えない。
「……次は、もう少し驚かせる」
返事はない。
必要もなかった。
拳聖から盗めるものは、まだいくらでもあるのだから。




