第9話 はじめまして、グレイさん
グレイの手の中で、リインの指先がかすかに動いた。
魔導白磁の身体へ定着した魂が、慣れない手足を確かめるように指を曲げる。グレイがそっと手を緩めると、少女の瞼が震え、ゆっくりと開いていった。
「……リイン。俺の声が聞こえるか? 慌てて起きなくていいから、まずは目を開けてみてくれ」
リインはぼんやりと空を見上げ、それからグレイへ視線を向けた。
「……ここ……」
「さっきまでいた路地だ。今は安全だから、無理に動かなくていい。身体の具合を確かめたいんだが、どこか痛むところはあるか?」
リインは自分の手を見つめ、指を開いたり閉じたりした。胸元を覆う外套に触れても痛みはなく、困惑したように眉を寄せる。
「……痛く、ない……?」
「そうか。それならよかった。身体のことは後で説明するから、今は落ち着いてくれ」
その言葉を聞いた直後、リインが何かを思い出したように目を見開いた。
「ミリア……! ミリアは、どこですか!?」
勢いよく起き上がろうとする肩を、グレイが支える。
「隣にいる。まだ眠っているが、ちゃんと戻ってきているよ。だから、まずはそっちを見てくれ」
リインはすぐ隣に横たわる妹へ這うように近づき、震える手で傷の消えた頬に触れた。
「……ミリア?」
グレイもミリアの魂の状態を確かめた。定着は安定しており、目覚めるまでに多少の差があるだけのようだった。
「リイン、少し待ってやってくれ。ミリアももうすぐ目を覚ますはずだ」
リインは頷いたものの、妹の頬から手を離さなかった。
やがてミリアの指先が動き、閉じていた瞼がゆっくりと開く。
「……お姉、ちゃん……?」
「そうよ。私よ、リインよ。ちゃんとここにいるから、もう大丈夫だからね」
ミリアは何度か瞬きをしたあと、姉の服を掴んだ。
「……お姉ちゃん……!」
リインが妹を抱きしめると、ミリアも両腕を回し、その胸元へ顔を埋めた。
互いの身体を確かめるように抱き合っていた二人の頬を、やがて堪えきれなくなった涙が伝う。
「……怖かった……お姉ちゃん、もう起きないと思った……」
「ごめんね、ミリア。怖い思いをさせてごめんね。もう一度会えて、本当によかった……」
ミリアは首を振りながら、さらに強く抱きついた。
グレイは二人のそばに膝をついたまま、その姿を見守っていた。
魔導白磁の身体には、以前のような血の巡りも呼吸もない。それでも、互いを求めて伸ばした手は確かに動き、涙も流れている。
隣にいたライカが、そっと顔を背けた。
やがてミリアが顔を上げ、リインの腕へ触れる。
「……お姉ちゃん、痛くない?」
「うん。今はどこも痛くないわ。ミリアこそ、腕は大丈夫? さっき、動かせなくなっていたでしょう?」
ミリアは腕を持ち上げ、ゆっくり曲げ伸ばししてみせた。
「……動く。全然痛くないよ」
二人は不思議そうに顔を見合わせたあと、グレイへ視線を向けた。
「……あの、グレイさん……ですよね?」
「ああ。改めてグレイだ。お前たちの身体について、話しておかなきゃならないことがある」
リインは何かを確かめるようにグレイの顔を見つめた。
「……おばあちゃんが話してくれた、グレイさんですか? 昔、おばあちゃんを海へ連れていってくれた……」
「ああ、そうだよ。ミナとは長い付き合いだった。お前たちが小さい頃の話も聞いていたんだが、こうして会うのは初めてだな」
ミリアが姉の服を掴んだまま、グレイを見上げる。
「……おばあちゃん、いつも楽しそうに話してた。海がすごく綺麗だったことも、グレイさんが一緒にいてくれたことも……」
「そうか。あいつ、そんなに話してたんだな」
グレイの口元がわずかに緩む。
リインはゆっくりと頭を下げた。
「……私たちを助けてくださって、ありがとうございます。何が起きたのか、まだ全部は分からないんですけど……グレイさんが来てくれたことは、覚えています」
礼を受け取るには、あまりにも遅かった。
グレイが返事をためらうと、リインは不安そうに目を上げた。
「……礼は後でいい。それより、まずは二人とも落ち着いてくれ。今の身体について知らないまま動くのは、少し危ないからな」
姉妹は並んで座り直したが、ミリアはまだリインの手を握っていた。
◇
グレイは二人の前に腰を下ろし、魔導白磁について必要なことを説明した。
あの路地で一度命が尽きたこと。残っていた魂へ意思を問いかけ、二人が再び生きたいと望んだこと。そして、その魂を新しい身体へ定着させたこと。
「今のお前たちの身体は、人間のものとは違う。魔導白磁という素材で作った器に、二人の魂を定着させてある。見た目は以前とほとんど変わらないが、身体の仕組みは別物だと思ってくれ」
リインは自分の手を見つめ、ゆっくりと指を曲げた。
「……これが、人形の身体……」
「そうだ。今までと同じように動けるよう調整してあるが、慣れるまでは無理をしない方がいい。分からないことがあれば、その都度聞いてくれ」
ミリアが姉の手を握り直す。
「……じゃあ、私たち……もう死なないの?」
「いや、そういうわけじゃない。人間より頑丈にはできるが、壊れないわけじゃないし、どんな傷でも平気ということでもない。だから、危ないことはちゃんと避けてくれよ」
ミリアは少し考えてから頷いた。
リインは胸元へ手を当て、そこに下がる砕けた青白い石を見つめた。
「……この石も、グレイさんが……?」
「ああ。昔、ミナへ贈ったものだ。お前たちが持っていたのを見つけて、驚いたよ」
「おばあちゃんが、私たちにくれたんです。大切なお守りだから、ずっと持っていなさいって……」
ミリアも自分の石を両手で包んだ。大きな亀裂が入り、以前のような光は失われている。
「……壊れちゃった……」
「役目を果たしたんだと思う。二人を一度は守ってくれたからな。直せるかどうかは分からないが、持っていたいなら、そのまま大切にしてやってくれ」
ミリアは石を胸元へ戻した。
しばらくして、リインが顔を上げる。
「……グレイさん。お父さんは……どうなりましたか? 西門が危ないと聞いて、私はミリアを迎えに家へ戻ったんです。お父さんは兵士だから、きっとあそこにいると思って……」
いつかは伝えなければならないことだった。
グレイは膝の上で手を組み、静かに口を開いた。
「……お前たちのお父さんは、西門で戦っていた。最後まで仲間を逃がそうとして、敵の指揮官と戦い、そこで亡くなったんだ」
リインの手が止まった。
ミリアは姉の顔を見上げ、それからグレイへ視線を戻す。
「……お父さん、帰ってこないの……?」
「ああ。すまない。俺が知らせを聞いたときには、もう亡くなっていた」
ミリアが俯くと、リインは震える手で妹の肩を抱いた。
戦争が始まってから、父親が帰ってこない可能性を考えたことはあったのだろう。それでも、実際に死を告げられた二人は、しばらく言葉を失っていた。
やがてミリアが姉の胸元へ顔を埋める。
「……お父さん……」
リインは妹の背中を撫でながら、静かに涙を流した。
グレイの脳裏に、酒場で娘たちの話をしていた男の姿が浮かぶ。
「……お前たちのお父さんには、俺も世話になった。少し前に会って、一緒に酒を飲んだんだ。そのとき、二人のことを嬉しそうに話していたよ」
「……お父さんと、会ったんですか?」
「ああ。リインが冒険者ギルドで働いていることも、ミリアが剣の稽古をしていることも聞いた。話し始めると止まらなかったぞ」
ミリアは涙を拭い、俯いたまま小さく頷いた。
しばらくして、リインがぽつりと呟く。
「……お母さんにも、会ってほしかったです」
「リンに?」
「……はい。お母さんも、おばあちゃんからグレイさんの話を聞いていたんです。きっと、会えたら喜んだと思います」
グレイは避難所でリンの名を探したことを思い出した。
「そういえば、リンはどこにいるんだ? ミリアからは、先に避難したと聞いていたんだが」
リインの表情が曇り、ミリアも姉の服を握りしめる。
「……お母さんは、もう亡くなっています。戦争が始まった頃から病気になって……一年くらいの間に、どんどん悪くなってしまって……」
「……そうだったのか」
「お父さんも、できる限りのことをしてくれたんです。私もギルドで働きながら、治せる方法がないか探していたんですけど……間に合いませんでした」
ミリアが俯いたまま呟いた。
「……お母さん、最後まで私たちのこと心配してた……」
街道で出会った父親が、妻の話題になったときに見せた表情が浮かんだ。
あの男は、すでに妻を失っていたのだ。
「……知らなかった。お前たちのお母さんにも、会ってみたかったんだが……そうか」
リインは申し訳なさそうに頭を下げた。
「……すみません。こんな話ばかりしてしまって……」
「謝ることじゃないだろ。家族の話をしてくれたんだから、俺は聞けてよかったと思ってるよ。今は無理に話さなくていいし、落ち着ける場所へ移ってからゆっくり考えよう」
リインは頷き、ミリアを抱き寄せた。
グレイは二人の様子を見ながら、これから先のことだけは本人たちに選んでほしいと思った。
◇
しばらくして、リインが顔を上げた。
「……グレイさん。お願いがあるんです」
「何だ? 俺にできることなら聞くぞ」
リインは妹へ目を向けてから、膝の上で手を握りしめた。
「……私、もっと強くなりたいです。今度こそ、大切なものを守れるようになりたいんです。ギルドで働いて、少しは剣も習っていたのに、本当に危ないときには何もできませんでした」
グレイは、傷つきながらも最後まで妹を守ろうとしていたリインの姿を思い出した。
「……お前は、何もしていなかったわけじゃないだろ。俺が見つけたときも、ミリアを守ろうとしていた。力が足りなかったことと、何もしなかったことは違うぞ」
リインは目を伏せ、やがて小さく頷いた。
「……ありがとうございます。でも、だからこそ強くなりたいんです。あの子が怖い思いをしているのに、何も変えられないのは……もう嫌なんです」
その手を、ミリアが握った。
「……お姉ちゃん。私も強くなりたい。いつも守ってもらってたけど、今度は私も誰かを守れるようになりたいの。だから、一緒に強くなろう? お姉ちゃんだけが全部背負わなくていいようにしたい」
リインは妹を見つめ、目元を拭った。
「……そうね。今度は、一緒に頑張ろうか」
やがてリインがグレイへ向き直る。
「……グレイさん。私たちを、あなたのそばに置いていただけませんか?」
「そばに? 一緒に旅をしたいってことか?」
「……はい。それもあります。でも、できるなら……グレイさんに仕えたいんです」
グレイは思わず言葉を止めた。
隣で聞いていたライカも、わずかに目を見開く。
「私もです。グレイさんがいなかったら、もうお姉ちゃんに会えなかったから……何か、お返しがしたいんです」
ミリアに続き、リインも深く頭を下げた。
「命を救っていただいた恩を、少しでも返したいんです。今は何もできないかもしれませんけど、必ず役に立てるようになりますから……」
グレイは二人の顔を見比べた。
そこには強い決意がある。ただ、救われたことへの負い目まで抱えているように見えた。
「……一つ聞いていいか。お前たちは、俺に恩を返さなきゃならないと思っているのか?」
「……はい。もちろんです」
「だったら、まずそこは違うぞ。俺は恩を返してもらうために助けたわけじゃないし、二人が生きたいと言ったから、その願いに応えただけだ」
ミリアが不安そうに姉を見た。
グレイは二人と目線を合わせる。
「俺のそばにいたいなら、それは構わない。ただ、助けてもらったから仕えなきゃいけない、なんて考える必要はないんだ。別の場所で暮らしたいなら、俺はそっちも手伝うぞ」
リインはしばらく考え、顔を上げた。
「……それでも、私はグレイさんのそばにいたいです。恩返しだけじゃありません。あなたのように、大切なものを守れる人になりたいんです。もう一度生きられるなら、今度は自分にできることを増やしたい。そのために、そばで学ばせてください」
ミリアも頷く。
「私も、お姉ちゃんと一緒にいたい。それに、グレイさんのことももっと知りたいです。おばあちゃんが大好きだった人だから……」
ミナの名前に、グレイはわずかに目を伏せた。
「あの子の孫が、二人揃って俺のところへ来たいと言うとはな……。分かった。ただ、俺の従者になるなら、これから先も旅を続けることになる。危ない場所へ行くこともあるし、簡単な暮らしばかりじゃないぞ」
「覚悟しています。もちろん、今すぐ何でもできるとは思っていません。だからこそ、少しずつ学ばせてください」
「私も頑張ります。まだ分からないことばかりだけど、お姉ちゃんと一緒なら、ちゃんと覚えられると思います」
グレイは二人を見比べ、静かに頷いた。
「……そうか。だったら、一緒に来るといい。俺のところには、少し変わった連中もいるが、悪い奴はいないからな」
「……いいんですか?」
「ああ。ただし、従者になったからって、何でも俺の言うとおりにする必要はない。嫌なことは嫌だと言ってくれ。その方が俺も助かる」
ミリアが小さく笑い、リインも目元を拭って頭を下げた。
「……ありがとうございます、グレイさん。これから、よろしくお願いします」
「そんなに畏まらなくていいぞ。俺は別に、偉そうにされたいわけじゃないからな」
グレイは少し困ったように笑い、後ろにいる四人へ目を向けた。
「じゃあ、せっかくだし紹介しておくか。こいつらも、俺と一緒に旅をしている家族だ」
ライアンが軽く手を上げる。
「俺はライアンっス。姫さんとは長い付き合いなんで、困ったことがあれば何でも聞いてほしいっス。まあ、ねーちゃんに聞いた方が早いことも多いんスけどね」
続いてライカが一歩前へ出た。
「私はライカです。こちらのにーちゃんとは双子で、普段はお姫ちゃんのお世話をしています。生活のことなら私が教えますので、遠慮なく頼ってください」
「リインです。妹のミリアともども、よろしくお願いします」
「……ミリアです。よろしくお願いします!」
ライアンは二人の様子を見て笑った。
「そんなに緊張しなくていいっスよ。姫さんのところは、思ってるよりずっと気楽っスから。俺なんか、毎日ねーちゃんに小言を言われてるくらいっス」
「にーちゃんの場合は、言われるようなことばかりしているからでしょう。お二人は真似しなくていいですからね」
「いやいや、俺だってちゃんと仕事してるっスよ? そこは新入りの二人にも誤解されたくないっスね」
「でしたら、普段からもう少し行動で示してください」
ライアンは肩をすくめ、リインとミリアへ笑いかけた。
二人もつられて小さく笑う。
セバスが一歩前へ出た。
「セバスと申します。姫様にお仕えしておりますが、武術の指導も担当しております。お二人が力を身につけたいとお考えなら、私もできる限りお手伝いいたしましょう」
「……ありがとうございます。ぜひ、教えていただきたいです」
「焦る必要はありません。まずは新しい身体に慣れることから始めましょう。基礎を疎かにしなければ、できることは少しずつ増えていきます」
最後にロイが肩をすくめた。
「俺はロイ。主のところに来てからは、まだそれほど長くないんだが……まあ、困ったことがあれば手を貸すさ」
ミリアが不思議そうに首を傾げる。
「……主?」
「ああ、グレイのことだ。俺はそう呼んでる」
グレイはロイを見上げた。
「別に名前で呼んでもいいんだぞ。今さらだけど」
「俺がそう呼びたいんだから、いいだろ」
「……まあ、好きにすればいいけどな」
そのやり取りにミリアが小さく笑い、リインもようやく肩の力を抜いた。
「これで六人だな。これからは一緒に過ごすことも増えるだろうし、少しずつ慣れていけばいい。急に全部覚える必要はないぞ」
リインは頷き、ミリアの手を握り直した。
◇
姉妹が落ち着いた頃、グレイは路地の外へ目を向けた。
遠くではまだ戦闘が続き、西門の方角から時折大きな衝撃音が響いている。
「……ライアン、ライカ。二人のそばにいてくれ。俺は少し、西門の様子を見てくる」
ライカが顔を上げた。
「お姫ちゃん、何をするつもりですか? まだ戦闘が続いていますし、ここを離れるなら目的をはっきりさせてください」
「分かってる。だから、これ以上街へ入ってこられないようにする。今のままじゃ、避難できていない人たちまで危ないからな」
セバスがグレイへ向き直る。
「姫様、軍同士の争いへ直接介入なさるおつもりですか?」
「どちらかの軍を勝たせたいわけじゃない。街へ入ってくる兵を止めるだけだ。これ以上、あの門を越えさせるつもりはない」
セバスはしばらくグレイを見つめていた。
以前、助けた軍が別の場所で民間人を襲ったことを、グレイも忘れてはいない。
「……軍を追いかけたり、敵国へ攻め込んだりはしない。ただ、この街で人が殺されるのを、これ以上見ているつもりもないんだ」
ライカはしばらく考えてから頷いた。
「……分かりました。それなら、こちらは私たちに任せてください。ただし、お姫ちゃんも一人で全部背負おうとしないでくださいね。何かあれば、すぐに呼んでください」
ライアンも短剣の柄へ手を添えた。
「姫さん、こっちは任せてほしいっス。ねーちゃんもいるし、セバスとロイもいるんスから、二人のことは心配いらないっスよ」
「承知いたしました。私どもはお二人をお守りします。姫様も、どうかお気をつけて」
「ああ。すぐ戻るよ」
グレイはリインとミリアへ向き直った。
「少しだけ待っていてくれ。もう街の中で怖い思いをする人が増えないように、門のところを何とかしてくる」
リインが立ち上がろうとする。
「……私も、何か……」
「今は休んでいてくれ。お前たちには、これから覚えてもらいたいことが山ほどあるんだ。最初の仕事は、ちゃんと身体を休めることだな」
リインは迷った末に頷いた。
「……分かりました。お気をつけて」
「……グレイさん、待ってます」
ミリアの声に頷き、グレイは空間を開いた。
◇
西門では、まだ激しい戦闘が続いていた。
城門は破られ、石壁の一部も崩れている。防衛側の兵士たちは街へ続く道を塞いでいたが、敵軍との数の差は大きく、少しずつ後退を余儀なくされていた。
グレイは崩れた城門の上に姿を現し、眼下を見渡した。
守備兵の位置を確かめてから、門を越えようとしていた敵兵たちへ片手を向ける。
空間が大きく歪んだ。
「うわっ!?」
先頭の兵士たちは突然現れた力に押し返され、剣も盾も役に立たないまま門の外へ弾き飛ばされた。ただし地面へ叩きつけるような力ではなく、十分に距離を取った場所へ転がされただけだった。
「な、何だ……!?」
「魔法だ! 誰かが門の上にいるぞ!」
両軍の視線が城門へ集まる。
グレイは敵兵が退いたことを確かめると、城門の外へ両手を広げた。
地面が揺れ、街道に細い亀裂が走る。
次の瞬間、亀裂は左右へ広がり、轟音とともに大地が沈み込んだ。
土砂と石が崩れ落ち、城門の前に深い溝が生まれる。歩兵はもちろん、騎兵も荷車も通れない幅があり、城門へ続いていた道は完全に断ち切られていた。
「おい、下がれ! 地面が崩れるぞ!」
敵兵たちは慌てて後退した。
グレイは溝の向こうを見渡し、一歩前へ出る。
「これ以上踏み込んだやつは、俺が相手する」
怒鳴ったわけではないが、その声は静まり返った戦場へはっきりと届いた。
敵軍の後方では、将軍が城門を見上げていた。
あれほどの魔法を一人で使い、しかも兵士を殺すことなく進軍だけを止めている。もしあの力を軍そのものへ向けられれば、どれほどの被害が出るか分からない。
将軍は隣の副官へ命じた。
「……撤退する。これ以上兵を失う必要はない。負傷者を回収し、全軍を下がらせろ」
「し、しかし将軍! あと少しで街を制圧できるところまで来ております!」
「だからこそだ。あの魔法を見て、まだ進めると思うのか? ここで無理に攻めれば、街を得る前に軍が壊滅する」
将軍の命令が伝わり、やがて敵軍の陣から撤退の合図が響いた。
兵士たちは負傷者を運びながら隊列を整え、門から離れていく。
守備兵たちは信じられない様子でそれを見つめていた。誰かが勝鬨を上げようとしたが、隣の兵士に肩を掴まれ、口を閉じる。
まだ戦争そのものが終わったわけではない。
グレイは最後の部隊が十分に距離を取るまで見届けた。
「……これで、少しは落ち着くかな」
城門の内側では、傷ついた兵士たちが互いに肩を貸して歩いていた。
あの父親と一緒に戦っていた者もいるのだろう。
グレイはしばらくその姿を見つめ、それから空間を開いた。
◇
グレイが路地へ戻ると、リインとミリアはライカのそばで座っていた。
ライアンは入口を警戒し、セバスとロイも周囲を見張っている。
「……グレイさん!」
「ただいま。門のところは何とかしたぞ。敵軍も引き始めたから、もう少しすれば街の中も落ち着くと思う」
リインが立ち上がり、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。お父さんが守ろうとした街を、守ってくださって……」
「俺が全部守ったわけじゃないぞ。あそこにいた兵士たちが、最後まで踏ん張っていたからな。俺は、これ以上入ってこられないようにしただけだ」
グレイは二人の足元へ目を向けた。まだ新しい身体に慣れていないらしく、立ち上がる際に少しふらついている。
「……そろそろ、安全な場所へ移ろうか。お前たちの家は、ここから遠いのか?」
「歩いて行ける距離です。西門に近いので、無事かどうか分からないんですけど……」
「だったら、一度見に行こう。住める状態なら、そこで落ち着いて話もできるだろ」
ミリアが姉を見上げる。
「……おうち、残ってるかな……」
「分からないけど、行ってみよう。お父さんとお母さんのものも、まだ残っているかもしれないから」
グレイたちは二人の歩幅に合わせ、瓦礫の残る街を進んだ。
ライアンが少し先で道を確かめ、ライカはミリアの隣につく。セバスとロイも周囲への警戒を続けていた。
崩れた壁や焼けた家屋の間では、避難していた人々が少しずつ姿を見せ始めている。互いの無事を確かめる声を聞きながら、リインは何度か足を止めかけ、そのたびに妹の手を握り直した。
やがて、見覚えのある通りへ出たらしい。
「……この先です。あの角を曲がったところに、私たちの家があります」
先行したライアンが角の向こうを確かめ、振り返る。
「姫さん、道は通れるっスよ。家も何軒か残ってるみたいっス。とりあえず、ここから先は問題なさそうっスね」
二人は顔を見合わせ、足を速めた。
角を曲がった先には、屋根や壁を失った建物が並んでいた。その中に、窓が割れ、玄関の扉が傾きながらも、形を保っている小さな家があった。
「……あった……」
ミリアが呟く。
リインは立ち止まり、かつて家族と暮らした家を見つめていた。
◇
玄関を開けると、埃っぽい空気が流れ出した。
床には木片や割れた器が散らばっていたが、棚には食器が残り、壁にも家族の飾りが掛かっている。
リインはゆっくりと部屋へ入り、棚の上に置かれた写真立てを手に取った。
そこには父親と母親、その前に並ぶ幼い姉妹の姿があった。
「……お父さんと、お母さん……」
「……うん。ちゃんと残ってたね」
リインが指で埃を払うと、ミリアはその隣に寄り添った。
グレイは少し離れた場所で二人を見守っていたが、奥の部屋を確認してきたライカが近づいてきた。
「お姫ちゃん、奥の部屋も確認してきました。多少の被害はありますが、今夜休むくらいなら問題なさそうです。寝具も残っていますし、片づければ使えると思います」
「そうか。助かる。二人も疲れているだろうし、今日はここで休ませてやりたいな」
ライカは頷き、台所へ向かった。
「……今日はここで休もうか。片づけは明日から少しずつやればいいし、今は無理をしない方がいいぞ」
リインは写真立てを棚へ戻し、頭を下げた。
「……ありがとうございます。皆さんも、よかったらここで休んでいってください。何もおもてなしできませんけど……」
「そんなこと気にしなくていい。俺たちも一緒にいる方が安心だし、今日はお邪魔させてもらおうかな」
ミリアも小さく頷いた。
「……みんなで、ここにいてほしいです」
「ああ。今日は一緒にいよう」
グレイはそう答え、二人の頭へそっと手を置いた。
◇
夕方になる頃には、街の戦闘音もほとんど聞こえなくなっていた。
ライカは使える食器を集めて食事の準備を進め、ライアンは壊れた窓を応急的に塞いでいる。セバスとロイも家の周囲を確認していた。
リインとミリアは手伝おうとしたが、グレイに休むよう言われ、並んで椅子へ座った。
「……でも、皆さんに任せきりなのも申し訳なくて……」
「だったら、明日から少しずつ手伝ってくれ。今日は俺たちに任せておけばいい」
リインは困ったように笑い、ようやく肩の力を抜いた。
グレイも向かいの椅子へ腰を下ろす。
「これからのことは急いで決めなくていい。まずは新しい身体に慣れることだな。明日はセバスにも見てもらって、少しずつ動かしてみよう」
「……はい。よろしくお願いします」
ミリアが顔を上げた。
「私もです。まずは、ちゃんと歩けるようになりたいです」
「それなら、二人とも一緒に練習できそうだな。分からないことがあれば、遠慮なく聞いてくれよ」
やがて食事の準備が整い、皆で食卓を囲んだ。
ミリアは時折、確かめるように姉の顔を見上げていた。リインもそのたびに微笑み、妹の手を握り返す。
グレイはその様子を見ながら、静かに食事を続けた。
◇
夜が深まる頃、ミリアは眠りについた。
リインはその隣へ腰を下ろし、妹の寝顔を見つめていた。
グレイが部屋へ入ると、リインは顔を上げる。
「……眠れないのか?」
「……はい。ミリアがちゃんとここにいるのが、まだ信じられなくて……」
グレイは隣の椅子へ腰を下ろした。
リインは妹の髪をそっと撫でる。
「……さっきまで、もう二度と会えないと思っていたんです。それなのに、今はこうして隣にいて……何だか、夢みたいで……」
「……夢じゃないぞ。ミリアも、お前も、ちゃんとここにいる。明日になったら、また一緒に朝を迎えられるんだ」
リインの目から涙が一筋流れた。
「……はい……」
「今日は、よく頑張ったな。これから先のことは、明日になってから考えればいい。今夜くらいは、安心して休んでくれ」
リインは小さく頷いたが、妹の手を離そうとはしなかった。
グレイはそれ以上何も言わず、隣へ座り続けた。
窓の外では、ようやく静けさを取り戻した街に、夜の風が吹いていた。




