第6話 最後の任務
敵将が剣を振り下ろした瞬間、男は半歩だけ身体をずらした。
刃が肩先を掠め、背後の石畳へ鋭い音を立てて落ちる。男はその隙に踏み込もうとしたが、敵将はすでに剣を引き戻し、追撃を警戒するように切っ先を向けていた。
互いに距離を取る。
崩れた城門の周囲では敵兵たちが二人を囲み、遠くからは後退する防衛軍の足音と、負傷者を運ぶ兵士たちの声が聞こえていた。
男は剣を構えたまま、その音へ意識を向ける。
まだ近い。部下たちが安全な場所まで下がるには、もう少し時間が必要だった。
「今のを避けるか。見た目以上に動けるようだな」
敵将は剣を肩の高さへ戻し、男の足元を見た。
「だが、ずいぶん消耗している。これ以上続ければ、お前の方が先に動けなくなるぞ」
「心配してくれるのはありがたいが、まだ剣を置くつもりはない。そちらこそ、急いでいるなら俺に構わず進めばいいだろう」
「そうさせてもらいたいところだが、お前を残して進めば後ろの兵が斬られる。部下を無駄に失うつもりはないのでな」
敵将が再び剣を構える。
男はわずかに目を細めた。
相手は力任せに攻めるだけの武人ではない。先ほどの一撃も、こちらが受けるか避けるかを確かめ、次の動きを読むためのものだったのだろう。
男は剣の握りを確かめた。
右腕には城門が破られる前に受けた傷があり、強く振るうたびに鈍い痛みが走る。足にも疲労が溜まっていたが、ここで倒れるわけにはいかなかった。
先に動いたのは敵将だった。
今度は大きく踏み込まず、切っ先を小さく揺らしながら距離を詰めてくる。
男は正面から受けず、剣の腹で相手の刃を外側へ流し、そのまま手首を返して斬り上げた。
敵将は身体を引いて刃を避け、すぐさま反撃に転じる。
男は後退する代わりに懐へ踏み込み、剣を振り切るための間合いを潰した。動きが止まったところへ肩をぶつけ、相手を押し返す。
敵将は二歩下がって体勢を整えると、口元に薄い笑みを浮かべた。
「なるほど。長く戦場に立ってきた者の動きだな」
「お互い様だろう。今ので倒れてくれるなら、こちらも随分と楽だったんだが」
「残念ながら、そう簡単にはいかん」
男は返事をせず、剣先を下げて腕の力を抜いた。
その構えを見た敵将が、わずかに足の位置を変える。正面から踏み込めば、剣を跳ね上げられると判断したのだろう。
やはり、よく見ている。
敵将が右へ回り込もうとすると、男も足を運んで正面を維持した。
城門の奥へ続く通りを渡すわけにはいかない。
互いに距離と位置を探り合い、剣を交えないまま攻防が続く。
やがて敵将が足を止めた。
「一つ聞こう。お前は、あの兵たちを逃がすためだけに残ったのか?」
「それ以外に何がある?」
「退く道はまだある。ここで我々を止めたところで、街が持ちこたえられる保証はないぞ」
男は背後を振り返らなかった。
「保証なんて最初からないさ。ただ、俺がここにいれば、あいつらは少しでも遠くへ行ける。それだけで残る理由にはなる」
「自分の命と引き換えにしてもか?」
「命を捨てるために残ったわけじゃない。俺だって生きて帰りたいんだよ」
男は剣を持ち上げた。
「だから、帰るためにもお前を倒す。話はそれからだ」
敵将の表情から笑みが消えた。
次の瞬間、二人はほとんど同時に踏み込んだ。
剣がぶつかり、火花が散る。
男は斬撃を受け流して横へ回ろうとしたが、敵将はその動きを読んで進路を塞いだ。引き戻した剣よりも早く、相手の切っ先が胸元へ迫る。
身体を捻り、鎧の表面で刃を滑らせた。
金属が擦れる音とともに胸当てへ深い傷が刻まれ、反撃に振るった男の剣も、敵将の肩を浅く裂いた。
「……やるな」
「そちらもな。できれば、もう少し早く会いたかったものだ」
「なぜだ?」
「戦場以外なら、いい酒が飲めたかもしれないからな」
敵将は意外そうに眉を上げ、それから短く笑った。
「面白いことを言う男だ。だが、今さら剣を収めるわけにもいかん」
「分かっている。俺も、まだ通すつもりはない」
男は呼吸を整えた。
額から流れた汗が目元へ落ち、剣を握る右手には痺れが広がり始めている。
長くは続けられない。
だが、敵将も無傷ではなかった。
肩を傷つけたことで振り下ろす動きがわずかに鈍り、先ほどから大きな斬撃を避け、突きや小さな切り返しを増やしている。
男はその変化を見逃さなかった。
次に踏み込んできた敵将の剣を受け流し、あえて右側へ身体を開く。
誘いに乗った敵将が突きを放った瞬間、男は剣を下から跳ね上げ、相手の刃を外へ弾いた。
空いた懐へ踏み込み、左肩から体当たりを仕掛ける。
敵将の身体が傾いた。
男は剣を振り上げたが、敵将は倒れずに踏みとどまり、脇腹へ膝を打ち込んできた。
「ぐっ……!」
息が詰まり、反射的に後退する。
敵将も無理には追ってこなかった。
荒い呼吸が重なる中、城門の外から新たな兵士たちの足音が近づいてくる。
敵軍の後続部隊だろう。
これ以上、ここを守り続けるのは難しい。
それでも、背後から聞こえていた味方の足音は、すでにかなり遠ざかっていた。
男はわずかに安堵した。
「……満足したか?」
敵将がその表情を見て尋ねた。
「まだだ。住民が全員逃げ切ったかどうか、俺には分からんからな」
「ならば、最後まで立ち続けるつもりか」
「そうできればいいんだが、さすがに身体が言うことを聞かなくなってきた」
男は苦笑した。
右腕の痛みは強まり、左足も重い。鎧の内側では、先ほど膝を受けた脇腹が鈍く痛んでいた。
敵将は剣を構え直した。
「降伏すれば、命だけは助けるよう取り計らおう。お前ほどの武人を、ここで失うのは惜しい」
男は少し驚いたように目を細めた。
「ありがたい申し出だが、俺が降伏したところで、お前たちが進むのは変わらないんだろう?」
「軍を止める権限は、俺一人にはない」
「なら、答えは同じだ。ここを通すわけにはいかない」
敵将は静かに息を吐いた。
「……そうか」
男は剣を握り直し、相手の足元を見た。
重心がわずかに前へ傾いている。次の一撃で決めるつもりなのだろう。
こちらも、これ以上長く戦えるとは思っていなかった。
ふと、家族の顔が浮かぶ。
リインが初めてギルドの仕事を任され、失敗したことまで隠さず話してくれた日。
剣の練習で転んだミリアが、悔しそうに立ち上がった姿。
そして、家へ帰るといつも迎えてくれたリンの笑顔。
どれも特別な出来事ではないが、もう一度見たいと思うには十分だった。
男はゆっくりと息を吸った。
敵将が動く。
これまでよりも速い踏み込みに対し、男は剣を受け止めず、身体を横へ流した。
刃が肩口を裂き、鋭い痛みが走る。
それでも足を止めず、相手の懐へ踏み込んで剣を突き出した。
敵将も狙いを読んでいたらしく、剣を引き戻しながら身体を捻る。
しかし、男は途中で軌道を変えた。
肩を狙っていた切っ先が、敵将の胸元へ向かう。
相手の目がわずかに見開かれた。
同時に、敵将の剣も男の身体へ迫っていた。
二人の刃が、ほとんど同時に相手を貫いた。
衝撃に男は息を詰まらせ、敵将も苦しげに顔を歪める。
互いの身体が近づき、剣を引き抜くこともできないまま、しばらくその場に立っていた。
「……見事、だ」
敵将がかすれた声で呟いた。
男は答えようとしたが、喉から息が漏れるだけだった。
やがて敵将の膝が折れ、身体が崩れ落ちる。男もそれに引かれるように片膝をつき、手から離れた剣が石畳へ乾いた音を立てて落ちた。
周囲の敵兵たちが慌てて駆け寄ってくる。
男はその足音を聞きながら、ゆっくりと顔を上げた。
城門の奥へ続く通りには、もう味方の姿は見えない。
少なくとも、部下たちが逃げる時間は作れたらしい。
小さく息を吐くと、身体から力が抜けていった。
視界が少しずつ暗くなる。
最後に思い浮かんだのは、戦場ではなかった。
家の食卓と、娘たちの声。
リンが差し出してくれた温かな食事。
そして、数日前に酒を酌み交わした、白銀の髪の少女。
娘たちのことを頼むと告げたとき、彼女は確かに頷いてくれた。
そのことを思い出し、男はわずかに口元を緩めた。
「……頼んだ、ぞ」
誰に向けたのかも分からないほど、小さな声だった。
男の身体がゆっくりと傾く。
石畳へ倒れたあと、彼が再び立ち上がることはなかった。
◇
西門が破られたという知らせは、避難所にもすぐに広まった。
南の広場では兵士たちが避難民を集め、街の外へ移動させる準備を始めている。
すでに城下の一部では火の手が上がり、敵軍がどこまで入り込んでいるのか、正確な情報も届いていなかった。
「歩ける者は南門へ! 負傷者を運ぶ荷車を優先して通せ!」
グレイは荷車の横で動けなくなっていた老人に手を貸し、荷台へ乗せた。
「大丈夫か。無理に立たなくていいから、しばらくここで休んでいろ」
「すまないねえ……若い娘さんに、こんなことをさせてしまって」
「気にするな。俺は見た目ほど若くないし、力仕事にも慣れているからな」
老人は不思議そうな顔をしたが、すぐに小さく笑った。
グレイは荷車の進路を確保すると、避難民の列に沿って歩き始めた。
途中、道を塞いでいた棚を脇へ移し、近くの店から逃げ遅れた親子を列へ案内する。
城下の混乱は広がっていたが、住民たちは互いに助け合いながら避難を続けていた。
少なくとも、南側の避難路はまだ機能している。
ただ、先ほどから気になることがあった。
西門の方角で激しく入り乱れていた魔力の反応が減り、代わりに別の魔力が広がり始めている。
防衛軍が後退したのだろう。
グレイが足を止めたとき、負傷した兵士を支えながら歩いてくる一団が見えた。
鎧には煤と血がついており、城門付近から撤退してきた者たちらしい。
「西門から戻ってきたのか。向こうの状況はどうなっている?」
近くの兵士へ声をかけると、男は疲れた顔で頷いた。
「門は完全に破られました。北側の防衛線も崩れて、今は城下で敵を食い止めようとしています」
「そうか……。城門を守っていた部隊は、どうなった?」
兵士は少しだけ言葉に詰まった。
「俺たちは撤退命令を受けて、負傷者を連れて下がりました。隊長が最後まで残って、敵の進軍を止めてくれていたんです」
グレイの眉が動いた。
「隊長というのは、四十代くらいの大柄な男か。剣を使う軍人で、家族の話をよくするような」
「……知り合いなんですか?」
「ああ。少し前に、街道で助けてもらった。酒も一緒に飲んだんだ」
兵士が唇を噛んだ。
その表情を見て、グレイは嫌な予感を覚えた。
「……何があった?」
しばらくの沈黙のあと、兵士は絞り出すように答えた。
「隊長は……敵将と戦って、亡くなりました」
グレイは言葉を失った。
「俺たちが下がったあと、敵将と一騎打ちになったそうです。最後は相打ちだったと……後から逃げてきた兵が、そう話していました」
グレイは西門の方角へ目を向けた。
煙が立ち上り、遠くではまだ剣戟と爆発音が続いている。
つい数日前、あの男は街道で見知らぬ少女を助け、酒場では家族の話を嬉しそうにしていた。
娘たちの成長を見届けたいと笑っていた顔を、今も覚えている。
また会ったときには、昔の失敗談でも聞かせてもらうつもりだった。
それが、もう叶わない。
「……そうか」
ようやく口を開いたとき、声は自分でも驚くほど静かだった。
兵士は深く頭を下げた。
「隊長のおかげで、俺たちはここまで戻れました。あの人が残ってくれなかったら、もっと多くの兵が死んでいたと思います」
グレイは兵士を見た。
腕には傷があり、隣では仲間が肩を貸している。
あの男が守ろうとしたものの一部が、確かにここにあった。
「お前たちが生きて戻れたなら、あいつも少しは安心するだろう。今は傷を診てもらって、できることをしてやってくれ」
兵士は頷き、仲間とともに避難所へ向かった。
その背中を見送りながら、グレイはゆっくりと息を吐いた。
長く生きてきたグレイにとって、人の死は初めてではない。けれど、理解できるからといって、簡単に受け入れられるわけでもなかった。
胸の奥に残る重さとともに、男が別れ際に告げた言葉が蘇る。
『もし、俺に何かあったら、娘たちのことを頼めないだろうか』
あのときは、何も起こらないのが一番だと笑い合った。
男も、本気で生きて帰るつもりだったのだろう。
それでも、約束は残った。
グレイは顔を上げた。
リインとミリア。
ミナが嬉しそうに話していた孫たちであり、あの男が命を懸けて守ろうとした娘たち。
まだ一度も会ったことのない二人が、今どこにいるのか分からない。
「……探そう」
小さく呟き、グレイは人の流れから外れた。
近くの建物の陰へ移動し、周囲に人がいないことを確かめてから空間を開く。
薄い光の向こうに、《ドールハウス》へ続く入口が現れた。
「ライアン、ライカ、セバス、ロイ。悪いが、少し手を貸してくれ」
呼びかけると、ほどなくして四人が姿を現した。
最初に出てきたライアンが、周囲の騒ぎへ目を向ける。
「姫さん、何かあったのか? ずいぶん物騒なことになってるみたいだけど」
「ああ。敵軍が城門を突破した。俺は今、探したい人間がいるんだが、一人では手が足りそうにない」
ライカがグレイの表情を見た。
「何かあったんですね。詳しい事情は後で構いませんが、まずは探す相手を教えてください」
「リインとミリアという姉妹だ。姉が十九歳、妹が十四歳。ミナの孫で、少し前に出会った軍人の娘たちでもある」
セバスが静かに尋ねた。
「その軍人の方は、今どちらに?」
「……西門で戦死した。部下たちを逃がすために残って、敵将と相打ちになったそうだ」
四人の表情が変わった。
ライアンは何か言いかけたが、すぐに口を閉じた。
ロイが腕を組む。
「なるほどな。それで、娘たちの居場所は分かっているのか?」
「いや。避難者名簿には名前がなかった。記録が追いついていないだけかもしれないが、まだ無事を確認できていない」
グレイは四人を見渡した。
「手分けして探したい。無理に戦闘へ加わる必要はないが、逃げ遅れている人間がいれば助けてやってくれ。二人を見つけたら、まず安全な場所へ連れていってほしい」
ライカが頷いた。
「分かりました。私は避難所を回って、名前と年齢を確認します。記録が不完全でも、実際に人を見れば分かることがありますから」
「じゃあ俺は南門の外を見てくるよ。もう街を出てる可能性もあるし、避難してきた連中に聞いてみる」
ライアンに続き、セバスも口を開いた。
「私は城下の東側を確認いたします。避難経路から外れた場所に取り残されている方がいないか、併せて見てまいりましょう」
ロイは西側へ目を向けた。
「俺は城門に近い方を回る。敵兵が入り込んでるなら、そっちの方が厄介だろうしな」
「頼む。俺も街の中を探す。何か分かったらすぐに知らせてくれ」
四人がそれぞれの方向へ散っていくと、グレイも歩き始めた。
街の中では避難を急ぐ人々と戦場へ向かう兵士たちが入り乱れ、建物の間から煙が上がっていた。
グレイは行き交う人々へ声をかけながら、姉妹の行方を探した。
「リインとミリアという姉妹を知らないか。姉は十九、妹は十四だ。母親はリンという名前なんだが」
何人かは首を横に振り、心当たりがありそうな者もいたが、確かな情報は得られなかった。
ギルドの受付で働いているという話を思い出し、グレイはその建物へ向かった。
しかし、ギルドはすでに閉鎖されていた。
入口には避難を知らせる紙が貼られ、内部に人の気配はない。近くにいた職員らしい男へ尋ねると、受付の者たちも各自で避難したという。
「リインさんなら、今朝まではいたと思います。ただ、避難命令が出てからは皆ばらばらで……どこへ行ったかまでは分かりません」
「そうか。助かった。無理に探し回らず、お前も早く避難してくれ」
グレイは礼を言い、再び通りへ出た。
煙で薄暗くなった空の下、西側からは時折大きな衝撃音が響いてくる。
敵軍はすでに城下へ入り込んでいるのだろう。
グレイは足を速めた。
◇
リインが異変に気づいたのは、ギルドで避難の準備をしていたときだった。
朝から鐘が鳴り続け、職員たちは来訪者を外へ誘導しながら、重要な書類や物資をまとめていた。
普段なら冒険者たちの依頼を受け付けている窓口も、今は閉じられている。
リインは最後の書類を箱へ収め、近くの職員へ声をかけた。
「こちらは終わりました。残っている人がいないか、奥の部屋も確認してきます」
「ありがとう。でも、あまり時間はないから、確認が済んだらすぐに避難してね」
「分かっています。そちらも気をつけてください」
奥の部屋に誰も残っていないことを確かめ、入口へ戻ったときだった。
「西門の近くは危険だ! 住民はすぐに南へ向かえ!」
外から聞こえた兵士の声に、リインの足が止まった。
西門から、自分たちの家まではそう遠くない。
ミリアは今朝、家に残っていたはずだった。最近は母親の具合が良くないため、妹が家のことを手伝っている。
避難命令が届いていれば、二人とも移動を始めているかもしれない。
しかし、まだ家にいたら。
窓の外には、西側から立ち上る煙が見えた。
通りは混雑し、どの道が使えるのかも分からない。それでも、何も確かめずに避難することはできなかった。
「……ミリア」
リインは荷物を肩へ掛け、入口へ向かった。
「リイン、どこへ行くの? 避難所は南よ」
職員が声をかけてくる。
「家族がまだ家にいるかもしれないんです。少しだけ確認してきます」
「危険よ。もう西門の方では戦闘が始まっているって聞いたわ」
「分かっています。でも、妹が一人で残っていたら……」
職員が言葉を詰まらせると、リインは頭を下げた。
「無理はしません。家にいなければ、すぐに南へ向かいます」
そう告げ、ギルドを飛び出した。
大通りは避難する人々で埋まっていた。
リインは人の流れを避けながら家へ続く道を急ぎ、軍用の荷車が通りを塞いでいる場所では細い路地へ入った。
何度も歩いた道のはずなのに、今日はまるで違う場所のようだった。店の扉は閉ざされ、窓には板が打ちつけられている。
遠くで何かが崩れる音がしても、足を止めずに進んだ。
やがて見慣れた通りへ出ると、自宅の屋根が見えた。
建物はまだ無事だった。
リインは玄関へ駆け寄り、扉を開けた。
「ミリア! いるの!」
返事はない。
胸が冷たくなるのを感じながら奥へ進むと、居間には朝の食器が置かれたままで、椅子が一つ倒れていた。
「ミリア!」
もう一度呼ぶと、奥の部屋から足音が聞こえた。
「……お姉ちゃん?」
顔を出したミリアを見た瞬間、リインは駆け寄って抱きしめた。
「よかった……! 無事だったんだね。怪我はない?」
「うん。お姉ちゃんこそ、どうして帰ってきたの? 外、すごい音がしてるよ」
「あなたが心配だったの。避難命令が出てるから、すぐにここを離れよう」
リインは妹の肩や顔を確かめた。
怪我はないようだった。
「分かった。荷物は少しまとめてあるよ。お母さんの分も持っていこうと思って」
「お母さんは?」
「朝から具合が悪くて、奥で休んでたの。でも、さっき兵士の人が来て、動けない人を先に運ぶって……」
ミリアは一度言葉を切った。
「お母さんは、兵士の人たちと一緒に行ったの。南の避難所へ連れていくって言ってた」
リインは胸を撫で下ろした。
「そうだったんだね。それなら、私たちも急ごう。お母さんと合流できるように、南へ向かうよ」
「うん!」
二人は必要な荷物だけを持ち、家を出た。
しかし、通りへ出た瞬間、リインは足を止めた。
少し先の角から、武装した兵士たちが姿を現したのだ。
見慣れた軍服ではない。
リインは反射的にミリアを背後へ下げた。
「……下がって」
敵兵は三人。こちらに気づくと、互いに何かを話しながら近づいてきた。
「おい、そこの二人。止まれ」
リインは答えず、腰に下げた短剣へ手を伸ばした。
ギルドで教わった護身術と、父親から繰り返し教えられた足運びが頭に浮かぶ。
だが、相手は実戦を経験した兵士だ。正面から戦って勝てるとは思えなかった。
「ミリア、私が合図したら走って。後ろの路地へ入れば、南へ抜けられるはずだから」
「でも、お姉ちゃんは?」
「私もすぐ行く。だから、振り返らないで」
敵兵の一人が剣を抜いた。
「聞こえなかったのか? 止まれと言っている!」
リインも剣を抜く。
若い娘が武器を構えたことを意外に思ったのか、兵士が一瞬だけ足を止めた。
その隙に、リインは足元の小石を蹴り上げる。
兵士が反射的に顔を庇った。
「今!」
ミリアが路地へ向かって走り出す。
しかし、別の兵士が進路を塞いだ。
ミリアは咄嗟に身体を低くし、掴もうとする腕の下を潜り抜ける。肩をぶつけるようにして横を抜けた動きは、父親から教わった足運びに近かった。
リインも迫ってきた兵士の剣を受け流し、相手の体勢が崩れた隙に距離を取る。
深追いはせず、妹の後を追った。
「待て! 逃がすな!」
背後から怒鳴り声が響く。
リインはミリアの手を掴み、何度も角を曲がりながら瓦礫の間を抜けた。
途中で大きな爆発音が響き、近くの建物から瓦が落ちてくる。
リインは妹を引き寄せ、壁際へ身を寄せた。
破片が地面へ落ちる音が収まるのを待ち、ミリアの顔を覗き込む。
「大丈夫?」
「うん……お姉ちゃんは?」
「平気。もう少しで大通りに出られるから、そこまで頑張ろう」
ミリアが頷き、二人は再び走り出した。
だが、路地の先へ出たところで、リインは足を止めた。
通りの向こうから、別の敵兵たちが歩いてくる。
背後でも、先ほどの兵士たちの足音が近づいていた。
左右には高い建物が並び、逃げ込めそうな道はない。窓も高い位置にあり、ミリアを連れて登るのは難しかった。
「……お姉ちゃん」
妹の声が震えた。
リインはその手を握り直した。
「大丈夫。私がいるから」
そう答えながらも、状況が厳しいことは分かっていた。
二人とも護身術を習った程度の経験しかなく、先ほど逃げられたのも不意を突けたからだ。
今度は、同じ方法が通じるとは限らない。
敵兵の一人が笑った。
「さっきの娘たちか。ずいぶん手間をかけさせてくれたな」
リインは剣を構えた。
足は震えていたが、妹の前から退くつもりはなかった。
「私たちは戦うつもりなんてありません。ここを通してください」
「そう言われて、はいそうですかと通すわけにはいかないんだよ」
兵士が剣を持ち上げる。
ミリアが一歩下がると、リインはその前へ立ち、両手で剣を握り直した。
「……お願いです」
声が震えた。
それでも目を逸らさずに続ける。
「妹には、手を出さないでください」
兵士たちは答えず、ゆっくりと距離を詰めてきた。
リインはミリアを背後へ庇いながら、迫る刃を見据えた。
◇
グレイは焼けた建物の間を歩いていた。
西側へ近づくにつれて街の被害は酷くなり、通りには瓦礫が散乱している。崩れた屋根が道を塞ぎ、遠くではまだ戦闘が続いていた。
この一帯では、人の姿もほとんど見えない。
グレイは倒れた柱を避け、細い路地へ入った。
先ほどライアンから連絡があり、南門の外では姉妹の姿を確認できなかったという。ライカも避難所を回っているが、確かな情報は得られていない。
セバスとロイからも、まだ見つかったという知らせはなかった。
グレイは足を止め、周囲へ意識を向けた。
崩れた建物の向こうから、いくつもの魔力が感じられる。
敵兵と思われる反応に混じって、逃げ遅れた住民らしい弱い気配もあった。
その中に、ふと気になるものがあった。
グレイは眉を寄せる。
どこかで感じたことのある魔力だった。
強いものではなく、混乱した街の中では見落としてしまいそうなほどかすかな反応。それでも、妙な懐かしさがあった。
焼けた建物の向こう、細い路地の先から、二つの魔力が重なるように感じられる。
「……これは」
グレイは瓦礫を越え、煙の漂う路地へ向かった。
その魔力が誰のものなのか、まだ分からない。
ただ、遠い昔に触れたことのある温かさが、確かにそこにあった。
グレイは歩みを速めた。




