第5話 追う者、追われる者
雨は夜明け前から降り続いていた。
山の斜面を覆う木々から絶え間なく雫が落ち、土の窪みには浅い水溜まりがいくつもできている。厚い雲に遮られた空は朝になっても薄暗く、遠く連なる山々は白い靄の向こうへ輪郭を沈ませていた。
そんな雨の中、グレイは一人、木々の間に立っていた。
上着は近くの枝へ掛けてある。白銀の髪はすっかり濡れ、細い束となって頬へ張りつき、肘まで捲った袖の先からも絶えず水滴が落ちていた。
それでも宿へ戻るつもりはない。
右足を半歩前へ出し、肩から余計な力を抜く。
雨音を聞きながら呼吸を整え、意識を身体の内側へ沈めていった。
――気。
そして、魔力。
以前のグレイは、この二つを別々の力として捉えていた。
気を掴み、そこへ魔力を近づけ、後から混ぜ合わせようとしていた。だから互いの力が反発し、まともに扱うことすらできなかった。
今は違う。
初めから同じ流れへ乗せる。
呼吸とともに身体を巡る気へ、魔力をほんの少しだけ添えていく。無理に押し込まず、急がず、流れそのものを乱さないように。
右肩から腕へ。
肘を通り、手首を抜け、拳へ。
淡い力が身体の内側を巡った。
「……」
グレイはゆっくりと右拳を開いた。
途端に流れが薄れ、やがて消える。
もう一度。
今度は左腕へ。
次は足。
腰。
胸。
身体の一部だけではなく、少しずつ全身へ巡らせていく。
何度も失敗した。
気へ意識を寄せすぎれば魔力が途切れ、魔力を強めれば今度は気との均衡が崩れる。それでもグレイは焦らなかった。
失敗するたびに呼吸を整え、最初からやり直す。
そうしてどれほど経った頃か。
「姫さん」
雨音に混じって、背後から声がした。
集中を切らさないままグレイは答える。
「何だ」
「朝飯」
「もう少し」
「それ、一刻前にも聞いたっス」
「じゃあ、もう少しだけ」
「その『もう少し』が信用できないんスよ」
呆れた声とともに、ライアンが木の陰から姿を現した。頭には雨避けの布を被っており、その後ろから傘を差したライカも歩いてくる。
「お姫ちゃん」
「今度は何だ」
「風邪を引きやがりますよ」
「引かない」
「知っています」
「ならいいだろ」
「よくありません。見ているこちらが寒いです」
「ライカは濡れてないだろ」
「そういう問題ではありません」
ぴしゃりと言い切られ、グレイはようやく目を開けた。
右拳を握る。
先ほどまで身体を巡っていた気と魔力は、すでに消えていた。
「……また切れた」
「それで、どれくらい保つようになったんスか?」
「普通に立ってるだけなら、半刻くらい」
「十分じゃないっスか?」
「動くと駄目だ」
グレイはぬかるんだ足元へ視線を落とした。
「歩くだけなら問題ない。走ると乱れる。戦うともっと早い」
「それでも、最初に比べれば随分進んでいやがるのでは?」
「まあな」
最初は本当に一瞬だった。
拳へ纏わせることすらできず、気と魔力を無理にぶつけて腕を痺れさせていた頃から考えれば、今では歩きながらでも維持できる。
簡単な型ならこなせるようになった。
身体の一部へ集中させれば、拳や蹴りへ乗せることもできる。
けれど――。
「まだ、あいつとは違う」
ぽつりと漏らすと、ライアンが苦笑した。
「そこを基準にするから終わらないんじゃないっスか?」
「終わらなくていい」
「……ああ。姫さんならそう言うと思ったっス」
グレイは木へ掛けていた上着を取り、軽く身体を拭ってから袖を通した。
「飯、何?」
「それを聞いた途端、戻る気になるんスね」
「腹減った」
「料理担当の人が焼いたパンと、肉と豆のスープです」
ライカが答えた途端、グレイの歩く速度がわずかに上がった。
「お姫ちゃん」
「何だ」
「走りやがらないでください。せっかく整えた呼吸が乱れます」
「……」
足が止まる。
後ろでライアンが吹き出した。
「効くっスね、その言い方」
「うるさい」
三人が森の中に張った簡素な野営地へ戻ると、雨避けの下ではすでに朝食の準備が整っていた。
《ドールハウス》から出てきた家族たちが食器を並べ、鍋からは温かな湯気が立ち上っている。焼きたてのパンと肉の香りが湿った森の空気へ混ざり、それだけで冷えていた身体から少し力が抜けた。
グレイが腰を下ろす。
その向かいには、母が座った。
「随分濡れたわね、グレイ」
「雨だから」
「見れば分かるわ」
母の手が伸び、頬へ張りついていた白銀の髪を指先で払う。
「雨の日くらい休めばいいのに」
「雨の日だからやってた」
「どうして?」
「足場が悪い」
「……そう」
母は一瞬黙った後、どこか懐かしそうに微笑んだ。
「昔から、そういうところだけ妙に真面目ね」
「そういうところだけ?」
「全部とは言ってないわ」
「母上」
隣でライアンが必死に笑いを堪えている。
グレイはじろりとそちらを見た。
「何だ」
「何でもないっス」
「絶対何かあるだろ」
「ないっス」
「にーちゃん。顔に出ていやがります」
「ねーちゃんまで!?」
雨の音。
湯気の向こうから聞こえてくる家族の声。
いつもと変わらない朝だった。
グレイはスープを一口飲む。
少し濃い味付けが、雨に冷やされた身体へ染み込んでいく。
「……うまい」
食事を終えれば、また旅を続ける。
拳聖が今どこにいるのかは知らない。最後に顔を合わせてから、すでにしばらく経っていた。
それでも、以前ほど焦ることはなくなっている。
次に会うまでに試したいことがある。
直したいところも、まだいくらでもある。
そう思える時間も、今では悪くなかった。
◇
拳聖と出会ってから、いくつもの季節が巡った。
グレイたちは一つの場所には留まらない。
南へ向かったかと思えば東へ戻り、山を越え、広い平原を歩く。武術で名の知られた町があれば立ち寄り、冒険者が集まる土地では腕の立つ者を探した。
道場だけではない。
傭兵、冒険者、兵士、狩人。
時には、街道で襲ってきた盗賊からさえ学んだ。
相手が誰であろうと、見るべきものがあれば見る。
使えると思えば試す。
ただし、以前のグレイとは一つだけ大きく違っていた。
――覚えた技を、ただ増やすことはしない。
拳聖から言われた言葉が、ずっと残っていた。
覚えた技を並べているだけ。
ならば、自分の中へ落とせばいい。
何のために使う技なのか。
どの間合いで使うのか。
自分ならどう使うのか。
使えないものなら捨てる。
使えるのなら残す。
そうして一つずつ確かめていくうち、グレイの動きから少しずつ無駄が消えていった。
◇
ある町で、グレイは一人の槍使いと向かい合っていた。
場所は町外れの訓練場。
周囲では数人の冒険者たちが、二人の手合わせを見守っている。
相手は長身の男だった。
当然ながら槍の間合いは長い。
対するグレイは素手だった。
「本当に武器はいらないのか?」
「ああ」
「魔法は?」
「使わない」
「それで俺の槍へ入れると?」
「試したい」
「……変な奴だな」
「よく言われる」
すると、少し離れたところから声が飛んできた。
「自覚あったんスね!」
「うるさい!」
周囲から笑いが起こる。
槍使いまで肩を揺らした。
「仲がいいな」
「腐れ縁だ」
「姫さん!?」
「始めよう」
「切り替え早いな……」
男が苦笑しながらも槍を構え、鋭い穂先がグレイへ向けられる。
グレイも呼吸を整えた。
気を感じる。
そこへ魔力を重ねる。
二つの力を全身へ巡らせる。
以前より、ずっと自然にできるようになっていた。
「行くぞ」
「ああ」
鋭い突きが伸びる。
グレイは半歩だけ身体をずらした。
穂先が頬の横を通り抜け、すぐに引き戻される。
二撃目は低い。
足を狙っている。
かわす。
三撃目が来るより先に踏み込むが、槍使いも同時に下がり、長い間合いを保った。
当然だ。
無理に追えば、槍の間合いの中で好きにされる。
ならば――。
グレイは追わなかった。
「……?」
槍使いの表情に、一瞬だけ迷いが浮かぶ。
グレイは槍ではなく、相手の足を見ていた。
次にどちらへ踏むのか。
腰が動く。
来る。
予想通り、槍が真っ直ぐ突き出された。
今度は避けない。
グレイは伸びてきた柄へ掌を添えた。
「なっ――」
押さえつけるのではない。
ほんの少し横へ流す。
同時に、一歩踏み込んだ。
槍使いは慌てて槍を引こうとする。
グレイは逆らわない。
その引く力に合わせるように、さらに前へ出た。
槍使い自身の腕が、グレイを懐へ引き込む。
気付いた時には、すでに遅い。
グレイの拳が男の胸の前で止まった。
「……」
槍使いが目を瞬く。
「俺の勝ちでいい?」
「……ああ」
男は長く息を吐き、自分の槍を見た。
「いつ入られた?」
「槍を引いた時」
「そこか……引かされたな」
「たぶん」
「たぶん?」
「まだ上手く説明できない」
グレイは少し考え、先ほどの感覚を言葉へ置き換える。
「俺が入ったっていうより、あんたが俺を引き込んだ感じ」
「それをお前が利用したんだろ?」
「ああ」
「なら十分だ」
槍使いは苦笑した。
「やっぱり変な奴だな」
「それ、さっきも聞いた」
「なら本当に変なんだろ」
手合わせを終え、グレイが訓練場の端へ戻る。
「姫さん」
「何だ」
声をかけてきたライアンは、珍しく真面目な顔をしていた。
「強くなったっスね」
「前から強い」
「そういう意味じゃないっス」
「分かってる」
グレイは自分の掌へ目を落とした。
以前の自分なら、もっと簡単な方法を選んでいた。
槍の穂先を空間魔法でずらす。
あるいは吸血鬼の身体能力で強引に間合いを潰す。
それなら、今よりずっと簡単に勝てる。
けれど。
「……面白いな」
「またそれっスか」
「だって面白い」
「まあ、楽しそうならいいっスけど」
そこへライカが水を差し出した。
「お姫ちゃん」
「ありがとう」
受け取ったところで、ライカが尋ねる。
「《魔気闘法》は?」
「途中で少し乱れた」
「相手の懐へ入った時ですか?」
グレイが顔を上げた。
「分かった?」
「呼吸が変わりやがりました」
「……ライカ、最近よく見てるな」
「毎回付き合わされていれば嫌でも分かります」
グレイは水を飲みながら、先ほどの感覚を思い返した。
《魔気闘法》はまだ完成していない。
戦いながら維持できるところまでは来たが、意識を大きく動かした瞬間に流れが乱れる。
拳聖なら、そんなことはない。
「次に会ったら聞く」
「教えてくれますかね?」
「教えないだろ」
「では、なぜ聞きやがるので?」
「顔を見る」
「顔?」
グレイは当然のように答えた。
「俺が間違ったことを言うと、あいつちょっと嫌そうな顔するから」
ライアンとライカが揃って黙った。
「……姫さん」
「何だ」
「それ、答え聞くより難しくないっスか?」
「慣れた」
「変なところで拳聖殿を攻略し始めやがりましたね……」
◇
その再会は、思っていたより早く訪れた。
三人が山間の小さな村へ入った日のことだった。
宿へ向かう途中、道端に人だかりができている。
「何かあったんスかね?」
ライアンが首を伸ばす。
村人たちの中心には、一人の男が座っていた。
その前には、大きな猪型の魔物が横たわっている。
すでに息はない。
「……」
グレイが足を止めた。
「いましたね」
ライカも気付いたらしい。
拳聖だった。
男は猪の大きな牙を眺めながら、村人と何か話している。
「拳聖」
グレイが呼ぶ。
男の肩が、目に見えて僅かに落ちた。
「……来やがったか」
「その反応何だよ」
「面倒なのが来たと思っただけだ」
「久しぶりに会ったのに?」
「だから何だ」
ライアンが笑う。
「拳聖、姫さんの扱い慣れたっスね」
「お前らが甘やかしすぎなんだ」
「誰が甘やかしてるっスか」
「にーちゃんはかなり甘いですよ」
「ねーちゃん!?」
グレイは二人を放っておき、猪型の魔物を見た。
「それ、倒したのか?」
「ああ」
「素手?」
「トンファー使った」
「《魔気闘法》は?」
「使った」
「見たかった」
「知らん」
「もう一匹いない?」
「いるわけねぇだろ」
拳聖は村人から礼を受け取ると、そのまま歩き出した。
当然のように、グレイも隣へ並ぶ。
「どこ行く?」
「宿」
「俺たちも」
「そうか」
「同じところ?」
「知らん」
「どこ泊まる?」
「ついてくんな」
「まだ何もしてないだろ」
「これからする顔してんだよ」
「手合わせ」
「ほら見ろ」
後ろからライアンの笑い声が聞こえてくる。
結局。
四人が選んだ宿は、同じだった。
◇
その日の夕方。
村を出た先にある、低い丘の上。
拳聖とグレイは向かい合っていた。
「少しだけだぞ」
「ああ」
「日が沈んだら終わりだ」
「分かった」
「あと」
「何だ」
拳聖は腰のトンファーへ手を掛けながら、平然と言った。
「今日は前みたいに手加減してやらん」
グレイの目が細くなる。
「……今まではしてたのか?」
「してねぇと思ってたのか?」
「……」
「何だその顔」
「ちょっと腹立った」
「なら帰る」
「待て」
「面倒くせぇな」
拳聖がトンファーを抜いた。
その瞬間。
空気が変わった。
グレイの表情からも笑みが消える。
呼吸を整え、気へ魔力を重ねる。
肩から腕へ。
胸から腰へ。
足の先まで。
二つの力を全身へ巡らせると、それを見ていた拳聖の目がわずかに細くなった。
「形にはなったか」
「分かる?」
「見りゃな」
「じゃあ」
グレイは静かに構えた。
「見てくれ」
「勝手にしろ」
次の瞬間。
拳聖が動いた。
速い。
グレイは一撃目を腕で流し、続く二撃目から身体を逃がす。
三撃目はトンファー。
腕で受けた瞬間、重い衝撃が骨まで抜けた。
まともに受けない。
流す。
身体ごと力を逃がし、それでも後ろへは下がらない。
むしろ一歩、前へ。
拳を返す。
狙うのは拳聖の頬。
だが、僅かに首を傾けられただけで拳は空を切った。
「遅ぇ」
同時に腹へ拳が迫る。
「前よりは速い」
「自分で言うな」
身体を捻る。
拳が服を掠めた。
近い。
互いの呼吸が聞こえるほどの距離。
拳聖の蹴りが来る。
グレイは下がらなかった。
逆に踏み込む。
蹴りの根元。
まだ威力が乗り切る前に、肩を拳聖の身体へぶつけた。
「っ」
拳聖の身体が半歩ずれる。
すぐさま左拳を胸へ放つ。
トンファーに防がれた。
それでも。
拳聖の足が初めて一歩、後ろへ動いた。
「……」
グレイは追わなかった。
目を丸くして、その足を見る。
「今、下がった」
「だから何だ」
「初めてだ」
「覚えてねぇ」
「俺は覚えてる」
「戦ってる途中で喋るな」
拳聖が来る。
先ほどより、さらに速い。
グレイは思わず笑った。
余裕などない。
それでも楽しい。
最初に戦った時は、何をされているのかすら分からなかった。
今は違う。
見える。
考えられる。
対応できる。
それでもなお――拳聖の方が、遥かに上だった。
一つの崩しから、その先へ二つ、三つと繋がっていく。
グレイが一つを読んでいる間に、拳聖はすでに次を作っている。
だから追う。
右。
左。
足。
身体。
トンファーが肩を打った。
「っ……!」
痛みが走る。
流しきれなかった。
それでも倒れず、グレイは打ち込まれた腕へ自分の腕を絡めた。
拳聖が即座に外す。
――予想通り。
そこに、一瞬だけ隙間ができた。
右拳を放つ。
「――」
拳聖の目が、僅かに見開かれた。
拳が頬へ触れる。
軽い。
打ち抜いたわけではない。
本当に掠った程度。
それでも――届いた。
二人が同時に距離を取る。
拳聖の頬には、小さな赤い跡が残っていた。
「……当たった」
「掠っただけだ」
「当たった」
「威力が乗ってねぇ」
「でも当たった」
「うるせぇ」
そう言った拳聖の口元が、ほんの僅かに上がった。
グレイはそれを見逃さなかった。
自分の口元も、自然と緩む。
「やっとだ」
「調子乗んな」
「ああ」
グレイはもう一度構える。
「もう一回」
「言われなくても行く」
拳聖が地面を蹴った。
次の瞬間。
姿が消えた。
「――っ!」
腹へ衝撃が突き抜けた。
身体が浮き、そのまま地面へ叩きつけられる。
どうにか受け身を取ったものの、起き上がるより早く首元へトンファーが添えられた。
「終わり」
「……急に速くするなよ」
「当てた褒美だ」
「褒美になってない」
「生きてるだろ」
「手合わせだからな」
「なら文句言うな」
グレイはそのまま地面へ寝転がった。
夕焼けに染まった空が広がっている。
腹は痛い。
けれど、それ以上に右拳へ残っている感覚が強かった。
「……やっと一発」
「掠っただけだ」
「何回言うんだよ」
「お前が何回も言うからだ」
ふいに、拳聖が手を差し出した。
グレイは少し驚いた。
これまで何度倒されても、手を貸されたことなどなかった。
「何だ」
「いや」
その手を掴む。
強い力で引き起こされた。
「次はちゃんと当てる」
「その前に」
拳聖の指が、グレイの胸元を軽く突いた。
「ここ」
「ん?」
「途中で乱れた」
グレイの目が見開かれる。
「《魔気闘法》?」
「ああ」
「どこ?」
「俺に一発入れる少し前」
グレイはすぐに先ほどの戦いを思い返した。
呼吸。
気。
魔力。
拳聖へ一撃を入れるため、攻撃へ意識を集中させた瞬間。
「……確かに」
そこで魔力を強めた。
「何で?」
「自分で考えろ」
「そこまで言ったなら教えろよ」
「嫌だ」
「ケチ」
「自分で気付かねぇと意味がねぇ」
グレイの動きが止まった。
拳聖も、何かに気付いたように黙る。
少しして。
男は露骨に視線を逸らした。
「……何だ」
「今」
「何が」
「教えた」
「教えてねぇ」
「いや、教えた」
「独り言だ」
「俺を指差しながら?」
「うるせぇ」
グレイの口元が上がる。
「師匠」
拳聖の眉間へ深い皺が刻まれた。
「殺すぞ」
「嫌なのか」
「誰が師匠だ」
「じゃあ拳聖」
「それも嫌だ」
「名前知らないし」
そこで、グレイは初めて気付いた。
「そういえば、名前何だ?」
拳聖は答えなかった。
ほんの少し。
本当に思い出そうとするような間があった。
「……忘れた」
「は?」
「昔はあった」
「いや、今もあるだろ」
「使ってねぇから覚えてねぇ」
グレイはまじまじと男を見る。
冗談を言っている顔ではなかった。
「本当に?」
「ああ」
「普通忘れるか?」
「呼ばれねぇもんは忘れる」
「拳聖って呼ばれてるから?」
「勝手に周りがそう呼んでるだけだ」
それ以上、拳聖は自分の名前へ興味を示さなかった。
自分自身の名前だというのに、まるで遠い昔に道端へ置いてきた荷物の話でもしているようだった。
「……変な奴」
「お前に言われたくねぇ」
拳聖はトンファーを腰へ戻した。
「帰るぞ」
「一緒に?」
「宿同じだろ」
「ああ」
二人で歩き出す。
少し遅れて、ライアンとライカも追いついてきた。
「姫さん!」
ライアンは妙に嬉しそうだった。
「見たっスよ!」
「何を」
「当てたじゃないっスか!」
「ああ」
「初めてっスよね?」
「ああ」
「拳聖も笑ってたっス」
「見た」
「拳聖殿」
ライカが男を見る。
「随分楽しそうでいやがりましたね」
「気のせいだ」
「笑ってたっスよ」
「笑ってねぇ」
「笑っていやがりました」
「お前らうるせぇな」
「ほら、照れてるっス」
「にーちゃん」
「何?」
「それ以上言うと殴られます」
「……やめとくっス」
グレイは少し前を歩く拳聖の背中を見た。
以前と何も変わらない背中。
特別大きいわけでも、広いわけでもない。
それでも。
ずっと追い続けてきた背中だった。
その距離が今日、ほんの少しだけ縮まった気がした。
◇
翌朝。
グレイが目を覚ました時には、拳聖の姿はなかった。
「……帰った?」
「みたいっスね」
ライアンがパンを齧りながら答える。
「何も言わず?」
「いつものことでは?」
ライカは平然と茶を注いでいた。
「そうだけど」
グレイは昨日まで拳聖が座っていた場所を見る。
そこには何もない。
いつものことだ。
それなのに、少しだけ妙な感じがした。
「姫さん」
「何だ」
「寂しいっスか?」
「別に」
「即答っスね」
「また会うだろ」
「そうっスね」
グレイはパンを一つ取った。
昨日、初めて拳が届いた。
なら次は。
「……二発」
「何がっスか?」
「何でもない」
グレイは何事もなかったように食事を続けた。
◇
同じ頃。
一人で山道を歩いていた拳聖が、ふと足を止めた。
無意識に手が上がり、頬へ触れる。
昨日、グレイの拳が掠った場所。
痛みなど残っていない。
傷もない。
それでも指先でなぞった。
「……」
最初に会った頃のグレイは、何もできなかった。
力はある。
速度もある。
魔力に至っては、自分など比べることすら馬鹿らしいほどだった。
けれど、身体の使い方は雑だった。
覚えた技を並べ、通じなければ力で補う。
それでも並の武人では相手にならないからこそ、その先へ進めずにいた。
それが今では。
力を抜くことを覚えた。
相手を見るようになった。
考えるようになった。
失敗を捨てず、拾うようになった。
そして何より――盗む。
「……厄介なガキだ」
拳聖は小さく笑った。
次に会う時、今日と同じ技はもう通じないだろう。
ならば、自分も同じままではいられない。
男は再び山道を歩き始めた。
◇
それからも、グレイの修行は続いた。
朝は、気と魔力を重ねる。
旅の途中は、それを維持したまま歩く。
魔物と戦う時には、実戦で使う。
夜になれば、その日どこで流れが乱れたのかを考える。
拳聖から盗んだ技術も、そのまま真似することはしない。
自分に合う形へ少しずつ変えていく。
そうして、また季節が一つ巡った。
◇
次に拳聖と再会した時。
手合わせを終えたグレイは、地面へ座り込んだまま妙な顔をしていた。
「……なあ」
「何だ」
「あんた」
「何だよ」
「強くなってないか?」
拳聖は答えなかった。
結果だけ見れば、いつも通りだった。
グレイの負け。
だが、内容がまるで違う。
以前通じた崩しが、一度も通らなかった。
前回頬へ掠らせた拳も届かない。
それどころか、知らない足運びや崩しが増えている。
「あんたも修行してる?」
「当たり前だ」
「何で」
拳聖が眉を寄せた。
「お前だけ強くなっていい道理があるか」
「……」
グレイはしばらく黙った。
それから、笑う。
「ないな」
「なら聞くな」
「でも、ちょっと嬉しい」
「気持ち悪ぃな」
「俺が追ってるから?」
「自惚れんな」
「違うのか?」
「俺が強くなりてぇだけだ」
「そうか」
「ああ」
「じゃあ同じだな」
「何が」
グレイは立ち上がり、拳を握った。
「俺も強くなりたい」
拳聖は何も答えない。
「もう一回」
「今日は終わりだ」
「まだ昼だぞ」
「腹減った」
「飯ある」
「……」
「家族が作ってる」
「何だ」
「肉と野菜の煮込み」
拳聖が少し考えた。
「食ってから一回だけだ」
「よし」
「姫さん……」
ライアンが頭を抱える。
「完全に餌付けしてないっスか?」
「してない」
「拳聖殿も簡単に釣られやがらないでください」
「うるせぇ。腹が減ってんだ」
「ほら」
「何がほらだ」
四人で野営地へ戻る。
料理の匂いがする。
家族たちの声が聞こえる。
拳聖も、もう自然にその輪の中へ座るようになっていた。
ライアンが隣から話しかけ、ライカが皿を渡す。
拳聖は文句を言いながらも受け取り、グレイは向かい側でそれを眺めながら食事をする。
いつからこうなったのか。
誰も気にしなくなっていた。
◇
食事の後。
約束通り、二人はもう一度だけ向かい合った。
今度の手合わせは長くなかった。
グレイが踏み込む。
拳聖が受ける。
そのまま崩しへ移るが、グレイは耐えるのではなく流れに合わせて足を残す。
反撃。
拳聖がかわす。
互いに距離を取る。
それだけの攻防でも、最初の頃とはまるで違っていた。
拳聖はもう、グレイを何もさせず簡単に転がすことはできない。
グレイもただ追うだけではない。
拳聖の技を引き出し、見て、考え、次へ繋ぐ。
そして最後。
拳聖のトンファーがグレイの肩へ触れた。
ほぼ同時に。
グレイの拳も、拳聖の胸へ届いていた。
二人とも止まる。
「……相打ち?」
「お前の負けだ」
「何で」
「俺の方が先だ」
「同時だった」
「俺が先だ」
「証拠は?」
「俺が分かる」
「ずるいだろ」
「負けは負けだ」
「じゃあ次」
「終わりっつっただろ」
拳聖がトンファーをしまう。
グレイは不満そうな顔をしたものの、それ以上は追わなかった。
「……分かった」
「珍しいな」
「約束だから」
「……そうか」
拳聖がほんの少し目を細めたことに、グレイは気付かなかった。
◇
夜。
家族たちが《ドールハウス》へ戻った後も、四人は焚き火を囲んでいた。
ライアンは火のそばで短剣を手入れし、ライカは鉄扇を膝へ置いている。
拳聖は岩へ背を預け、その向かいにはグレイが座っていた。
「拳聖」
「何だ」
「《魔気闘法》」
「またか」
「今度は聞きたいことがある」
「聞くだけ聞け」
「戦ってる途中で乱れる」
「知ってる」
「何で?」
「お前が馬鹿だから」
「真面目に聞いてる」
「俺も真面目だ」
「殴るぞ」
「やってみろ」
「今から手合わせする?」
「しねぇ」
「じゃあ教えろ」
「嫌だ」
ライアンが堪えきれず笑った。
「いつも通りっスね」
「にーちゃん、静かにしやがってください」
グレイは少し考え、昼間の手合わせを思い返した。
「攻撃する時に、魔力を増やしてる」
拳聖は黙っている。
「その瞬間、気との割合が変わる」
まだ反応はない。
「だから乱れる?」
拳聖の目が――ほんの少しだけ動いた。
グレイの口元が上がる。
「当たり」
「知らん」
「今、目が動いた」
「動いてねぇ」
「動いた」
「気のせいだ」
「ありがとう」
「何も教えてねぇ」
「十分」
満足そうなグレイに、拳聖が心底嫌そうな顔をした。
「お前、本当に面倒になったな」
「あんたのせいだ」
「俺のせいにすんな」
「最初に自分で考えろって言っただろ」
「だからって人の顔で答え合わせすんな」
「便利だから」
「やめろ」
「嫌だ」
とうとうライアンが吹き出した。
ライカまで口元を隠している。
「何笑ってんだ」
「いやぁ……」
ライアンが短剣をしまいながら、二人を交互に見る。
「もう普通に師匠と弟子じゃないっスか?」
「違う」
「違ぇ」
二人の声が綺麗に重なった。
一瞬、沈黙が落ちる。
ライアンが目を瞬いた。
「そこまで揃うと逆に怪しいっスよ」
「にーちゃん。余計なことを言いやがらないでください」
「だって、ねーちゃんもそう思うっしょ?」
「思いますが、本人たちが否定していやがるので放っておきましょう」
「俺は弟子になった覚えない」
「俺も弟子にした覚えねぇ」
「でも教えてるっスよね?」
「教えてねぇ」
「でも姫さん、拳聖の技を覚えてるっスよね?」
「盗んでるだけ」
「それで拳聖、間違ってたら直してるっスよね?」
「独り言だ」
「……面倒くさい二人っスね」
「にーちゃん」
「何?」
「それだけは同意します」
「お前ら」
グレイが睨む。
拳聖も同時に睨んだ。
また同じだった。
「ほら!」
ライアンが腹を抱えて笑い出す。
「うるさい!」
「うるせぇ!」
今度は怒鳴り声まで重なった。
静かな夜の森へ声が響き、その後もしばらく笑いは止まらなかった。
◇
やがてライアンとライカが休みに入り、焚き火の前にはグレイと拳聖だけが残った。
炎が小さく揺れている。
「なあ」
「何だ」
「何で強くなりたい?」
拳聖はすぐには答えなかった。
しばらく炎を眺めてから、低い声で返す。
「理由がいるか?」
「俺には聞いた」
「そうだったか」
「忘れたのか」
「どうでもいいことは忘れる」
「名前も?」
「ああ」
あまりにもあっさりしていた。
グレイは拳聖の横顔を見る。
「本当に興味ないんだな」
「何が」
「自分の名前」
「拳に必要か?」
「普通は必要だと思う」
「普通じゃねぇから知らん」
「それはそうか」
「納得すんな」
グレイは小さく笑った。
「じゃあ、強さは?」
「必要だ」
「何で」
拳聖が少し黙る。
薪が弾け、火の粉が一つ、夜空へ上がった。
「先があるからだ」
その声は、いつもより静かだった。
「どこまで行っても次がある。一人倒せば、もっと強ぇ奴がいる。技を一つ覚えりゃ、その先がある。できなかったことができるようになりゃ、それまで見えなかったもんが見える」
拳聖は自分の拳へ目を落とした。
「なら行くだろ。行けるところまで」
グレイは何も言わず、その言葉を聞いていた。
少しして。
「俺と似てるな」
「一緒にすんな」
「何で」
「俺はお前ほど飯に釣られねぇ」
「今日釣られただろ」
「……」
「肉と野菜の煮込みで」
「黙れ」
グレイが笑う。
それからしばらく、雨上がりの森には薪の弾ける音だけが響いていた。
◇
翌朝。
拳聖はすでに旅立つ準備を終えていた。
「どこ行く?」
「西」
「俺たちは北」
「そうか」
「次はいつ会う?」
「知らん」
「またそれか」
「約束する必要もねぇだろ」
拳聖が荷物を背負う。
「どうせ――」
そこで言葉が途切れた。
「……何?」
「何でもねぇ」
そのまま歩き出す。
グレイは追わなかった。
「拳聖」
「何だ」
「次は勝つ」
男は背を向けたまま片手を上げた。
「寝言は寝て言え」
いつもの言葉だった。
グレイも笑う。
「じゃあ、またな」
返事はない。
それでも、もう気にならなかった。
拳聖の背中はそのまま森の向こうへ消えていった。
◇
数日後。
西へ続く街道を歩いていた拳聖は、山の麓で道を外れた。
森へ入り、しばらく進む。
そこには、誰にも使われていない古い小屋があった。
中へ荷物を置き、トンファーを外す。
そして、すぐに外へ戻った。
誰もいない。
静かな場所。
拳聖は足を開き、構えた。
拳を出す。
一度。
もう一度。
今度は踏み込んで。
止める。
「……遅ぇな」
誰に言ったわけでもない。
もう一度。
先ほどより速く。
今度はトンファーを握る。
振る。
止める。
角度を変える。
頭に浮かぶのは、先日のグレイの動きだった。
腕へ触れられた。
力を流された。
懐へ入られた。
頬を掠められた。
胸へ拳を届かせられた。
同じままなら、次はもっと深く入られる。
「……」
拳聖は構え直した。
長い間、強さだけを追ってきた。
誰かが自分へ追いつこうとしても、気付けば離れていた。
ある者は諦めた。
ある者は年を取った。
怪我をした者もいた。
別の道を選び、拳から離れていった者もいる。
それが普通だった。
だから、いつからか忘れていた。
自分が追われるという感覚を。
けれど。
あの少女は違う。
倒しても来る。
転がしても、また立つ。
教えなくても見ている。
見たものを盗む。
そして盗んだものを、次に会う時には自分の形へ変えて持ってくる。
「厄介だな」
拳聖の口元が、ほんの少しだけ上がった。
次に会った時、同じ技を見せればきっと盗まれる。
なら、同じ技を見せなければいい。
違うものを使う。
それも盗まれるのなら、さらに先へ行く。
簡単なことだった。
追われるなら、逃げればいい。
ただし――背を向けてではない。
前へ。
もっと先へ。
拳聖は強く地面を踏んだ。
放たれた拳が空気を裂く。
もう一度。
今度は、先ほどより速く。
◇
同じ頃。
遠く離れた山道では、グレイもまた拳を振っていた。
「姫さん」
「何だ」
「歩きながらやるの、まだ続いてたんスね」
「ああ」
「危ないっスよ」
「もう木の根には引っかからない」
「そこ基準なんスか?」
グレイは拳を戻す。
呼吸を整え、気へ魔力を重ねる。
今度は乱れない。
一歩。
さらに一歩。
足を運びながら、もう一度拳を振るう。
それでも流れは保たれていた。
「……よし」
「何かできたんスか?」
「少し」
「拳聖に見せるんスか?」
「ああ」
「次会ったら驚くっスかね」
「驚かせる」
「断言したっスね」
隣を歩いていたライカが、少しだけ笑った。
「拳聖殿も、同じままではないと思いますよ」
「分かってる」
グレイは前を見る。
山道の向こうには、まだ知らない土地が続いている。
「だからいい」
追う。
追いつこうとする。
そのたびに、相手も先へ行く。
ならば。
また追えばいい。
いつか追いつくまで。
あるいは――追い越すまで。
グレイは足を止めない。
そして遠く離れた場所で。
拳聖もまた。
次の一歩を踏み出していた。




