第8話 我が名は、Glay Altarf Zero
拳聖から便りが届いたのは、彼と別れてしばらく経った頃だった。
冒険者ギルドを経由して渡された紙を開いたグレイは、宿の窓辺でしばらく黙り込んだ。
手紙と呼ぶには、あまりにも短い。
書かれているのは山の名前と、その麓にある小さな村の名だけ。挨拶もなければ、用件を説明する言葉すらなく、最後に乱雑な文字が一つだけ残されていた。
――来い。
「……相変わらずだな」
思わず漏れた声に呆れが混じる。
せめて用件くらい書け、と言いたくなるが、何のために呼ばれたのかは聞くまでもなかった。
次に会った時、もう一度戦う。
以前、二人で交わした約束がある。
ただ、あの時のグレイはまだ理解していなかった。
拳聖が口にした『最後』という言葉が、どれほど重い意味を持っていたのかを。
「姫さん、それ……拳聖からっスか?」
背後から声をかけられ、グレイは振り返った。
ライアンとライカが並んで立っている。グレイが紙を差し出すと、ライアンが受け取り、その肩越しからライカも覗き込んだ。
二人はしばらく紙面を見つめたあと、揃って微妙な顔をする。
「いや、短すぎるっスよ。せめて『元気か』とか『待ってる』とか、何か一言くらいあってもいいでしょうに」
「拳聖にそういうものを期待する方が間違っています。それより、場所だけ書けばお姫ちゃんが必ず来ると思っているところが腹立ちますね」
「実際、行くけどな」
グレイは窓の外へ視線を戻した。
夕暮れの光が街の屋根を赤く染め、その向こうでは幾重もの山影が薄暗い空へ溶け始めている。
指定された場所までは多少距離がある。それでも急ぐ必要はない。
「明日出る」
「了解っス」
ライアンはすぐに頷いたが、ライカは返事をせず、グレイの横顔をじっと見つめていた。
「……お姫ちゃん」
「ん?」
「勝ちやがってください。中途半端に気を遣って、あとで後悔するような戦いだけはしないでくださいね」
以前にも聞いた言葉だった。
だからグレイも余計なことは言わず、小さく笑って頷いた。
「ああ。今度こそ勝つよ」
◇
指定された山は、名所と呼ばれるような場所ではなかった。
麓の村から山道を登り、木々の間をしばらく進むと、やがて視界が開ける。そこには背の低い草に覆われた広い土地があり、奥には灰色の岩壁がそびえていた。近くを流れる細い川の音だけが、静かな山の中へ絶えず響いている。
グレイたちが草地へ入った時、拳聖はすでにそこにいた。
大きな岩へ腰掛け、使い込まれたトンファーを布で拭いている。
「遅ぇ」
顔も上げずに言われ、グレイは眉を寄せた。
「呼びつけておいて第一声がそれか?」
「もっと早く来れるだろ、お前なら」
「来られるのと、そうするかは別だ。旅まで急いでどうする」
「ずいぶん生意気になったじゃねぇか」
「あんたにだけは言われたくない」
ようやく拳聖が顔を上げた。
いつも通りの目だった。
鋭く、余計な感情を表に出さない。それなのに、立ち上がる時の動きだけは以前より明らかに重い。
グレイの視線がわずかに下がる。
それだけで拳聖は気づいたらしい。
「その顔やめろ」
「どんな顔だよ」
「病人を見る顔だ」
「……してない」
「してる」
即答され、グレイは気まずそうに視線を逸らした。
拳聖は追及せず、手入れを終えたトンファーを腰へ戻す。
「腹減った」
「話変えるの雑すぎないか?」
「飯は?」
「俺たちを何だと思ってるんだ」
「飯持ってくる奴ら」
「拳聖」
低い声が飛んできた。
拳聖がライカを見る。
「……冗談だ」
「今の、冗談だったんスか?」
「にーちゃん。本人が冗談だと言っているんですから、たぶん冗談なのでしょう。面白くありませんけど」
「うるせぇな、お前ら」
拳聖が面倒そうに顔をしかめる。
そのやり取りを聞きながら、グレイは小さく息を吐いた。
言葉だけなら、いつもと変わらない。
だからこそ、それ以上は何も言わなかった。
◇
その日は戦わなかった。
拳聖も急かさず、グレイも明日のことを口にしないまま、日が傾く前から野営の準備を始めた。
必要な道具や食材を《ドールハウス》から出していると、母も外へ姿を現す。
「あら。お久しぶりです」
「……どうも」
「ちゃんと食べていますか?」
「食ってる」
「本当に?」
「何で会う奴全員それ聞くんだよ」
「普段の行いっスね」
「にーちゃんが言うと説得力ありませんけどね」
「ねーちゃん!?」
双子のやり取りを聞いて、拳聖の口元がわずかに緩んだ。
ほんの一瞬だったが、グレイには見えた。
夕食は肉と野菜をじっくり煮込んだものになった。
拳聖の器へ盛られた量は最初から多くない。以前なら気づかなかったかもしれないが、今はその意味が分かる。
それでも母もライカも何も言わなかった。
拳聖が食べ終える頃を見計らって、母が穏やかに尋ねる。
「もう少し食べますか?」
「……少し」
「はい」
それだけだった。
無理に食べさせることもなければ、心配そうな顔を向けることもない。
拳聖も何も言わず、差し出された器を受け取った。
食事が終わってからも、すぐに眠る者はいなかった。
焚き火を囲みながら、ライアンが最近の旅で起きた出来事を話し始める。グレイが妙な料理を気に入って予定を変えた話や、立ち寄った道場で若い師範を困らせた話。それを聞いた拳聖は、ときどき鼻で笑いながら薪を火へ放り込んでいた。
「姫さんの話、旅してると勝手に増えるんスよね」
「お前が面白がって覚えてるだけだろ」
「だって姫さん、変なところで妙に頑固じゃないっスか」
「誰が頑固だ」
「お姫ちゃんです」
「ライカまで即答するなよ」
拳聖が小さく笑う。
「お前、昔より扱い雑になってねぇか?」
「誰のせいだと思ってるんだ」
「知らねぇよ」
薪がぱちりと弾け、赤い火の粉が夜へ舞った。
山の空気は冷えている。
暗闇の奥では風に揺られた木々が擦れ合い、川の音が絶えず遠くから聞こえていた。
グレイは隣に座る拳聖へ目を向ける。
こうしていると、明日も同じように続く気がする。
またどこかで会って、戦って、飯を食って。
拳聖がぶっきらぼうに文句を言い、ライアンとライカが好き勝手に言い返す。
そんな時間が、この先も当然のように続く気がしてしまう。
その時、拳聖の呼吸が一度だけ深くなった。
胸の奥へ空気を入れるようにゆっくり吸い、それから誰にも気づかれないほど静かに吐き出す。
グレイだけが、それを見ていた。
「……グレイ?」
母に呼ばれ、視線を戻す。
「何でもない」
母はグレイの顔を少しだけ見たものの、それ以上は聞かなかった。
◇
夜が更けると、焚き火の前にはグレイと拳聖だけが残った。
ライアンとライカは少し離れた場所にいる。母たちもすでに《ドールハウス》へ戻っていた。
小さくなった炎へ拳聖が枝を放り込むと、乾いた音とともに火の粉が舞い上がった。
「明日だ」
「分かってる」
「その前に話がある」
声の調子が少し変わった。
グレイは顔を上げる。
「この前聞いた、人形の話だ」
「……考えたのか?」
「ああ」
拳聖は燃える薪を眺めたまま、しばらく黙っていた。
「悪くねぇと思った。死んだ後まで拳を振れるなら、それだけでも十分魅力的だ」
「それだけ?」
「俺に何を期待してんだ」
「もう少しこう……あるだろ」
「あるにはある」
拳聖が自分の右手を眺める。
長く拳を振り続けた手は節くれ立ち、皮膚のあちこちが硬くなっていた。
「俺はずっと、強くなることしか考えてこなかった。誰に褒められようが、どんな肩書きをつけられようが、そんなもんはどうでもよかった。昨日できなかったことが今日できりゃ、それでよかったんだ」
「知ってる」
「だろうな。……でも最近、少し増えた」
「何が?」
「見てぇもんが」
そこで初めて、拳聖がグレイを見る。
「お前だ」
「俺?」
「ああ。お前がどこまで行くのか、見てぇ」
あまりに平然と言われ、グレイは言葉を失った。
拳聖は構わず続ける。
「初めて会った時は、妙に強ぇガキがいると思っただけだ。武術を齧ってるくせに身体の使い方は雑だし、力任せだし、それなのに変なところだけ勘がいい。正直、面倒な奴だった」
「途中から悪口になってるぞ」
「黙って聞け」
「はい」
「一度叩きのめしたら、また来やがった。次も、その次もだ。俺が見せたもんを勝手に盗んで、どこかで覚えた技まで混ぜて戻ってくる。しかも前に教えてねぇところまで自分で考えてやがる」
拳聖の口元がわずかに上がる。
「面倒だった。だが、面白かった」
グレイは何も言わなかった。
「お前が次に何を持ってくるか考えるようになった。これを覚えてきたらどう崩す。次は何を見せる。俺ならその先をどう作る。……気づいたら、俺まで前より先を見てた」
握られた拳へ、炎の光が揺れる。
「俺一人だったら、たぶん今ほど先には行ってねぇ。だからまだ見てぇんだよ。お前の先も、俺の先もな」
薪が崩れた。
赤い火の粉が、冷たい夜気へ吸い込まれていく。
「……なら、俺が作る」
「ああ」
「病気のない身体を作る。もう身体のせいで拳を止めなくていいようにする」
「頼む」
グレイは目を瞬いた。
拳聖が、誰かへこんなふうに頼むところを初めて見た。
「うん」
小さく頷く。
胸の奥に残っていた重さが、少しだけ和らいだ。
だが、拳聖の話は終わっていなかった。
「ただし、条件がある」
「……何だ?」
「明日の勝負だ」
拳聖が真っ直ぐこちらを見る。
「手合わせじゃねぇ。本気でやる」
「そのつもりだよ」
「違う。お前はまだ分かってねぇ」
炎が揺れた。
「どっちかが死ぬまでだ」
グレイの指が止まった。
夜風が二人の間を抜けていく。
「俺が勝ったら、お前を殺す。お前が勝ったら、俺はこの命も、その後も全部お前にやる」
「……人形になった後も?」
「ああ」
「何でそこまで」
拳聖は一切迷わなかった。
「俺は、自分より弱ぇ奴に仕える気はねぇ」
その言葉だけは、焚き火の音にも風の音にも紛れなかった。
「身分も金も種族もどうでもいい。王だろうが真祖だろうが、俺より弱ぇなら俺の主じゃねぇ。俺がこの先を誰かに預けるなら、その相手が俺を越えてるかどうかは、この手で確かめる」
「つまり、俺があんたより強いか確かめたい」
「そういうことだ」
「負けたら本当に殺す?」
「殺す」
「俺が真祖でも?」
「関係ねぇよ。殺せるかどうかは、やってみりゃ分かる」
あまりにも拳聖らしい答えだった。
グレイの口元が、ほんの少し上がる。
「……そうだな」
怖くないわけではない。
この男はグレイの再生力を知っている。吸血鬼であることも、真祖であることも理解したうえで、それでも殺すと言った。
なら、本当に殺すための手段まで考えているはずだ。
そして自分も、拳聖を死なせないよう加減して戦うことはできない。
そんなものを彼は望んでいない。
「分かった。受けるよ」
「それでいい」
「でも、一つだけ決めてることがある」
「何だ?」
「魔法は使わない」
拳聖の眉がわずかに動いた。
「まだ言うか。空間魔法も含めて、お前の力だろうが」
「知ってるよ。でも俺は、あんたと同じ場所で勝ちたいんだ」
グレイは自分の手を見る。
初めて戦った時、何をされたのか理解できても防げなかった。
力ではどうにでもなると思っていた。
けれど、拳聖には届かなかった。
それが悔しくて、何度も挑んだ。
「俺が欲しいのは、拳聖に勝ったっていう結果だけじゃない。あんたを追いかけて覚えてきたもの全部を使って、その上で越えたいんだ」
拳聖はしばらく何も言わなかった。
やがて鼻を鳴らし、焚き火へもう一本枝を放り込む。
「勝手にしろ」
「そうする」
グレイは少しだけ笑った。
◇
翌朝。
夜露の残る草を風が揺らしていた。
草地の中央へ進んだグレイの向かいで、拳聖が腰のトンファーを抜く。
左右に一本ずつ。
長く使い込まれた武器だった。
少し離れた岩場にはライアンとライカがいる。
二人とも昨夜のうちに話を聞いていた。それでも止めなかった。
「グレイ」
「何だ」
「最後に確認する。本当に魔法は使わねぇんだな」
「ああ。吸血鬼としての再生までは止められないけど、それ以外は使わない」
「《魔気闘法》は?」
「もちろん使う。それまで捨てたら、俺がここまでやってきた意味がないだろ」
「ならいい」
拳聖が構えた。
グレイも腰を落とし、呼吸を整える。
気の流れを捉え、その中へ魔力を重ねていく。
かつては互いに反発し、無理に押さえ込めば崩れていた二つの力が、今では身体の中を淀みなく巡っている。
必要なのは、ただ強くすることではなかった。
流れを途切れさせず、必要な場所へ必要な分だけ送り込む。
拳も、肩も、腰も、足も。
身体全体を一本の道として扱う。
それでも、目の前にいる男の完成度には届かない。
拳聖の《魔気闘法》は静かだった。
何もしていないように見えるほど余分な力がなく、気も魔力も必要な場所にだけ存在している。
何度見ても、綺麗だと思った。
「始めるぞ」
「ああ」
グレイは一度だけ目を閉じる。
拳聖は、自分の命だけでなく、その後に続く時間までこの戦いへ賭けた。
なら、自分も同じものを置く。
ゆっくりと目を開いた。
「我が名は――Glay Altarf Zero」
拳聖の目がわずかに細くなる。
「この名を名乗った以上、俺も命を懸ける。あんたが何をしてきても逃げないし、俺も止めない」
拳聖は笑わなかった。
ただトンファーを握り直し、静かに腰を落とした。
「上等だ。だったら最後まで立ってみせろ、グレイ」
「そっちこそ。途中で倒れて終わりなんて、俺は認めないからな」
「言うようになったじゃねぇか」
「誰に鍛えられたと思ってる」
二人の間にあった空気が変わった。
次の瞬間、拳聖が踏み込んだ。
◇
最初に動いた拳聖の右トンファーが、グレイの側頭部を狙って走った。
グレイは後ろへ逃げず、むしろ半歩内側へ潜り込む。威力が乗り切る前の腕へ肩を当て、そのまま左拳を腹へ返した。
拳聖の膝が跳ね上がり、拳を下から止める。
「前より迷わなくなったな。だが、入っただけで満足してんじゃねぇぞ!」
「満足するわけないだろ。あんたがそこから何してくるかまで、嫌ってほど見てきた!」
返されたトンファーの柄が顎へ迫る。
グレイは首を捻ってかわしたが、頬を浅く掠められた。熱が走る。それでも離れず、拳聖の足へ自分の足を絡める。
崩すつもりだった。
しかし拳聖は一瞬早く重心を逃がし、逆にグレイの肩へ手を掛けた。
「そこだ。技を覚えたからって、相手まで同じように崩れてくれると思うな!」
「思ってな――」
言い終わる前に視界が反転した。
身体が浮き、そのまま背中から地面へ叩きつけられる。
「ぐっ……!」
肺から空気が抜けた。
直後、頭上からトンファーが振り下ろされる。グレイは身体を転がして逃れ、武器が地面を打った瞬間には片膝を立てていた。
「相変わらずだな……分かってるはずなのに、きっちり引っかかる」
「分かってねぇから食らってんだよ。頭で答えを出してから動いてるうちは、俺には届かねぇぞ」
「そういう言い方、本当に嫌いだ」
「知るか。嫌なら拳で黙らせろ」
「言われなくても!」
今度はグレイから踏み込んだ。
拳聖の視線が右へ動く。
誘っている。
その程度はもう分かる。
右拳を見せながら腰を沈め、途中で軌道を変える。拳聖も同時に動いたが、グレイはさらに内側へ入り込んだ。
「……!」
「それも見た!」
肩を胸へ当て、押さずに身体を回す。
拳聖から盗んだ崩しだった。
わずかに軸が外れる。
そこへ肘を打ち込むと、拳聖は腕で受けたものの、衝撃を殺しきれず二歩ほど後ろへ下がった。
グレイは追わない。
「どうだ」
「詰めが甘ぇ」
「またそれかよ」
「今ので追ってりゃ、もう一発入ってた」
「追ったら足を刈っただろ」
拳聖の口元がわずかに上がる。
「分かるようになったじゃねぇか」
「何回あんたに転がされたと思ってるんだ」
「まだ足りねぇな」
「だったら、今日全部返してやるよ」
「やってみろ!」
再び二人がぶつかった。
拳、肘、蹴り、トンファー。
攻防は次第に速さを増していく。
だが、ただ速いわけではない。
拳聖が一歩踏み込めば、グレイはその意味を読む。グレイが拳を振れば、拳聖は力が乗る前の場所へ身体を置く。
一つの攻撃に対して一つの防御があるのではない。
互いに次を読み、そのさらに先を奪い合っていた。
拳聖のトンファーが肋骨へ迫り、グレイは腕で受けながら身体を回す。
衝撃を逃がしても骨の奥まで痛みが響いた。
だが、その痛みさえ次の判断へ使う。
どこから力が来た。
どちらへ流れた。
次は何を狙う。
以前なら再生する身体に任せ、無理にでも攻撃を返していた。
今は違う。
「何笑ってやがる」
「いや……ちゃんと盗めてるなと思って」
グレイは迫った拳を外へ流しながら笑う。
「返せ」
「嫌だよ。もう俺の技だ」
「だったら使い方まで盗め!」
「それを今やってる!」
拳が拳聖の肩へ入る。
浅い。
拳聖は受けた勢いをそのまま回転へ変え、トンファーの柄をグレイの脇腹へ叩き込んだ。
「っ……!」
「ほら、まだ甘ぇ!」
「痛いんだよ!」
「戦いなんだから当たり前だろ!」
吹き飛ばされたグレイは地面へ手をつき、勢いを殺して立ち上がる。
腹の奥に痛みが残っていた。
向こうでは拳聖も打たれた肩を一度回している。
「重くなったな」
「成長したからな」
「腕力の話じゃねぇよ。拳に身体がついてくるようになったって言ってんだ」
「……褒めるなら普通に褒めればいいのに」
「調子に乗るだろ、お前」
「乗らないよ」
「今の顔でよく言えるな」
グレイは思わず口元へ触れた。
笑っていたらしい。
「……楽しいんだから仕方ないだろ」
「だったらもっと来い。俺が立ってるうちに、持ってるもん全部出せ!」
「言われなくてもそのつもりだ!」
グレイが地面を蹴る。
拳聖も迎え撃った。
◇
戦いが続くにつれ、二人の違いがはっきりと現れ始めた。
身体能力ではグレイが上回っている。
踏み込みの速さも、一撃の重さも、連続して動ける時間も、少しずつ差が広がっていた。
それでも拳聖は遅れない。
グレイが動く前に位置を変え、力が乗る前に軸を崩す。反応が間に合わないなら、最初から反応する必要のない場所に立つ。
衰えたものを、積み重ねてきた技術が埋めていた。
「遅ぇ!」
声と同時にトンファーが肩へ入った。
身体が傾いたところへ足を掛けられ、グレイは地面へ倒される。
拳聖が追撃へ入るより早く、グレイは片手を地面へついて身体を回し、低い位置から蹴りを放った。
拳聖がトンファーで受ける。
その反動を利用して立ち上がったグレイへ、拳聖が怒鳴った。
「戦いながら余計なこと考えてんじゃねぇ! 俺の動きを眺めて感心してる暇があったら、自分の身体を動かせ!」
「考えないと勝てないんだよ! あんた、考えずに突っ込んだら全部潰してくるだろ!」
「身体で覚えろ! 頭で一個ずつ拾ってたら間に合わねぇんだよ!」
「それが簡単にできたら苦労してない!」
拳聖が笑った。
これまでの薄い笑みではない。
声を上げて、楽しそうに。
「まだまだだな、グレイ!」
「うるさい!」
グレイも笑った。
拳を放つ。
流される。
その流れに逆らわず、次の一撃へ身体を繋げる。
気と魔力が巡っている。
攻撃する瞬間だけ無理に増やさない。
必要な場所へ、必要なだけ。
拳から肩へ。
肩から腰へ。
腰から足へ。
別々だったものが、一本に繋がっていく。
拳聖の目つきが変わった。
「――それだ」
グレイの拳がトンファーへ当たる。
鈍い音が響き、拳聖の腕が押し戻された。
「……今、教えたな」
「独り言だ」
「こんな時までそれかよ!」
「俺が何言おうが関係ねぇだろ! 掴んだなら手放すな、そのまま来い!」
「分かってる!」
もう一度踏み込む。
今度は拳聖が待っていた。
「そうだ。それがお前の《魔気闘法》だ。俺の真似で終わらせんじゃねぇ!」
「最初からそのつもりだよ!」
「なら見せろ!」
拳とトンファーがぶつかる。
響いた音は、これまでより重かった。
◇
太陽が高く昇る頃には、草地の様子も変わっていた。
二人が踏み込んだ場所は草が倒れ、いくつもの足跡が重なっている。
グレイの服はところどころ破れ、頬には乾きかけた血が残っていた。傷はすでに塞がり始めているものの、身体の奥には鈍い痛みが積み重なっている。
拳聖も無傷ではない。
口元には血が滲み、左腕にはグレイの打撃を受けた痕が残っていた。
何より、呼吸が大きく乱れている。
「拳聖」
「喋んな」
「でも、その呼吸――」
「まだ立ってる」
言葉を切られた。
グレイは拳聖を見る。
足は震えていない。
目も死んでいない。
構えも崩していない。
なら、まだ終わっていない。
「……分かった」
拳聖がトンファーを構え直す。
「次で終わらせる」
「俺も、そのつもりだ」
離れた場所にいるライアンとライカも何も言わない。
風が草地を抜けていく。
グレイは呼吸を整えた。
これまで何度も拳聖へ挑んだ。
倒され、技を盗み、失敗し、それでもまた挑んだ。
初めて拳が届いた時も。
初めて片膝をつかせた時も。
拳聖は決して答えをくれなかった。
好きにしろ。
盗めるなら盗め。
それだけだった。
だから、今ここにあるものは全部、自分で拾ってきた。
グレイは右拳を握る。
拳聖の重心がわずかに前へ移った。
知っている構えだ。
何度も見た。
拳聖もこちらを見ている。
こちらの狙いも、おそらく読まれている。
それでも変えない。
「来い、グレイ。お前が俺から盗んだもんも、自分で作ったもんも、全部その一発に乗せてみろ」
「言われなくても。これであんたを越える」
「だったら証明しろ!」
グレイが地面を蹴った。
拳聖も動く。
距離が一気に縮まった。
右拳を放つ。
拳聖は読んでいた。
身体はすでに対応へ入っている。
右腕で流し、左のトンファーを返せば、グレイの胸を捉えられる。
技術では、まだ拳聖が上だった。
だが、その瞬間。
「――っ」
拳聖の顔が歪んだ。
胸の奥から突き上げた痛みに、身体がわずかに遅れる。
本当に一瞬だった。
それでも、グレイには見えてしまった。
トンファーの軌道が遅れている。
今なら止められる。
そんな考えが頭をよぎった。
だが、すでに身体は動いていた。
《魔気闘法》が腕へ流れている。
腰が回り、足が地面を押している。
何より拳聖の目が、はっきりと告げていた。
止めるな。
だからグレイは止めなかった。
「――うああっ!」
拳が拳聖の胸へ入った。
深く。
重い音が響き、拳聖の身体が浮き上がる。
そのまま後方へ飛び、草の上へ仰向けに倒れた。
動かない。
「……拳聖」
グレイの腕がゆっくりと下がった。
返事はなかった。
近づく。
胸はかすかに上下している。
まだ生きている。
けれど、今の一撃が深く入ったことは分かっていた。
「拳聖」
「……何だ、その顔」
掠れた声が返ってきた。
グレイは足を止める。
「俺は……」
「勝った奴がそんな顔すんな」
「でも今のは、あんたの身体が――」
「病気だったから勝ったって言いてぇのか?」
先に言われた。
グレイは唇を噛む。
「あんたは俺の拳を読んでた。本当なら捌けてた。だから俺は、まだ――」
「グレイ」
弱い声だった。
それでも言葉は真っ直ぐだった。
「負けた俺に、勝敗まで決めさせねぇつもりか?」
「……」
「病気だろうが何だろうが、これが今の俺だ。昔ならどうだったとか、身体が万全ならどうだったとか、そんなもんを持ち出したら戦いなんざ終わらねぇ」
拳聖が浅く息を吐く。
痛みが走ったのか、眉がわずかに寄った。
「今日ここに立った俺と、今日ここに立ったお前が戦った。俺はお前の拳を読んだ。それでも最後まで身体を動かし切れなかった」
拳聖の目がグレイを捉える。
「だから俺が負けた。お前の勝ちだ、グレイ」
グレイは拳を握った。
ずっと欲しかった言葉だった。
何度倒されても、いつか必ず勝つと言い続けた。
その日がようやく来た。
なのに、胸の奥にあるものは想像していた勝利とはまるで違う。
「……悔しい」
「あ?」
「勝ったのに、悔しい。俺はあんたを完全に越えて勝ちたかった」
拳聖が少しだけ笑った。
「なら、もっと強くなれ。今日勝った程度で満足すんな」
「簡単に言うなよ」
「俺がずっと言ってきただろ」
「……そうだったな」
グレイは拳聖の横へ膝をついた。
呼吸は浅い。
残された時間が長くないことは、もう分かっている。
「拳聖。約束、覚えてる?」
「忘れるほど耄碌してねぇよ」
「俺が勝った」
「ああ」
「なら――」
拳聖は一度目を閉じた。
ゆっくり息を吸い、もう一度開く。
そして、わずかに姿勢を正そうとした。
「……私の敗北です」
「……は?」
グレイは思わず瞬きをした。
「何だ」
「いや、急にどうした」
「主へ向ける言葉遣いではないと気付いただけです」
「待て待て。さっきまで『殺す』とか『来い』とか言ってた奴が、急にそれは気持ち悪い」
「……」
拳聖の眉間へ深い皺が寄った。
少し離れた場所からライアンの笑い声が飛んでくる。
「姫さん、それ今言うっスか!? せっかく拳聖が覚悟決めてるのに!」
「だって急すぎるだろ!」
「お姫ちゃん、もう少し空気を読みやがってください! 拳聖も拳聖で、切り替えが極端すぎます!」
「俺が悪いのか!?」
「お前ら……最後くらい静かにできねぇのか」
拳聖が咳き込んだ。
口元から血が流れ、グレイの表情がすぐに変わる。
「拳聖」
「騒ぐな。まだ喋れる」
グレイは口を閉じた。
拳聖は何度か呼吸を整えてから、改めてグレイを見る。
「私は、自分より弱い者へ仕える気はありませんでした。身分で頭を下げる気もありませんでしたし、誰かに命令されて生きるつもりもなかった」
慣れない丁寧な言葉はところどころ硬い。
それでも、拳聖はやめなかった。
「ですが、私は負けました。ならば約束通り、この命が終わった後も、あなたへ預けます」
「……後悔しない?」
「すると思いますか?」
「しなさそう」
「なら、聞かないでください」
「もう馴染んできてないか?」
「茶化さないでいただきたい」
少しだけ、いつもの拳聖が戻った。
グレイは笑いかけたものの、うまく笑えなかった。
ライアンとライカも近くまで来ていた。
ライアンが拳聖の横へしゃがみ込む。
「負けたっスね」
「ああ」
「俺、一回も勝てなかったのに」
「お前はまだ甘ぇよ。力任せでどうにかしようとする癖、いい加減直せ」
「死にかけてまで説教するっスか?」
「今言っとかねぇと、次に会うまで忘れるだろ」
「忘れないっスよ」
ライアンは笑った。
けれど、その目は笑っていなかった。
ライカも反対側へ腰を下ろす。
「戻ってきたら、まず生活態度から直しやがってください。身体が丈夫になったからといって、好き勝手していい理由にはなりませんからね」
「人形になった後までお前に小言言われんのかよ」
「当然です」
「……先が思いやられるな」
「諦めやがってください」
拳聖の口元が少しだけ上がった。
グレイはその姿を見つめていた。
終わりではない。
拳聖自身が、その先を選んだ。
それでも、今ここにある身体は終わる。
長い間鍛え続け、拳聖として生きてきた身体は、もう戻らない。
グレイはそっと手を伸ばし、拳聖の右手を握った。
硬く、節くれ立った手だった。
何度も拳を握り、何度も何かを打ち抜いてきた手。
「……拳聖」
「はい」
「まだ、その喋り方には慣れない」
「慣れてください」
「努力するよ」
拳聖の指がわずかに動いた。
「グレイ様」
初めて呼ばれた。
グレイは何も言わず、ただその手を握ったまま拳聖を見る。
「先ほど名乗られた名ですが」
「真名?」
「はい。良い名です」
グレイは少しだけ目を伏せた。
「……ありがとう」
拳聖が目を閉じる。
呼吸が途切れかけ、それでももう一度、ゆっくりと空気を吸い込んだ。
「次は……」
「うん」
「もう少し、強い身体にしてください」
「死ぬ直前に注文するのか?」
「当然です。せっかく作り直すのですから、中途半端では困ります」
「贅沢だな」
「負けたままでは……気に入りませんので」
グレイの口元がわずかに緩む。
「また俺と戦うつもり?」
拳聖も、ほんの少しだけ笑った。
「いずれ」
「……分かった」
グレイは握った手に少しだけ力を込める。
「作るよ。病気にならない身体を。壊れても直せて、好きなだけ拳を振れて、まだ先へ行ける身体を作る」
拳聖の呼吸が、さらに弱くなる。
グレイはその顔を見つめた。
泣きそうな声にはしたくなかった。
別れの言葉にもしたくない。
だから、いつも通りに言う。
「ちゃんと戻ってこい。俺は一回勝ったくらいで満足してないし、あんたもそうだろ?」
返事はなかった。
風が草を揺らし、遠くで川の流れる音がする。
ライアンもライカも、もう何も言わない。
グレイは拳聖の手を握ったまま待った。
やがて、その指が一度だけ動く。
ほんのわずかに。
確かに、グレイの手を握り返した。




