第9話 セバス
握り返されていた指から、ゆっくりと力が抜けていった。
グレイはすぐには、その手を離せなかった。
まだ温かい。
つい先ほどまでトンファーを握り、自分へ向かってきた手だ。何度も拳を受け止められ、何度も地面へ転がされ、そのたびに立ち上がって追い続けてきた。
けれど、もう動かない。
拳聖の胸からも、呼吸の気配は消えていた。
風が草地を渡り、二人の戦いによって踏み荒らされた草を揺らしていく。その音だけが、不自然なほどはっきり耳へ届いた。
「……拳聖」
呼んでみる。
返事はない。
分かっていた。
死んだのだ。
最後に自分が放った拳を受けて。
拳聖はグレイの攻撃を読んでいた。本来ならば捌かれていたはずの一撃だった。それでも最後の瞬間、病に蝕まれていた身体がわずかに遅れ、その隙間へ拳が届いた。
それを悔やもうとしたグレイへ、拳聖は言った。
これが今の自分だと。
過去の自分でも、万全だった自分でもない。
今日ここへ立った自分と、今日ここへ立ったグレイが戦い、自分が負けたのだと。
「……勝った奴が、そんな顔するな……か」
最後に向けられた言葉を、小さく繰り返す。
ずっと勝ちたかった。
何度倒されても、届かなくても、次こそはと拳を握った。
ようやく認めてもらえた。
なのに、その勝利を喜ぶには、掌に残った温度があまりにも重かった。
「姫さん」
少し離れた場所から、ライアンの声が届いた。
グレイが顔を上げると、ライアンとライカが立っている。
二人とも近づいてこなかった。
グレイは小さく首を横へ振る。
「……もう少しだけ」
「分かったっス」
それ以上、ライアンは何も言わなかった。
ライカも黙って待っている。
グレイは拳聖へ視線を戻した。
その時だった。
「……?」
握っている指先へ、微かな感触が触れた。
拳聖の指が動いたわけではない。
肉体はもう動かない。
もっと深いところ。
目には見えず、普通なら触れることさえできない場所から、グレイの魔力へ何かが触れている。
あまりにも弱い。
意識を向けていなければ見逃していたかもしれないほどの、微かな存在。
それでもグレイは、その感触を知っていた。
「……まだ、いる」
「姫さん?」
ライアンの声に、グレイは拳聖の手を離した。
代わりに胸へ掌を当てる。
「魂が残ってる」
ライアンとライカの表情が変わった。
グレイはもう一度、肉体の状態を確かめる。
鼓動はない。
呼吸もない。
生命活動は完全に止まっている。
ここだけは絶対に間違えるわけにはいかない。
グレイの力は、生きている者には使えない。
死者にのみ届き、魂がこの世界から完全に失われるまでの僅かな間だけ、その存在を新しい器へ繋ぎ止めることができる。
猶予は長くない。
だからこそ、迷っている時間もなかった。
グレイは目を閉じる。
「拳聖。聞こえてるなら、少しだけ付き合え」
自分の魔力を細く伸ばしていく。
捕まえるのではない。
無理やり引き戻すわけでもない。
本来、この力を使うために本人の同意は必要ない。
魂さえ残っているなら、グレイの意思だけで魔導白磁の器へ繋ぐことはできる。
けれど。
この男にだけは、それをしたくなかった。
「昨日、あんたは言ったよな。俺が勝ったら、この命の後まで預けるって」
返事はない。
当然だった。
「俺は覚えてる。戦いが終わった後にも、同じことを言ってくれた。だから本当は、もう聞く必要なんてないんだと思う」
掌から伸びた魔力が、微かな魂へ触れる。
「でも、最後にもう一回だけ聞く」
風が拳聖の髪を揺らした。
「戻るか?」
静かに問いかける。
「今までの身体は残せない。俺の力を使えば、その肉体は新しい器を作るために失われる。あんたがずっと鍛えて、最後まで使い切った身体だ。それだけは、ちゃんと分かっていてほしい」
何も返ってこない。
グレイは待った。
同意が必要だからではない。
ただ、拳聖自身に選んでほしかった。
「それでも戻るなら、俺が作るよ」
掌へ魔力を集める。
「あんたが最後まで欲しがってた、もっと先へ行ける身体を」
静寂が続いた。
やがて。
魂へ触れていた魔力が、ほんの僅かに揺れた。
「……」
グレイの指が動く。
錯覚ではない。
もう一度、弱い反応が返ってくる。
声ではなかった。
言葉でもない。
それでも確かに、こちらへ向かってきた。
グレイの口元が、ほんの少し緩む。
「そうか」
目を開く。
「戻るんだな」
返事はない。
それで十分だった。
「なら――始める」
◇
先延ばしにはしなかった。
魂が残っている以上、今この瞬間に始めるのが最も確実だからだ。
「ライアン、ライカ。少し離れててくれ」
「分かったっス。姫さん、無茶だけはしないでくださいよ」
「何か必要なら呼びやがってください。勝手に全部抱え込むのは禁止ですからね」
「ああ」
二人が離れるのを確認してから、グレイは拳聖の身体を草の上へ静かに横たえた。
胸へ両手を置く。
意識を深く沈めていく。
魔力が肉体の隅々へ伸びていった。
骨格。
筋肉。
神経。
関節。
身体の中に刻み込まれた一つ一つの特徴を、できる限り正確に拾い上げる。
拳聖にとって身体は、ただ魂を入れておく器ではない。
長い修練によって作り上げた、技そのものだった。
腕が僅かに長くなっただけでも拳の間合いが変わる。
重心がずれれば、踏み込みも崩しも別物になる。
強い身体を作ればいいわけではない。
まず必要なのは、この男が積み重ねてきたものを失わせないことだった。
「……難しい注文してくれたよ、本当に」
小さく呟きながら、魔力をさらに広げる。
白い光が拳聖の輪郭を包んだ。
やがて、その身体がゆっくりと変化を始める。
燃えるのでも、崩れるのでもない。
肉体そのものが、グレイの魔力を介して新しい物質へ置き換えられていく。
魔導白磁。
魂を宿し、魔力を巡らせ、生前と変わらず世界を見て、聞いて、触れることのできる器。
そして何より。
もう一度、拳を振るための身体。
「……っ」
額から汗が落ちる。
経験がないわけではない。
それでも、同じ人形など一つとして存在しない。
魂が違えば、身体も違う。
特に拳聖ほど自分の肉体を使い込んだ者を再現するなら、僅かな誤差さえ後々大きな違和感になる。
だから今は、余計なことをしない。
強くするのは後だ。
細かな調整も後でいい。
最優先はただ一つ。
消えかけている魂を、新しい器へ繋ぎ止めること。
胸の奥に核が形成される。
グレイはそこへ魔力の道を伸ばした。
「拳聖」
微かな魂へ呼びかける。
「こっちだ」
反応が返る。
「来い。まだ終わってないんだろ」
魂がゆっくりと導かれていく。
無理に押し込まない。
ただ道を示す。
そして魂が、新しく作られた核へ触れた瞬間。
「――っ!」
グレイの魔力が大きく揺れた。
「姫さん!」
ライアンが思わず一歩踏み出す。
「来るな! 大丈夫だから!」
声を張りながらも、グレイは集中を切らさない。
ここで離せば駄目だ。
拳聖という存在と、新しい器を繋ぐ。
一度でいい。
確実に。
「戻ってこい……!」
白い光が強くなる。
元の肉体は、もう残っていない。
髪も、皮膚も、骨も、血も。
そのすべてが新しい器を形作るために使われた。
戻すことはできない。
その代わり。
魔導白磁で作られた胸の奥に、新しい核が完成する。
そこへ一つの魂が宿った。
心臓とは違う。
鼓動もしない。
それでもグレイには、はっきりと分かった。
いる。
「……できた」
張り詰めていた力が一気に抜けた。
身体が傾きかけたところを、駆け寄ってきたライカが支える。
「お姫ちゃん」
「大丈夫。ちょっと疲れただけ」
「その言葉は信用しません。ですが……成功したんですね?」
「ああ」
グレイは新しい身体を見下ろした。
まだ目は開かない。
指一本動かない。
それでも魂は確かに定着している。
もう、消えてしまうことを恐れる必要はない。
ここからは焦らなくていい。
「帰ろう」
グレイはようやく、深く息を吐いた。
「今度は、この身体をちゃんと完成させないとな」
◇
麓の村で借りた家の寝台へ、拳聖の新しい身体を横たえた。
魂の定着には成功した。
だが、まだ最低限の器を整えただけにすぎない。
魔導白磁は、人間の肉体とは根本的に構造が違う。
筋肉の代わりに魔導組織が動き、魔力を巡らせることで関節や指先まで制御する。
形だけを同じにしても、生前とまったく同じ感覚になるわけではない。
グレイは寝台の横へ座り、腕の回路を確認する。
「まだ起きるなよ」
返事はない。
それでも魂がそこにいることは分かっていた。
「たぶん聞こえてるだろ。先に言っておくけど、勝手に動くなよ? あんた絶対、目を覚ましたらすぐ身体を試そうとするから」
右腕から肩へ。
肩から背中。
腰。
脚。
魔導回路を順番に確認していく。
「今動いたら変な癖がつくかもしれない。せっかく作ったのに、それで技が狂ったら俺のせいにするだろ」
返事はない。
「……するだろうな」
一人で納得して、グレイは作業へ戻った。
最も大きな違いは、拳聖を蝕んでいたものがもう存在しないことだった。
病もない。
老いによる衰えもない。
だが、それだけで終わらせるつもりもない。
最後に頼まれた。
もっと強い身体を。
「注文したんだから、文句言うなよ」
グレイは袖を捲った。
◇
魂を繋いだ後は、急ぐ必要がなかった。
だからグレイは時間をかけて、一つずつ身体を整えていった。
そして、必要な調整が一通り終わった頃。
「……よし」
寝台の横に座ったグレイは、最後の回路から手を離した。
身体の状態をもう一度確認する。
問題はない。
「拳聖。起きていいぞ」
返事はなかった。
「……拳聖?」
待つ。
何も起きない。
グレイの眉が寄る。
「おい。まさか寝てるのか?」
胸の核へ手を当てる。
魂はある。
繋がりも正常だ。
「聞こえてるだろ」
その時。
右手の指が僅かに動いた。
「……」
グレイは黙って見つめる。
もう一度。
今度はゆっくりと指が曲がり、拳を作った。
「目を開ける前に最初にやるのがそれかよ」
瞼が開く。
焦点が合うまで僅かに時間がかかった。
拳聖は天井を眺め、何度か瞬きをしてから首を動かす。
やがて、寝台の横にいるグレイを見た。
「……おはよう」
拳聖が口を開く。
「……妙ですな」
「何が?」
「自分の声なのに、自分のものではないように聞こえます」
「まだ感覚が合ってないんだと思う。気になるなら調整するけど」
拳聖は一度口を閉じ、もう一度声を出した。
「いえ。慣れれば問題ないでしょう」
「そっか」
言いながら、拳聖が右手を持ち上げる。
握る。
開く。
手首を回し、次に肘を動かす。
「待て」
「何でしょう」
「まだ起きるなよ」
「身体を確認します」
「寝たままやれ」
「立たなければ重心が分かりません」
「だから、その重心をこれから合わせるんだって」
拳聖は少し考えた。
「なるほど」
「分かった?」
「では、立って確認しましょう」
「何でそうなるんだよ!」
止めるより早く身体を起こした。
寝台から足を下ろす。
そのまま立ち上がり、一歩踏み出して。
前へ倒れた。
「ほら!」
グレイが慌てて支える。
拳聖はグレイの肩へ手を置いたまま、自分の足元を見た。
「……重心が後ろですな」
「だから言っただろ!」
「調整をお願いします」
「今すぐ?」
「今、問題が分かりましたので」
グレイは呆れながら拳聖を寝台へ座らせる。
「……本当に変わらないな、あんた」
「何がでしょう」
「何でもないよ」
そう言いながら、グレイは拳聖の脚へ手を伸ばした。
そこからは、一人で身体を作る作業ではなくなった。
◇
「右肩が軽いですな。拳を前へ出した時、僅かに力が抜けます」
「これくらい?」
グレイが肩の魔導回路へ触れ、流れを調整する。
拳聖は腕を伸ばし、何度か動かした。
「まだ少し」
「細かいな……」
「身体は武器です。僅かな違和感を放置すれば、技の方がそれに合わせて歪みます」
「それは分かるけどさ。……これなら?」
「良いでしょう」
「次は?」
「左足です」
「まだあるの?」
「当然です」
「はいはい」
グレイは諦めたように息を吐いた。
腕。
肩。
腰。
膝。
足首。
指先。
拳聖は、自分の身体の違いを驚くほど細かく感じ取った。
「右の人差し指が僅かに遅れます」
「それ本当に分かるの?」
「分かります」
「……気持ち悪いな」
「グレイ様」
「はい」
「主でなければ殴っています」
「敬語で怖いこと言うなよ」
それでもグレイは直した。
拳聖も何度も確かめる。
やがて室内で確認できる範囲が終わると、二人は外へ出た。
「軽くな。絶対に軽くだぞ」
「承知しております」
「本当だろうな」
「信用がありませんな」
「目を覚ましてすぐ立とうとした奴をどう信用しろっていうんだ」
拳聖は返事をせず構えた。
一歩踏み込む。
拳を出し、途中で止める。
「……」
「どう?」
「速すぎます」
「え。駄目なの?」
「駄目です」
「強いならいいんじゃないか?」
「技術より身体が先へ出ています。このまま力へ頼れば、今まで積み重ねたものが雑になる」
グレイは少し意外そうに拳聖を見た。
もっと速くなった。
もっと強くなった。
そう喜ぶものだと思っていた。
だが、この男が欲しいのは単純な力ではない。
「出力を落とす?」
「いいえ」
「じゃあ、どうするんだ?」
拳聖はもう一度構える。
「私が合わせます。この身体を弱くする必要はありません。技術の方を追いつかせればいい」
「……そっちなんだ」
「当然でしょう」
今度の踏み込みは、先ほどより静かだった。
グレイはその姿を眺めながら、思わず笑う。
「本当に、あんたらしいな」
「何か?」
「いや。何でもない」
◇
身体の調整を終えた夜。
グレイたちは、ささやかな食事を囲んでいた。
ライアンとライカだけではなく、母や侍女たちも外へ出ている。
拳聖が問題なく動けるようになった祝いでもあった。
食事が落ち着いた頃、グレイはふと思い出したように顔を上げる。
「そういえばさ」
「はい」
「名前」
拳聖がこちらを見る。
「ずっと拳聖って呼んでたけど、それ二つ名だろ。本当の名前は?」
少しの沈黙があった。
拳聖は新しくなった自分の手を眺める。
「……さて」
「まさか忘れた?」
「長く呼ばれておりませんので、すぐには出てきませんな」
「そんなことある?」
「あるっスよ、姫さん」
ライアンが横から口を挟んだ。
「俺らもずっと拳聖って呼んでたし、本人も一回も訂正しなかったじゃないっスか」
「面倒だったので」
「ほら」
「いや、『ほら』じゃないだろ」
グレイは拳聖を見る。
「思い出そうと思えば思い出せる?」
「おそらくは」
「だったら――」
「ですが、必要ありません」
グレイの言葉を遮るように、拳聖が続けた。
「……いいのか?」
「ええ」
拳聖は自分の胸へ手を置く。
「私は一度死にました。以前の身体も、もうありません」
グレイは黙って聞いた。
「もちろん、これまで歩いてきたものまで捨てるつもりはありません。拳も、技も、経験も、私が積み重ねてきたものです。それはこれからも私の中に残る」
拳聖の視線がグレイへ向く。
「ですが、生まれ変わったというのなら、名まで過去へ戻る必要はないでしょう」
「……」
「グレイ様」
「ん?」
「私に、名をいただけませんか」
今度はグレイが目を丸くした。
「俺がつけるの?」
「はい」
「自分で決めないのか?」
「あなたからいただきたい」
迷いのない言葉だった。
「この身体も、これから歩く時間も、あなたがいなければ得られなかったものです。ならば、新しい名も我が主からいただきたい」
グレイは答えず、目の前の男を見る。
名前。
それすら長く必要としなかった男だ。
強くなることだけを追いかけ、周囲から拳聖と呼ばれても訂正することさえしなかった。
そんな男が今、自分から新しい名前を求めている。
適当に決めるわけにはいかなかった。
グレイはしばらく考えた。
不器用で。
頑固で。
口も悪い。
教えるつもりはないと言いながら、間違えば直してくれた。
弟子ではないと言いながら、グレイが次に何を覚えてくるのかを楽しみにしていた。
そして最後まで、自分の生き方を曲げなかった。
今は、その男が自分の前にいる。
「……セバス」
拳聖の眉が僅かに動いた。
「セバス、ですか」
「ああ」
グレイはもう一度、その名を口にした。
「セバス」
不思議と、しっくりきた。
「どうかな」
拳聖はすぐには答えなかった。
「……セバス」
自分で確かめるように口にする。
もう一度。
「セバス」
やがて立ち上がると、グレイの前まで歩いてきた。
そして静かに片膝をつく。
「拳聖?」
「その呼び名は、もう必要ありません」
頭を下げる。
「我が名は、セバス」
強さだけを求めていた男が、自ら望んで得た新しい名前。
「この名、確かに頂戴いたしました」
グレイはしばらくセバスを見つめた。
こういう堅苦しいやり取りには慣れていない。
だから結局、いつも通りにすることにした。
手を差し出す。
「よろしく、セバス」
セバスが顔を上げた。
差し出された手を見る。
これまでは何度も拳を交えた手だった。
最初は簡単に倒せた。
やがて届くようになり、最後には自分を越えた。
けれど今度は、戦うために差し出された手ではない。
セバスは静かにその手を取った。
「はい。よろしくお願いいたします、グレイ様」
◇
名前が決まってから、セバスは本格的にグレイの従者として振る舞おうとした。
問題が一つあった。
「セバス」
「はい」
「何してるの?」
「お仕えしております」
「それは分かる。具体的に何してるんだ?」
「……」
セバスが黙る。
グレイも待つ。
「何をすればよろしいでしょう」
「俺に聞くなよ。俺も知らない」
「……」
「……」
二人で黙った。
そこへ通りかかったライアンが、怪訝そうに足を止める。
「何してるんスか?」
「セバスが俺に仕えようとしてる」
「いいじゃないっスか」
「でも何をすればいいか分からないらしい」
「姫さんが命令すれば?」
「だから、何を?」
「俺に聞かれても困るっスよ」
三人になっても答えは出なかった。
そこへライカがやってくる。
「何を揃って難しい顔してやがるんですか」
「ねーちゃん、ちょうどいいところに!」
「嫌な予感しかしませんね」
事情を聞いたライカは、しばらくセバスを見つめた。
「つまり、グレイ様へ仕えると決めたものの、どう仕えればいいのか分からない、と」
「その通りです」
「拳以外、本当に何も知らないんですね」
「否定はいたしません」
「そこは少しくらい否定しろよ」
グレイが思わず口を挟む。
ライカは小さく息を吐いた。
「だったら、知っている人に聞けばいいでしょう」
「誰に?」
「母上たちです」
グレイとセバスが同時に黙った。
「あ」
◇
「執事、ですか」
母は少し驚いた様子でセバスを見上げた。
「はい。グレイ様へ仕えるのであれば、その形が適しているのではないかと」
「誰に聞いたの?」
「ライアン殿です」
母の視線が横へ動いた。
ライアンが、そっとその場から離れようとする。
「ライアン」
「はいっス」
「あとで少しお話ししましょう」
「何で!?」
「印象だけで適当なことを教えたでしょう?」
「いや、セバスなら執事っぽいかなって!」
「つまり印象だけなのね」
「……はいっス」
グレイが思わず笑う。
すると母の視線が今度はこちらへ向いた。
「グレイ」
「はい」
「あなたもです」
「何で俺まで?」
「主人側にも覚えることがあります」
「俺、今まで普通にやってきたけど」
「だからです」
「……どういう意味?」
「座っていなさい」
「はい」
母は侍女の一人を呼んだ。
長くグレイの家に仕え、今も《ドールハウス》で暮らしている女性だ。
事情を聞いた侍女は、セバスを上から下まで眺める。
「執事としてグレイ様へ仕えたい、と」
「はい」
「では、食事の配膳はできますか?」
「経験がありません」
「茶は?」
「ありません」
「衣服の管理は?」
「ありません」
「予定の管理、来客への対応、部屋の整理は?」
「いずれも経験がありません」
侍女が一度だけ瞬きをする。
「では、何ができますか?」
「戦闘であれば、大抵のことは」
「聞いていません」
「……失礼しました」
グレイは俯いた。
笑うと怒られそうだった。
「グレイ様」
「何?」
「笑っておられますか」
「笑ってない」
「顔を上げてください」
「嫌だ」
「グレイ」
「はい」
母に呼ばれ、仕方なく顔を上げる。
「邪魔をしない」
「……はい」
拳聖との真剣勝負より、妙な緊張感があった。
◇
こうしてセバスの執事修行が始まった。
最初に教えられたのは茶だった。
「茶葉を入れすぎです」
「これほど少量でよいのですか?」
「十分です。まずは淹れてみてください」
セバスは言われた通りに湯を注ぎ、出来上がった茶を自分で口へ運ぶ。
「……薄いですな」
「それが普通です」
「今まで何を飲んでいたんです?」
「もっと濃いものを」
「でしょうね」
次は配膳だった。
「皿を置く音が大きいです」
「これ以上小さく?」
「あなたならできますよね?」
セバスは皿を見つめた。
戦闘中と変わらないほど真剣な顔で、ゆっくりと卓上へ置く。
今度は音がしなかった。
「できますね」
「……なるほど」
「今、何を理解したんだ?」
横で見ていたグレイが思わず尋ねる。
「必要以上に力を加えないことです」
「それ、拳でもずっとやってただろ」
「似ていますが、少々違いますな」
「そうなの?」
「グレイ」
「はい」
「口を挟まない」
「……はい」
セバスの口元が僅かに緩んだ。
「今笑っただろ」
「いいえ」
「絶対笑った」
「グレイ」
「はい」
母の一声で、再び静かになった。
グレイは納得がいかない顔をしながら椅子へ座り直す。
セバスは何も言わない。
ただ、ほんの僅かに楽しそうだった。
◇
慣れないことばかりだったが、セバスは驚くほど真面目に覚えていった。
分からなければ聞く。
注意されれば直す。
戦いとはまったく違う分野でも、できないことをそのままにしておく性格ではなかった。
一方で、武に関してだけは変わらない。
新しい身体を手に入れたからといって、それを完成だとは考えていなかった。
病に邪魔されることはない。
身体の出力も以前より高い。
だからこそ、その力に技術を合わせる必要がある。
早朝。
グレイが外へ出ると、セバスはすでに一人で身体を動かしていた。
「セバス」
「はい」
「まだやってたの?」
「まだ、とは?」
「俺が寝る前にもやってただろ」
「少し確認をしていただけです」
「その『少し』長くない?」
「納得するまでですので」
グレイは腕を組んだ。
「母上に言うぞ」
セバスの拳がぴたりと止まった。
「……それは卑怯ではありませんか?」
「有効な手段を使うのは戦いの基本だろ」
「どこで覚えたのです」
「セバスから」
グレイが笑う。
「朝飯。行くぞ」
「あと一度だけ」
「駄目」
「本当に一度です」
「飯のあと」
「身体を動かした直後の方が感覚を――」
「もう十分動かしただろ」
「……」
「セバス」
「承知しました」
渋々構えを解くセバスを見て、グレイは少しだけ勝った気分になった。
だが、その日の食事が終わると。
「グレイ様」
「嫌だ」
「まだ何も申し上げておりません」
「手合わせだろ」
「はい」
「ほら」
「一手だけお願いします」
「絶対一手で終わらない」
「善処いたします」
「それ一番信用できない言葉だからな」
結局、グレイは付き合うことになった。
草地へ出る。
セバスはトンファーを構えた。
「今日は魔法も使うぞ」
「どうぞ」
「空間魔法もだぞ?」
「もちろんです」
「前は同じ場所で勝ちたいって言って使わなかったけど、今度は遠慮しないからな」
「その勝負はすでに終わりました」
セバスが静かに腰を落とす。
「今度は、グレイ様のすべてを相手にして、私がどこまで届くのかを知りたい」
「……本当に変わらないな」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「褒めてない」
グレイが空間を折る。
一瞬でセバスの視界から姿が消え、背後へ現れる。
だがセバスは振り返らなかった。
空気の動きと僅かな気配を拾い、トンファーだけを後方へ走らせる。
「危なっ!」
グレイは身体を捻ってかわし、そのまま距離を取った。
「今ので当てられませんでした」
「普通は当てられないんだよ! 空間魔法で後ろに出たんだぞ?」
「承知しております」
「だったらもう少し驚けよ」
「次は取ります」
「その発想がおかしいんだって」
セバスが再び構える。
「もう一度お願いします」
「嫌だ」
「では、後ほど」
「そういう意味じゃない!」
少し離れた場所では、ライアンとライカがその様子を眺めていた。
「ねーちゃん。セバス、元気になったら止まらなくなったっスね」
「身体を理由に諦める必要がなくなったんですから、しばらくはこうでしょうね」
「止めなくていい?」
「止めたいなら母上を呼びやがってください」
「それ最終手段っスよね」
「一番確実です」
◇
それでも、新しい身体に慣れるにつれて、セバスは少しずつグレイたちの旅へ溶け込んでいった。
執事としてはまだ覚えることが多い。
武人としても、新しい身体を使いこなすための試行錯誤が続いている。
けれど、いつまでも同じ場所へ留まるつもりはなかった。
旅立ちの日。
山道を抜けた先には、広い平原が続いていた。
グレイ。
ライアン。
ライカ。
そして、セバス。
以前より一人増えた一行が、次の町へ向かって街道を歩いている。
「グレイ様」
「何?」
「荷物をお持ちします」
「いいよ。これくらい自分で持てる」
「しかし、従者として――」
「何でも持てばいいわけじゃないって教わっただろ?」
セバスが止まる。
「……確かに」
「だからいい」
「承知しました」
横からライアンが顔を出した。
「姫さん、セバスの扱い上手くなったっスね」
「母上と侍女に言われたことを、そのまま返してるだけだけど」
「それ本人の前で言っていいんスか?」
「聞こえております」
後ろからセバスの声が飛んできた。
ライアンが少しだけ距離を取る。
「地獄耳っスね」
「普通に聞こえる距離です」
「にーちゃんは余計なことばかり言いやがりますね」
「ねーちゃんまで!?」
グレイは笑いながら歩いていたが、ふと振り返った。
セバスは少し後ろを歩いている。
「セバス」
「はい」
「こっち来いよ」
セバスが足を止める。
「何か御用でしょうか」
「ない」
「では、なぜ?」
「ずっと後ろにいなくていいってこと」
グレイも歩みを止めた。
「俺、執事のことはよく分からないし、主とか従者とかも、まだちゃんとは分かってないけどさ」
ライアンとライカを見る。
「こいつらだって、従者になったからって関係が全部変わったわけじゃない」
「今も友達っスよ」
「そういうこと」
グレイはセバスを見る。
「だから、あんたも好きなところ歩けばいい。俺の後ろじゃなくてもいいんだよ」
セバスはすぐには動かなかった。
主へ仕える。
必要なものを用意する。
危険から守る。
教えられた型はある。
だが、グレイが求めているものは、それだけではないらしい。
「……難しいですな」
「何が?」
「拳ならば正解があります。少なくとも、自分で探すことはできる」
「うん」
「ですが、これは正解が分かりません」
グレイは少し考えた。
「別に正解なんてなくていいんじゃないか?」
「そういうものでしょうか」
「たぶん」
「たぶん、ですか」
「俺だって分かんないんだから仕方ないだろ」
セバスの口元がほんの少し緩んだ。
そして一歩前へ出る。
グレイの真後ろではなく。
隣へ。
「この辺りでよろしいでしょうか」
「何で確認するんだよ」
「まだ不慣れですので」
「好きなところ歩けって」
「それが一番難しい注文ですな」
ライアンが笑った。
「セバス、執事向いてないんじゃないっスか?」
「ライアン」
「はいっス」
「次の休憩で少し手合わせをしましょう」
「何で!?」
「貴重な助言への礼です」
「絶対八つ当たりっスよね!?」
「にーちゃん、自分で撒いた種くらい自分で刈りやがってください」
「ねーちゃん助けて!」
「嫌です」
四人の声が街道へ広がっていく。
その先には小さな町が見え始めていた。
煙突から白い煙が上がり、風に乗ってどこか香ばしい匂いまで届いてくる。
グレイが鼻を動かす。
「……肉焼いてない?」
「姫さん、分かるんスか?」
「たぶん。あの町、肉料理が美味いって聞いた」
「それ先に言ってくださいよ!」
ライアンの歩調が速くなる。
ライカも少しだけ町の方へ目を向けた。
「食事を済ませてから宿を探すのも悪くありませんね」
「決まり」
グレイも足を速めようとする。
「グレイ様」
隣からセバスに呼ばれた。
「何?」
「食事を楽しむことに異論はございませんが、食べ過ぎにはお気をつけください」
グレイの足が止まった。
「……セバス」
「はい」
「誰に教わった?」
「お母上様と侍女殿です」
「余計なことまで教わってるな」
「主人の体調を気遣うことも務めだと教わりました」
「俺は吸血鬼だぞ」
「それと食べ過ぎは別問題でしょう」
「……返せ」
「何をでしょう」
「前の拳聖」
「死にました」
真顔だった。
グレイは一瞬、言葉を失う。
次の瞬間、ライアンが吹き出した。
ライカまで鉄扇で口元を隠している。
「お前な!」
「事実です」
「そういう意味じゃない!」
「では、どういう意味でしょう」
「絶対分かって言ってるだろ!」
セバスは答えない。
ただ、その口元がほんの僅かに緩んでいた。
グレイは見逃さなかった。
「今笑ったな」
「気のせいです」
「絶対笑った」
「証拠はございますか」
「俺が見た!」
「主観ですな」
「お前、執事修行で変なこと覚えてないか?」
「さて」
「誤魔化すな!」
ライアンの笑い声が大きくなる。
ライカも呆れた顔をしながら、それでもどこか楽しそうだった。
グレイは隣を歩くセバスを見る。
新しい身体。
新しい名前。
新しい立場。
けれど、何もかもが別人になったわけではない。
拳は残っている。
頑固さも。
強さを求め続ける姿勢も。
ただ、一人で歩いていた頃にはなかったものが、今は隣にある。
帰る場所があり。
共に歩く者がいる。
そして、自分自身で選んだ主がいる。
強さだけを追い続け、いつしか名前さえ必要としなくなった男は、一度その人生を終えた。
それでも魂は戻ることを選んだ。
今度は新しい名と共に。
「セバス」
「はい」
呼べば、男は自然にこちらを見る。
もう拳聖と呼ばなくても振り返る。
それだけで十分だった。
「行こう」
グレイが前を向く。
「飯なくなる前に町まで行くぞ」
「姫さん、さすがに売り切れないっスよ!」
「分からないだろ」
「お姫ちゃんは食べ物が絡むと急ぎすぎです」
「グレイ様。走るのであれば荷物をお預かりしますが」
「だから自分で持てるって!」
「では、そのままで」
「セバスも早く来い!」
僅かな間を置いて、セバスは歩調を速めた。
「はい、グレイ様」
四人は街道を進んでいく。
まだ知らない土地へ。
セバスはこれからも拳を振るうだろう。
できなかったことがあれば、できるまで続ける。
強い相手がいれば挑み、自分より先にいる者がいれば追いかける。
その生き方は、きっとこれからも変わらない。
ただし今度は、一人ではない。
前を歩く必要も。
後ろへ控え続ける必要もない。
グレイの隣を歩きながら。
セバスの新しい旅が、静かに始まった。




