第1話 海の向こうへ
潮の匂いが、朝の風に混じっていた。
甲板を渡る風は少し冷たい。けれど、頬を刺すほどではない。夜の名残を含んだ海風が白銀の髪を揺らし、グレイは片手でそれを押さえながら、船首の先に広がる水平線を眺めていた。
海は穏やかだった。
空が白み始めたばかりの時間だからか、甲板に出ている乗客も少ない。聞こえてくるのは、風を孕んだ帆が時折立てる音と、船腹を撫でていく波の音くらいだ。
頭上を海鳥が横切り、遠くで鳴いた。
グレイは手すりへ肘を置き、目を細める。
「……まだ見えないな」
「予定通りであれば、昼前には陸地が見えてくるはずでございます。今しばらくお待ちください」
背後から返ってきた声に、グレイは振り返らなかった。
誰なのか確認する必要もない。
「早いな、セバス。まだ寝ててもよかったのに」
「それをグレイ様がおっしゃいますか。私が起きた時には、すでに寝台が空いておりましたが」
「俺は寝てないからな」
「存じております。ですから申し上げているのです」
あまりにも淡々と返され、グレイはそこでようやく振り返った。
黒を基調とした旅装の上から、きちんと整えられた外套を羽織った男が立っている。
セバス。
かつて拳聖と呼ばれていた男がグレイの従者となってから、すでに長い時間が過ぎていた。
人形となった身体に老いはない。
それでも、従者となったばかりの頃と何も変わっていないわけではなかった。
姿ではなく、佇まいが違う。
武人として無駄のない立ち姿はそのままだが、今はそこへ執事としての自然な気遣いが混じっている。
昔なら背後に立っているだけでも、もっと武人らしい存在感があった。
今では、気付けばそこにいる。
必要な時だけ声を掛け、必要でなければ何も言わない。
本人は今でも修行中だと言うのだろうが、少なくともグレイには、もう十分すぎるほど執事に見えていた。
「お茶をお持ちしました。朝食にはまだ少々早いので、ひとまずこちらを」
「ありがとう」
差し出された小さなカップを受け取る。
立ち昇った湯気が鼻先をくすぐった。
船の上で火を扱うには制限がある。それでも長旅をする大型船だけあって調理用の設備は整っており、セバスは船員に頼んで湯を分けてもらったらしい。
グレイは一口飲んだ。
ほんのりとした渋みのあとに、慣れた香りが残る。
「……いつものだ」
「旅先で茶葉を変えると、姫さん露骨に嫌そうな顔するっスからね。セバスも、その辺はよく分かってるんじゃないっスか?」
今度は別の声がした。
グレイが横を向く。
いつからいたのか、ライアンが船室へ続く階段のところに立っていた。
まだ眠いらしい。大きな欠伸を一つしてから、片手をひらひらと振る。
「おはようっス、姫さん。朝っぱらから二人で海見ながら茶なんて、随分優雅っスね」
「おはよう。ライアンも飲む?」
「俺はいいっス。それよりセバス、船の上まで茶器持ち込んでるんスか? 荷物増えるでしょうに」
「必要な物を持参しているだけだ。旅先だからといって、グレイ様に不便を強いる理由にはならん」
「いやぁ……昔を知ってると感慨深いっスね。茶の淹れ方どころか、執事が何する人なのかも怪しかったのに」
セバスの目が、ゆっくりとライアンへ向いた。
「ライアン」
「なんスか?」
「そういえば、今朝の鍛錬がまだだったな。ちょうどいい。朝食まで時間もある」
欠伸の途中だったライアンの口が止まった。
「……今の話と鍛錬、何か関係あるっスか?」
「ない」
「即答!? それ完全に私怨じゃないっスか!」
「何を言っている。日々の鍛錬を怠れば腕が鈍る。私は仲間として、お前の将来を心配しているだけだ」
「そんな綺麗な言い方しても絶対嘘っスよ! 目が完全に『余計なこと言いやがって』って言ってるっス!」
「にーちゃん。朝から大きな声を出さないでください」
さらにもう一人。
ライカが階段を上ってきた。
風に金色の髪を揺らしながら、眠たげな目で兄を見る。
「まだ寝ている人もいやがるんです。せめて朝くらい静かに話せませんか?」
「俺、最初は普通に喋ってただけっスよ? セバスが急に鍛錬とか言い出したんス」
「にーちゃんの普通は人より少しうるさいんです」
「ねーちゃんが寝起きで機嫌悪いだけじゃないっスか?」
「そうですね。起きて最初ににーちゃんの声を聞いたせいかもしれません」
「結局俺のせいっスか!?」
「かなり」
「姉弟に対する扱いじゃないっスよ、それ……」
いつものやり取りだった。
グレイはカップを傾けながら、三人を眺める。
長い旅の間に、季節を越え、国を越えた。
山を登り、森を歩き、雪原を抜けた。知らない町で宿を探し、初めて見る料理を食べ、時には魔物を討伐し、道に迷うこともあった。
昔訪れた場所へ戻ったこともある。
小さかった村が町になっていたこともあれば、かつて賑わっていた場所から人がいなくなっていたこともあった。
変わっていくものは多い。
だからこそ、こうして朝から聞こえてくる三人の声が変わらないことを、グレイは気に入っていた。
「……姫さん?」
「ん?」
ライアンに呼ばれ、グレイが瞬きをする。
「いや。なんか、ちょっと笑ってたんで。俺ら、そんな面白い話してたっスか?」
「そうか?」
「ほんの少しっスけどね。口元、緩んでたっスよ」
言われて、グレイは自分の口元へ触れた。
確かに少しだけ上がっていたらしい。
「なら、茶がうまかったんだろ」
「なるほど。セバスの腕が上がった証拠っスね」
ライアンが素直に納得したように頷く。
その横でライカが小さく息を吐いた。
「にーちゃんはもう少し、人の顔を見てから考えやがってください」
「なんで俺が怒られるんスかね……?」
「何となくです」
「一番ひどいやつっス、それ」
グレイは二人のやり取りを聞きながら、再び海へ視線を戻した。
水平線はまだ青い。
けれど、その向こうには今まで歩いたことのない大地がある。
海を渡ること自体が初めてというわけではない。島へ渡ったこともあるし、沿岸を船で移動したこともある。
ただ、大陸そのものを越えるのは今回が初めてだった。
理由は単純だ。
行ったことがない。
それだけで十分だった。
「楽しみっスか?」
いつの間にか隣へ来ていたライアンが、同じ水平線を見ながら訊いてくる。
「うん。楽しみ」
「即答っスね。もうちょっと考えるかと思ったっス」
「知らない場所に行くんだから、楽しみだろ。何があるのか分からないし、どんな奴がいるのかも分からない」
「まあ、姫さんならそう言うと思ったっスけど」
「ライアンは違うのか?」
「俺も楽しみっスよ。ただ……」
ライアンが手すりへ腕を置く。
少しだけ目を細めた。
「何があるんスかね、向こう。港町の先も、国の中も。俺らが今までいた大陸とは、全然違ったりするんスかね」
「分からない」
グレイは迷わず答えた。
それから、少しだけ笑う。
「だから行くんだろ?」
ライアンも笑った。
「そうっスね。分からないから行く。結局、俺らずっとそれやってるっスね」
「嫌になった?」
「まさか。嫌だったら、とっくに姫さん置いて帰ってるっスよ」
「帰る場所あるの?」
「……姫さん、たまに普通の顔で酷いこと言うっスね」
「ごめん」
「しかも素直に謝るから怒れないんスよ」
二人の間に、静かな時間が流れた。
潮風が抜けていく。
そこへライカが歩いてきた。
「お姫ちゃん」
「ん?」
「朝食、もう少しでできるそうです。ですから今日は、ちゃんと食べやがってください」
「食べてる」
「では昨日の夜は、何を食べました?」
「……食べたよ」
「何を、と聞いています」
グレイは黙った。
ライカの目が細くなる。
「お姫ちゃん?」
「……干し肉」
「それを食事とは言いやがりません」
「パンも食べた」
「一つ?」
「……半分」
「セバス」
「承知しております」
「待て。なんでそこで話が通じるんだ」
セバスが懐から小さな手帳を取り出した。
「本日の朝食は通常より少々多めにしていただくよう、すでに厨房へお願いしております」
「セバス」
「昼食についても、船を降りる時間を考慮して軽食を用意していただく予定です」
「話を聞け」
「聞いております」
「俺は子供じゃない」
「存じております」
「じゃあ、そこまでしなくても――」
「ですが、ご自身の食事を疎かにする癖については、年齢と何の関係もございません。食べなかった事実が、年齢を重ねれば無かったことになるわけでもありませんので」
「……」
言い返せない。
グレイは逃げるようにカップへ口をつけた。
横でライアンが肩を震わせている。
「……笑ったな?」
「笑ってないっスよ」
「顔見せろ」
「嫌っス」
「ライアン」
「ちょ、姫さん! なんでこっち来るんスか!?」
ライアンが逃げる。
グレイの姿が消えた。
次の瞬間、逃げたはずのライアンの正面に現れる。
「うおっ!?」
慌てて方向を変えた。
またグレイが消える。
「姫さん、それズルいっスって! こういう時だけ空間魔法使うの反則じゃないっスか!?」
「逃げるからだ」
「逃げなかったら殴るじゃないっスか!」
「軽くだよ」
「真祖の『軽く』を信用できるわけないっス!」
「にーちゃん。甲板で走り回らないでください。船員の邪魔です」
「俺だけ!? 姫さんも転移しまくってるっスよ!?」
「お姫ちゃんは走っていません」
「そういう問題じゃないっス!」
朝の甲板に、ライアンの声が響いた。
近くで作業していた船員が何事かと振り返り、それから事情を察したのか呆れたように笑う。
セバスは何も言わず、グレイが置いていったカップを回収した。
その横で、ライカが小さく息を吐く。
「平和ですね」
「ああ。騒がしいがな」
「止めなくていいんです?」
「必要ないだろう。危険はない」
「まあ、そうですね」
二人の視線の先で、ライアンが必死にグレイから逃げ回っている。
結局。
しばらくして、四人まとめて船員から怒られた。
◇
昼を少し過ぎた頃。
「陸だ!」
見張り台から声が落ちた。
それまでのんびりしていた甲板の空気が一気に変わる。
船室にいた乗客たちも次々と外へ出てきた。
グレイも手すりへ寄る。
「どこだ?」
「あっちっス。姫さん、もう少し右」
ライアンが指差す。
最初は雲かと思った。
水平線の彼方、薄い霞の向こうに黒い線がある。
それが少しずつ太くなり、やがて大地の輪郭へ変わっていく。
「……見えた」
グレイが目を細める。
初めて見る大陸。
まだ遠く、建物までは見えない。
それでも、海しかなかった視界に大地が現れただけで、不思議と胸の奥が軽くなった。
「長かったっスねぇ」
「にーちゃんが途中で船酔いして騒がなければ、もう少し快適な船旅でしたけどね」
「それ、到着までの長さと関係ないっスよね?」
「私の体感時間は長くなりました」
「不可抗力っスよ! 俺だって好きで酔ってたわけじゃないっス!」
「二日目には慣れてたじゃないか」
グレイが言うと、ライアンが何とも言えない顔をする。
「姫さんは最初から平気だったじゃないっスか。あの揺れで普通に飯食ってた人に言われても説得力ないっスよ」
「揺れるだけだろ?」
「その揺れるのが駄目なんスよ」
「鍛錬不足だ」
セバスが静かに言った。
ライアンが勢いよく振り返る。
「船酔いまで鍛錬でどうにかする気っスか!?」
「少なくとも平衡感覚を鍛える意味はある。揺れる足場で身体を安定させる訓練にもなる」
「この人、本気で言ってるっス……」
「セバスですからね」
「どういう意味だ、ライカ」
「褒めています」
「ならいい」
「いいんスね……」
そんなことを話しているうちにも、陸はどんどん近付いてきた。
やがて港町が見える。
白っぽい石造りの建物が海岸線に沿って並び、その背後には緩やかな丘陵が広がっていた。
港には大小さまざまな船が停泊している。
漁船、商船、見慣れない形の帆船。
さらに沖合には、入港を待っているらしい船まで浮かんでいた。
「随分多いな」
グレイが呟く。
「ええ。この港の規模を考えても、通常の往来とは思えません」
ライカも同じところへ気付いたらしい。
桟橋には人が溢れている。
荷運びの労働者だけではない。
鎧を着た者、武器を背負った者、獣人、ローブ姿の魔法使い。
遠目からでも、多種多様な旅人が集まっているのが分かった。
「何かあるのか?」
「可能性は高いでしょう」
セバスが港へ視線を向ける。
「少なくとも、日常的な往来だけでこれほどの人数になるとは考えにくいかと」
「祭りとかっスかね」
「着けば分かるだろ」
グレイの言葉にライアンが笑う。
「姫さん、こういう時は本当に悩まないっスね」
「目の前に答えがあるのに、船の上で考えても仕方ないだろ」
「それもそうっスね」
船が速度を落とす。
帆が畳まれ、船員たちの声が忙しく飛び交い始めた。
その時。
グレイは港のさらに奥へ目を向けた。
「……あれ」
「姫さん?」
「山」
三人もそちらを見る。
かなり遠いはずだった。
それなのに見える。
大陸の奥。
霞の向こうから、一本の巨大な山が空へ伸びていた。
山頂は見えない。
雲を突き抜け、そのさらに上へ続いている。
周囲の山々とは、明らかに規模が違う。
「……でかいっスね」
さすがのライアンも、しばらく山を見上げたままになった。
「地図にあった山でしょうか」
「恐らく、あれで間違いないでしょう」
セバスが答える。
「この国の中央付近には、古くから霊峰として崇められている巨大な山があると聞いております」
「霊峰?」
「はい。名を、ヴァルグラン」
「ヴァルグラン……」
グレイはその名を繰り返した。
遠くから見ているだけなのに、妙な存在感があった。
魔力を放っているわけではない。
威圧されているわけでもない。
ただ、そこにある。
それだけなのに、自然と視線を引かれる。
「首都も、あの近くなんだよな?」
「霊峰の麓にございます」
「なら行ってみよう」
「即決っスねぇ」
「元々、この国を見て回る予定だっただろ?」
「そうなんスけど……姫さん、山見つけた瞬間からちょっと楽しそうなんスよ」
「そうか?」
「そうっス。何があるんだろうって顔してるっス」
グレイはもう一度、ヴァルグランを見た。
「なら、楽しみなんだろ」
「否定しないんスね」
「別に否定することでもないだろ」
船が港へ近付いていく。
見知らぬ大地。
見知らぬ国。
そして、雲を越える霊峰。
そのどれもが、まだ名前しか知らないものだった。
◇
港へ降りた瞬間、まず感じたのは熱だった。
気温ではない。
人の熱気だ。
「うわ……船の上から見るよりすごいっスね」
ライアンが辺りを見回す。
人、人、人。
桟橋から港の入り口まで、絶えず人が行き交っている。
荷物を運ぶ者。
旅人を呼び込む宿屋の者。
露店、馬車、商人、冒険者、船員。
あちこちから声が飛び交い、海鳥の鳴き声まで掻き消されそうだった。
潮と魚の匂い。
焼いた肉と香辛料。
馬や荷物の匂いまで混ざり、船上とはまるで違う空気が満ちている。
「本当に祭りでもやってるのか?」
グレイが呟く。
「この港で、ですか?」
「いや。この先で。さっき見た旅人、明らかに同じ方向へ向かってただろ」
「確かに、ありそうっスね。観光って感じじゃない人も多いっスし」
四人は人の流れを邪魔しないよう港の端へ寄る。
入国に必要な確認を済ませ、そのまま港町へ入った。
そこで、グレイは足を止める。
「……龍?」
大きな石像があった。
翼を広げた巨大な生物。
長い首。
鋭い爪。
鱗に覆われた身体。
見た目だけなら、これまで見てきた竜に似ている。
けれど、どこか違う。
魔物を模した像というより、もっと神聖な存在として造られていた。
像の足元には、いくつもの花が供えられている。
「この国、竜を祀ってるのか?」
「竜ではありませんよ」
知らない声が返ってきた。
グレイが横を見る。
大きな荷袋を背負った中年の男が立っていた。
旅商人らしい。
男はグレイたちの視線の先にある石像を見上げる。
「龍です。この国じゃ、竜と龍を一緒にすると本気で怒る人もいるんで、気を付けた方がいいですよ」
「龍?」
「ええ。初めて来た人には分かりにくいでしょうけどね。こっちじゃまったくの別物です」
「何が違うんだ?」
グレイが素直に尋ねると、男は荷袋を背負い直した。
「竜は魔物。龍は知恵を持つ種族です。人の言葉を話すし、俺たちより遥かに長く生きる。下手な人間よりよっぽど頭がいいって話ですよ」
「へぇ……どれくらい生きる?」
「長い個体なら千年以上だとか。まあ、俺も実際に話したことがあるわけじゃないんで、聞いた話ですけどね」
「千年……」
グレイの目が少しだけ細くなった。
男はそれに気付かず、遠くを指差した。
雲を貫く霊峰ヴァルグラン。
「それどころか、あの山にはもっと長く生きてる龍がいるそうですよ」
「もっと?」
「白耀龍神アルディエル」
その名が出た瞬間。
近くを通っていた者の何人かが、無意識に霊峰へ視線を向けた。
ほんの一瞬だった。
けれど、それだけでこの国において、その名がどういう意味を持つのか少し分かった。
「龍神……」
「この国の神様みたいなもんです。いや、『みたいな』なんて言ったら地元の人には怒られるかな」
男が苦笑する。
「俺もこの国の人間じゃないんで、信仰について詳しいことまでは知りませんけどね」
「神なのに、いるのか?」
「いるらしいですよ。少なくとも、この国の人たちはそう信じてる」
グレイは首を傾げた。
信仰されている神。
けれど、実際に存在している。
少し面白い。
「会える?」
「え?」
「そのアルディエルって龍。会えるのか?」
「普通は無理でしょうね。霊峰の奥にいるって話ですし、勝手に登って会いに行けるような相手でもないでしょう」
「普通は?」
男が妙な顔をした。
それから、四人を順番に見る。
「……もしかして、あんたら龍神祭を知らずに来たんですか?」
四人が顔を見合わせる。
「知らない」
グレイが答えた。
男は一瞬黙った。
そして豪快に笑う。
「ははは! そりゃすごい時に来たもんだ! この人混みの中で、祭りを知らずに海を渡ってきた人なんて初めて見ましたよ」
「そんなに大きい祭りなのか?」
「何かあるなんてもんじゃないですよ。今年は十年に一度の龍神祭だ」
男は港の人混みを指した。
「ここにいる旅人の大半は、そのために来てます。祭りの中心は首都セレスティア。ここからなら街道をずっと内陸へ行けば着きますよ」
指先が再び霊峰へ向く。
「あのヴァルグランを目指せば、まず迷いません」
「随分分かりやすい目印っスね」
ライアンが笑う。
「でしょう? あれを見失う方が難しい」
「それで、その祭りって何するんスか?」
「色々ですよ。屋台に酒、踊り、力比べ、武芸大会。それから――」
男が少しだけ声を落とした。
「龍神祭武闘大会」
その言葉に。
グレイの視線が、ゆっくりと男へ戻った。
横でライアンが「あ」と小さく漏らす。
ライカも気付いたらしい。
セバスだけは表情を変えなかった。
「武闘大会?」
「ええ。十年に一度、各地の腕自慢が集まる大会です。普段の大会とは規模が違うらしいですよ」
「強い奴が来る?」
「そりゃもう。冒険者、騎士、武人、傭兵、獣人、ドラゴニュート……国の外からも山ほど来る。腕に覚えがある奴なら、一度は出てみたい大会でしょうね」
「へぇ……」
グレイの口元が、ほんの少し上がった。
「姫さん」
「何だ?」
「顔」
「何が?」
「いや……もういいっス。言わなくても本人以外には全部伝わってると思うんで」
「何だよ、それ」
「お姫ちゃん」
「まだ何も言ってないぞ」
「私も何も言っていませんが?」
「なら、その目やめろ」
「普通に見ているだけです」
「絶対違う」
ライカは止めなかった。
長く一緒に旅をしていれば、この程度は分かる。
グレイが何かへ強い興味を持った時。
特に強者が絡む時。
こういう顔をする。
「グレイ様」
「セバスまで何だ」
「首都へ向かわれるのであれば、まず宿を確保すべきかと存じます。これほどの人出です。到着してから探していては、少々苦労するかもしれません」
「……大会の話じゃないのか?」
「まだ参加すると仰っておりませんので、私から申し上げることはございません」
グレイが黙った。
ライアンが吹き出す。
「さすがセバスっスねぇ」
「何がだ」
「姫さんが何言うか分かってるのに、先回りして逃げ道だけ塞いでるっス」
「人聞きの悪いことを言うな。私は必要な予定を確認しているだけだ」
「そういうことにしとくっス」
セバスは真顔だった。
◇
宿を取るのは、思った以上に苦労した。
港町の宿は、龍神祭へ向かう旅人で埋まっている。
三軒。
四軒。
五軒。
どこへ行っても返ってくる言葉は同じだった。
「満室です」
五度目を聞いたところで、ライアンの肩が露骨に落ちた。
「これ、野宿っスかね……。屋根のある町で野宿って、なんか負けた気分になるっス」
「俺は別にいいぞ。外で寝るのも慣れてるし」
「お姫ちゃんは良くても、私は嫌です。宿がある町まで来て、どうしてわざわざ外で寝なければならないんですか」
「ねーちゃん、昔は普通に野宿してたじゃないっスか」
「宿がないからです。選択肢があるのに地面を選ぶ趣味はありません」
「言われてみれば、その通りっスね」
結局、町の外れにある小さな宿で二部屋だけ確保できた。
四人で二部屋。
グレイとライカ。
ライアンとセバス。
部屋割りを聞いた瞬間、ライアンの表情が曇る。
「……俺、セバスと同じ部屋っスか」
「何か問題でも?」
「いや……寝てる間に急に『鍛錬だ』とか言い出さないっスよね?」
「希望するなら付き合おう」
「希望してないっス。むしろ今の質問でどうして希望してると思ったんスか?」
「残念だ」
「その顔、絶対残念だと思ってないっスよね?」
荷物を置いたあと、四人は食堂へ下りた。
夕方にはまだ少し早い。
それでも、食堂にはかなりの客がいた。
冒険者らしい一団が酒を飲み、商人たちが地図を広げて話している。
壁には一枚の大きな紙が貼られていた。
赤い龍を模した絵。
その下に大きな文字。
「龍神祭……」
グレイが読む。
「姫さん、あれ見えるんスか?」
「共通語だろ?」
「あ、そういう意味じゃないっス。結構遠いのに文字読めるんスねって話っス」
「見えるよ」
「そういや姫さん、目もいいんスよね」
「にーちゃんと違って」
「なんでそこで俺を下げるんスか?」
席へ着き、料理を頼んだ。
出てきたのは魚介を使った煮込み料理だった。
港町らしく魚と貝が多い。
香草の匂いが強いが、嫌な感じはしない。
パンを浸して食べると、魚介の旨味が染み込んだ汁をたっぷり吸った。
「うまい」
グレイが呟く。
「姫さんがそう言うなら当たりっスね。どれどれ……」
ライアンも口へ運ぶ。
「お、ほんとだ。これうま――熱っ」
「にーちゃん。熱いものを一気に口へ入れないでください」
「大丈夫っスよ。このくらい――」
「前も同じことを言って火傷しやがりましたよね」
「いつの話っスか、それ」
「三十二年前です」
「覚えてるんスか!?」
「当然です。あのあと一晩中『舌が痛いっス』とうるさかったので」
「ねーちゃん、そういうどうでもいいことだけ記憶力良すぎないっスか?」
「どうでもよくありません。うるさかったです」
グレイは二人の会話を聞きながらパンをちぎった。
三十二年前。
言われてみれば覚えている。
雪の多い北の町だった。
熱いスープを急いで飲んだライアンが、その日の夜まで舌が痛いと騒いでいた。
そんなことまで覚えているライカもライカだが、言われて思い出せる自分も大概だ。
「グレイ様」
「ん?」
「こちらもお召し上がりください」
セバスが皿を寄せてくる。
焼いた魚だった。
「頼んでたか?」
「私が追加しました」
「多くない?」
「昼食が少なかったので」
「……見てたのか」
「当然です。グレイ様が何を召し上がったか把握するのも、私の役目ですので」
「そこまでしなくてもいいんだけどな」
「ご自身で管理していただけるのであれば、私も必要以上に申し上げるつもりはございません」
「……食べる」
「ありがとうございます」
グレイは諦めて魚へフォークを入れた。
以前より厳しくなっている気がする。
いや。
正確には、気付くようになったのだろう。
セバスが。
何を食べたか。
いつ休んだか。
どの程度魔力を使ったか。
疲れているか。
昔なら気にもしなかったことを、今では自然に見ている。
「セバス」
「はい」
「執事、上手くなったな」
セバスの手が止まった。
ほんの一瞬だけ。
それから、いつもの落ち着いた表情へ戻る。
「ありがとうございます。しかし、まだ未熟です」
「まだ?」
「はい」
「それだけできて?」
「学ぶべきことが残っておりますので」
「セバス、それ何年やったら一人前になるんスか?」
ライアンが口を挟む。
セバスは少しも迷わなかった。
「終わりはない」
「出たっス」
ライアンが額を押さえる。
「武術と同じこと言ってるっスよ、この人。何やらせても修行にするんスから」
「当然だ。学ぶべきものが残っている以上、自ら完成したと決めつける理由がない」
「お姫ちゃん」
「ん?」
「セバスに執事を選ばせたの、間違いだったんじゃないです?」
「本人が選んだんだぞ」
「そうでした」
「どういう意味だ、ライカ」
「褒めています」
「さっきからそれで全部通そうとしてない?」
ライカは澄ました顔で料理を口へ運ぶ。
セバスが僅かに眉を寄せる。
グレイは二人を見て笑った。
今度は、ライアンに指摘される前に。
◇
翌朝。
四人は首都セレスティアへ向けて港町を出た。
街道は驚くほど整備されていた。
石畳ではないものの道幅は広く、馬車がすれ違っても十分な余裕がある。
そして何より、人が多い。
「昨日の港だけじゃなかったんスね。前も後ろも、みんな同じ方向に行ってるっス」
ライアンが言う。
馬車。
商隊。
冒険者。
家族連れ。
皆が同じ方向へ進んでいた。
遠くには霊峰ヴァルグラン。
昨日よりも大きく見える。
あれを目指せばいいという旅商人の言葉は、確かにその通りだった。
「これ、道に迷いようがないな」
「お姫ちゃんにはありがたいですね」
「俺、そんなに道に迷うか?」
三人が黙った。
グレイが足を止めかける。
「……何だよ、その沈黙」
「何でもないっスよ」
「言いたいことがあるなら言え」
「じゃあ言うっスけど、姫さん、六年前に森で――」
「ライアン」
「はいっス」
「忘れろ」
「無理っス」
「にーちゃん。その前にもありましたよ。湖を目指しているはずなのに、何故か反対方向へ――」
「ライカ」
「何です?」
「それも忘れろ」
「嫌です」
グレイは二人から顔を逸らした。
「セバス」
「はい」
「お前は何も言わないよな?」
「申し上げる必要はございません」
「そうだよな」
「今後も私が地図を管理いたしますので、ご安心ください」
「……そういう意味じゃない」
後ろでライアンが吹き出した。
グレイが振り返る。
「ライアン。朝の鍛錬、足りなかったんじゃないか?」
「なんで姫さんまでセバスみたいなこと言い始めてるんスか!?」
街道を行く旅人が何事かと振り返る。
ライカが額を押さした。
「三人とも静かにしやがってください。朝から恥ずかしいです」
そう言いながらも。
ライカの口元も、少しだけ緩んでいた。
旅は続く。
昨日まで海だった景色は、緑の平原へ変わっている。
遠くには畑が広がり、風が穂を揺らしていた。
道沿いには龍を模した小さな石碑が点々と置かれている。
旅人の中には、その前で立ち止まって祈る者もいた。
子供が木彫りの龍を抱えて走っている。
馬車の旗にも龍。
商人の荷物にも龍の意匠。
この国へ入ってから、何度も目にする。
「本当に龍が好きなんだな」
グレイが呟いた。
「好き、というより信仰でしょう」
セバスが答える。
「この国において龍は、単に強大な種族というだけではないようです」
「神様が実際に山に住んでるって、どんな感じなんスかね」
「さあ」
グレイは遠くの霊峰を見る。
「会えば分かるんじゃないか?」
「姫さん、もう会う気満々じゃないっスか」
「せっかく来たんだから、一度くらい見てみたいだろ」
「普通は会えないらしいですよ、お姫ちゃん」
「普通は、だろ?」
ライカが横目でグレイを見る。
「……何かしでかしそうな言い方をしやがりますね」
「何もしないよ」
「信用できないっス」
「にーちゃんに同意です」
「お前ら、俺を何だと思ってるんだ」
ライアンとライカが顔を見合わせた。
「姫さんっスね」
「お姫ちゃんです」
「答えになってない」
セバスが僅かに口元を緩めた。
グレイは気付いたが、何も言わなかった。
◇
昼を過ぎた頃。
街道脇の休憩所で足を止めた。
大きな木の下に長椅子と簡単な屋根が設けられ、近くには井戸もある。
龍神祭へ向かう旅人のためなのか、かなり整備されていた。
グレイたちは木陰へ入る。
セバスが荷物から水筒を取り出した。
「どうぞ」
「ありがとう」
受け取って一口飲む。
冷たい水が喉を通った。
「馬車でもよかったんじゃないっスか?」
長椅子へ座ったライアンが言う。
「歩いた方が色々見えるだろ。途中で気になるものがあったら止まれるし」
「姫さん、昔からそれっスよね。移動そのものが観光みたいになってるっス」
「嫌か?」
「まさか。俺も歩く方が好きっスよ」
ライアンが背もたれへ身体を預ける。
「にーちゃんは馬車に乗ると寝るだけでしょう」
「それも好きっス」
「知っています」
ライカも座った。
セバスだけは立ったままだ。
「セバス」
「はい」
「座れば?」
「私はこのままで――」
「休憩中だぞ」
「問題ございません」
グレイは隣の空いた場所を軽く叩いた。
「座れ。俺が休んでるのに、お前だけ立ってたら落ち着かない」
セバスが少し黙る。
「……承知しました」
素直に座った。
以前なら、「従者が主と同じ場所へ座るものではない」と妙なところで頑固になっていただろう。
母や侍女たちから何度も注意され、ライアンとライカにも散々からかわれ、今では必要以上に形式へ拘らなくなった。
もちろん、公の場では別だ。
けれど、四人だけなら。
これくらいでいい。
「お兄ちゃん!」
突然、子供の声がした。
少し離れた場所。
五、六歳ほどの少年が街道へ飛び出しかけている。
その先を、小さな木彫りの龍が転がっていた。
風に飛ばされたらしい。
同時に馬車が近付いてくる。
御者が声を上げた。
グレイが立つより先に、セバスが踏み込んだ。
魔法ではない。
一瞬で少年の前へ入り、片腕で抱き上げる。
そのまま街道の外へ。
直後、馬車が通り過ぎた。
砂埃が舞う。
少年は何が起きたのか分からない顔で、セバスの腕の中にいた。
「怪我は?」
「……ない」
「そうか。ならよかった」
セバスが少年を下ろす。
そして街道へ落ちていた木彫りの龍を拾った。
「これを追いかけたのか?」
「うん……」
「大切な物でも、馬車の前へ飛び出してはいけない。次からは近くの大人を呼びなさい」
「うん!」
「では、返そう」
少年が両手で木彫りを受け取る。
「ありがとう、おじちゃん!」
セバスの眉が僅かに動いた。
グレイは見逃さなかった。
ライアンも見逃さなかった。
「……おじちゃん」
「ライアン」
「いや、まだ何も言ってないっスよ」
「顔が言っている」
「でもまあ、セバスって見た目だけなら、おじちゃんって歳でもないっスよね」
「お前よりは上だ」
「そういう問題じゃ――」
「ライアン」
「はいっス。黙るっス」
少年の家族らしい女性が走ってきた。
何度も頭を下げる。
セバスは「お気になさらず」とだけ答えた。
少年は木彫りの龍を大事そうに抱きしめている。
グレイがそれを見る。
「それ、大事なのか?」
「うん!」
「龍が好き?」
「アルディエル様!」
即答だった。
「龍神?」
「うん! すっごく強いんだよ!」
少年が両手を大きく広げる。
「お父さんが言ってた! 山よりおっきくて、火を吐いたら雲が全部なくなっちゃうくらい強いんだって!」
「へぇ」
グレイの目が少しだけ輝いた。
ライアンがそれを見る。
ライカも見る。
セバスも見る。
三人とも、何も言わなかった。
「それでね! 龍神祭の大会で勝った人は、アルディエル様に会えるんだよ!」
「……会える?」
「うん!」
グレイの動きが止まる。
「大会で勝ったら?」
「願いを一個、叶えてくれるの! だから、すっごく強い人がいっぱい来るんだよ!」
「願い……」
グレイが小さく呟いた。
その横で。
「姫さん」
「何だ?」
「参加するっスね?」
「まだ何も言ってない」
「でも今、完全に『どうやって参加するんだろう』って顔してたっス」
「してない」
「お姫ちゃん」
「何だよ」
「顔に書いてあります」
「書いてないって」
「グレイ様」
「セバスまで何だ」
セバスはいつもの落ち着いた表情のまま答えた。
「首都へ到着してから、大会の詳細を確認しましょう。参加条件や受付期間が分からないままでは、判断のしようがございません」
グレイが黙った。
数秒。
「……セバス」
「はい」
「お前、俺の扱い上手くなったな」
「長くお仕えしておりますので」
静かな返事だった。
グレイは少年へ視線を戻す。
「教えてくれてありがとう」
「うん!」
少年は木彫りの龍を抱え、家族と一緒に歩いていった。
その背中が人混みへ消える。
しばらくして、ライアンが口を開いた。
「で?」
「何が?」
「大会っスよ」
「首都で聞く」
「ほら、参加する気じゃないっスか」
「詳細を確認するだけだ」
「その言葉、覚えておくっスよ」
「勝手にしろ」
グレイは水筒をセバスへ返した。
そして立ち上がる。
「行こう」
「休憩、もう終わりっスか?」
「早く首都に着きたい」
「ほら! やっぱり大会気になってるじゃないっスか!」
「うるさい。置いてくぞ」
「認めればいいのに!」
ライアンの笑い声が街道へ響いた。
◇
夕方。
空が茜色へ染まり始めた頃。
街道の先に、巨大な城壁が見えた。
「……あれか」
グレイが足を止める。
首都セレスティア。
霊峰ヴァルグランの麓。
白い石で築かれた巨大な都市が、夕暮れの光を受けて輝いている。
そして、その背後には霊峰。
港から見た時とは比べものにならない。
近付いたことで、その巨大さがようやく分かる。
山というより。
巨大な壁だった。
大地そのものが空へ立ち上がったように見える。
山頂は雲の向こう。
グレイはしばらくそれを見上げ――ふいに目を細めた。
「……いる」
「姫さん?」
「何かいる」
三人も霊峰を見る。
だが、何も見えない。
グレイにも姿が見えているわけではなかった。
ただ。
何か。
山の奥から、微かな気配を感じる。
魔力とは少し違う。
これまで出会ったどの魔物とも違う。
あまりにも遠い。
それなのに、確かに何かがいる。
「アルディエル、でしょうか」
セバスが静かに言う。
「分からない」
グレイはそう答えた。
「でも……いる。何なのかまでは分からないけど、あの山には何かいるよ」
目を逸らせなかった。
風が吹く。
白銀の髪が夕陽を弾いた。
その時だった。
どこか遠くから、鐘の音が響いた。
――ゴォン。
低く。
重い音。
セレスティアの街からだ。
一つ。
二つ。
三つ。
鐘の音が重なる。
すると、街道を歩いていた人々から歓声が上がった。
「始まるぞ!」
「龍神祭だ!」
「今年も間に合った!」
旅人たちが足を速める。
子供たちが走り出す。
馬車の御者が笑い、連れ立って歩いていた冒険者たちも顔を見合わせた。
夕暮れの街道が、一気に祭りの熱を帯びていく。
グレイたちも歩き出した。
「賑やかになりそうっスね」
ライアンが言った。
「十年に一度のお祭りですからね。これだけ人が集まるのも納得です」
ライカが答える。
「まずは宿を確保いたしましょう。祭りを見て回るのも、大会について確認するのも、その後でございます」
セバスはどこまでも現実的だった。
「分かってるよ」
「本当っスかねぇ」
「何だよ」
「姫さん、もう街より山見てるじゃないっスか」
言われて、グレイはヴァルグランから視線を戻した。
「……ちょっと見てただけだ」
「そういうことにしとくっス」
グレイは三人の声を聞きながら、正面を見た。
城門。
その向こうに、見知らぬ街がある。
龍を神として崇める国。
十年に一度の祭り。
各地から集まる強者。
そして、霊峰のどこかにいるという数千年を生きる龍。
「面白そうだな」
ぽつりと呟く。
「何がっスか?」
「この国」
ライアンが笑った。
「まだ首都にも入ってないっスよ?」
「だからだろ」
「どういうことっスか?」
「まだ何も知らないから、面白そうなんだよ」
知らない。
まだ何も知らない。
どんな街なのか。
どんな者が暮らしているのか。
どれほどの強者が集まっているのか。
そして、あの山にいるものが何なのか。
分からない。
それがいい。
グレイは少しだけ歩調を速めた。
「姫さん、待ってくださいっス」
「お姫ちゃん。少し早く歩いたところで、街は逃げやがりませんよ」
「グレイ様。まず宿でございます」
「分かってるって」
「本当っスかねぇ」
「うるさい」
鐘が鳴っている。
夕焼けの下。
霊峰ヴァルグランを背負う白い街へ、四人は歩いていく。
その頭上を、一羽の大きな鳥が横切った。
グレイは一度だけ空を見上げる。
その向こう。
雲に隠れた霊峰の頂は、まだ見えない。
けれど。
あの山には何かがいる。
それだけは、妙に確信できた。
グレイは前へ向き直る。
長い旅の果てに辿り着いた、新しい大陸。
その最初の夜を迎える街から、龍神祭の鐘がいつまでも鳴り響いていた。




