第5話 城門の攻防
最初に聞こえてきたのは、遠くで鳴り続ける鐘の音だった。
グレイが宿の窓から通りを見下ろすと、まだ朝も早いというのに、大通りには多くの人が集まっていた。荷物を抱えて走る男、泣いている子供の手を引く母親、店先の商品を慌てて片づける商人たち。その間を武装した兵士が駆け抜け、住民へ避難を呼びかけている。
「……ずいぶん慌ただしいな。何かあったのか」
窓を開けると、下から怒鳴り声が飛び込んできた。
「西門を閉じろ! 住民は南側の避難所へ向かえ!」
「荷車を止めるな! 道を空けてくれ!」
再び鐘が鳴り、その音に重なるように低い地響きが伝わってきた。
グレイは窓枠に手を置き、街の外へ意識を向ける。
城壁の向こうから、多数の人間の気配が近づいていた。馬の蹄や荷車の車輪、鎧を身につけた兵士たちの足音が幾重にも重なり、その規模は街道で見かける部隊とは比べものにならない。
どうやら敵軍が、この街まで迫っているらしい。
グレイは窓を閉め、部屋の隅に置いていた荷物を手に取った。
数日前、街道で出会った軍人の顔が浮かぶ。
彼は軍へ戻ると言っていた。今頃は城壁の向こうにいるのかもしれない。
少し考えてから部屋を出ると、廊下では宿の主人が慌ただしく客室を回り、宿泊客へ避難を呼びかけていた。
「お客さん、まだいたのか! 西門の外に敵が来たらしいんだ。宿も閉めるから、早く避難してくれ!」
「分かった。俺も出るつもりだが、避難先は南側でいいのか?」
「ああ。南門の近くにある広場へ行けば、兵士が案内してくれるはずだ。荷物はできるだけ少なくしてくれよ」
主人はそれだけ告げると、階段を駆け下りていった。
グレイも後に続いて宿を出る。
大通りを埋めているのは、普段のような商人や旅人ではなく、避難を急ぐ住民たちだった。軍用の荷車が次々と西へ向かう一方、家財を積んだ馬車は南へ進んでいる。狭い道では双方がすれ違えず、兵士たちが声を張り上げながら交通を整理していた。
グレイはその流れを眺め、南へ向かって歩き始めた。
戦場へ出るつもりはない。
以前、国境付近の村々を助けた結果、自分たちの行動が軍の作戦へ組み込まれていたことがあった。
助けを求めていた人々も、危険に晒されていた村も本物だった。それでも、グレイたちが動くことで生まれた余裕を、軍は別の場所で利用していた。
あのとき見た、焼けた村の光景は今も覚えている。
もちろん、目の前で人が死にそうになっているのを見捨てるつもりはない。ただ、国同士の戦いに自ら加わることと、逃げ遅れた人間を助けることは別だった。
人々の流れに合わせて歩いていると、街の西側から鈍い衝撃音が響き、少し遅れて空気が震えた。
城壁への攻撃が始まったのだろう。
通りの人々が足を止め、不安そうに顔を見合わせる。
「大丈夫だ! まだ城門は破られていない! 立ち止まらず進んでくれ!」
兵士の声に促され、避難の列が再び動き始めた。
グレイもしばらく進んだところで、道端から小さな声が聞こえた。
「……お母さん」
建物の陰に、幼い少女が座り込んでいた。
片方の靴を失い、膝を擦りむいている。周囲に保護者らしい姿はなく、立ち上がろうとしても、痛みと恐怖で身体が動かないようだった。
グレイは人の流れから外れ、少女の前にしゃがんだ。
「どうした、こんなところで。家族とはぐれたのか?」
少女は涙を拭いながら頷いた。
「お母さんと……一緒だったの。でも、人がいっぱいで……」
「そうか。なら、まずはここから移動しよう。歩けないなら俺が運ぶが、抱き上げてもいいか?」
小さく頷くのを待ってから、グレイは少女を抱き上げた。
首へ回された細い腕が、ぎゅっと服を掴んでくる。グレイはその身体を抱え直し、近くで避難誘導をしていた兵士へ声をかけた。
「この子が母親とはぐれたらしい。家族を探している者が集まる場所はあるか?」
「南の広場に保護所を設けています。迷子や負傷者は、そちらへ連れていってください」
「分かった。助かる」
広場へ向かう途中、少女は何度も母親の名前を呼んだ。グレイもそのたびに周囲を見渡したが、応える声は聞こえなかった。
やがて南の広場へ着くと、避難民のための天幕がいくつも張られていた。負傷者を診る者、食料を配る者、家族の名前を記録する者が慌ただしく行き交い、兵士と住民が協力して避難所を整えている。
グレイは少女を受付へ連れていき、事情を説明した。
「お母さんが見つかるまで、ここで待っていよう。名前を伝えておけば、向こうから探しに来たときにも分かるからな」
少女は不安そうにグレイを見上げた。
「……お姉ちゃんも、ここにいてくれる?」
「ずっとは難しいが、誰かが迎えに来るまでは一緒にいよう。まずは膝の傷を診てもらおうか」
少女を治療係へ預けようとした、そのときだった。
「エマ!」
広場の入口から女性が駆け込んできた。
「お母さん!」
グレイが腕を緩めると、少女は母親のもとへ走っていった。
女性は膝をついて娘を強く抱きしめ、何度も無事を確かめるように顔を覗き込んでいた。やがてグレイへ向き直り、深く頭を下げる。
「ありがとうございます。本当に……この子を探していて、どうしたらいいか分からなくて……」
「見つかってよかった。膝を擦りむいているから、念のため治療を受けさせてやってくれ」
グレイがそう告げると、女性は再び礼を言い、娘の手を引いて治療用の天幕へ向かった。
少女は何度も振り返って手を振り、グレイも軽く手を上げて応える。
その直後、街の西側から大きな爆発音が響いた。
広場にいた人々が一斉に顔を上げる。
城壁の向こうには、黒い煙が立ち上っていた。
◇
西門の前では、すでに激しい戦闘が始まっていた。
城壁の上から矢と魔法が放たれ、門へ近づこうとする敵兵を押し返している。しかし敵軍も攻城兵器を前進させ、大きな石を次々と撃ち込んでいた。
石が防壁へ衝突するたび、砕けた破片が降り注ぐ。
城門の内側では兵士たちが盾を構え、万一門が破られた場合に備えていた。
その中央に、グレイが街道で出会った軍人の姿があった。
「負傷者を後ろへ下げろ! 動ける者は交代で前へ出ろ。疲れたまま無理に戦えば、余計に隊列が崩れるぞ!」
男の指示に従い、兵士たちが素早く動く。
戦が長引いたことで、防衛軍の消耗は激しかった。鎧には修理の跡が残り、十分な休息を取れていない者も多い。新しく補充された兵士の中には、まだ実戦経験の浅い若者もいた。
昨日まで一緒に食事をしていた者が、今朝には担架で運ばれている。
それでも、ここを放棄するわけにはいかなかった。
西門を突破されれば、敵軍はそのまま城下へ流れ込む。避難が完了していない住民も多く、街の中で戦闘が始まれば被害はさらに広がるだろう。
「隊長! 北側の城壁に敵の魔術師が集まっています!」
駆け寄ってきた若い兵士の報告に、男は城壁を見上げた。
敵軍の後方で魔力の光が集まっている。
「盾兵を北側へ回せ。魔術師には防御を優先させろ。攻撃を受けた直後に敵が突っ込んでくる可能性があるから、槍兵は位置を動くな」
「了解!」
兵士が走り去ると、男は剣を抜いて城門の前へ進んだ。
ほどなくして城壁の上で爆発が起こり、石片が雨のように降り注ぐ。防御魔法によって直撃は防がれたものの、衝撃で足場が崩れ、数人の兵士が倒れた。
「救護班を呼べ! まだ動ける者は持ち場を離れるな!」
男は倒れた兵士の一人へ駆け寄り、肩を貸して壁際へ運んだ。
額から血を流した若い兵士が、震える手で剣を握っている。
「隊長……すみません。俺、まだ戦えます」
「今は傷を診てもらえ。お前がここで倒れたら、後で家族に何と言えばいいんだ」
男は兵士の剣を鞘へ戻し、駆けつけた救護係へ引き渡した。
その間にも城門の外では攻撃が続き、巨大な丸太が扉へ打ちつけられるたびに、補強された木材が軋んでいた。
「隊長、東側の部隊から援軍要請です。あちらも敵の攻撃を受けていて、兵を回せないそうです」
「分かった。こちらで持ちこたえるしかないな。西門の予備兵を半分ずつに分け、交代で休ませろ。全員を前に出しても、疲れ切っていては意味がない」
男は城門へ視線を戻した。
攻撃は激しさを増している。このままでは、長く持たないかもしれない。
ふと、家族の顔が浮かんだ。
リインは仕事へ出ているかもしれないし、ミリアは母親の手伝いをしているかもしれない。避難命令が届いていれば、きっと二人でリンを支えているはずだ。
家族が無事に南へ逃げられるように、少しでも時間を稼がなければならなかった。
「門が破られたら、俺たちが前へ出る。後ろの部隊には、住民の避難を最優先するよう伝えてくれ」
「隊長も撤退するんですよね?」
副官らしい兵士が尋ねた。
男は少しだけ笑った。
「当然だ。ここで死ぬつもりはない。ただ、全員が一度に下がれば敵も追ってくる。誰かが最後まで残らなきゃならん」
「それなら、俺たちも残ります」
「気持ちはありがたいが、命令を聞け。お前たちには、まだやることがある」
副官は何か言いかけたが、男の表情を見て口を閉じた。
再び衝撃音が響き、城門の上部から木片が落ちる。
「来るぞ! 全員、配置につけ!」
男の号令に、兵士たちが一斉に盾を構えた。
◇
南の広場では、避難民の数がさらに増えていた。
グレイは天幕の間を歩きながら、負傷者の運搬を手伝っていた。城壁付近から逃げてきた人々の中には、瓦礫で足を傷つけた者や、煙を吸って動けなくなった者もいる。
治療係の手が足りず、兵士たちも避難誘導で忙しい。
グレイは道端で動けなくなっていた老人を背負い、治療用の天幕へ運んだ。
「この人を診てやってくれ。足を痛めているようだが、意識ははっきりしている」
「ありがとうございます! こちらへ寝かせてください」
治療係の女性が指し示した寝台へ老人を下ろし、グレイはそのまま外へ出た。
広場の入口では荷車が横倒しになり、積んでいた荷物が通路を塞いでいた。数人の男たちが車体を起こそうとしていたが、車輪が石畳の溝に挟まり、なかなか動かせないようだった。
「少し離れていてくれ。俺が動かす」
グレイが声をかけると、男たちは困惑したように振り返った。
「いや、嬢ちゃん。これは一人じゃ無理だろう」
「大丈夫だ。力には少し自信があるからな」
グレイは荷車へ手を添え、重さを確かめてからゆっくりと持ち上げた。
男たちが驚く間に車体は元の位置へ戻り、挟まっていた車輪も外れる。
「……すげえな。あんた、冒険者なのか?」
「似たようなものだ。それより、ここを空けておかないと後ろが詰まるぞ。荷物は端へ寄せておいてくれ」
男たちは慌てて頷き、散らばった荷物を片づけ始めた。
グレイはその様子を見届け、広場の外へ目を向けた。
西側の空には煙が広がり、先ほどから衝撃音が途切れることなく続いている。城門の守備が苦しくなっているのだろう。
そちらへ意識を向けると、多くの魔力が入り乱れる中に、街道で出会った男のものと思われる気配があった。
まだ戦っているらしい。
グレイは眉を寄せた。
彼の娘たちが、この街のどこかにいる。
ミナから聞いていた名前は、リインとミリア。父親から託された願いも忘れていないが、今のところ二人の居場所は分からなかった。
無理に探し回れば、避難の流れを乱すことになるかもしれない。
グレイは近くの兵士へ声をかけた。
「避難者の名簿は、どこで管理している? 知り合いの家族が無事に逃げているか確かめたいんだ」
「広場の奥にある建物です。ただ、まだ全員の名前を確認できていません。避難してきた順に記録しているところなので、少し待っていただくことになると思います」
「分かった。急かすつもりはない。確認できるようになったら教えてくれ」
グレイは礼を言い、指し示された建物へ向かった。
入口には家族の安否を尋ねる人々が列を作り、中では数人の職員が紙束を広げて名前を記録している。
列の最後尾へ並び、しばらく待っていると順番が来た。
「確認したい家族の名前を教えてください」
「リインとミリアという姉妹だ。母親はリンという。父親は軍人で、今も西門の守備に参加しているはずだ」
職員はいくつかの名簿を確認し、申し訳なさそうに首を横に振った。
「今の名簿には、そのお名前がありません。ただ、まだ記録が追いついていない場所もありますので、避難していないとは限りません」
「そうか。分かった。後でまた確認させてもらうよ」
礼を言って建物を出たグレイは、広場の入口へ戻った。
名簿に名前がないからといって、危険な場所に残っているとは限らない。別の避難所へ向かった可能性もあるし、まだ移動の途中なのかもしれなかった。
それでも、確認できないままでは落ち着かない。
父親から聞いた姉妹の年齢と特徴を思い出す。
十九歳の姉と、十四歳の妹。
しかし、顔を見たことがない以上、人混みの中から見つけ出すのは難しかった。
せめて、何か目印になるものを聞いておけばよかった。
そう考えたところで、再び大きな衝撃音が響いた。
今度は、これまでとは違う。
木材が裂け、金属が軋むような音が遠くまで響き、その直後、兵士の叫び声が聞こえてきた。
「西門が破られたぞ!」
広場にいた人々が、一斉に動きを止めた。
◇
西門の扉は、中央から大きく裂けていた。
補強していた鉄の留め具が外れ、重い木片が地面へ落ちている。開いた隙間から敵兵が次々と押し寄せ、城門の内側では防衛軍が必死に侵入を食い止めていた。
「盾を前へ! 槍兵は下がるな!」
男は叫びながら先頭の敵兵へ斬りかかり、相手の剣を受け流して肩口へ一撃を加えた。
倒れた敵兵を越えて別の兵士が迫ってくると、一歩下がって盾兵の隊列へ戻る。
しかし、敵軍の数は多かった。
門の破壊によって一気に押し込まれ、守備兵たちは少しずつ後退を余儀なくされていた。
「隊長! 北側の防衛線が崩れています!」
副官の叫びに振り返ると、城壁沿いの通路からも敵兵が入り込んでいた。
防衛線の一角が突破されたのだ。このままでは、門を守る部隊が背後から挟まれてしまう。
男は周囲を見渡した。
城門の内側には、まだ多くの兵士が残っている。負傷者も少なくない。
そして、その先には住民たちが避難している街があった。
ここで全滅するわけにはいかなかった。
「副官、残っている兵をまとめろ! 南へ続く通りを確保して、住民の避難を助けるんだ!」
「隊長はどうするんですか!」
「俺はここで敵を止める。お前たちは負傷者を連れて下がれ!」
「しかし、それでは隊長が!」
男は迫ってきた敵兵の剣を受け流し、相手を押し返した。
「命令だ! ここで全員が倒れたら、誰が住民を守るんだ!」
副官は唇を噛んだものの、すぐに兵士たちをまとめ始めた。
「負傷者を優先しろ! 動ける者は後方を守れ! 南へ下がるぞ!」
兵士たちが次々と後退していく。
男はその背中を守るように、城門の中央へ立った。
門の外からは、まだ多くの敵兵が押し寄せている。身体には疲労が蓄積し、腕に増えた傷からは血が滲んでいた。
それでも、剣を握る手に迷いはなかった。
ここを抜かれれば、後退する部下たちが追いつかれる。その先には、避難を続ける住民がいる。
男は迫ってきた敵兵を迎え撃った。
剣がぶつかり、鋭い金属音が響く。一人を押し返すとすぐに次の相手が現れたが、男は無理に追撃せず、相手の足を止めることを優先した。
倒すことより、進ませないこと。
今必要なのは、勝利ではなく時間だった。
やがて、敵兵たちの動きが変わった。
左右へ分かれ、中央に道を開ける。
その奥から、一人の武人が歩いてきた。
他の兵士たちとは明らかに違う装備を身につけ、肩には敵軍の紋章が刻まれた外套を掛けている。手にした長剣も、よく手入れが行き届いていた。
男はその姿を見て、相手がただの兵士ではないことを悟った。
この攻撃を指揮している敵将の一人なのだろう。
武人は周囲の兵士たちを制し、男の前へ進み出た。
「ここまでだ。部下を逃がすために残ったのか」
男は答えず、剣を構え直した。
敵将は城門の奥へ目を向ける。後退していく防衛軍の姿が、遠くに見えていた。
「見事な判断だ。だが、お前一人で我々を止められると思っているのか?」
「止められるかどうかは、やってみなければ分からん」
男は静かに答えた。
敵将はわずかに目を細めた。
「名を聞こう。これほどの状況で逃げずに残る者なら、覚えておく価値がある」
「名乗るほどの者じゃない。ただ、家へ帰りたいだけの父親だよ」
その答えに、敵将は一瞬だけ意外そうな表情を見せた。
男は剣を握り直した。
リインの明るい笑顔が浮かぶ。
ミリアが小さな手で剣を握り、何度も構えを確かめていた姿。そして、仕事から帰るたびに迎えてくれたリンの顔。
もう一度、あの家へ帰りたい。
娘たちの成長を見届け、妻と食卓を囲みたいという願いは、今も変わっていなかった。
男はゆっくりと息を吐き、足の位置を整えた。
敵将が剣を持ち上げると、周囲の兵士たちが距離を取り、二人の間にわずかな空間が生まれる。
背後では、部下たちが住民の避難路を確保するために走っていた。
男はその足音が遠ざかるのを聞きながら、迫る敵将へ剣を向け、一歩踏み出した。




