第7話 砕けた青白い石
グレイが感じ取ったのは、焼けた建物の向こうから伝わる、ひどく弱い二つの魔力だった。
崩れかけた石壁に挟まれた細い通り。その周囲には敵兵と思われる反応も複数あり、二つの魔力を取り囲むように留まっている。
グレイは足を速めた。
路地の入口には壊れた荷車が横倒しになり、奥では倒壊した建物の木材が燻っていた。煙で見通しは悪かったが、感じ取った魔力から意識を離せなかった。
どこか懐かしい。
その理由を確かめようとしたとき、男たちの笑い声が聞こえてきた。
「おい、まだ動くぞ。こいつ、ずいぶんしぶといな」
「もういいだろう。さっさと行こうぜ。いつ敵の兵が戻ってくるか分からねえんだから」
「待てよ。せっかく見つけたんだ、もう少しくらい……」
「……やめて……」
男の言葉に重なったのは、かすれた若い女の声だった。
グレイが煙の向こうへ目を凝らすと、倒れた木材の隙間から四、五人の兵士が見えた。
鎧の一部を失った者もおり、統制された軍の動きとは程遠い。武器を手にしたまま、何かを囲んでいる。
その足元に、一人の少女が倒れていた。
少し離れた壁際には、もう一人。
グレイは足を止めた。
姉と思われる少女の衣服は無残に引き裂かれ、露わになった肌にはいくつもの傷があった。身体を起こす力も残っていないらしく、石畳へ片手をついたまま、虚ろな目で前を見ている。
頬には涙が流れていた。
その姿と兵士たちの様子だけで、何が行われたのか理解できた。
壁際の少女も傷つき、震える手を姉へ伸ばしていたが、這って近づくことさえできないようだった。
「……お姉ちゃん……」
その声に、倒れていた少女がわずかに顔を上げる。
自分へ伸ばされた兵士の手を振り払い、妹へ近づこうとする別の男の足を掴んだ。
「……その子には……触らないで……」
ほとんど声になっていなかったが、その手は離れなかった。
兵士が苛立ったように振り返る。
「まだそんなこと言ってんのか。いい加減に――」
その瞬間、グレイの意識から周囲の景色が消えた。
火の爆ぜる音も、遠くの戦闘音も聞こえなくなる。
ただ、少女の手を振り払おうとする男の姿だけが、はっきりと見えていた。
頭の中が真っ白になった。
次の瞬間、グレイの周囲で空間が歪む。
兵士が振り返るより早く、目に見えない力が男たちを襲った。
最も近くにいた兵士が宙へ浮き、背後の石壁へ叩きつけられる。隣の男も剣を抜く間もなく地面から引き剥がされ、鈍い衝撃音が続いた。
「なっ、何だ!?」
残った兵士が慌てて武器を構える。
グレイは答えず、少女たちと兵士の間に空間の壁を生み出した。
直後、逃げようとした男の足元が歪み、身体が不自然な方向へ引かれる。短い悲鳴とともに倒れた男を横目に、別の兵士が剣を振り上げた。
しかし、その刃がグレイへ届くことはなかった。
空間が閉じ、男の身体が崩れ落ちる。
最後に残った兵士は、仲間たちの姿を見て後ずさった。
「ま、待て! 俺たちは命令されて――」
グレイが片手を上げると、兵士の身体が地面から離れ、背後の壁へ押しつけられた。
そのまま空間が圧縮され、声が途切れる。
数瞬後、通りには誰の声も残っていなかった。
グレイは兵士たちが動かないことを確かめ、すぐに少女たちへ向き直った。
男たちが何を命じられていたのかなど、今はどうでもよかった。
これ以上、二人へ近づけさせない。
必要だったのは、それだけだった。
グレイは姉のもとへ駆け寄った。
「……大丈夫か。もう誰もお前たちには触れさせない。俺の声が聞こえるなら、少しだけ返事をしてくれ」
少女は動かなかったが、焦点の合わない目がゆっくりとグレイへ向けられた。
グレイは外套を外し、破れた衣服を覆うように掛ける。
肩に触れた途端、少女が小さく身を震わせた。
「すまない。怖がらせるつもりはないんだ。傷を確かめたいが、触れてもいいか?」
少女の唇がわずかに動いた。言葉にはならなかったが、拒む様子はない。
グレイは静かに身体を支え、傷を確かめた。
腕や肩には刃物によるものと思われる傷があり、全身に打撲の跡が残っている。出血もひどく、呼吸は浅い。脈も弱っていた。
すぐに治癒魔法を使うと、淡い光に包まれた傷が少しずつ塞がっていく。
しかし、深く傷ついた身体は簡単には回復しなかった。
魔力を流すたびに少女がかすかに震えるため、グレイは魔法の強さを調整しながら呼吸を確かめた。
「……頼む。もう少しだけ持ちこたえてくれ。必ず安全な場所へ連れていくから」
返事はない。
少女の目は開いていたが、グレイを見ているのかさえ分からなかった。
そのとき、外套の隙間から細い鎖が覗いた。
胸元に下がっていたのは、中央から大きく砕け、いくつもの亀裂が走った青白い石だった。
グレイの指が止まる。
青とも白ともつかない、淡い光を宿していた石。
遠い昔、海を見たがっていた一人の少女へ、自分が贈ったもの。
ミナが大切そうに胸元へ下げていた、あのネックレスだった。
「……どうして、これが……」
思わず声が漏れた。
石へ触れようとしたが、少女の呼吸がさらに弱まったことに気づき、すぐに治癒魔法へ意識を戻す。
「おい、聞こえるか。俺はグレイという。今は話さなくていいから、どうか意識だけは保ってくれ」
少女の瞳がわずかに動いた。
「……グレイ……?」
「ああ。そうだ。お前たちを助けに来た。もう危険はないから、安心してくれ」
少女は何かを探すように視線を動かし、震える唇を開いた。
「……ミリア……」
その名前を聞いた瞬間、グレイの胸が強く鳴った。
目の前にいる少女はリイン。
壁際で倒れているのが、ミリア。
ミナの孫であり、あの軍人が最後まで守ろうとした娘たちだった。
グレイが振り返ると、ミリアはまだかすかに動いていた。
胸元には姉と同じ青白い石が下がっており、そちらも砕けている。
二つの石には、外から加えられた強い衝撃を受け止めた魔力の痕跡が残っていた。
魔法具は、一度は二人を守ったのだ。
けれど、それだけでは足りなかった。
グレイは奥歯を噛みしめた。
もっと早く気づいていれば。避難所で別の場所を探していれば。父親の死を聞いた直後に、迷わず城下へ向かっていれば。
いくらでも後悔は浮かんだが、今は目の前の二人を助けなければならない。
グレイはリインをそっと横たえ、外套を整えた。
「すぐ戻る。妹もここへ連れてくるから、少しだけ待っていてくれ」
立ち上がろうとしたとき、リインが袖を掴んだ。
「……ミリア……は……?」
グレイは膝をつき直した。
「生きている。少し離れたところにいるが、ちゃんと息をしているよ。今から俺が連れてくるから、心配しなくていい」
リインの目から涙が一筋流れ、強張っていた表情がほんの少し緩んだ。
「……よかった……」
グレイはその手を握った。
「お前も助ける。だから、まだ眠らないでくれ。妹と一緒に帰るんだろう?」
返事はなかった。
袖を掴んでいた指から、少しずつ力が抜けていく。
「……リイン?」
顔を近づけると、少女の目はもう何も見ていなかった。
呼吸が止まっている。
グレイはすぐに治癒魔法を強め、胸元へ手を当てた。
光に包まれた傷が修復されていく。それでも呼吸は戻らない。
「……おい、リイン。聞こえているなら返事をしてくれ。妹は生きているんだ、お前も一緒に帰らないと駄目だろう」
何度呼びかけても、少女の身体は動かなかった。
握っていた手から、温もりが失われていく。
ほんの少し前まで、確かに声が聞こえていた。
妹の無事を知り、安堵した顔を見せてくれた。
それなのに。
「……すまない」
グレイは俯きかけ、すぐに顔を上げた。
まだ、ミリアがいる。
リインが最後まで守ろうとした妹を、ここで失うわけにはいかなかった。
グレイは外套を掛け直し、壁際へ向かった。
ミリアは崩れた石壁にもたれ、浅い呼吸を繰り返していた。
頬には擦り傷があり、額から流れた血が乾いている。片腕は不自然な角度で垂れ、足元には割れた石片が散らばっていた。
グレイは上着を脱ぎ、少女の身体を覆った。
「ミリア、聞こえるか。俺はグレイだ。お前の姉を見つけたから、今度はお前を助ける。少しだけ身体に触れるぞ」
ミリアはゆっくりと目を開き、グレイの顔を見た。
「……グレイ……?」
「ああ。そうだ。お前のおばあちゃんと、昔からの知り合いなんだ。今は無理に話さなくていいから、少し休んでいてくれ」
「……おばあちゃん……の……」
その先は言葉にならなかった。
グレイは少女を支え、傷を確かめた。
折れた腕や深い傷に加え、身体の内側にも損傷がある。すでに大量の血を失っており、治癒魔法を使っても回復は遅かった。
失われた体力まで、すぐに取り戻せるわけではない。
さらに魔力を注ぎ込もうとしたとき、ミリアが苦しそうに顔を歪めた。
無理に流せば、かえって負担になる。
グレイは力を抑え、身体を支え直した。
「……すまない。少し痛かったな。今は呼吸を楽にするから、無理に動かなくていい」
ミリアは小さく首を振り、姉のいる方角へ目を向けた。
「……お姉ちゃん……」
グレイは言葉に詰まった。
リインはすぐそこに、外套に包まれたまま横たわっている。
「……お姉ちゃん……?」
ミリアが身体を起こそうとした。
しかし、腕に力が入らず、すぐに崩れ落ちる。
グレイは慌てて支えた。
「無理に動くな。今は身体を休めてくれ。お前まで倒れてしまったら、リインも安心できないだろう」
言い終えてから、唇を噛んだ。
もう、リインが安心することはない。
ミリアはグレイを見上げた。
「……お姉ちゃん……死んじゃった……の……?」
グレイはその視線から逃げなかった。
嘘をつくことはできない。
「……ああ。俺が来たときには、もうひどく傷ついていた。それでも、お前が生きていると聞いて、最後に安心した顔をしていたよ」
ミリアの顔が歪んだ。
「……やだ……」
声にならない息が漏れ、涙が頬を伝ってグレイの腕へ落ちる。
「……お姉ちゃん……ずっと……一緒って……」
グレイは何も言えず、少女の身体を支えた。
ミリアは震える手を姉へ伸ばす。
その手を見つめ、グレイは静かに立ち上がった。
「……分かった。そばへ連れていく。だから、もう少しだけ俺に身体を預けてくれ」
かすかな頷きを確かめ、ミリアを抱き上げた。
リインのもとへ戻り、二人が並ぶように少女を横たえる。
ミリアが震える指で姉の手を探したため、グレイはその手を取らせた。
「……お姉ちゃん……」
返事はない。
ミリアは弱々しく姉の手を握り、目を閉じて涙を流した。
グレイは二人のそばに座り、治癒魔法を続ける。
しかし、ミリアの呼吸は次第に浅くなり、胸が上下する間隔も長くなっていった。
グレイは少女の手を握った。
「ミリア、聞こえるか。まだ諦めないでくれ。俺には、お前たちを守ると約束した人がいるんだ。だから、どうかもう少しだけ生きていてほしい」
ミリアはゆっくりと目を開いた。
「……お父さん……?」
グレイの胸が締めつけられた。
少女は、父親が城門で何を守ろうとしていたのかを知らない。
今、すべてを話すべきなのか。
迷った末に、グレイは弱り切った顔を見つめて答えた。
「……ああ。お前たちのことを、とても大切にしていた。俺にも、二人を頼むと言ってくれたんだ」
ミリアの目から、また涙が流れた。
「……お父さん……帰って……こないの……?」
グレイは答えられなかった。
沈黙の中、ミリアは何かを悟ったように目を伏せた。
「……そっか……」
あまりにも小さな声だった。
グレイは少女の手を握り直した。
「……すまない。俺がもっと早く来ていれば、お前たちをこんな目に遭わせずに済んだかもしれない」
ミリアはかすかに首を振った。
「……グレイ……さん……」
「何だ。聞いているから、ゆっくり話してくれ」
ミリアは姉の手を握ったまま、何かを言おうとした。しかし、息が続かない。
グレイは身体を支え、少女の顔へ耳を近づけた。
「……わたし……」
唇が震える。
「……もっと……」
「……ああ」
少女の目から、涙が一粒零れた。
「……どんな形でもいいから、もっと生きたかった」
その言葉を聞いた瞬間、グレイの胸の奥で何かが軋んだ。
ミリアの指から、ゆっくりと力が抜けていく。
「……ミリア?」
慌てて顔を覗き込んだが、返事はなかった。
呼吸が止まっている。
グレイはすぐに治癒魔法を使い、傷を塞ぎながら身体の内側へ魔力を流し込んだ。
「……頼む。まだ終わりじゃないだろう。お前は、もっと生きたいと言ったじゃないか」
何度呼びかけても、ミリアは動かなかった。
姉の手を握り、父親の帰りを気にしていた少女。
もっと生きたいと願った、その声がまだ耳に残っている。
グレイは魔法を止められなかった。
けれど、身体はもう応えてくれない。
やがて、ゆっくりと手を下ろした。
魔法の光が消える。
遠くでは今も戦闘が続いていた。
何かが崩れる音に兵士たちの怒鳴り声、逃げる人々の足音が重なる。
街は動き続けている。
その中で、目の前の二人だけが静かに横たわっていた。
グレイはしばらく、重なった手を見つめていた。
最後まで妹を守ろうとしたリインと、姉を求め続けたミリア。
その二つの手が、今は離れることなく重なっている。
焼けた建物の隙間から、薄い光が差し込んだ。
煙に遮られた空は灰色で、遠くの城壁もほとんど見えない。
グレイの脳裏に、ミナの顔が浮かんだ。
初めて海を見た日の笑顔。
波打ち際に立ち、何度も水平線を見つめていた少女。
自分の足で歩き、自分の目で世界を見たいと願っていた。
その願いが叶ったことを、グレイは嬉しく思っていた。
ミナはその後、自分の人生を歩み、家族を持った。
娘が生まれ、孫たちが生まれた。
いつか、その子供たちにも会ってみたいと思っていた。
けれど、初めて顔を合わせたのが、こんな場所になるとは考えてもいなかった。
「……ミナ。すまない。お前が大切にしていた子たちを、俺は守ってやれなかった」
グレイは俯いた。
街道で出会った男の顔も浮かぶ。
見知らぬ自分を助け、酒場で娘たちの話を嬉しそうにしてくれた男。
別れ際には、もしものときのことを頼まれた。
あのとき、確かに頷いた。
それなのに、男が命を懸けて守ろうとした娘たちは、目の前で息を引き取った。
「……お前にも、謝らなきゃならないな」
約束を果たせなかったことが、胸の奥へ重く沈んでいく。
長く生きていれば、どうにもならないことがある。
どれほど力を持っていても、すべてを救えるわけではない。
そんなことは、とうの昔に知っていた。
けれど、だからといって納得できるものではなかった。
グレイは自分の手を見つめた。
あの兵士たちを倒すのは、ほんの一瞬だった。
それだけの力がありながら、二人を救うことはできなかった。
もっと早く、この場所へ来ていれば。
その思いを振り払えないまま、グレイはリインの胸元へ視線を落とした。
外套の隙間から、砕けた青白い石が覗いている。
ミリアの胸元にも、同じ色の石があった。
どちらも、もう光を宿していなかった。
グレイは二人のそばに膝をつき、リインの胸元に下がっていた砕けた青白い石を、そっと手に取った。




