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白銀の旅路  作者: 人形遣い
第七章『受け継がれた約束』

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第6話 最後の任務


敵将が剣を振り下ろした瞬間、男は半歩だけ身体をずらした。


刃が肩先を掠め、背後の石畳へ鋭い音を立てて落ちる。男はその隙に踏み込もうとしたが、敵将はすでに剣を引き戻し、追撃を警戒するように切っ先を向けていた。


互いに距離を取る。


崩れた城門の周囲では敵兵たちが二人を囲み、遠くからは後退する防衛軍の足音と、負傷者を運ぶ兵士たちの声が聞こえていた。


男は剣を構えたまま、その音へ意識を向ける。


まだ近い。部下たちが安全な場所まで下がるには、もう少し時間が必要だった。


「今のを避けるか。見た目以上に動けるようだな」


敵将は剣を肩の高さへ戻し、男の足元を見た。


「だが、ずいぶん消耗している。これ以上続ければ、お前の方が先に動けなくなるぞ」


「心配してくれるのはありがたいが、まだ剣を置くつもりはない。そちらこそ、急いでいるなら俺に構わず進めばいいだろう」


「そうさせてもらいたいところだが、お前を残して進めば後ろの兵が斬られる。部下を無駄に失うつもりはないのでな」


敵将が再び剣を構える。


男はわずかに目を細めた。


相手は力任せに攻めるだけの武人ではない。先ほどの一撃も、こちらが受けるか避けるかを確かめ、次の動きを読むためのものだったのだろう。


男は剣の握りを確かめた。


右腕には城門が破られる前に受けた傷があり、強く振るうたびに鈍い痛みが走る。足にも疲労が溜まっていたが、ここで倒れるわけにはいかなかった。


先に動いたのは敵将だった。


今度は大きく踏み込まず、切っ先を小さく揺らしながら距離を詰めてくる。


男は正面から受けず、剣の腹で相手の刃を外側へ流し、そのまま手首を返して斬り上げた。


敵将は身体を引いて刃を避け、すぐさま反撃に転じる。


男は後退する代わりに懐へ踏み込み、剣を振り切るための間合いを潰した。動きが止まったところへ肩をぶつけ、相手を押し返す。


敵将は二歩下がって体勢を整えると、口元に薄い笑みを浮かべた。


「なるほど。長く戦場に立ってきた者の動きだな」


「お互い様だろう。今ので倒れてくれるなら、こちらも随分と楽だったんだが」


「残念ながら、そう簡単にはいかん」


男は返事をせず、剣先を下げて腕の力を抜いた。


その構えを見た敵将が、わずかに足の位置を変える。正面から踏み込めば、剣を跳ね上げられると判断したのだろう。


やはり、よく見ている。


敵将が右へ回り込もうとすると、男も足を運んで正面を維持した。


城門の奥へ続く通りを渡すわけにはいかない。


互いに距離と位置を探り合い、剣を交えないまま攻防が続く。


やがて敵将が足を止めた。


「一つ聞こう。お前は、あの兵たちを逃がすためだけに残ったのか?」


「それ以外に何がある?」


「退く道はまだある。ここで我々を止めたところで、街が持ちこたえられる保証はないぞ」


男は背後を振り返らなかった。


「保証なんて最初からないさ。ただ、俺がここにいれば、あいつらは少しでも遠くへ行ける。それだけで残る理由にはなる」


「自分の命と引き換えにしてもか?」


「命を捨てるために残ったわけじゃない。俺だって生きて帰りたいんだよ」


男は剣を持ち上げた。


「だから、帰るためにもお前を倒す。話はそれからだ」


敵将の表情から笑みが消えた。


次の瞬間、二人はほとんど同時に踏み込んだ。


剣がぶつかり、火花が散る。


男は斬撃を受け流して横へ回ろうとしたが、敵将はその動きを読んで進路を塞いだ。引き戻した剣よりも早く、相手の切っ先が胸元へ迫る。


身体を捻り、鎧の表面で刃を滑らせた。


金属が擦れる音とともに胸当てへ深い傷が刻まれ、反撃に振るった男の剣も、敵将の肩を浅く裂いた。


「……やるな」


「そちらもな。できれば、もう少し早く会いたかったものだ」


「なぜだ?」


「戦場以外なら、いい酒が飲めたかもしれないからな」


敵将は意外そうに眉を上げ、それから短く笑った。


「面白いことを言う男だ。だが、今さら剣を収めるわけにもいかん」


「分かっている。俺も、まだ通すつもりはない」


男は呼吸を整えた。


額から流れた汗が目元へ落ち、剣を握る右手には痺れが広がり始めている。


長くは続けられない。


だが、敵将も無傷ではなかった。


肩を傷つけたことで振り下ろす動きがわずかに鈍り、先ほどから大きな斬撃を避け、突きや小さな切り返しを増やしている。


男はその変化を見逃さなかった。


次に踏み込んできた敵将の剣を受け流し、あえて右側へ身体を開く。


誘いに乗った敵将が突きを放った瞬間、男は剣を下から跳ね上げ、相手の刃を外へ弾いた。


空いた懐へ踏み込み、左肩から体当たりを仕掛ける。


敵将の身体が傾いた。


男は剣を振り上げたが、敵将は倒れずに踏みとどまり、脇腹へ膝を打ち込んできた。


「ぐっ……!」


息が詰まり、反射的に後退する。


敵将も無理には追ってこなかった。


荒い呼吸が重なる中、城門の外から新たな兵士たちの足音が近づいてくる。


敵軍の後続部隊だろう。


これ以上、ここを守り続けるのは難しい。


それでも、背後から聞こえていた味方の足音は、すでにかなり遠ざかっていた。


男はわずかに安堵した。


「……満足したか?」


敵将がその表情を見て尋ねた。


「まだだ。住民が全員逃げ切ったかどうか、俺には分からんからな」


「ならば、最後まで立ち続けるつもりか」


「そうできればいいんだが、さすがに身体が言うことを聞かなくなってきた」


男は苦笑した。


右腕の痛みは強まり、左足も重い。鎧の内側では、先ほど膝を受けた脇腹が鈍く痛んでいた。


敵将は剣を構え直した。


「降伏すれば、命だけは助けるよう取り計らおう。お前ほどの武人を、ここで失うのは惜しい」


男は少し驚いたように目を細めた。


「ありがたい申し出だが、俺が降伏したところで、お前たちが進むのは変わらないんだろう?」


「軍を止める権限は、俺一人にはない」


「なら、答えは同じだ。ここを通すわけにはいかない」


敵将は静かに息を吐いた。


「……そうか」


男は剣を握り直し、相手の足元を見た。


重心がわずかに前へ傾いている。次の一撃で決めるつもりなのだろう。


こちらも、これ以上長く戦えるとは思っていなかった。


ふと、家族の顔が浮かぶ。


リインが初めてギルドの仕事を任され、失敗したことまで隠さず話してくれた日。


剣の練習で転んだミリアが、悔しそうに立ち上がった姿。


そして、家へ帰るといつも迎えてくれたリンの笑顔。


どれも特別な出来事ではないが、もう一度見たいと思うには十分だった。


男はゆっくりと息を吸った。


敵将が動く。


これまでよりも速い踏み込みに対し、男は剣を受け止めず、身体を横へ流した。


刃が肩口を裂き、鋭い痛みが走る。


それでも足を止めず、相手の懐へ踏み込んで剣を突き出した。


敵将も狙いを読んでいたらしく、剣を引き戻しながら身体を捻る。


しかし、男は途中で軌道を変えた。


肩を狙っていた切っ先が、敵将の胸元へ向かう。


相手の目がわずかに見開かれた。


同時に、敵将の剣も男の身体へ迫っていた。


二人の刃が、ほとんど同時に相手を貫いた。


衝撃に男は息を詰まらせ、敵将も苦しげに顔を歪める。


互いの身体が近づき、剣を引き抜くこともできないまま、しばらくその場に立っていた。


「……見事、だ」


敵将がかすれた声で呟いた。


男は答えようとしたが、喉から息が漏れるだけだった。


やがて敵将の膝が折れ、身体が崩れ落ちる。男もそれに引かれるように片膝をつき、手から離れた剣が石畳へ乾いた音を立てて落ちた。


周囲の敵兵たちが慌てて駆け寄ってくる。


男はその足音を聞きながら、ゆっくりと顔を上げた。


城門の奥へ続く通りには、もう味方の姿は見えない。


少なくとも、部下たちが逃げる時間は作れたらしい。


小さく息を吐くと、身体から力が抜けていった。


視界が少しずつ暗くなる。


最後に思い浮かんだのは、戦場ではなかった。


家の食卓と、娘たちの声。


リンが差し出してくれた温かな食事。


そして、数日前に酒を酌み交わした、白銀の髪の少女。


娘たちのことを頼むと告げたとき、彼女は確かに頷いてくれた。


そのことを思い出し、男はわずかに口元を緩めた。


「……頼んだ、ぞ」


誰に向けたのかも分からないほど、小さな声だった。


男の身体がゆっくりと傾く。


石畳へ倒れたあと、彼が再び立ち上がることはなかった。


◇


西門が破られたという知らせは、避難所にもすぐに広まった。


南の広場では兵士たちが避難民を集め、街の外へ移動させる準備を始めている。


すでに城下の一部では火の手が上がり、敵軍がどこまで入り込んでいるのか、正確な情報も届いていなかった。


「歩ける者は南門へ! 負傷者を運ぶ荷車を優先して通せ!」


グレイは荷車の横で動けなくなっていた老人に手を貸し、荷台へ乗せた。


「大丈夫か。無理に立たなくていいから、しばらくここで休んでいろ」


「すまないねえ……若い娘さんに、こんなことをさせてしまって」


「気にするな。俺は見た目ほど若くないし、力仕事にも慣れているからな」


老人は不思議そうな顔をしたが、すぐに小さく笑った。


グレイは荷車の進路を確保すると、避難民の列に沿って歩き始めた。


途中、道を塞いでいた棚を脇へ移し、近くの店から逃げ遅れた親子を列へ案内する。


城下の混乱は広がっていたが、住民たちは互いに助け合いながら避難を続けていた。


少なくとも、南側の避難路はまだ機能している。


ただ、先ほどから気になることがあった。


西門の方角で激しく入り乱れていた魔力の反応が減り、代わりに別の魔力が広がり始めている。


防衛軍が後退したのだろう。


グレイが足を止めたとき、負傷した兵士を支えながら歩いてくる一団が見えた。


鎧には煤と血がついており、城門付近から撤退してきた者たちらしい。


「西門から戻ってきたのか。向こうの状況はどうなっている?」


近くの兵士へ声をかけると、男は疲れた顔で頷いた。


「門は完全に破られました。北側の防衛線も崩れて、今は城下で敵を食い止めようとしています」


「そうか……。城門を守っていた部隊は、どうなった?」


兵士は少しだけ言葉に詰まった。


「俺たちは撤退命令を受けて、負傷者を連れて下がりました。隊長が最後まで残って、敵の進軍を止めてくれていたんです」


グレイの眉が動いた。


「隊長というのは、四十代くらいの大柄な男か。剣を使う軍人で、家族の話をよくするような」


「……知り合いなんですか?」


「ああ。少し前に、街道で助けてもらった。酒も一緒に飲んだんだ」


兵士が唇を噛んだ。


その表情を見て、グレイは嫌な予感を覚えた。


「……何があった?」


しばらくの沈黙のあと、兵士は絞り出すように答えた。


「隊長は……敵将と戦って、亡くなりました」


グレイは言葉を失った。


「俺たちが下がったあと、敵将と一騎打ちになったそうです。最後は相打ちだったと……後から逃げてきた兵が、そう話していました」


グレイは西門の方角へ目を向けた。


煙が立ち上り、遠くではまだ剣戟と爆発音が続いている。


つい数日前、あの男は街道で見知らぬ少女を助け、酒場では家族の話を嬉しそうにしていた。


娘たちの成長を見届けたいと笑っていた顔を、今も覚えている。


また会ったときには、昔の失敗談でも聞かせてもらうつもりだった。


それが、もう叶わない。


「……そうか」


ようやく口を開いたとき、声は自分でも驚くほど静かだった。


兵士は深く頭を下げた。


「隊長のおかげで、俺たちはここまで戻れました。あの人が残ってくれなかったら、もっと多くの兵が死んでいたと思います」


グレイは兵士を見た。


腕には傷があり、隣では仲間が肩を貸している。


あの男が守ろうとしたものの一部が、確かにここにあった。


「お前たちが生きて戻れたなら、あいつも少しは安心するだろう。今は傷を診てもらって、できることをしてやってくれ」


兵士は頷き、仲間とともに避難所へ向かった。


その背中を見送りながら、グレイはゆっくりと息を吐いた。


長く生きてきたグレイにとって、人の死は初めてではない。けれど、理解できるからといって、簡単に受け入れられるわけでもなかった。


胸の奥に残る重さとともに、男が別れ際に告げた言葉が蘇る。


『もし、俺に何かあったら、娘たちのことを頼めないだろうか』


あのときは、何も起こらないのが一番だと笑い合った。


男も、本気で生きて帰るつもりだったのだろう。


それでも、約束は残った。


グレイは顔を上げた。


リインとミリア。


ミナが嬉しそうに話していた孫たちであり、あの男が命を懸けて守ろうとした娘たち。


まだ一度も会ったことのない二人が、今どこにいるのか分からない。


「……探そう」


小さく呟き、グレイは人の流れから外れた。


近くの建物の陰へ移動し、周囲に人がいないことを確かめてから空間を開く。


薄い光の向こうに、《ドールハウス》へ続く入口が現れた。


「ライアン、ライカ、セバス、ロイ。悪いが、少し手を貸してくれ」


呼びかけると、ほどなくして四人が姿を現した。


最初に出てきたライアンが、周囲の騒ぎへ目を向ける。


「姫さん、何かあったのか? ずいぶん物騒なことになってるみたいだけど」


「ああ。敵軍が城門を突破した。俺は今、探したい人間がいるんだが、一人では手が足りそうにない」


ライカがグレイの表情を見た。


「何かあったんですね。詳しい事情は後で構いませんが、まずは探す相手を教えてください」


「リインとミリアという姉妹だ。姉が十九歳、妹が十四歳。ミナの孫で、少し前に出会った軍人の娘たちでもある」


セバスが静かに尋ねた。


「その軍人の方は、今どちらに?」


「……西門で戦死した。部下たちを逃がすために残って、敵将と相打ちになったそうだ」


四人の表情が変わった。


ライアンは何か言いかけたが、すぐに口を閉じた。


ロイが腕を組む。


「なるほどな。それで、娘たちの居場所は分かっているのか?」


「いや。避難者名簿には名前がなかった。記録が追いついていないだけかもしれないが、まだ無事を確認できていない」


グレイは四人を見渡した。


「手分けして探したい。無理に戦闘へ加わる必要はないが、逃げ遅れている人間がいれば助けてやってくれ。二人を見つけたら、まず安全な場所へ連れていってほしい」


ライカが頷いた。


「分かりました。私は避難所を回って、名前と年齢を確認します。記録が不完全でも、実際に人を見れば分かることがありますから」


「じゃあ俺は南門の外を見てくるよ。もう街を出てる可能性もあるし、避難してきた連中に聞いてみる」


ライアンに続き、セバスも口を開いた。


「私は城下の東側を確認いたします。避難経路から外れた場所に取り残されている方がいないか、併せて見てまいりましょう」


ロイは西側へ目を向けた。


「俺は城門に近い方を回る。敵兵が入り込んでるなら、そっちの方が厄介だろうしな」


「頼む。俺も街の中を探す。何か分かったらすぐに知らせてくれ」


四人がそれぞれの方向へ散っていくと、グレイも歩き始めた。


街の中では避難を急ぐ人々と戦場へ向かう兵士たちが入り乱れ、建物の間から煙が上がっていた。


グレイは行き交う人々へ声をかけながら、姉妹の行方を探した。


「リインとミリアという姉妹を知らないか。姉は十九、妹は十四だ。母親はリンという名前なんだが」


何人かは首を横に振り、心当たりがありそうな者もいたが、確かな情報は得られなかった。


ギルドの受付で働いているという話を思い出し、グレイはその建物へ向かった。


しかし、ギルドはすでに閉鎖されていた。


入口には避難を知らせる紙が貼られ、内部に人の気配はない。近くにいた職員らしい男へ尋ねると、受付の者たちも各自で避難したという。


「リインさんなら、今朝まではいたと思います。ただ、避難命令が出てからは皆ばらばらで……どこへ行ったかまでは分かりません」


「そうか。助かった。無理に探し回らず、お前も早く避難してくれ」


グレイは礼を言い、再び通りへ出た。


煙で薄暗くなった空の下、西側からは時折大きな衝撃音が響いてくる。


敵軍はすでに城下へ入り込んでいるのだろう。


グレイは足を速めた。


◇


リインが異変に気づいたのは、ギルドで避難の準備をしていたときだった。


朝から鐘が鳴り続け、職員たちは来訪者を外へ誘導しながら、重要な書類や物資をまとめていた。


普段なら冒険者たちの依頼を受け付けている窓口も、今は閉じられている。


リインは最後の書類を箱へ収め、近くの職員へ声をかけた。


「こちらは終わりました。残っている人がいないか、奥の部屋も確認してきます」


「ありがとう。でも、あまり時間はないから、確認が済んだらすぐに避難してね」


「分かっています。そちらも気をつけてください」


奥の部屋に誰も残っていないことを確かめ、入口へ戻ったときだった。


「西門の近くは危険だ! 住民はすぐに南へ向かえ!」


外から聞こえた兵士の声に、リインの足が止まった。


西門から、自分たちの家まではそう遠くない。


ミリアは今朝、家に残っていたはずだった。最近は母親の具合が良くないため、妹が家のことを手伝っている。


避難命令が届いていれば、二人とも移動を始めているかもしれない。


しかし、まだ家にいたら。


窓の外には、西側から立ち上る煙が見えた。


通りは混雑し、どの道が使えるのかも分からない。それでも、何も確かめずに避難することはできなかった。


「……ミリア」


リインは荷物を肩へ掛け、入口へ向かった。


「リイン、どこへ行くの? 避難所は南よ」


職員が声をかけてくる。


「家族がまだ家にいるかもしれないんです。少しだけ確認してきます」


「危険よ。もう西門の方では戦闘が始まっているって聞いたわ」


「分かっています。でも、妹が一人で残っていたら……」


職員が言葉を詰まらせると、リインは頭を下げた。


「無理はしません。家にいなければ、すぐに南へ向かいます」


そう告げ、ギルドを飛び出した。


大通りは避難する人々で埋まっていた。


リインは人の流れを避けながら家へ続く道を急ぎ、軍用の荷車が通りを塞いでいる場所では細い路地へ入った。


何度も歩いた道のはずなのに、今日はまるで違う場所のようだった。店の扉は閉ざされ、窓には板が打ちつけられている。


遠くで何かが崩れる音がしても、足を止めずに進んだ。


やがて見慣れた通りへ出ると、自宅の屋根が見えた。


建物はまだ無事だった。


リインは玄関へ駆け寄り、扉を開けた。


「ミリア! いるの!」


返事はない。


胸が冷たくなるのを感じながら奥へ進むと、居間には朝の食器が置かれたままで、椅子が一つ倒れていた。


「ミリア!」


もう一度呼ぶと、奥の部屋から足音が聞こえた。


「……お姉ちゃん?」


顔を出したミリアを見た瞬間、リインは駆け寄って抱きしめた。


「よかった……! 無事だったんだね。怪我はない?」


「うん。お姉ちゃんこそ、どうして帰ってきたの? 外、すごい音がしてるよ」


「あなたが心配だったの。避難命令が出てるから、すぐにここを離れよう」


リインは妹の肩や顔を確かめた。


怪我はないようだった。


「分かった。荷物は少しまとめてあるよ。お母さんの分も持っていこうと思って」


「お母さんは?」


「朝から具合が悪くて、奥で休んでたの。でも、さっき兵士の人が来て、動けない人を先に運ぶって……」


ミリアは一度言葉を切った。


「お母さんは、兵士の人たちと一緒に行ったの。南の避難所へ連れていくって言ってた」


リインは胸を撫で下ろした。


「そうだったんだね。それなら、私たちも急ごう。お母さんと合流できるように、南へ向かうよ」


「うん!」


二人は必要な荷物だけを持ち、家を出た。


しかし、通りへ出た瞬間、リインは足を止めた。


少し先の角から、武装した兵士たちが姿を現したのだ。


見慣れた軍服ではない。


リインは反射的にミリアを背後へ下げた。


「……下がって」


敵兵は三人。こちらに気づくと、互いに何かを話しながら近づいてきた。


「おい、そこの二人。止まれ」


リインは答えず、腰に下げた短剣へ手を伸ばした。


ギルドで教わった護身術と、父親から繰り返し教えられた足運びが頭に浮かぶ。


だが、相手は実戦を経験した兵士だ。正面から戦って勝てるとは思えなかった。


「ミリア、私が合図したら走って。後ろの路地へ入れば、南へ抜けられるはずだから」


「でも、お姉ちゃんは?」


「私もすぐ行く。だから、振り返らないで」


敵兵の一人が剣を抜いた。


「聞こえなかったのか? 止まれと言っている!」


リインも剣を抜く。


若い娘が武器を構えたことを意外に思ったのか、兵士が一瞬だけ足を止めた。


その隙に、リインは足元の小石を蹴り上げる。


兵士が反射的に顔を庇った。


「今!」


ミリアが路地へ向かって走り出す。


しかし、別の兵士が進路を塞いだ。


ミリアは咄嗟に身体を低くし、掴もうとする腕の下を潜り抜ける。肩をぶつけるようにして横を抜けた動きは、父親から教わった足運びに近かった。


リインも迫ってきた兵士の剣を受け流し、相手の体勢が崩れた隙に距離を取る。


深追いはせず、妹の後を追った。


「待て! 逃がすな!」


背後から怒鳴り声が響く。


リインはミリアの手を掴み、何度も角を曲がりながら瓦礫の間を抜けた。


途中で大きな爆発音が響き、近くの建物から瓦が落ちてくる。


リインは妹を引き寄せ、壁際へ身を寄せた。


破片が地面へ落ちる音が収まるのを待ち、ミリアの顔を覗き込む。


「大丈夫?」


「うん……お姉ちゃんは?」


「平気。もう少しで大通りに出られるから、そこまで頑張ろう」


ミリアが頷き、二人は再び走り出した。


だが、路地の先へ出たところで、リインは足を止めた。


通りの向こうから、別の敵兵たちが歩いてくる。


背後でも、先ほどの兵士たちの足音が近づいていた。


左右には高い建物が並び、逃げ込めそうな道はない。窓も高い位置にあり、ミリアを連れて登るのは難しかった。


「……お姉ちゃん」


妹の声が震えた。


リインはその手を握り直した。


「大丈夫。私がいるから」


そう答えながらも、状況が厳しいことは分かっていた。


二人とも護身術を習った程度の経験しかなく、先ほど逃げられたのも不意を突けたからだ。


今度は、同じ方法が通じるとは限らない。


敵兵の一人が笑った。


「さっきの娘たちか。ずいぶん手間をかけさせてくれたな」


リインは剣を構えた。


足は震えていたが、妹の前から退くつもりはなかった。


「私たちは戦うつもりなんてありません。ここを通してください」


「そう言われて、はいそうですかと通すわけにはいかないんだよ」


兵士が剣を持ち上げる。


ミリアが一歩下がると、リインはその前へ立ち、両手で剣を握り直した。


「……お願いです」


声が震えた。


それでも目を逸らさずに続ける。


「妹には、手を出さないでください」


兵士たちは答えず、ゆっくりと距離を詰めてきた。


リインはミリアを背後へ庇いながら、迫る刃を見据えた。


◇


グレイは焼けた建物の間を歩いていた。


西側へ近づくにつれて街の被害は酷くなり、通りには瓦礫が散乱している。崩れた屋根が道を塞ぎ、遠くではまだ戦闘が続いていた。


この一帯では、人の姿もほとんど見えない。


グレイは倒れた柱を避け、細い路地へ入った。


先ほどライアンから連絡があり、南門の外では姉妹の姿を確認できなかったという。ライカも避難所を回っているが、確かな情報は得られていない。


セバスとロイからも、まだ見つかったという知らせはなかった。


グレイは足を止め、周囲へ意識を向けた。


崩れた建物の向こうから、いくつもの魔力が感じられる。


敵兵と思われる反応に混じって、逃げ遅れた住民らしい弱い気配もあった。


その中に、ふと気になるものがあった。


グレイは眉を寄せる。


どこかで感じたことのある魔力だった。


強いものではなく、混乱した街の中では見落としてしまいそうなほどかすかな反応。それでも、妙な懐かしさがあった。


焼けた建物の向こう、細い路地の先から、二つの魔力が重なるように感じられる。


「……これは」


グレイは瓦礫を越え、煙の漂う路地へ向かった。


その魔力が誰のものなのか、まだ分からない。


ただ、遠い昔に触れたことのある温かさが、確かにそこにあった。


グレイは歩みを速めた。

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