第7話 拳の終わり
拳聖と別れてから、しばらくが過ぎた。
季節はゆっくりと夏へ向かい、南へ伸びる街道には背の低い草が一面に広がっている。風が渡るたびに草原が波のように傾き、その向こうには緩やかな山並みが霞んでいた。
旅を始めた頃なら、グレイはそんな景色にも足を止めていただろう。
今では見慣れたものも増えた。
それでも、興味を惹かれるものがなくなったわけではない。
「姫さん?」
少し先を歩いていたライアンが振り返る。
グレイは街道の脇にしゃがみ込み、小さな赤い実をつけた低木を眺めていた。
「これ、食えるかな」
「第一声がそれっスか」
「見たことない」
指を伸ばしかけたところで、鉄扇の先が手の甲を軽く叩いた。
「知らないものをいきなり食べようとしやがらないでください。毒だったらどうするんですか」
「少しくらいなら平気だと思うけど」
「お姫ちゃんが平気かどうかではありません。まず調べるという発想を持ちやがってください」
ライカに睨まれ、グレイは赤い実と自分の手を見比べる。
隣ではライアンが笑っていた。
「姫さん、前にも似たようなことやってたっスよね」
「……そうだっけ」
「だから二回目までにしやがってください」
「分かった」
名残惜しそうに赤い実から離れ、三人は再び街道を歩き始めた。
今回の旅に明確な目的地があるわけではない。
南へ向かえば海に近い大きな国がある。道中でそんな話を聞いたから、ならば行ってみようと決めただけだった。
以前のグレイなら、そんな理由で進む道を決めることなどなかった。
必要な場所へ行き、必要なことをする。
それしか知らなかった。
今は違う。
知らない料理があるなら寄ってみる。珍しい祭りがあるなら少しくらい遠回りしてもいい。面白そうな武術があれば覗いてみるし、川を見つければ釣りをすることだってある。
目的がなくても、旅は続けられる。
「そういえば次の町、魚料理が有名らしいっスよ」
「本当か?」
グレイの歩調がわずかに速くなった。
ライアンが横から顔を覗き込む。
「姫さん、そういうところ分かりやすいっスね」
「気のせいだ」
「にーちゃん。余計なこと言って、お姫ちゃんを先に行かせやがらないでください」
「俺のせいなんスか?」
言い合う二人を背後に、グレイは少しだけ速い歩調のまま街道を進んだ。
◇
その日の夕方。
三人は街道から外れた林のそばで野営することにした。
グレイが空間を開くと、細い裂け目の向こうから必要な荷物が渡されてくる。しばらくして母も姿を現し、周囲を見回した。
「今日はここなのね」
「ああ。明日には町へ着くと思う」
「なら、簡単なものにしましょうか」
ライアンが薪を集め、ライカが鍋の準備を始める。グレイも手伝おうと近づいたところで、母から水を頼まれた。
魔法で鍋へ水を満たしながら、ふと以前の食事を思い出す。
拳聖が一緒だった夜だ。
あの男は肉には迷わず手を伸ばすくせに、野菜だけは器用に避けていた。それを見つけたライカが、何も言わず皿へ戻していたのを覚えている。
「どうしたの?」
母に声をかけられ、グレイは顔を上げた。
「いや。拳聖、今どこにいるかなと思って」
「あら。会いたくなった?」
「別に」
即答すると、母は楽しそうに笑った。
「そう」
「……次は勝てる気がするだけだ」
「はいはい」
「その言い方なんだよ」
母は答えず、切った野菜を鍋へ入れていく。
薪が小さく弾け、煮込まれ始めた肉と香草の匂いが林の中へ広がった。
拳聖との手合わせでは、以前より確実に距離を縮められている。
まだ勝てない。
それでも、届かなかった場所には手が掛かり始めていた。
次に会えば、もう少し先へ行ける。
拳聖も同じ場所で待っているとは思っていない。なら、さらに先へ行った背中をまた追えばいい。
その繰り返しが、グレイは嫌いではなかった。
「姫さん」
「ん?」
「鍋、吹いてるっス」
「あ」
慌てて火を弱める。
ライカが呆れ、母が小さく笑った。
いつもと変わらない夜だった。
だからグレイはまだ知らない。
次に拳聖と会った時、今までと同じように拳を交わせるとは限らないことを。
◇
拳聖は一人、山道を歩いていた。
杖は使っていない。
背筋も伸びている。
遠目から見れば、普段と何も変わらなかっただろう。
だが、自分の身体について他人より深く理解している男だからこそ、その変化を誤魔化せなかった。
歩幅が僅かに狭い。
呼吸も以前より深い。
岩場へ差しかかり、拳聖は迂回せずにそのまま足を掛けた。腕と脚へ力を通し、一息で越える。
着地した瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走った。
「っ……」
膝が沈む。
すぐに身体を起こしたものの、拳聖はしばらく動かなかった。
胸へ手を当てる。
鼓動を確かめ、ゆっくりと息を吐いた。
長く身体を鍛えてきた。
どの筋肉をどう動かせば拳が速くなるのか。どこへ重心を置けば、より強く踏み込めるのか。痛みがどこから来ているのかも、自分の身体なら大抵は分かる。
だからこそ、今回の異変が厄介だった。
筋肉でも、骨でもない。
鍛えればどうにかなる場所ではなかった。
「……面倒だな」
吐き捨てるように呟き、再び歩き出す。
ほどなくして咳が出た。
一度目は軽い。
二度目で胸が痛み、三度目には喉の奥へ鉄の味が広がった。
拳聖は街道の脇へ顔を向ける。
土の上に、赤いものが落ちた。
「……」
以前より多い。
袖で口元を拭い、そのまま歩き出そうとして――一度だけ足を止めた。
怖くないわけではない。
冒険者として生きていれば、死を意識する場面などいくらでもあった。魔物の牙が喉元まで迫ったこともあれば、血を流しすぎて立てなくなったこともある。
明日死んでも不思議ではない。
そういう生き方を選んできた。
今さら死そのものを嘆く気はなかった。
拳を握る。
まだ力は入る。
なら、歩ける。
拳聖は血の落ちた土から視線を外し、山道を進んだ。
◇
宿場町へ着くと、拳聖は宿ではなく教会へ向かった。
治るなら治す。
無理なら、それを知る。
ただそれだけだった。
神官による診察は長引いた。
治癒魔法だけでなく、身体の状態を調べる術も使われ、途中から薬師まで呼ばれた。拳聖は聞かれたことにだけ答え、黙って結果を待った。
やがて、年老いた神官が向かいへ座る。
その表情を見ただけで、拳聖にはおおよその答えが分かった。
「……治せねぇのか」
「少なくとも、私には」
「そうか」
拳聖が立ち上がる。
「待ってください」
「何だ」
「身体の内側で、長い時間をかけて悪いものが広がっています。治癒魔法で傷を塞ぐことはできても、これは……」
「分かった」
「痛みを和らげる薬はあります。安静にすれば、進行を遅らせられる可能性もあります」
拳聖の手が扉へ掛かった。
「激しい運動は?」
神官が答えに詰まる。
それだけで十分だった。
「避けてください。今の身体へ大きな負担をかければ、急激に悪化する可能性があります」
「戦うなってことか」
「……はい」
拳聖は扉を開けた。
「そいつは無理だ」
外の光の中へ、そのまま歩き出した。
◇
町外れを流れる川のそばまで来ると、拳聖は荷物を置いた。
腰からトンファーを抜く。
誰もいない河原で構えを取った。
息を吸う。
気を巡らせる。
魔力はない。
生まれた時から、誰もが当然のように持っているものを自分だけが使えなかった。
だから身体を鍛えた。
気を知り、技を磨いた。
魔法を使えないのなら、魔法を使う者より強くなればいい。
それだけだった。
踏み込む。
トンファーが風を切った。
拳から肘へ繋ぎ、身体を回して反対側を振るう。足を入れ替え、次の一撃へ繋げる。
動ける。
まだ身体は応える。
だから止めなかった。
やがて呼吸が乱れ始める。
胸が痛む。
それでも、もう一歩踏み込んだ。
次の瞬間、右手から力が抜けた。
トンファーが河原へ落ち、乾いた音を立てる。
「……」
拳聖はそれを見下ろした。
拾おうと身体を屈めた途端、激しく咳き込む。
口を押さえた手が赤く染まった。
「……くそが」
死ぬのが嫌なのではない。
自分より先に、自分の身体が終わろうとしている。
それが気に入らなかった。
まだ削れる無駄がある。
完成していない技もある。
《魔気闘法》にも先がある。
そして――次に会えば、また違うことをしてくる奴がいる。
グレイは、一度見せた技を覚える。
ただ真似るだけではない。
試し、自分に合わなければ崩し、別の形にして返してくる。
最近では、拳聖の側が次を考えることも増えていた。
どう崩すか。
何を見せれば、あのガキはどう返してくるのか。
それが面白かった。
拳聖と呼ばれるようになってからも、ただ強さだけを求めて歩いてきた。
誰かに覚えてもらうためでもない。
名を残したいわけでもない。
ただ、自分の拳がどこまで届くのかを知りたかった。
「……まだ、先があんだろうが」
川面が風に揺れる。
拳聖は赤く汚れた手を握った。
◇
グレイたちが拳聖と再会したのは、それからしばらく後だった。
山間の町へ入ったところで、冒険者ギルドの前に見覚えのある背中を見つけた。
「拳聖!」
呼ばれた男が振り返る。
「……うるせぇ」
「久しぶりだな」
「そうでもねぇだろ」
声は変わらない。
ライアンも片手を上げた。
「元気そうっスね、拳聖」
「お前も相変わらずうるせぇな」
「挨拶しただけっスよ」
ライカは拳聖の顔を見るなり、別のところを確認した。
「ちゃんと野菜食ってやがりますか?」
「会って最初に聞くことがそれか」
「重要です」
「食ってる」
「本当ですか?」
「疑うなら聞くな」
拳聖が歩き出す。
グレイも自然に横へ並んだ。
その時、僅かな違和感を覚えた。
右足。
歩幅が、少しだけ狭い。
グレイは何も言わなかった。
道の傾斜かもしれない。
疲れているだけかもしれない。
けれど、その違和感だけは頭の隅に残った。
◇
宿を取ったあと、四人は町の外へ出た。
理由を確認する必要はなかった。
拳聖と会えば、戦う。
いつものことだ。
「今日は一回倒す」
「毎回聞いてんな」
「今日は違う。俺が強くなった」
「俺もだ」
拳聖がトンファーを構え、グレイも腰を落とした。
気と魔力を身体へ巡らせる。
以前のように無理に混ぜようとはしない。それぞれの流れを崩さず、同じ動きの中へ重ねていく。
拳聖の眉が僅かに動いた。
「今のはいいんだな」
「知らねぇ」
「顔に出てる」
「戦う前から腹立つな、お前」
グレイが踏み込んだ。
正面から放った拳をトンファーが受ける。そこで力をぶつけず、接触した場所を軸に身体を回した。
左肘。
拳聖が半歩退く。
すぐにグレイが追った。
肩へ振られたトンファーを身体を沈めてかわし、そのまま外側へ抜ける。
「それ、前に食らった」
「覚えてやがったか」
「忘れるか」
蹴りを受け流され、互いの位置が入れ替わる。
拳聖が追った。
速い。
それでもグレイの眉が僅かに寄った。
――浅い。
踏み込みが、いつもより僅かに足りない。
グレイは攻撃をかわし、反撃へ移ろうとして手を止めた。
「何だ」
「……いや」
「来ねぇならこっちから行くぞ」
次の一撃は鋭かった。
腕で受けると痺れが走る。
力は落ちていない。
技術も同じだ。
けれど、攻撃の合間に呼吸を整える時間が増えている。
数度の攻防を終えたところで、拳聖の動きが途切れた。
グレイは構えを解かなかった。
「どうした」
「それ、俺の台詞だ」
「何がだ」
「踏み込みが浅い。それに、息を戻すのも遅くなってる」
拳聖の目が細くなる。
「気のせいだ」
「俺が何度あんたと戦ったと思ってる」
「知らねぇよ」
「俺は知ってる」
拳聖が強引に踏み込んだ。
重い一撃。
グレイが受ける。
その直後だった。
拳聖の身体が僅かに止まり、胸元へ力が入る。
グレイは見逃さなかった。
「やめろ」
「まだ終わってねぇ」
「今日は終わりだ」
「勝手に決めんな」
「じゃあ続けろ」
グレイは構えたまま待った。
拳聖もトンファーを上げる。
しかし、動かない。
数秒の沈黙のあと、拳聖が舌打ちした。
「……気に食わねぇガキだ」
「知ってる」
トンファーが下ろされた。
◇
その夜、四人は同じ宿で食事をした。
拳聖は普段通りだった。
ライアンの軽口に悪態を返し、ライカに野菜を皿へ乗せられて嫌そうな顔をする。
グレイが最後に残っていた肉へ手を伸ばすと、横から拳聖の箸が先に奪った。
「それ俺が狙ってた」
「早い者勝ちだ」
「子供か」
「お前に言われたくねぇ」
変わらないやり取り。
だからこそ、グレイには分かった。
拳聖は何かを隠している。
食事を終え、拳聖が先に部屋へ戻ったあと、ライアンが声を潜めた。
「姫さん」
「ああ」
「やっぱ変っスよね」
ライカも階段を見る。
「食べる量も減っていやがります」
「明日聞く」
「素直に答えるっスかね」
「言わないだろうな」
「じゃあ、どうするんス?」
「言うまで聞く」
「うわ、面倒なやつっス」
「にーちゃんが言えたことじゃありません」
だが、翌日を待つ必要はなかった。
◇
深夜。
小さな咳でグレイは目を覚ました。
廊下へ出る。
拳聖の部屋は空だった。
気配を追って宿の裏手へ回ると、月明かりの下、井戸のそばに拳聖がいた。
背を丸め、片手で口元を押さえている。
咳が止まる。
離れた手は赤く濡れていた。
「……」
拳聖がこちらへ気づく。
「覗き見か」
「血、吐いてるじゃないか」
「見りゃ分かる」
「いつからだ」
「少し前だ」
「病気か」
「ああ」
「治療は?」
「受けた」
グレイは拳聖の顔を見た。
「治らなかった?」
僅かな沈黙。
「……ああ」
拳聖は井戸から水を汲み、手についた血を洗い流した。
赤い筋が桶の中へ落ちていく。
「安静にしろとは言われた」
「なら――」
「しねぇぞ」
グレイの言葉を遮った。
「戦わずに寝てろって言われて、それができるなら最初からこんな生き方してねぇ」
「でも」
「俺の身体だ」
声に怒りはなかった。
拳聖は濡れた手を振り、壁へ背を預ける。
「終わるなら、最後までどう使うかくらい俺に決めさせろ」
グレイは何も返せなかった。
「寝ろ」
「……嫌だ」
「あ?」
「今日はここにいる」
「好きにしろ」
拳聖がその場へ座り、グレイも少し離れて腰を下ろした。
夜風が二人の間を抜ける。
しばらく、どちらも話さなかった。
やがて拳聖が、自分の手を見ながら口を開く。
「なあ」
「ん?」
「ライアンたちは……死んだ時、どうだった」
グレイの視線が動いた。
「……怖かったと思う」
あの時の光景を、忘れたことはない。
二人が目の前で命を落とし、その直後に触れた魂は、今にも消えてしまいそうなほど弱かった。
「でも、最後まで二人だったよ」
「そうか」
「それに、人形になることは俺が勝手に決めたんじゃない。二人に聞いた」
拳聖がゆっくり顔を上げる。
「死んだ後にか?」
「ああ。魂がまだ残ってたから」
グレイは膝の上で手を組んだ。
「戻りたいかって聞いた。二人がそれを望んだから、俺は身体を作った」
「……そうか」
拳聖はそれ以上聞かなかった。
拳聖は黙り込み、節くれ立った自分の指を眺めた。
長く拳を握ってきた手だ。
「人形になっても、鍛えられるのか」
「できると思う」
「曖昧だな」
「生身と同じじゃないから。でも、ライアンもライカも技術は伸びてる」
「……そうか」
それ以上、拳聖は聞かなかった。
グレイも答えを急がない。
以前なら、冗談で済んだ話だった。
今は違う。
「拳聖」
「何だ」
「死ぬのが怖いのか」
拳聖はすぐには答えなかった。
「怖くねぇと言えば嘘になる」
意外な答えだった。
「ただ、それより腹が立つ」
「何に?」
「まだ終わってねぇのに、終わることにだ」
拳聖の手が握られる。
「まだ先がある。知らねぇ技もある。《魔気闘法》だって、これで完成じゃねぇ。それに――お前もまだ伸びる」
「俺?」
「次に会うたび、違うことしてくるだろうが」
「だって、あんた同じことしたら全部潰すし」
「だから考える」
拳聖の口元が僅かに上がった。
「久しぶりなんだよ。次に会う奴がどこまで強くなってるか、楽しみにするなんざ」
グレイは黙って聞いた。
「最初は面倒なガキだと思ってた」
「今もだろ」
「今もだ」
「おい」
「だが、面白ぇ」
拳聖が月を見上げる。
「お前がどこまで行くのか、少し見てぇと思ってる」
グレイは膝の上で指を組んだ。
言えることはいくつもあった。
けれど、余計な言葉は要らない気がした。
「じゃあ見ればいい」
「簡単に言うな」
「選ぶのはあんただ」
グレイは静かに続ける。
「俺は無理やり連れていかない。でも、あんたが望むなら身体を作る」
「……人形をか」
「ああ」
「俺みてぇなのも作れるのか」
「やってみないと分からない。でも、作るなら今の身体をそのまま真似するつもりはない」
「ほう?」
「拳を振るうための身体にする。あんたが今まで積み上げたものを、できるだけ邪魔しないように」
拳聖は黙った。
やがて小さく鼻を鳴らす。
「失敗したら?」
「直す」
「雑だな」
「得意だから」
「そこだけ自信満々かよ」
拳聖はしばらく夜空を見ていた。
そして最後に、一言だけ返した。
「考えとく」
「ああ」
それ以上、二人は人形について話さなかった。
◇
翌朝。
事情を知ったライアンとライカは、大げさに拳聖を扱わなかった。
本人がそれを最も嫌うと分かっていたからだ。
「で、拳聖」
朝食の席でライアンが口を開く。
「何だ」
「死ぬ前に俺に一回負けとくっスか?」
「今ここで殺してやろうか」
「元気そうで安心したっス」
「にーちゃん、その確認方法はやめやがってください」
ライカが拳聖の前へスープを置く。
いつもより量は少ない。
「何で減らした」
「食べられる量にしただけです。足りなければ追加しやがってください」
「余計な気遣いすんな」
「残される方が腹立ちます」
「……」
拳聖はそれ以上言わず、スプーンを取った。
病を知ったからといって、何もかも変える必要はない。
拳聖もそれを望んでいない。
だからグレイも、できる限り今まで通りに接した。
ただ、以前なら気にも留めなかった仕草へ視線が向いてしまう。
手。
姿勢。
呼吸。
食べる速度。
「見るな」
「見てない」
「見てる」
「癖だ」
「気色悪ぃ」
「武人の身体を見るのはあんたもだろ」
「そういう意味じゃねぇ」
拳聖がスープを飲む。
グレイもようやく自分の皿へ視線を戻した。
◇
拳聖は、その後しばらく三人と同行した。
手合わせはしなかった。
代わりに、歩きながらグレイの《魔気闘法》を見る。
「右に寄ってる」
「どこが」
「自分で探せ」
「またそれか」
「答え教えて何になる」
グレイは歩きながら気と魔力を巡らせた。
呼吸に合わせ、身体の左右へ意識を向ける。
何度か繰り返したところで、違和感に気づいた。
「踏み込む前に、魔力が右肩へ集まりすぎてる?」
拳聖は答えない。
グレイが横から顔を覗く。
「合ってるな」
「見るな」
「分かりやすい」
「殴るぞ」
「病人が無理するな」
「今すぐ殴る」
「お姫ちゃん、煽りやがらないでください」
後ろからライカの呆れた声が飛び、ライアンが笑う。
以前と大きく変わらない時間だった。
だからこそ、グレイは終わってほしくないと思った。
けれど、それを口にはしない。
拳聖自身が選ぶことだからだ。
◇
やがて、街道が二つに分かれた。
グレイたちは西へ。
拳聖は北へ向かうという。
「また別れるっスね」
「ああ」
「次どこで会うっスかね」
「知らん」
「まあ、いつもそうっスけど」
ライカは少しだけ迷ってから拳聖を見る。
「無茶しやがらないでください」
「無理だな」
「少しくらい聞きやがってください」
「考えとく」
「絶対考えないやつです」
拳聖は答えず、荷物を背負い直した。
グレイだけは黙ったままだった。
「何だ」
拳聖から声をかけられ、ようやく顔を上げる。
「次に会ったら戦おう」
ライアンとライカがグレイを見る。
拳聖は動かなかった。
「今までみたいな手合わせじゃない。ちゃんと、あんたが納得できる状態でやる」
拳聖の目が細くなる。
「……お前、勝つ気か」
「ずっとそのつもりだ」
「まだ早ぇ」
「なら負けさせろ」
しばらく睨み合ったあと、拳聖の口元が僅かに上がった。
「いいだろ」
腰のトンファーへ手を置く。
「次だ」
「ああ」
「次に会った時、決める」
「何を?」
拳聖は自分の手へ視線を落とした。
一度握り、ゆっくり開く。
「俺の拳が、どこまで行ったかだ」
顔を上げる。
「お前とやる」
グレイは、その言葉を静かに受け取った。
「ああ。分かった」
拳聖が北へ向かって歩き出す。
グレイはその背中をしばらく見つめていたが、やがて声を張った。
「拳聖!」
男は振り返らない。
「死ぬなよ!」
「無茶言うな!」
「次まででいい!」
「だったら早く来い!」
拳聖は片手だけを上げた。
そのまま歩いていく。
グレイは追わなかった。
ライアンも、ライカも何も言わない。
三人で、その背中が街道の先へ消えるまで見送った。
やがてグレイは自分の拳を見る。
気と魔力を巡らせると、二つの力は以前より自然に身体を通った。
それでも、まだ足りない。
次に会う時までに、もっと先へ行く必要がある。
「行こう」
「いいんスか?」
「ああ」
グレイは拳聖が消えた道から視線を外した。
「次は勝つ」
ライアンが小さく笑う。
「姫さんなら、そう言うと思ったっス」
「お姫ちゃん」
「何だ?」
ライカは一度だけ北へ続く道を見てから、グレイへ向き直った。
「なら、ちゃんと勝ちやがってください」
グレイは少しだけ目を丸くした。
そして拳を握る。
「ああ」
三人も歩き出す。
次に拳を交える時、今までと同じ手合わせでは終わらない。
拳聖は、自分が積み上げてきたものの先を見るために。
グレイは、追い続けてきたその拳を越えるために。
二人は別々の道へ進んだ。
次に、同じ場所へ立つために。




