第6話 人形の家族
朝から吹いていた風は、昼を過ぎる頃にはずいぶんと穏やかになっていた。
街道から少し外れた丘の上には背の低い草が広がり、その向こうには緩やかな山並みが重なっている。遮るもののない空の下、グレイと拳聖は互いに数歩の距離を空けて向かい合っていた。
どちらも動かない。
グレイは拳聖の肩や腰ではなく、身体全体を見る。
足の向き。重心。呼吸。トンファーを握る指の力。
以前なら、目の前に立っているだけで何を狙われているのか分からなかった。攻撃が始まってから必死に反応し、気づいた頃には地面へ転がされている。
今は違う。
何をするかまでは読めなくとも、何かをする瞬間は少しずつ分かるようになってきた。
そして、それ以上に――。
「今日は長いっスね」
少し離れたところから、ライアンの声が飛んできた。
グレイは拳聖から視線を外さない。
「聞こえてるぞ」
「聞こえるように言ってるっスよ。さっきから二人とも全然動かないじゃないっスか。見てるこっちまで息を止めそうになるんですけど」
「だったら息してろ」
「してるっスよ。俺は姫さんと違って、息を止めたら苦しいんで」
「にーちゃん」
隣に座っていたライカが、閉じた鉄扇で兄の肩を軽く叩いた。
「お姫ちゃんの集中を邪魔しやがるなら、もう少し離れたところへ転がしますよ」
「何で俺だけ!?」
「喋っているのがにーちゃんだからです」
「理不尽っス!」
「静かにしろ」
今度は拳聖だった。
低い声が飛んだ瞬間、ライアンが口を閉じる。
グレイはわずかに笑いそうになったが、それより早く拳聖の右足が草を押した。
来る。
息を吸う。
気と魔力を身体の内側で重ねた。
意識しすぎれば、どちらかが強くなる。力を出そうとすれば魔力が膨らみ、身体へ集中すれば気の流れが前へ出る。
だから、無理に合わせない。
呼吸と一緒に巡らせる。
「――っ!」
拳聖が一気に距離を詰めた。
横薙ぎに振るわれたトンファーへ、グレイは腕を出さない。上体を沈めて軌道の下へ潜り込み、そのまま拳聖の懐へ踏み込んだ。
右拳を腹へ。
当然のように拳聖の左手が添えられる。
拳が逸らされた。
「また同じ――」
「じゃない!」
流された右腕を引き戻さず、肩を入れる。
肘が跳ね上がった。
「ほう」
拳聖が半歩だけ下がる。
肘は届かなかった。
だが、グレイは追わない。
拳聖が避けるために動かした足を見る。
右。
重心は後ろ。
ならば。
「こっちだ!」
左足を深く入れ、肩から身体を押し込んだ。
拳聖がトンファーを構え直すより先に、グレイは相手の腰へ自分の重心をぶつける。
力で押すのではない。
立っている場所を奪う。
「――っ」
拳聖の身体が僅かに浮いた。
そこへ足を掛ける。
ぐらりと傾いた身体を、拳聖は片足だけで支えきれなかった。
片膝が草の上につく。
「よし!」
思わず声が出た。
その瞬間だった。
「遅ぇ」
「え?」
足を払われた。
視界が一気に反転する。
「うわっ!」
グレイは咄嗟に顎を引き、背中から落ちる直前に受け身を取った。衝撃を逃がしてすぐ身体を起こそうとしたところで、額のすぐ前へ黒いトンファーが突きつけられる。
「終わり」
「……待て」
「何だ」
「今、膝ついたよな?」
「ついたな」
「俺が崩したんだぞ」
「その後、お前が負けた」
「そこは別に考えてもいいだろ」
「同じ勝負だ。途中だけ切り取って勝った気になるな」
「……少しくらい褒めろよ」
「何でだ。最後に気ぃ抜いて転がった馬鹿を」
グレイは仰向けのまま眉を寄せた。
「気を抜いたんじゃない。初めて崩せたから、ちょっと嬉しかっただけだ」
「それを気が抜けたっつうんだよ」
「次はやらない」
「毎回聞いてんな、それ」
「毎回違う失敗だからいいだろ」
「よくねぇよ。勝つまでに全部潰せ」
拳聖はトンファーを腰へ戻しながら背を向ける。
グレイはその背中を睨み、それから小さく息を吐いた。
厳しい。
だが、間違ってはいない。
「姫さん、惜しかったっスよ!」
ぱちぱちと拍手が聞こえる。
身体を起こすと、ライアンが笑いながらこちらへ歩いてきていた。
「だろ?」
「最後に浮かれなければ、もう少し続いてたと思うっス」
「そこはいらない」
「お姫ちゃん」
ライカも続いて近づいてくる。
「褒められたところだけ受け取りやがるのは、悪い癖ですよ」
「何で二人とも拳聖側なんだよ」
「別に拳聖殿の味方をしているわけではありません。お姫ちゃんが分かりやすく調子に乗りやがるから言っているだけです」
「同じだろ」
「違います」
「違わない」
「おい」
背を向けていた拳聖が振り返った。
「反省会するなら勝手にやれ。俺は飯食うぞ」
その一言で、グレイの意識が別のところへ飛んだ。
「……腹減った」
「姫さん、切り替え早すぎないっスか?」
「朝からまともに食ってないんだから仕方ないだろ」
「手合わせしたいって朝飯を後回しにしたの、姫さん自身じゃないっスか」
「今は食いたい」
「自由っスねぇ……」
ライアンが呆れたように肩を落とす。
グレイは拳聖の横へ並んだ。
「拳聖も食うだろ?」
「何がある」
「知らない。今日は母上たちが作ってるから」
「肉は?」
「あるんじゃない?」
「なら食う」
「拳聖殿」
ライカの声が低くなった。
「肉だけ食べるつもりではありませんよね?」
「……何でお前は俺の飯にまで口出してくんだ」
「見ていてあまりにも偏っていやがるからです。身体を鍛えるなら、食事にも少しは気を使いやがってください」
「鍛えてりゃ問題ねぇ」
「問題あります」
「面倒くせぇな……」
「諦めた方がいいぞ」
グレイが横から口を挟む。
「ライカはこうなったら絶対引かない」
「お姫ちゃん?」
にこり。
ライカが笑った。
「……飯にしよう」
「逃げやがりましたね?」
「腹減ってるんだよ」
グレイはさっさと丘を下り始めた。
後ろからライアンの笑い声が追ってくる。
拳聖の舌打ちも聞こえた。
そんな騒がしさを背中に受けながら、グレイの足取りは自然と軽くなっていた。
◇
丘を下りた先の森には、野営に使える開けた場所があった。
戻る頃には昼食の準備もほとんど終わっており、鍋から立つ湯気と一緒に香草と煮込んだ肉の匂いが漂っている。焼いたパンや切った果物も並べられ、旅の途中とは思えないほど食卓は賑やかだった。
「おかえり、グレイ」
「ただいま、母上」
鍋の前にいた母が振り返る。
その視線が、グレイの顔から服へ落ちた。
背中と腰には草が付いている。
「また転んだの?」
「転ばされた」
「同じではないの?」
「全然違う」
「そう」
母は追及せず、グレイの肩についた草を指で払った。
「手を洗ってきなさい。もう食べられるわよ」
「ああ」
その横を、拳聖が何食わぬ顔で通り過ぎようとする。
「あなたも」
拳聖が止まった。
「……俺もか?」
「食べるのでしょう?」
「ああ」
「では、手を洗ってきてください」
拳聖が黙る。
グレイは横から顔を覗き込んだ。
「言われてるぞ」
「聞こえてる」
「早く行けよ」
「何でお前まで言うんだ」
「母上を待たせるな」
「……分かったよ」
渋々と水場へ向かっていく背中を見送り、ライアンが小さく笑った。
「拳聖、母上には逆らわないっスね」
「にーちゃん、それ本人に聞こえたら――」
「聞こえてるぞ!」
森の向こうから怒声が飛んできた。
「耳良すぎじゃないっスか!?」
ライアンが肩を跳ねさせる。
グレイは堪えきれずに笑った。
母も口元へ手を添え、小さく笑っている。
気づけば、こうして拳聖が同じ食卓へ混ざることに違和感を覚える者はいなくなっていた。
最初は、たまたま近くにいたから誘っただけだった。
今は、いるなら一緒に食べる。
拳聖も断らない。
食事のあとに手合わせをすることもあれば、何もせず木陰で休んでいることもある。行き先が同じならしばらく一緒に歩き、違えば別れる。
特別な約束などない。
けれど、会えば自然と同じ場所にいる。
それで十分だった。
◇
「拳聖殿。肉だけ取るなと言っていやがるでしょう」
「野菜も入ってる」
「肉の下に付いてきただけです」
「同じだろ」
「違います」
「面倒くせぇ……」
「でしたら最初から自分で取りやがってください」
「分かった、分かった」
拳聖が鍋から野菜を取る。
それを確認してから、ライカは満足そうに自分の席へ戻った。
向かい側ではライアンが笑いを堪えている。
「何だ」
「いや。拳聖がねーちゃんに言われた通り野菜食ってるの、何か面白くて」
「食いたくなっただけだ」
「今?」
「今だ」
「へぇ」
「殴るぞ」
「食事中っスよ?」
「食い終わってからに決まってんだろ」
「結局殴るんスか!?」
グレイはパンをちぎりながら、そのやり取りを眺めていた。
隣へ母が腰を下ろす。
「楽しそうね」
「誰が?」
「みんな」
グレイは食卓を見る。
ライアンがまだ拳聖をからかっている。
ライカが兄を止めるふりをしながら、拳聖の皿へさらに野菜を追加した。
「おい」
「足りないかと思いまして」
「いらねぇ」
「残しやがったら許しませんよ」
「お前、俺の何なんだよ……」
その光景に、グレイの口元が緩む。
「何笑ってんだ」
拳聖がこちらを見る。
「別に」
「人の皿見て笑うな」
「見てない」
「見てただろ」
「気のせいだ」
「お前、それ俺の真似じゃねぇか」
「盗んだ」
「返せ」
「もう俺のものだ」
「本当に面倒くせぇ奴だな」
拳聖が野菜を口へ放り込む。
グレイはもう一度笑った。
その時はまだ、こんな時間がいつまで続くのかなど考えていなかった。
考える必要もないと思っていた。
◇
食事を終え、片付けも一段落した頃。
グレイは木陰へ移動し、幹へ背中を預けていた。
少し離れたところではライアンが短剣を磨き、ライカは鉄扇の留め具を確かめている。
拳聖は草の上へ寝転がっていた。
「寝るの?」
「食ったからな」
「食ってすぐ寝ると牛になるぞ」
「何だそりゃ」
「母上が昔言ってた」
「知らん」
「俺も意味は知らない」
「なら言うな」
グレイも足を伸ばす。
木々を抜けてくる風は穏やかで、葉が擦れる音の向こうから鳥の声が聞こえていた。
しばらく、誰も喋らなかった。
そんな静けさの中。
「……なあ」
拳聖が口を開いた。
「何だ?」
「前から気になってたんだが」
珍しい。
拳聖から話題を振ることは多くない。
グレイが横を見ると、拳聖は寝転がったままライアンの方へ視線を向けていた。
「そいつら」
「俺らっスか?」
ライアンが短剣から顔を上げる。
「ああ」
「何っスか?」
拳聖は少しだけ目を細めた。
「何で息してねぇんだ」
短剣を拭いていた布が止まった。
ライカもゆっくり顔を上げる。
グレイは拳聖の表情を見た。
敵意はない。
警戒している様子もなかった。
ただ本当に、気になったから聞いた。
それだけに見える。
「……気づいてたのか」
「最初から妙だとは思ってた」
「最初から?」
「戦ってるところ見りゃ分かる」
拳聖が上体を起こした。
「呼吸してるようには動くが、必要だからやってる動きじゃねぇ。汗のかき方も普通じゃないし、疲れ方も違う。怪我した時も、人間の身体とは何か違って見えた」
「よく見てるな」
「身体を見るのが仕事みてぇなもんだからな」
「拳聖殿」
ライカが鉄扇を膝へ置いた。
「それを知って、どうするつもりでいやがります?」
「別に」
「別に?」
「気になっただけだ。言いたくねぇなら言わなくていい」
それ以上、拳聖は追及しなかった。
グレイはライアンを見る。
ライアンもこちらを見返す。
次にライカ。
二人とも拒む様子はない。
グレイは少しだけ考えてから口を開いた。
「人形だからだ」
拳聖の眉が僅かに動いた。
「……人形?」
「ああ」
「まあ、そういうことっス」
ライアンが軽く肩を竦める。
拳聖は改めて二人を見比べた。
「見えねぇな」
「そう作られていやがりますからね」
ライカが自分の手を開いて見せる。
見た目だけなら人間と変わらない。
肌の色も。
髪も。
目も。
体温すらある。
「身体は魔導白磁で作ってる」
「魔導白磁?」
「魂を定着させるための器だ」
拳聖が黙る。
グレイは一度だけ息を吐いた。
「二人とも、一度死んでる」
その言葉にも、拳聖は騒がなかった。
少しだけ目を細めたあと。
「……そうか」
それだけだった。
「聞かないのか?」
「何を」
「どうして死んだとか。何で人形になったとか」
「お前が話したいなら聞く」
拳聖は膝を立て、その上へ腕を乗せた。
「話したくねぇなら聞かねぇ。俺が知りたかったのは、今こいつらが何なのかだけだ」
グレイはライアンを見る。
「俺は俺っスよ」
ライアンは笑った。
「死んでようが人形だろうが、今こうして姫さんたちと旅してる。それで困ってないっス」
「私も同じです」
ライカが静かに続ける。
「この身体になったことで変わったことはあります。ですが、私が私であることまで変わったとは思っていません」
「だそうだ」
グレイが拳聖を見る。
拳聖は鼻を鳴らした。
「なら、それでいいだろ」
「……簡単だな」
「何がだ」
「もっと驚くと思った」
「驚いてる」
「全然見えない」
「顔に出ねぇだけだ」
「そうか?」
「お前にだけは言われたくねぇ」
グレイは少し笑った。
拳聖は変わらない。
二人が人形だと知った。
一度死んでいることも知った。
それでも、ライアンとライカを見る目は何も変わっていない。
だからだろう。
グレイはもう少しだけ話してもいいと思った。
「二人とは、旅を始めてから出会ったんだ」
「姫さん?」
ライアンがこちらを見る。
「嫌ならやめる」
「いや、大丈夫っス」
ライカも静かに頷く。
グレイは拳聖へ向き直った。
「三人で旅して、それから二人の故郷へ行った。そこで……俺は二人を守れなかった」
細かく語るつもりはなかった。
誰が何を企み、何が起こり、どんな形で命を奪われたのか。
今ここで、そのすべてを並べる必要はない。
「俺が着いた時には、もう遅かった」
グレイは自分の手を見る。
あの日。
まだ消えずに残っていた二つの魂へ、この手を伸ばした。
「それで、二人のために身体を作った」
拳聖は黙って聞いている。
「元の身体は残らない。だから、簡単にできることじゃない」
グレイの指が僅かに曲がった。
「それでも俺は、二人にもう一度聞いたんだ。戻るかって」
「姫さん」
ライアンが苦笑する。
「そこ、今でも気にしてるんスか?」
「気にするだろ」
「俺らは別に――」
「俺が気にする」
グレイは少しだけ眉を寄せた。
「俺の都合だけで戻したくなかったんだ」
拳聖の目が僅かに細くなる。
「それで、こいつらは戻ったのか」
「ああ」
拳聖はライアンを見る。
「何でだ?」
「何でって?」
「そのまま終わることもできたんだろ」
「まあ、そうっスね」
ライアンは少し考えた。
いつもの軽い笑みが、僅かに柔らかくなる。
「まだ旅の途中だったからっスかね。見たい場所もあったし、食いたいものもあった。それに、姫さんが手を伸ばしてくれてたんで」
ライアンはグレイを見る。
「だったら、掴むっしょ」
「……」
「あと、ねーちゃん置いていくと心配だったし」
「にーちゃん?」
「逆だった!」
「遅いです」
拳聖が小さく鼻を鳴らした。
今度はライカへ視線を向ける。
「お前は?」
「私は……そうですね」
ライカは鉄扇の縁を指でなぞった。
「もう一度、お姫ちゃんと旅をしたかった。それだけでも十分でした。それに、にーちゃんが戻るのであれば、私までいなくなるわけにはいきません」
「結局俺が理由に入ってるじゃん」
「放っておけば何をしやがるか分かりませんので」
「酷いっス!」
「自覚しやがってください」
拳聖は二人を見た。
それから、グレイを見る。
「なるほどな」
「……それだけ?」
「他に何がある」
「いや、何か言うかと思った」
「何を言えってんだ」
「分からないけど」
「なら聞くな」
拳聖が立ち上がる。
そしてライアンを見る。
「おい」
「何っスか?」
「立て」
「何で?」
「身体が鈍った」
「俺とやるんスか?」
「嫌ならいい」
「いや、やるっスけど……」
ライアンが短剣を掴んで立ち上がる。
「武器ありで?」
「好きにしろ」
「後悔しても知らないっスよ」
「言ってろ」
拳聖もトンファーを構えた。
「にーちゃん」
ライカが声をかける。
「壊されやがらないでくださいね」
「大丈夫っスよ。壊れたら姫さんが――」
「それを前提にするな」
グレイが先に止めた。
「冗談っス!」
「本当に分かってる?」
「分かってるって!」
ライアンが笑いながら前へ出る。
拳聖は何も変わらない。
ライアンが人形だと知った。
死者だったと知った。
それでも、目の前へ立った相手を見る目は、いつもと同じだった。
「行くっスよ!」
「来い」
二人が動く。
短剣とトンファーがぶつかり、乾いた金属音が木々の間へ響いた。
グレイはその場へ座ったまま、二人を眺める。
胸の奥に残っていた何かが、ほんの少しだけほどけた気がした。
◇
「速いだけじゃ当たらねぇぞ」
「分かってるっス!」
ライアンが拳聖の正面から消えるように横へ回り込んだ。
二本の短剣を低く構え、右から見せて左へ抜ける。
拳聖は追わない。
「そっち!」
背後へ回ったライアンが短剣を振るう。
拳聖は振り返りながらトンファーで受け、刃を外へ滑らせた。
「うわっ!」
「攻撃する時だけ速くなりすぎだ。何するか教えてるようなもんだぞ」
「喋りながら戦う余裕あるんスね!」
「お前相手ならな」
「言ったっスね!」
ライアンがもう一度踏み込む。
今度は直線ではない。
右へ身体を振りながら、途中で歩幅を変えた。
「お」
「それならどうっスか!」
「さっきよりマシだ」
「褒めるならもうちょっと――」
「遅い」
言い終える前に足を掛けられた。
ライアンの身体が宙へ浮き、草の上を転がる。
「痛っ!」
「人形でも痛ぇんだな」
拳聖が少し意外そうに言った。
ライアンが身体を起こす。
「痛いっスよ! 今確認したんスか!?」
「気になった」
「先に聞いてくださいよ!」
「聞いたら痛くなくなんのか?」
「ならないっスけど!」
グレイが笑った。
「ライアン、弱いな」
「姫さん!? 拳聖相手っスよ!?」
「俺より早く転がされた」
「姫さんはずっとこの人とやってるじゃないっスか!」
「言い訳」
「ひどい!」
「にーちゃん」
ライカが立ち上がる。
手には鉄扇。
「代わりやがってください」
「ねーちゃんもやるの?」
「少し興味が湧きました」
拳聖がトンファーを肩へ乗せる。
「魔法も使うのか?」
「そのつもりですが、問題ありますか?」
「好きにしろ。お前が使えるもん全部使え」
ライカの目が僅かに細くなる。
「では、遠慮なく」
鉄扇が開く。
冷たい空気が草地を撫で、拳聖の足元へ薄い霜が広がった。
「へえ」
「随分余裕ですね」
「面白そうだからな」
「でしたら――」
ライカが一歩踏み込む。
「楽しみやがってください」
鉄扇とトンファーがぶつかった。
金属音と同時に、拳聖の足元から氷が伸びる。
「足止めか!」
「それだけだと思いやがりました?」
拳聖が跳ぶ。
ライカは追わない。
視線だけで着地点を捉える。
次の瞬間、拳聖が降りようとした場所から氷柱が伸びた。
「なるほどな!」
空中で身体を捻り、拳聖が氷柱の側面を蹴る。
着地点を強引にずらした。
そこへ鉄扇が飛ぶ。
「まだです!」
「分かってる!」
拳聖はトンファーで鉄扇を弾き、そのまま前へ出る。
戻ってきた鉄扇をライカが掴んだ時には、距離はほとんど残っていなかった。
「近づけば魔法が使えねぇと思ってんなら、甘ぇぞ」
「思っていませんよ」
ライカの足元から氷が広がる。
「自分ごとか!」
拳聖の足が止まりかけた。
その一瞬を使い、ライカが鉄扇を横へ振るう。
だが。
「惜しいな」
拳聖は片足を氷へ滑らせるように踏み込み、逆にライカの懐へ身体を入れた。
トンファーが首筋の寸前で止まる。
「終わりだ」
「……参りました」
ライカは素直に鉄扇を下ろした。
拳聖も武器を戻す。
「お前、面倒な戦い方するな」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「褒めてねぇ」
「グレイ様にも似たこと言ってたっスよ」
ライアンが横から口を挟む。
「お前ら全員面倒なんだよ」
「拳聖殿にだけは言われたくありません」
「何でだ」
「そこが分からないところです」
「意味分からん」
ライカが戻ってくる。
拳聖は何事もなかったようにグレイを見た。
「次、お前」
「やる」
グレイはすぐに立ち上がった。
「姫さん、まだやるんスか!?」
「二人の見てたらやりたくなった」
「本当にそういうところ子供っスよね」
「うるさい」
拳聖の前へ立つ。
グレイは拳を構えた。
「さっきの続きだ」
「今度は最後まで気ぃ抜くなよ」
「分かってる。あと――」
「何だ」
「ライカの相手して疲れたとか言うなよ?」
「誰に言ってんだ」
拳聖の口元が僅かに上がった。
「来い。今度はさっきみてぇにはいかねぇぞ」
「望むところだ」
二人が同時に踏み込む。
今はもう、人形の話も、死の話も必要なかった。
目の前の相手を見る。
どう動くのか。
何を狙っているのか。
どうすれば、その先へ届くのか。
それだけでよかった。
◇
夕方。
川へ水を汲みに向かう途中、グレイは前を歩く拳聖の背中を見ていた。
「なあ」
「何だ」
「本当に気にならないの?」
「まだ言ってんのか」
「だって普通はもっと聞くだろ。人形だとか、一度死んでるとか聞いたら」
「普通って誰だよ」
「今まで会った奴」
「俺はそいつらじゃねぇ」
「それはそうだけど」
川の音が近づいてくる。
拳聖はしばらく黙っていた。
やがて歩調を緩め、グレイが隣へ並ぶ。
「俺はな、戦う時に相手の身体を見る」
「知ってる」
「骨がどう動くか。筋肉がどう引くか。足をどこへ置くか。息をいつ吐くか。視線がどこへ向くか。そういうのを見りゃ、次に何をしたいかくらいは大体分かる」
「だから俺の攻撃も読める?」
「最近は少し面倒になってきたけどな」
「少し?」
「調子乗るから褒めねぇ」
「けち」
「そういうところだ」
川へ着く。
拳聖は水際へしゃがみ込み、手を洗った。
「でな」
「うん」
「人形だろうが何だろうが、自分で動いてる奴と、誰かに動かされてる奴くらい見りゃ分かる」
グレイの手が止まる。
拳聖は気にせず続けた。
「ライアンもライカも、自分で動いてる。自分で考えて、自分で喋って、自分で笑って、お前に好き勝手文句言ってる」
「文句は余計だ」
「事実だろ」
「まあ……」
「なら、それで終わりだ」
拳聖は濡れた手を軽く振る。
「お前が操ってるようには見えねぇし、あいつらも操られてるようには見えねぇ。だったら、俺が気にすることじゃねぇだろ」
グレイはしばらく何も言わなかった。
水桶を川へ沈める。
冷たい水が縁を越え、ゆっくりと満ちていく。
「……そうか」
「ああ」
桶を引き上げる。
「拳聖」
「何だ」
「ありがとう」
拳聖が露骨に嫌そうな顔をした。
「気持ち悪ぃな」
「今のなし」
「もう聞いた」
「忘れろ」
「どうでもいいことは忘れる」
「じゃあ忘れるな」
「どっちだよ」
グレイは笑った。
拳聖も、それ以上は何も言わなかった。
◇
夜になると、雲のない空に星が広がった。
夕食を終えたあとも、ライアンは拳聖の近くに残っていた。
「拳聖、さっき俺に言ったこと、もうちょっと詳しく教えてくれないっスか?」
「何を」
「攻撃する時だけ速いってやつ」
「自分で考えろ」
「姫さんの時と同じじゃないっスか!」
「何で俺がお前にまで一から教えなきゃならねぇんだ」
「拳聖殿」
ライカが口を挟む。
「そこまで言ったのなら、少しくらい教えてやってもいいのでは?」
「お前まで何でこいつ側なんだ」
「にーちゃんが考え始めると朝になりそうだからです」
「ねーちゃん!?」
グレイは母の隣に座りながら、その様子を眺めていた。
ライアンが何度か踏み込んでみせる。
拳聖は面倒そうな顔をしながら見ていたが、やがて足を伸ばし、ライアンの前足を軽く蹴った。
「そこだ」
「ここ?」
「踏み込む瞬間だけ、そっちの足に力入りすぎてんだよ。だから速くなる前に分かる」
「じゃあ、力抜けばいい?」
「全部抜いてどうすんだ。必要な時に必要な分だけ使え」
「難しいっスねぇ……」
「簡単なら誰でもできる」
ライアンがもう一度試す。
「違う」
「まだ?」
「今度は遅ぇ」
「どっち!?」
「自分で探せ」
「結局それじゃないっスか!」
母が小さく笑った。
「楽しそうね」
「そう?」
「ええ」
グレイは三人を見る。
ライアンが何度も同じ動きを試し、ライカも横から口を挟んでいる。
拳聖は鬱陶しそうにしながら、結局その場を離れない。
「……普通に教えてるよな」
「そう見えるわね」
「本人は絶対否定するけど」
「そういう人なのでしょう」
母は少しだけ拳聖を眺めた。
「いい人ね」
「拳聖が?」
「ええ」
「口悪いぞ」
「グレイもでしょう?」
「俺は普通」
「そう思っているのは自分だけよ」
「……」
反論しかけて、やめる。
母に口で勝てる気がしなかった。
「それに」
母が続ける。
「あの人、グレイを見る時は少し楽しそう」
「そうかな」
「気づいていないの?」
「いつも嫌そうな顔してるけど」
「顔ではなくて、目よ」
母は微笑んだ。
「あなたが新しいことをできるようになった時、ほんの少しだけ変わるの」
グレイは拳聖を見る。
ちょうどライアンの姿勢を足で直しているところだった。
「……分からない」
「なら、次に見てみなさい」
「うん」
「グレイも似たような顔をしているけれどね」
「俺が?」
「ええ」
「どんな?」
「それは自分で考えなさい」
「……拳聖みたいなこと言うなよ」
「便利な言葉でしょう?」
母は楽しそうに笑いながら立ち上がった。
「もう遅いから、ほどほどにして休みなさいね」
「ああ」
グレイはその背中を見送る。
それから、もう一度拳聖へ視線を向けた。
今度は少しだけ意識して、その目を見る。
けれど。
「何見てんだ」
「別に」
「気持ち悪ぃな」
「……やっぱ分からない」
「あ?」
「何でもない」
◇
翌日。
グレイたちは街道を歩いていた。
拳聖も一緒だった。
行き先が途中まで同じ。
理由はそれだけだった。
「拳聖」
「何だ」
「どこまで一緒?」
「次の町までだ」
「その後は?」
「東へ行く」
「俺たちは南だな」
「ならそこで別れだ」
「……一緒に来ればいいのに」
拳聖が横を見る。
ライアンとライカも、少し驚いたようにグレイを見た。
「何だよ」
「いや、姫さんから誰か誘うの珍しいなって」
「そう?」
「そうっスよ」
ライカも頷く。
「お姫ちゃんは、来る者を拒みはしませんが、自分から誘うことはあまりありませんからね」
「……そうだった?」
「そうです」
グレイは拳聖を見る。
「嫌ならいいけど」
「嫌とは言ってねぇよ」
「じゃあ来る?」
「行きてぇ場所がある」
「東?」
「ああ」
「途中で予定変えてもいいぞ。俺は別に――」
「お前は何のために旅してんだ」
拳聖が遮った。
「色々見るため」
「なら俺に合わせんな」
拳聖は前を向く。
「お前はお前の見たいもん見て、行きてぇところへ行け。俺もそうする」
「……」
「また会ったら、その時は殴り合えばいい」
あまりにも拳聖らしい答えだった。
グレイは少しだけ笑う。
「そうだな」
「ああ」
「次は勝つぞ」
「まず最後まで立ってろ」
「それ昨日も言った」
「できてねぇから今日も言ってんだよ」
「次はできる」
「なら見せろ」
その言葉だけで十分だった。
◇
昼前。
街道沿いの林で休憩を取った。
ライアンは木陰に寝転がり、ライカは水筒へ口をつけている。
拳聖は木へ背を預け、目を閉じていた。
グレイは少し離れた場所で構える。
気と魔力を巡らせる。
呼吸に合わせ、身体の隅々まで流す。
拳。
踏み込み。
腰を回す。
止める。
乱れない。
もう一度。
今度は少し速く。
拳から蹴りへ繋ぎ、重心を移したところで――。
「右足」
グレイが止まった。
「見てたのか?」
「見てねぇ」
「今言っただろ」
「独り言だ」
「右足が何?」
「踏み込みが深ぇ」
グレイは同じ動きをする。
「これ?」
「深い」
「じゃあ、これくらい?」
「まだだ」
少しだけ浅くする。
「これ」
「……」
「拳聖?」
「知らん」
グレイの口元が緩んだ。
「ありがとう」
「独り言だっつってんだろ」
「便利だな、それ」
「黙ってやれ」
木陰からライアンの声が飛ぶ。
「もう普通に師匠じゃないっスか?」
「違う」
「違ぇ」
グレイと拳聖の声が重なった。
ライアンが吹き出す。
「息ぴったりっスね」
「どこがだ」
「どこがだよ」
また重なる。
今度はライカまで笑った。
「もう諦めやがってください」
「何をだよ」
グレイはそう返しながら、もう一度構えた。
拳聖が何も言わなくても、見ていることは分かっている。
それだけで、少し嬉しかった。
◇
次の町へ着いた頃には、空が夕焼けに染まり始めていた。
山道と街道が交わる小さな町で、規模の割に宿と食堂が多い。
「じゃあな」
町へ入ったところで、拳聖が言った。
「もう行くの?」
「今日はここで泊まる」
「だったら同じ宿でいいだろ」
「俺は安いとこでいい」
「俺が払うぞ」
「いらん」
「飯も出る」
「どこでも出るだろ」
「肉料理らしい」
拳聖の足が止まった。
ライアンが即座に笑う。
「姫さん、それ餌付けっスよ」
「違う」
「拳聖殿も止まりやがらないでください」
「止まってねぇ」
「止まっていました」
「気のせいだ」
ライカが目を細める。
「それ、お姫ちゃんの口癖になり始めていやがりますよ」
「俺が盗んだ」
「返せ」
「無理」
「……飯は何だ」
拳聖が聞く。
グレイは笑った。
「焼いた肉と煮込みだって」
「……一晩だけだぞ」
「別に引き留めてないけど?」
「今引き留めただろうが!」
結局、拳聖も同じ宿へ入った。
◇
夕食後。
宿の一階にある食堂には、まだ多くの旅人が残っていた。
食器の触れ合う音や笑い声が混ざり、厨房からは香ばしい匂いが漂ってくる。
拳聖の前には酒。
グレイは果実水を飲んでいた。
「そういや」
ライアンが卓へ肘をつく。
「拳聖って、ずっと一人で旅してるんスか?」
「あ?」
「仲間とかいなかったんスか?」
「昔はいた」
「へえ。今は?」
「いねぇ」
「喧嘩別れ?」
「違ぇよ」
拳聖は酒を一口飲む。
「それぞれ別の道行っただけだ。故郷へ戻った奴もいるし、別の仕事始めた奴もいる。旅を続けてんのが俺だけになった」
「寂しくないんスか?」
「別に」
「即答っスね」
「自分で選んだ道だ」
「強くなるため?」
「ああ」
迷いのない答えだった。
グレイは果実水の入った杯を指で回しながら、拳聖を見る。
この男は、本当にそれだけで歩いてきたのだろう。
強くなる。
自分より強い相手を探す。
負ければ追う。
勝てば次へ行く。
「何だ」
拳聖がこちらを見る。
「また俺の顔見てやがる」
「考えてた」
「俺の顔見ながらか?」
「悪い?」
「気持ち悪ぃ」
「じゃあ見ない」
グレイは横を向いた。
少しして。
また見る。
「おい」
「何だよ」
「見てんじゃねぇか」
「気になった」
「何が」
グレイは拳聖の腕を見る。
何度も自分を転がした腕。
傷もある。
長く鍛え続けてきた身体。
「拳聖が人形になったら、どうなるのかなって」
「姫さん!?」
ライアンが果実酒を噴きそうになった。
ライカも珍しく目を丸くする。
拳聖だけが、しばらく真顔でグレイを見ていた。
「……何で俺が人形になるんだ」
「何となく」
「怖ぇこと考えんな」
「でも、身体が衰えなくなるぞ」
「死ぬ前提じゃねぇか」
「人形になるなら一回死ぬからな」
「真顔で言うな」
「冗談だよ」
「お前が言うと冗談に聞こえねぇんだよ」
ライアンがまだ笑っている。
「でも拳聖が人形になったら、ずっと修行してそうっスよね」
「間違いなくやりやがるでしょうね」
ライカまで乗ってくる。
「疲労を理由に止めることもできなくなれば、今以上に厄介そうです」
「お前らまで勝手なこと言ってんじゃねぇ」
「疲れないわけじゃないぞ」
グレイが言う。
拳聖がこちらを見る。
「そうなのか?」
「身体は壊れる。痛みもある。ただ、普通の人間とは少し違うし、壊れた部分は俺が直せる」
「痛みまで残してんのか」
「必要だからな。痛くなかったら、どこが壊れてるか分からないだろ」
「なるほどな」
拳聖は自分の右手を開いた。
ゆっくり握る。
「死んだ後も動ける身体、か」
低く呟く。
「興味ある?」
「身体の話だからな。武人なら少しくらい興味持つだろ」
「拳聖でも?」
「俺を何だと思ってんだ」
「武術馬鹿」
「殴るぞ」
「ほら」
「何が『ほら』だ」
グレイは笑った。
拳聖も酒へ口をつけ、それ以上は何も言わなかった。
だから、その言葉が後になって意味を持つなど。
この時のグレイは考えもしなかった。
◇
翌朝。
町の外で、街道は二つに分かれていた。
東へ続く道。
南へ続く道。
「じゃあな」
拳聖が片手を上げる。
「ああ」
グレイも返す。
「拳聖殿、お身体には気をつけやがってください」
「お前に言われなくても分かってる」
「食事もです」
「それは余計だ」
「野菜も食べやがってください」
「しつけぇな!」
ライアンが笑う。
「ねーちゃん、最後までそれなんスね」
「大事なことです」
「拳聖、次会った時に野菜嫌い治ってるといいっスね」
「お前から先に殴るぞ」
「何で俺!?」
グレイはそのやり取りを眺めてから、拳聖を見る。
「次」
「あ?」
「次会ったら、今度こそ一回倒す」
拳聖が鼻を鳴らした。
「まず最後まで立ってろ」
「今度は立つ」
「言ってろ」
「絶対だからな」
「だったら強くなっとけ」
「そっちもな」
一瞬。
拳聖が笑ったように見えた。
「当たり前だ」
それだけ言い、男は東へ向かって歩き始めた。
グレイたちも南へ向かう。
振り返らない。
また会う。
いつになるかも。
どこになるかも分からない。
けれど、その時になれば、また拳を交えるのだろう。
それでよかった。
◇
夕暮れが山道を薄く染めていた。
拳聖は一人、東へ続く道を歩いていた。
人の姿はない。
左右を木々に挟まれた細い道へ、傾いた日の光が斜めに差し込んでいる。
足取りはいつも通りだった。
急ぐ必要もない。
目的地へ着くまで歩く。
それだけだ。
しばらく進んだところで。
「……?」
拳聖の足が止まった。
右手が胸元へ触れる。
妙な感覚があった。
痛みというほど強くはない。
それでも、身体の奥で何かが引っかかっている。
「……何だ?」
深く息を吸う。
肺へ空気を入れ、ゆっくり吐く。
もう一度。
今度は問題ない。
「疲れか?」
自分で口にしてから、眉を寄せた。
違う。
そう思った。
理由は分からない。
ただ、長く自分の身体と付き合ってきた感覚がそう告げている。
拳聖は再び歩き出した。
数歩進んだところで、胸の奥が強く痛んだ。
「っ……!」
近くの木へ手をつく。
呼吸を整える。
吸う。
吐く。
脈を確かめる。
身体のどこへ力が入り、どこが動いているのかを探る。
「……違ぇな」
筋肉の痛みではない。
骨でもない。
無理な修行をした時の疲労とも違う。
もっと内側。
自分では鍛えようのない場所に、何かがある。
「……ちっ」
拳聖は木から手を離した。
呼吸は戻っている。
足も動く。
拳も握れる。
「なら、まだ問題ねぇ」
誰へ言うでもなく呟き、一歩を踏み出した。
その瞬間だった。
「――っ!」
喉の奥へ熱いものが込み上げる。
拳聖は反射的に口元を押さえた。
一度、咳き込む。
もう一度。
掌へ生温かいものが落ちた。
「……」
手を開く。
赤い。
夕暮れの光の中でも、それが血だということは見間違えようがなかった。
拳聖はしばらく黙って掌を見ていた。
驚いて騒ぐことはない。
ただ、親指で血を拭い、その感触を確かめる。
「そうか」
低い声が山道へ落ちた。
身体は嘘をつかない。
鍛えれば越えられる痛み。
休めば戻る疲労。
使い方を変えれば補える衰え。
そういうものなら、拳聖には分かる。
これは違う。
何が起きているのかまでは、まだ分からない。
だが。
自分の身体だからこそ、その違いだけは誤魔化せなかった。
「……面倒くせぇな」
拳聖は布を取り出し、掌についた血を拭った。
そして、右手を握る。
拳は作れる。
肩も動く。
足も止まっていない。
なら。
「行くか」
再び歩き始める。
誰もいない山道を、いつもと変わらない歩調で進んでいく。
その背中を追う者はいない。
グレイたちも、この異変をまだ知らない。
拳聖自身も。
これが何を意味するのかまでは知らなかった。
ただ一つ分かっているのは。
自分の身体のどこかで。
これまでとは違う何かが、確かに始まっているということだけだった。




