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白銀の旅路  作者: 人形遣い
第二章 拳聖と白銀

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第9話 セバス


 握り返されていた指から、ゆっくりと力が抜けていった。


 グレイはすぐには、その手を離せなかった。


 まだ温かい。


 つい先ほどまでトンファーを握り、自分へ向かってきた手だ。何度も拳を受け止められ、何度も地面へ転がされ、そのたびに立ち上がって追い続けてきた。


 けれど、もう動かない。


 拳聖の胸からも、呼吸の気配は消えていた。


 風が草地を渡り、二人の戦いによって踏み荒らされた草を揺らしていく。その音だけが、不自然なほどはっきり耳へ届いた。


「……拳聖」


 呼んでみる。


 返事はない。


 分かっていた。


 死んだのだ。


 最後に自分が放った拳を受けて。


 拳聖はグレイの攻撃を読んでいた。本来ならば捌かれていたはずの一撃だった。それでも最後の瞬間、病に蝕まれていた身体がわずかに遅れ、その隙間へ拳が届いた。


 それを悔やもうとしたグレイへ、拳聖は言った。


 これが今の自分だと。


 過去の自分でも、万全だった自分でもない。


 今日ここへ立った自分と、今日ここへ立ったグレイが戦い、自分が負けたのだと。


「……勝った奴が、そんな顔するな……か」


 最後に向けられた言葉を、小さく繰り返す。


 ずっと勝ちたかった。


 何度倒されても、届かなくても、次こそはと拳を握った。


 ようやく認めてもらえた。


 なのに、その勝利を喜ぶには、掌に残った温度があまりにも重かった。


「姫さん」


 少し離れた場所から、ライアンの声が届いた。


 グレイが顔を上げると、ライアンとライカが立っている。


 二人とも近づいてこなかった。


 グレイは小さく首を横へ振る。


「……もう少しだけ」


「分かったっス」


 それ以上、ライアンは何も言わなかった。


 ライカも黙って待っている。


 グレイは拳聖へ視線を戻した。


 その時だった。


「……?」


 握っている指先へ、微かな感触が触れた。


 拳聖の指が動いたわけではない。


 肉体はもう動かない。


 もっと深いところ。


 目には見えず、普通なら触れることさえできない場所から、グレイの魔力へ何かが触れている。


 あまりにも弱い。


 意識を向けていなければ見逃していたかもしれないほどの、微かな存在。


 それでもグレイは、その感触を知っていた。


「……まだ、いる」


「姫さん?」


 ライアンの声に、グレイは拳聖の手を離した。


 代わりに胸へ掌を当てる。


「魂が残ってる」


 ライアンとライカの表情が変わった。


 グレイはもう一度、肉体の状態を確かめる。


 鼓動はない。


 呼吸もない。


 生命活動は完全に止まっている。


 ここだけは絶対に間違えるわけにはいかない。


 グレイの力は、生きている者には使えない。


 死者にのみ届き、魂がこの世界から完全に失われるまでの僅かな間だけ、その存在を新しい器へ繋ぎ止めることができる。


 猶予は長くない。


 だからこそ、迷っている時間もなかった。


 グレイは目を閉じる。


「拳聖。聞こえてるなら、少しだけ付き合え」


 自分の魔力を細く伸ばしていく。


 捕まえるのではない。


 無理やり引き戻すわけでもない。


 本来、この力を使うために本人の同意は必要ない。


 魂さえ残っているなら、グレイの意思だけで魔導白磁の器へ繋ぐことはできる。


 けれど。


 この男にだけは、それをしたくなかった。


「昨日、あんたは言ったよな。俺が勝ったら、この命の後まで預けるって」


 返事はない。


 当然だった。


「俺は覚えてる。戦いが終わった後にも、同じことを言ってくれた。だから本当は、もう聞く必要なんてないんだと思う」


 掌から伸びた魔力が、微かな魂へ触れる。


「でも、最後にもう一回だけ聞く」


 風が拳聖の髪を揺らした。


「戻るか?」


 静かに問いかける。


「今までの身体は残せない。俺の力を使えば、その肉体は新しい器を作るために失われる。あんたがずっと鍛えて、最後まで使い切った身体だ。それだけは、ちゃんと分かっていてほしい」


 何も返ってこない。


 グレイは待った。


 同意が必要だからではない。


 ただ、拳聖自身に選んでほしかった。


「それでも戻るなら、俺が作るよ」


 掌へ魔力を集める。


「あんたが最後まで欲しがってた、もっと先へ行ける身体を」


 静寂が続いた。


 やがて。


 魂へ触れていた魔力が、ほんの僅かに揺れた。


「……」


 グレイの指が動く。


 錯覚ではない。


 もう一度、弱い反応が返ってくる。


 声ではなかった。


 言葉でもない。


 それでも確かに、こちらへ向かってきた。


 グレイの口元が、ほんの少し緩む。


「そうか」


 目を開く。


「戻るんだな」


 返事はない。


 それで十分だった。


「なら――始める」


     ◇


 先延ばしにはしなかった。


 魂が残っている以上、今この瞬間に始めるのが最も確実だからだ。


「ライアン、ライカ。少し離れててくれ」


「分かったっス。姫さん、無茶だけはしないでくださいよ」


「何か必要なら呼びやがってください。勝手に全部抱え込むのは禁止ですからね」


「ああ」


 二人が離れるのを確認してから、グレイは拳聖の身体を草の上へ静かに横たえた。


 胸へ両手を置く。


 意識を深く沈めていく。


 魔力が肉体の隅々へ伸びていった。


 骨格。


 筋肉。


 神経。


 関節。


 身体の中に刻み込まれた一つ一つの特徴を、できる限り正確に拾い上げる。


 拳聖にとって身体は、ただ魂を入れておく器ではない。


 長い修練によって作り上げた、技そのものだった。


 腕が僅かに長くなっただけでも拳の間合いが変わる。


 重心がずれれば、踏み込みも崩しも別物になる。


 強い身体を作ればいいわけではない。


 まず必要なのは、この男が積み重ねてきたものを失わせないことだった。


「……難しい注文してくれたよ、本当に」


 小さく呟きながら、魔力をさらに広げる。


 白い光が拳聖の輪郭を包んだ。


 やがて、その身体がゆっくりと変化を始める。


 燃えるのでも、崩れるのでもない。


 肉体そのものが、グレイの魔力を介して新しい物質へ置き換えられていく。


 魔導白磁。


 魂を宿し、魔力を巡らせ、生前と変わらず世界を見て、聞いて、触れることのできる器。


 そして何より。


 もう一度、拳を振るための身体。


「……っ」


 額から汗が落ちる。


 経験がないわけではない。


 それでも、同じ人形など一つとして存在しない。


 魂が違えば、身体も違う。


 特に拳聖ほど自分の肉体を使い込んだ者を再現するなら、僅かな誤差さえ後々大きな違和感になる。


 だから今は、余計なことをしない。


 強くするのは後だ。


 細かな調整も後でいい。


 最優先はただ一つ。


 消えかけている魂を、新しい器へ繋ぎ止めること。


 胸の奥に核が形成される。


 グレイはそこへ魔力の道を伸ばした。


「拳聖」


 微かな魂へ呼びかける。


「こっちだ」


 反応が返る。


「来い。まだ終わってないんだろ」


 魂がゆっくりと導かれていく。


 無理に押し込まない。


 ただ道を示す。


 そして魂が、新しく作られた核へ触れた瞬間。


「――っ!」


 グレイの魔力が大きく揺れた。


「姫さん!」


 ライアンが思わず一歩踏み出す。


「来るな! 大丈夫だから!」


 声を張りながらも、グレイは集中を切らさない。


 ここで離せば駄目だ。


 拳聖という存在と、新しい器を繋ぐ。


 一度でいい。


 確実に。


「戻ってこい……!」


 白い光が強くなる。


 元の肉体は、もう残っていない。


 髪も、皮膚も、骨も、血も。


 そのすべてが新しい器を形作るために使われた。


 戻すことはできない。


 その代わり。


 魔導白磁で作られた胸の奥に、新しい核が完成する。


 そこへ一つの魂が宿った。


 心臓とは違う。


 鼓動もしない。


 それでもグレイには、はっきりと分かった。


 いる。


「……できた」


 張り詰めていた力が一気に抜けた。


 身体が傾きかけたところを、駆け寄ってきたライカが支える。


「お姫ちゃん」


「大丈夫。ちょっと疲れただけ」


「その言葉は信用しません。ですが……成功したんですね?」


「ああ」


 グレイは新しい身体を見下ろした。


 まだ目は開かない。


 指一本動かない。


 それでも魂は確かに定着している。


 もう、消えてしまうことを恐れる必要はない。


 ここからは焦らなくていい。


「帰ろう」


 グレイはようやく、深く息を吐いた。


「今度は、この身体をちゃんと完成させないとな」


     ◇


 麓の村で借りた家の寝台へ、拳聖の新しい身体を横たえた。


 魂の定着には成功した。


 だが、まだ最低限の器を整えただけにすぎない。


 魔導白磁は、人間の肉体とは根本的に構造が違う。


 筋肉の代わりに魔導組織が動き、魔力を巡らせることで関節や指先まで制御する。


 形だけを同じにしても、生前とまったく同じ感覚になるわけではない。


 グレイは寝台の横へ座り、腕の回路を確認する。


「まだ起きるなよ」


 返事はない。


 それでも魂がそこにいることは分かっていた。


「たぶん聞こえてるだろ。先に言っておくけど、勝手に動くなよ? あんた絶対、目を覚ましたらすぐ身体を試そうとするから」


 右腕から肩へ。


 肩から背中。


 腰。


 脚。


 魔導回路を順番に確認していく。


「今動いたら変な癖がつくかもしれない。せっかく作ったのに、それで技が狂ったら俺のせいにするだろ」


 返事はない。


「……するだろうな」


 一人で納得して、グレイは作業へ戻った。


 最も大きな違いは、拳聖を蝕んでいたものがもう存在しないことだった。


 病もない。


 老いによる衰えもない。


 だが、それだけで終わらせるつもりもない。


 最後に頼まれた。


 もっと強い身体を。


「注文したんだから、文句言うなよ」


 グレイは袖を捲った。


     ◇


 魂を繋いだ後は、急ぐ必要がなかった。


 だからグレイは時間をかけて、一つずつ身体を整えていった。


 そして、必要な調整が一通り終わった頃。


「……よし」


 寝台の横に座ったグレイは、最後の回路から手を離した。


 身体の状態をもう一度確認する。


 問題はない。


「拳聖。起きていいぞ」


 返事はなかった。


「……拳聖?」


 待つ。


 何も起きない。


 グレイの眉が寄る。


「おい。まさか寝てるのか?」


 胸の核へ手を当てる。


 魂はある。


 繋がりも正常だ。


「聞こえてるだろ」


 その時。


 右手の指が僅かに動いた。


「……」


 グレイは黙って見つめる。


 もう一度。


 今度はゆっくりと指が曲がり、拳を作った。


「目を開ける前に最初にやるのがそれかよ」


 瞼が開く。


 焦点が合うまで僅かに時間がかかった。


 拳聖は天井を眺め、何度か瞬きをしてから首を動かす。


 やがて、寝台の横にいるグレイを見た。


「……おはよう」


 拳聖が口を開く。


「……妙ですな」


「何が?」


「自分の声なのに、自分のものではないように聞こえます」


「まだ感覚が合ってないんだと思う。気になるなら調整するけど」


 拳聖は一度口を閉じ、もう一度声を出した。


「いえ。慣れれば問題ないでしょう」


「そっか」


 言いながら、拳聖が右手を持ち上げる。


 握る。


 開く。


 手首を回し、次に肘を動かす。


「待て」


「何でしょう」


「まだ起きるなよ」


「身体を確認します」


「寝たままやれ」


「立たなければ重心が分かりません」


「だから、その重心をこれから合わせるんだって」


 拳聖は少し考えた。


「なるほど」


「分かった?」


「では、立って確認しましょう」


「何でそうなるんだよ!」


 止めるより早く身体を起こした。


 寝台から足を下ろす。


 そのまま立ち上がり、一歩踏み出して。


 前へ倒れた。


「ほら!」


 グレイが慌てて支える。


 拳聖はグレイの肩へ手を置いたまま、自分の足元を見た。


「……重心が後ろですな」


「だから言っただろ!」


「調整をお願いします」


「今すぐ?」


「今、問題が分かりましたので」


 グレイは呆れながら拳聖を寝台へ座らせる。


「……本当に変わらないな、あんた」


「何がでしょう」


「何でもないよ」


 そう言いながら、グレイは拳聖の脚へ手を伸ばした。


 そこからは、一人で身体を作る作業ではなくなった。


     ◇


「右肩が軽いですな。拳を前へ出した時、僅かに力が抜けます」


「これくらい?」


 グレイが肩の魔導回路へ触れ、流れを調整する。


 拳聖は腕を伸ばし、何度か動かした。


「まだ少し」


「細かいな……」


「身体は武器です。僅かな違和感を放置すれば、技の方がそれに合わせて歪みます」


「それは分かるけどさ。……これなら?」


「良いでしょう」


「次は?」


「左足です」


「まだあるの?」


「当然です」


「はいはい」


 グレイは諦めたように息を吐いた。


 腕。


 肩。


 腰。


 膝。


 足首。


 指先。


 拳聖は、自分の身体の違いを驚くほど細かく感じ取った。


「右の人差し指が僅かに遅れます」


「それ本当に分かるの?」


「分かります」


「……気持ち悪いな」


「グレイ様」


「はい」


「主でなければ殴っています」


「敬語で怖いこと言うなよ」


 それでもグレイは直した。


 拳聖も何度も確かめる。


 やがて室内で確認できる範囲が終わると、二人は外へ出た。


「軽くな。絶対に軽くだぞ」


「承知しております」


「本当だろうな」


「信用がありませんな」


「目を覚ましてすぐ立とうとした奴をどう信用しろっていうんだ」


 拳聖は返事をせず構えた。


 一歩踏み込む。


 拳を出し、途中で止める。


「……」


「どう?」


「速すぎます」


「え。駄目なの?」


「駄目です」


「強いならいいんじゃないか?」


「技術より身体が先へ出ています。このまま力へ頼れば、今まで積み重ねたものが雑になる」


 グレイは少し意外そうに拳聖を見た。


 もっと速くなった。


 もっと強くなった。


 そう喜ぶものだと思っていた。


 だが、この男が欲しいのは単純な力ではない。


「出力を落とす?」


「いいえ」


「じゃあ、どうするんだ?」


 拳聖はもう一度構える。


「私が合わせます。この身体を弱くする必要はありません。技術の方を追いつかせればいい」


「……そっちなんだ」


「当然でしょう」


 今度の踏み込みは、先ほどより静かだった。


 グレイはその姿を眺めながら、思わず笑う。


「本当に、あんたらしいな」


「何か?」


「いや。何でもない」


     ◇


 身体の調整を終えた夜。


 グレイたちは、ささやかな食事を囲んでいた。


 ライアンとライカだけではなく、母や侍女たちも外へ出ている。


 拳聖が問題なく動けるようになった祝いでもあった。


 食事が落ち着いた頃、グレイはふと思い出したように顔を上げる。


「そういえばさ」


「はい」


「名前」


 拳聖がこちらを見る。


「ずっと拳聖って呼んでたけど、それ二つ名だろ。本当の名前は?」


 少しの沈黙があった。


 拳聖は新しくなった自分の手を眺める。


「……さて」


「まさか忘れた?」


「長く呼ばれておりませんので、すぐには出てきませんな」


「そんなことある?」


「あるっスよ、姫さん」


 ライアンが横から口を挟んだ。


「俺らもずっと拳聖って呼んでたし、本人も一回も訂正しなかったじゃないっスか」


「面倒だったので」


「ほら」


「いや、『ほら』じゃないだろ」


 グレイは拳聖を見る。


「思い出そうと思えば思い出せる?」


「おそらくは」


「だったら――」


「ですが、必要ありません」


 グレイの言葉を遮るように、拳聖が続けた。


「……いいのか?」


「ええ」


 拳聖は自分の胸へ手を置く。


「私は一度死にました。以前の身体も、もうありません」


 グレイは黙って聞いた。


「もちろん、これまで歩いてきたものまで捨てるつもりはありません。拳も、技も、経験も、私が積み重ねてきたものです。それはこれからも私の中に残る」


 拳聖の視線がグレイへ向く。


「ですが、生まれ変わったというのなら、名まで過去へ戻る必要はないでしょう」


「……」


「グレイ様」


「ん?」


「私に、名をいただけませんか」


 今度はグレイが目を丸くした。


「俺がつけるの?」


「はい」


「自分で決めないのか?」


「あなたからいただきたい」


 迷いのない言葉だった。


「この身体も、これから歩く時間も、あなたがいなければ得られなかったものです。ならば、新しい名も我が主からいただきたい」


 グレイは答えず、目の前の男を見る。


 名前。


 それすら長く必要としなかった男だ。


 強くなることだけを追いかけ、周囲から拳聖と呼ばれても訂正することさえしなかった。


 そんな男が今、自分から新しい名前を求めている。


 適当に決めるわけにはいかなかった。


 グレイはしばらく考えた。


 不器用で。


 頑固で。


 口も悪い。


 教えるつもりはないと言いながら、間違えば直してくれた。


 弟子ではないと言いながら、グレイが次に何を覚えてくるのかを楽しみにしていた。


 そして最後まで、自分の生き方を曲げなかった。


 今は、その男が自分の前にいる。


「……セバス」


 拳聖の眉が僅かに動いた。


「セバス、ですか」


「ああ」


 グレイはもう一度、その名を口にした。


「セバス」


 不思議と、しっくりきた。


「どうかな」


 拳聖はすぐには答えなかった。


「……セバス」


 自分で確かめるように口にする。


 もう一度。


「セバス」


 やがて立ち上がると、グレイの前まで歩いてきた。


 そして静かに片膝をつく。


「拳聖?」


「その呼び名は、もう必要ありません」


 頭を下げる。


「我が名は、セバス」


 強さだけを求めていた男が、自ら望んで得た新しい名前。


「この名、確かに頂戴いたしました」


 グレイはしばらくセバスを見つめた。


 こういう堅苦しいやり取りには慣れていない。


 だから結局、いつも通りにすることにした。


 手を差し出す。


「よろしく、セバス」


 セバスが顔を上げた。


 差し出された手を見る。


 これまでは何度も拳を交えた手だった。


 最初は簡単に倒せた。


 やがて届くようになり、最後には自分を越えた。


 けれど今度は、戦うために差し出された手ではない。


 セバスは静かにその手を取った。


「はい。よろしくお願いいたします、グレイ様」


     ◇


 名前が決まってから、セバスは本格的にグレイの従者として振る舞おうとした。


 問題が一つあった。


「セバス」


「はい」


「何してるの?」


「お仕えしております」


「それは分かる。具体的に何してるんだ?」


「……」


 セバスが黙る。


 グレイも待つ。


「何をすればよろしいでしょう」


「俺に聞くなよ。俺も知らない」


「……」


「……」


 二人で黙った。


 そこへ通りかかったライアンが、怪訝そうに足を止める。


「何してるんスか?」


「セバスが俺に仕えようとしてる」


「いいじゃないっスか」


「でも何をすればいいか分からないらしい」


「姫さんが命令すれば?」


「だから、何を?」


「俺に聞かれても困るっスよ」


 三人になっても答えは出なかった。


 そこへライカがやってくる。


「何を揃って難しい顔してやがるんですか」


「ねーちゃん、ちょうどいいところに!」


「嫌な予感しかしませんね」


 事情を聞いたライカは、しばらくセバスを見つめた。


「つまり、グレイ様へ仕えると決めたものの、どう仕えればいいのか分からない、と」


「その通りです」


「拳以外、本当に何も知らないんですね」


「否定はいたしません」


「そこは少しくらい否定しろよ」


 グレイが思わず口を挟む。


 ライカは小さく息を吐いた。


「だったら、知っている人に聞けばいいでしょう」


「誰に?」


「母上たちです」


 グレイとセバスが同時に黙った。


「あ」


     ◇


「執事、ですか」


 母は少し驚いた様子でセバスを見上げた。


「はい。グレイ様へ仕えるのであれば、その形が適しているのではないかと」


「誰に聞いたの?」


「ライアン殿です」


 母の視線が横へ動いた。


 ライアンが、そっとその場から離れようとする。


「ライアン」


「はいっス」


「あとで少しお話ししましょう」


「何で!?」


「印象だけで適当なことを教えたでしょう?」


「いや、セバスなら執事っぽいかなって!」


「つまり印象だけなのね」


「……はいっス」


 グレイが思わず笑う。


 すると母の視線が今度はこちらへ向いた。


「グレイ」


「はい」


「あなたもです」


「何で俺まで?」


「主人側にも覚えることがあります」


「俺、今まで普通にやってきたけど」


「だからです」


「……どういう意味?」


「座っていなさい」


「はい」


 母は侍女の一人を呼んだ。


 長くグレイの家に仕え、今も《ドールハウス》で暮らしている女性だ。


 事情を聞いた侍女は、セバスを上から下まで眺める。


「執事としてグレイ様へ仕えたい、と」


「はい」


「では、食事の配膳はできますか?」


「経験がありません」


「茶は?」


「ありません」


「衣服の管理は?」


「ありません」


「予定の管理、来客への対応、部屋の整理は?」


「いずれも経験がありません」


 侍女が一度だけ瞬きをする。


「では、何ができますか?」


「戦闘であれば、大抵のことは」


「聞いていません」


「……失礼しました」


 グレイは俯いた。


 笑うと怒られそうだった。


「グレイ様」


「何?」


「笑っておられますか」


「笑ってない」


「顔を上げてください」


「嫌だ」


「グレイ」


「はい」


 母に呼ばれ、仕方なく顔を上げる。


「邪魔をしない」


「……はい」


 拳聖との真剣勝負より、妙な緊張感があった。


     ◇


 こうしてセバスの執事修行が始まった。


 最初に教えられたのは茶だった。


「茶葉を入れすぎです」


「これほど少量でよいのですか?」


「十分です。まずは淹れてみてください」


 セバスは言われた通りに湯を注ぎ、出来上がった茶を自分で口へ運ぶ。


「……薄いですな」


「それが普通です」


「今まで何を飲んでいたんです?」


「もっと濃いものを」


「でしょうね」


 次は配膳だった。


「皿を置く音が大きいです」


「これ以上小さく?」


「あなたならできますよね?」


 セバスは皿を見つめた。


 戦闘中と変わらないほど真剣な顔で、ゆっくりと卓上へ置く。


 今度は音がしなかった。


「できますね」


「……なるほど」


「今、何を理解したんだ?」


 横で見ていたグレイが思わず尋ねる。


「必要以上に力を加えないことです」


「それ、拳でもずっとやってただろ」


「似ていますが、少々違いますな」


「そうなの?」


「グレイ」


「はい」


「口を挟まない」


「……はい」


 セバスの口元が僅かに緩んだ。


「今笑っただろ」


「いいえ」


「絶対笑った」


「グレイ」


「はい」


 母の一声で、再び静かになった。


 グレイは納得がいかない顔をしながら椅子へ座り直す。


 セバスは何も言わない。


 ただ、ほんの僅かに楽しそうだった。


     ◇


 慣れないことばかりだったが、セバスは驚くほど真面目に覚えていった。


 分からなければ聞く。


 注意されれば直す。


 戦いとはまったく違う分野でも、できないことをそのままにしておく性格ではなかった。


 一方で、武に関してだけは変わらない。


 新しい身体を手に入れたからといって、それを完成だとは考えていなかった。


 病に邪魔されることはない。


 身体の出力も以前より高い。


 だからこそ、その力に技術を合わせる必要がある。


 早朝。


 グレイが外へ出ると、セバスはすでに一人で身体を動かしていた。


「セバス」


「はい」


「まだやってたの?」


「まだ、とは?」


「俺が寝る前にもやってただろ」


「少し確認をしていただけです」


「その『少し』長くない?」


「納得するまでですので」


 グレイは腕を組んだ。


「母上に言うぞ」


 セバスの拳がぴたりと止まった。


「……それは卑怯ではありませんか?」


「有効な手段を使うのは戦いの基本だろ」


「どこで覚えたのです」


「セバスから」


 グレイが笑う。


「朝飯。行くぞ」


「あと一度だけ」


「駄目」


「本当に一度です」


「飯のあと」


「身体を動かした直後の方が感覚を――」


「もう十分動かしただろ」


「……」


「セバス」


「承知しました」


 渋々構えを解くセバスを見て、グレイは少しだけ勝った気分になった。


 だが、その日の食事が終わると。


「グレイ様」


「嫌だ」


「まだ何も申し上げておりません」


「手合わせだろ」


「はい」


「ほら」


「一手だけお願いします」


「絶対一手で終わらない」


「善処いたします」


「それ一番信用できない言葉だからな」


 結局、グレイは付き合うことになった。


 草地へ出る。


 セバスはトンファーを構えた。


「今日は魔法も使うぞ」


「どうぞ」


「空間魔法もだぞ?」


「もちろんです」


「前は同じ場所で勝ちたいって言って使わなかったけど、今度は遠慮しないからな」


「その勝負はすでに終わりました」


 セバスが静かに腰を落とす。


「今度は、グレイ様のすべてを相手にして、私がどこまで届くのかを知りたい」


「……本当に変わらないな」


「褒め言葉として受け取っておきます」


「褒めてない」


 グレイが空間を折る。


 一瞬でセバスの視界から姿が消え、背後へ現れる。


 だがセバスは振り返らなかった。


 空気の動きと僅かな気配を拾い、トンファーだけを後方へ走らせる。


「危なっ!」


 グレイは身体を捻ってかわし、そのまま距離を取った。


「今ので当てられませんでした」


「普通は当てられないんだよ! 空間魔法で後ろに出たんだぞ?」


「承知しております」


「だったらもう少し驚けよ」


「次は取ります」


「その発想がおかしいんだって」


 セバスが再び構える。


「もう一度お願いします」


「嫌だ」


「では、後ほど」


「そういう意味じゃない!」


 少し離れた場所では、ライアンとライカがその様子を眺めていた。


「ねーちゃん。セバス、元気になったら止まらなくなったっスね」


「身体を理由に諦める必要がなくなったんですから、しばらくはこうでしょうね」


「止めなくていい?」


「止めたいなら母上を呼びやがってください」


「それ最終手段っスよね」


「一番確実です」


     ◇


 それでも、新しい身体に慣れるにつれて、セバスは少しずつグレイたちの旅へ溶け込んでいった。


 執事としてはまだ覚えることが多い。


 武人としても、新しい身体を使いこなすための試行錯誤が続いている。


 けれど、いつまでも同じ場所へ留まるつもりはなかった。


 旅立ちの日。


 山道を抜けた先には、広い平原が続いていた。


 グレイ。


 ライアン。


 ライカ。


 そして、セバス。


 以前より一人増えた一行が、次の町へ向かって街道を歩いている。


「グレイ様」


「何?」


「荷物をお持ちします」


「いいよ。これくらい自分で持てる」


「しかし、従者として――」


「何でも持てばいいわけじゃないって教わっただろ?」


 セバスが止まる。


「……確かに」


「だからいい」


「承知しました」


 横からライアンが顔を出した。


「姫さん、セバスの扱い上手くなったっスね」


「母上と侍女に言われたことを、そのまま返してるだけだけど」


「それ本人の前で言っていいんスか?」


「聞こえております」


 後ろからセバスの声が飛んできた。


 ライアンが少しだけ距離を取る。


「地獄耳っスね」


「普通に聞こえる距離です」


「にーちゃんは余計なことばかり言いやがりますね」


「ねーちゃんまで!?」


 グレイは笑いながら歩いていたが、ふと振り返った。


 セバスは少し後ろを歩いている。


「セバス」


「はい」


「こっち来いよ」


 セバスが足を止める。


「何か御用でしょうか」


「ない」


「では、なぜ?」


「ずっと後ろにいなくていいってこと」


 グレイも歩みを止めた。


「俺、執事のことはよく分からないし、主とか従者とかも、まだちゃんとは分かってないけどさ」


 ライアンとライカを見る。


「こいつらだって、従者になったからって関係が全部変わったわけじゃない」


「今も友達っスよ」


「そういうこと」


 グレイはセバスを見る。


「だから、あんたも好きなところ歩けばいい。俺の後ろじゃなくてもいいんだよ」


 セバスはすぐには動かなかった。


 主へ仕える。


 必要なものを用意する。


 危険から守る。


 教えられた型はある。


 だが、グレイが求めているものは、それだけではないらしい。


「……難しいですな」


「何が?」


「拳ならば正解があります。少なくとも、自分で探すことはできる」


「うん」


「ですが、これは正解が分かりません」


 グレイは少し考えた。


「別に正解なんてなくていいんじゃないか?」


「そういうものでしょうか」


「たぶん」


「たぶん、ですか」


「俺だって分かんないんだから仕方ないだろ」


 セバスの口元がほんの少し緩んだ。


 そして一歩前へ出る。


 グレイの真後ろではなく。


 隣へ。


「この辺りでよろしいでしょうか」


「何で確認するんだよ」


「まだ不慣れですので」


「好きなところ歩けって」


「それが一番難しい注文ですな」


 ライアンが笑った。


「セバス、執事向いてないんじゃないっスか?」


「ライアン」


「はいっス」


「次の休憩で少し手合わせをしましょう」


「何で!?」


「貴重な助言への礼です」


「絶対八つ当たりっスよね!?」


「にーちゃん、自分で撒いた種くらい自分で刈りやがってください」


「ねーちゃん助けて!」


「嫌です」


 四人の声が街道へ広がっていく。


 その先には小さな町が見え始めていた。


 煙突から白い煙が上がり、風に乗ってどこか香ばしい匂いまで届いてくる。


 グレイが鼻を動かす。


「……肉焼いてない?」


「姫さん、分かるんスか?」


「たぶん。あの町、肉料理が美味いって聞いた」


「それ先に言ってくださいよ!」


 ライアンの歩調が速くなる。


 ライカも少しだけ町の方へ目を向けた。


「食事を済ませてから宿を探すのも悪くありませんね」


「決まり」


 グレイも足を速めようとする。


「グレイ様」


 隣からセバスに呼ばれた。


「何?」


「食事を楽しむことに異論はございませんが、食べ過ぎにはお気をつけください」


 グレイの足が止まった。


「……セバス」


「はい」


「誰に教わった?」


「お母上様と侍女殿です」


「余計なことまで教わってるな」


「主人の体調を気遣うことも務めだと教わりました」


「俺は吸血鬼だぞ」


「それと食べ過ぎは別問題でしょう」


「……返せ」


「何をでしょう」


「前の拳聖」


「死にました」


 真顔だった。


 グレイは一瞬、言葉を失う。


 次の瞬間、ライアンが吹き出した。


 ライカまで鉄扇で口元を隠している。


「お前な!」


「事実です」


「そういう意味じゃない!」


「では、どういう意味でしょう」


「絶対分かって言ってるだろ!」


 セバスは答えない。


 ただ、その口元がほんの僅かに緩んでいた。


 グレイは見逃さなかった。


「今笑ったな」


「気のせいです」


「絶対笑った」


「証拠はございますか」


「俺が見た!」


「主観ですな」


「お前、執事修行で変なこと覚えてないか?」


「さて」


「誤魔化すな!」


 ライアンの笑い声が大きくなる。


 ライカも呆れた顔をしながら、それでもどこか楽しそうだった。


 グレイは隣を歩くセバスを見る。


 新しい身体。


 新しい名前。


 新しい立場。


 けれど、何もかもが別人になったわけではない。


 拳は残っている。


 頑固さも。


 強さを求め続ける姿勢も。


 ただ、一人で歩いていた頃にはなかったものが、今は隣にある。


 帰る場所があり。


 共に歩く者がいる。


 そして、自分自身で選んだ主がいる。


 強さだけを追い続け、いつしか名前さえ必要としなくなった男は、一度その人生を終えた。


 それでも魂は戻ることを選んだ。


 今度は新しい名と共に。


「セバス」


「はい」


 呼べば、男は自然にこちらを見る。


 もう拳聖と呼ばなくても振り返る。


 それだけで十分だった。


「行こう」


 グレイが前を向く。


「飯なくなる前に町まで行くぞ」


「姫さん、さすがに売り切れないっスよ!」


「分からないだろ」


「お姫ちゃんは食べ物が絡むと急ぎすぎです」


「グレイ様。走るのであれば荷物をお預かりしますが」


「だから自分で持てるって!」


「では、そのままで」


「セバスも早く来い!」


 僅かな間を置いて、セバスは歩調を速めた。


「はい、グレイ様」


 四人は街道を進んでいく。


 まだ知らない土地へ。


 セバスはこれからも拳を振るうだろう。


 できなかったことがあれば、できるまで続ける。


 強い相手がいれば挑み、自分より先にいる者がいれば追いかける。


 その生き方は、きっとこれからも変わらない。


 ただし今度は、一人ではない。


 前を歩く必要も。


 後ろへ控え続ける必要もない。


 グレイの隣を歩きながら。


 セバスの新しい旅が、静かに始まった。


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