第4話 名も知らぬ武人
街道を吹き抜ける風には、焦げた木の匂いが混じっていた。
グレイは道端に転がる荷車の残骸へ目を向けた。片方の車輪が外れた荷台には焼けた布が引っかかり、周囲には争った痕跡が残っている。かつて商人や旅人が行き交っていた街道も、今では軍の野営跡が点在し、村へ続く分かれ道には通行を警戒する柵が設けられていた。
国境を挟んだ二つの国が、戦を始めていた。
長く生きてきたグレイにとって、人間同士の争いは珍しくない。国が生まれ、滅びるところも見てきたし、昨日まで同じ食卓を囲んでいた者たちが、掲げる旗の違いだけで敵になることもあった。
それでも、慣れることと何も感じなくなることは違う。
今回の争いも、始まりは国境付近での小さな衝突だったという。双方が相手の非を訴えて兵を集め、互いに引けなくなった結果、今では何が原因だったのかさえ、人によって話が違っていた。
どちらの国が正しいのか、グレイに判断するつもりはない。ただ、焼けた村で家族を探す子供や、帰る場所を失った老人を見るたび、戦を始めた者たちは彼らの顔を知っているのだろうかと思うことがあった。
数日前にも、街道沿いの集落で井戸を巡って兵士と住民が言い争い、剣が抜かれる騒ぎがあった。
グレイが間に入り、双方の武器を取り上げたことで血は流れずに済んだものの、兵士は邪魔されたことに腹を立て、住民は報復を恐れていた。結局、彼女がその場を離れるまで、誰一人として安心した顔を見せなかった。
助けたことを後悔しているわけではないが、目の前の争いを止めても、その原因まで消せるわけではなかった。
グレイは小さく息を吐き、緩やかな坂の向こうへ目を向けた。このまま歩けば、夕方には街へ着くだろう。
今は従者たちとも別行動を取っている。ライアンとライカ、セバス、ロイにはそれぞれ用事を任せており、合流場所も決めてあった。急ぐ必要はないため、グレイは街道の様子を確かめながら、一人で旅を続けていた。
人の気配を感じたのは、坂へ差しかかる少し手前だった。
道沿いの林から、汚れた軍服を着た男たちが姿を現した。肩の徽章は外され、鎧の留め具もいくつか失われている。腰に下げた剣も手入れが行き届いておらず、正規の隊列から離れた兵士たちだと見当がついた。
男たちはグレイを見つけると、互いに顔を見合わせた。
「おい、そこの女。ちょっと待ちな」
先頭の男に呼び止められ、グレイは足を止めた。
「何か用か。道を尋ねたいなら、この先の街へ向かっているところだが」
「そうじゃねえよ。こんなところを女が一人で歩いてるなんて、ずいぶん不用心じゃないかと思ってな」
男は笑いながら近づき、後ろの二人も進路を塞ぐように道へ出てきた。
酒の匂いがした。
先頭の男の頬には新しい傷があり、軍服の袖には乾いた血がついている。疲労と苛立ちが顔に出ていたが、目の前の相手を警戒している様子はない。
「俺は急いでいないが、用がないなら通してくれ。そちらも余計な面倒を増やさない方がいいと思うぞ」
「へえ、随分と偉そうな口を利くじゃねえか。俺たちが誰だか分かって言ってるのか?」
「軍服を着ていることくらいは分かる。ただ、今のお前たちが軍の命令で動いているようには見えないな」
男の笑みが消え、後ろの一人が剣の柄へ手を伸ばした。
グレイはその動きを見ながら、どう対処するか考えた。
殺す必要はない。武器を取り上げ、しばらく動けないようにしておけば十分だろう。下手に傷つければ、後から余計な騒ぎになるかもしれない。
そう判断して指先へ魔力を集めた、そのときだった。
「そこまでにしておけ」
背後から落ち着いた男の声が響いた。
振り返ると、街道をこちらへ歩いてくる軍人の姿があった。
四十代ほどの大柄な男で、使い込まれた軍服の上から軽い防具を身につけている。背筋は真っ直ぐに伸び、腰には剣を下げていたが、その歩き方に無駄はなかった。
男はグレイの横へ並ぶと、進路を塞いでいる兵士たちへ視線を向けた。
「その人から離れろ。武器を抜く必要もないはずだ」
「何だ、お前。関係ねえだろ」
「今から関係がある。通りがかった人間に剣を向けようとしているなら、見過ごすわけにはいかない」
軍人は怒鳴ることも、相手を威圧しようとすることもなかった。ただ当然のことを告げるような口調で、兵士たちの動きを見ている。
「お前、どこの部隊だ?」
先頭の男に尋ねられ、軍人が所属を告げると、兵士たちの表情が変わった。
「俺たちは何もしてねえよ。ただ話してただけだ」
「なら、ここで終わりにしろ。武器から手を離して、道を空けるんだ」
軍人が一歩前へ出ると、兵士たちはわずかに身構えた。
剣を抜く素振りさえ見せていないが、グレイには両者の力量の差が分かった。男は相応の実戦経験を積んでおり、相手の動きや危険な間合いを身体で理解している。
兵士たちも、それを感じ取ったのだろう。
「……分かったよ。行きゃいいんだろ」
先頭の男が舌打ちすると、残る二人も不満そうに呟きながら林へ引き返していった。
最後の一人が姿を消すまで見届けてから、軍人はグレイへ向き直った。
「怪我はないか。怖い思いをさせたな」
グレイは少しだけ目を瞬かせた。
怖い思いをしたかと聞かれるのは、ずいぶん久しぶりだった。
「怪我はない。あの程度なら自分で対処できたんだが……助かったよ。礼を言う」
「そうか。それならよかった。最近は部隊から離れた兵士が街道で問題を起こすこともある。女一人で歩くには、あまり良い状況じゃないからな」
男はグレイの荷物へ目を向けた。
「街へ向かっているのか?」
「ああ。日が暮れる前には着くつもりだ。お前も同じ方向なら、途中まで一緒に歩かないか」
「構わないが、俺は少し急ぎ足になるぞ。軍へ戻る前に、街で済ませておきたい用事があるんだ」
「それくらいなら問題ない。俺も歩くのは遅くないからな」
グレイがそう答えると、男は少し意外そうな顔をしたものの、すぐに笑って頷いた。
「分かった。それなら一緒に行こう」
二人は並んで歩き始めた。
グレイはしばらく男の横顔を眺めていた。
彼は自分が何者なのかを知らず、先ほどの兵士たちから、か弱い旅人を助けたつもりでいるのだろう。その認識をわざわざ正す必要はないが、少し可笑しくもあった。
「一つ聞いてもいいか」
「何だ?」
「さっきの連中は、相手によっては本当に剣を抜いたかもしれない。それでも、よく迷わず割って入ったな」
男は少し考えてから答えた。
「迷わなかったわけじゃないさ。相手が何人もいたし、こちらが一人なのは分かっていた。ただ、目の前で誰かが襲われそうになっていたら、放っておけないだろう?」
「軍人だからか?」
「軍人である前に、そうしたいと思っただけだよ。娘たちにも、人が困っていたらできる範囲で手を貸せと教えているからな。父親の俺が見て見ぬふりをするわけにもいかない」
男は照れくさそうに笑った。
立派なことを言おうとしているのではなく、普段から大切にしていることを、そのまま口にしたのだろう。
「なるほど。娘がいるのか」
「ああ、二人な。どちらも、もう小さな子供というわけじゃないが、親からすればいつまで経っても心配なものだ」
「それは分かる気がする。俺にも、放っておくと何を始めるか分からない家族がいるからな」
「はは、それは大変そうだな」
「まあ、退屈はしない。少し目を離しただけで面倒を持ち帰ることもあるが、そういうところも含めて家族だからな」
グレイが肩をすくめると、男は声を上げて笑った。その笑い方には、軍人としての緊張がなかった。
やがて街道の先から荷車が近づいてきたため、二人は道の端へ寄った。食料を積んだ商人らしい男が軽く頭を下げ、馬を進ませていく。
グレイは荷車を見送ってから、隣の男へ目を向けた。
「そういえば、まだ名乗っていなかったな。俺はグレイという。旅をしている者だ」
男の足が、ほんの少しだけ止まった。
「……グレイ?」
「ああ。何か気になることでもあるのか」
「いや、珍しい名前だと思ってな。知り合いから何度か聞いたことがあるんだが……」
男は首を傾げ、それから笑った。
「すまない。今のところは、ただ同じ名前というだけだろう。俺の方も名乗っておきたいところだが、今は軍務の途中でな。所属や名前をあまり広めないよう言われているんだ」
「構わない。名前が分からなくても、酒くらいは一緒に飲めるだろう」
「酒?」
「さっきの礼だ。街に着いたら一杯奢らせてくれ。もちろん、時間があればの話だが」
「礼なんて必要ないさ。怪我もなかったんだろう?」
「必要かどうかは俺が決める。せっかく気持ちよく助けてもらったんだ、こちらも気持ちよく礼をしたい」
男は困ったように笑った。
「そこまで言うなら、少しだけ付き合おう。ただし、一杯だけだぞ。まだ戻らなきゃならない場所があるからな」
「分かった。一杯で足りなければ、次に会ったときの楽しみにしておこう」
そんな話を交わしながら、二人は街へ向かった。
◇
街の酒場は、夕方を迎える前からそれなりに賑わっていた。
戦が始まってから客足が減った店も多いというが、軍人や商人が立ち寄るこの店には、今も人が集まっているらしい。
扉を開けると、焼いた肉と酒の香りが漂ってきた。奥では数人の男たちが談笑し、窓際には旅人らしい一団が座っている。
グレイは空いている席を見つけ、軍人を誘った。
「ここなら落ち着いて話せそうだな。酒は何がいい?」
「そうだな……戻ってから仕事があるかもしれないし、軽いものにしておくよ」
「なら、俺も同じものにしよう。飲み比べをするつもりで誘ったわけじゃないからな」
注文を済ませると、二人は向かい合って腰を下ろした。
男は剣を邪魔にならない位置へ置き、軍服の襟元を少し緩める。その慣れた動きを見て、グレイは腰の剣へ目を向けた。
「随分と使い込んでいるな。その剣、長い付き合いなのか」
「ああ。若い頃から使っている。何度か直してもらっているが、手に馴染んでいるから替える気になれなくてな」
「悪くない選択だ。武器は新しければいいというものでもない。使い手が自分の癖を理解している方が、よほど頼りになることもある」
「そう言ってもらえるとありがたい。最近は新しい装備の方が優れていると言われることも多いからな」
「性能が良いことと、使いやすいことは別だろう。もっとも、壊れかけているものを無理に使うのは勧めないが」
男は苦笑した。
「耳が痛いな。昔、修理に出すのを面倒がって、妻に随分と叱られたことがある」
「それは妻が正しい。自分の命を預ける道具の手入れを怠るようでは、腕が良くても意味がないからな」
「まったくだ。あのときは俺も反省したよ」
運ばれてきた酒を受け取り、二人は軽く杯を合わせた。
男は一口飲むと、ようやく肩の力を抜いたようだった。
「ところで、グレイは旅をしていると言っていたな。こういう時期に一人で歩いているのは、何か目的があるのか?」
「特別な用事があるわけじゃない。以前から各地を旅しているんだが、今回は少し遠回りをしている。道がどう変わったのか、自分の目で見ておきたくてな」
「なるほど。旅慣れているんだな。さっきも落ち着いていたし、俺が思っているより腕が立つのかもしれない」
「少なくとも、簡単に倒されるつもりはない。ただ、できれば剣を抜かずに済む旅の方が好きだな」
「それには同感だ。俺も仕事で武器を持っているが、使わずに帰れるなら、それが一番いい」
男は杯を置いた。
その手の甲や指には古い傷が残り、酒を飲んでいる間も周囲への注意を完全には解いていない。幾度となく実戦を経験してきたことは明らかだったが、戦うことを誇る様子はなかった。
「軍人としては、珍しい考え方なのか?」
「どうだろうな。戦うことに誇りを持つ者も、強くなることを目標にする者もいる。どちらが悪いというわけじゃない。ただ、俺は家へ帰るたびに、剣を使わずに済む日が続けばいいと思うようになった」
「家族がいるからか」
「ああ。妻と娘たちがいるからな。仕事を終えて帰ったとき、いつもどおりの顔で迎えてもらえる。それだけで十分だと思うことがある」
男は少し照れたように笑った。
「若い頃は、もっと大きなことを考えていたんだがな。今では、家族と一緒に食事ができる日を大切にしたいと思っている」
グレイは杯を傾けた。
酒の味は悪くなかったが、それ以上に男の話が心地よかった。
戦が始まってから耳にするのは、敵への怒りや失ったものへの嘆きばかりだった。もちろん、それらを否定するつもりはない。奪われた者が怒り、悲しむのは当然のことだ。
ただ、目の前の男は戦の中に身を置きながら、帰る場所のことを考えている。
それが、グレイには少し懐かしかった。
「娘は二人だったな。どんな子たちなんだ?」
尋ねると、男の表情が明るくなった。
「上の娘は、昔から好奇心が強くてな。興味を持ったことには何でも首を突っ込みたがる。小さい頃は、目を離すと知らない人にまで話しかけていたよ」
「それは賑やかそうだな。親としては気が休まらなかっただろう」
「ああ。でも、誰とでもすぐ仲良くなれるところは、あの子の良いところだと思っている。今はギルドで受付の仕事をしているんだが、本人にも合っているみたいでな」
娘の話をする男の顔には、先ほどまでとは違う柔らかな笑みが浮かんでいた。
「下の娘はどうなんだ?」
「妹の方は、昔は姉の後ろをついて歩いてばかりだった。けれど最近は、自分で考えて行動するようになってな。家のこともよく手伝ってくれるし、俺が教えた剣の練習も続けているらしい」
「ほう。娘たちにも剣を教えているのか」
「本格的なものじゃないさ。身を守るための基本だけだ。上の娘もギルドの指導官に教わっているらしくてな。二人とも、俺が思っている以上にしっかりしてきたよ」
嬉しそうに話していた男だったが、ふと寂しげな表情を見せた。
「親としては複雑だな。ついこの間まで小さかった気がするのに、いつの間にか自分の考えを持って、将来のことまで話すようになっている」
「成長するのは早いものだ。気づいたときには、こちらが思っていたよりずっと先を見ていることもある」
「そうなんだよ。上の娘なんて、いつか使節団に関わる仕事をしたいと言っていてな。昔、俺が護衛を務めたパレードを見てから、ずっと憧れているらしい」
グレイは杯を置いた。
使節団に憧れる、ギルドで働く姉。そして、剣の練習を続ける妹。
どこかで聞いたような話だった。
「娘たちの名前を聞いてもいいか。随分と楽しそうに話すものだから、少し興味が湧いた」
「もちろん。姉がリイン、妹がミリアだ。二人とも、俺にとっては何より大切な娘たちだよ」
グレイの手が止まった。
「……リインと、ミリア?」
「ああ。どうした、知っている名前なのか?」
不思議そうに首を傾げる男を見つめながら、グレイは記憶を辿った。
以前、ミナが嬉しそうに話していた孫たちの名前。
姉のリインは好奇心旺盛で、妹のミリアは姉が大好きなのだという。会うたびに新しいことを覚え、できることが増えていく孫たちの話を、本当に楽しそうに聞かせてくれた。
「少し、確かめたいことがある。お前の妻は、リンという名前じゃないか?」
男の表情が変わった。
「……そうだ。どうして知っている?」
「その母親は、ミナという女性だろう。昔、海を見に行ったことがあると、家族によく話していたはずだ」
男は驚いたように目を見開き、しばらくグレイの顔を見つめた。
「待ってくれ。さっき、グレイと名乗ったな。もしかして……義母さんが昔から話していた、あのグレイなのか?」
グレイは小さく笑った。
「ミナがどんな話をしていたのかにもよるが、あいつを初めて海へ連れていったのは俺だよ」
男は何度か口を開きかけ、結局、深く息を吐いた。
「……驚いたな。こんなところで会うことになるとは思わなかった。義母さんから何度も話を聞いていたんだ」
「そうか。あいつは昔から、気に入った話を何度でもするところがあったからな」
「リンも小さい頃から聞いて育ったらしくて、娘たちにも話していたよ。家族の中では、ずっと前から知っている人みたいな存在なんだ」
グレイは思わず笑った。
ミナが家族に自分の話をしていたことは知っていたが、孫たちにまで語り継がれていたとは思わなかった。
「なるほど。あの二人の父親がお前だったとはな。ミナから話は聞いていたが、まさか街道で助けられることになるとは思わなかった」
「こちらこそ驚いているよ。義母さんが話していたのは、もっと昔のことだからな。今の君とは別人だと思っていたんだ」
「見た目が変わりにくい種族でな。長く生きていると、こういうこともある」
グレイが軽く肩をすくめると、男は納得したように頷いた。
「そうか……。それにしても、不思議な縁だな。義母さんが話していた人と、こうして酒を飲むことになるなんて」
男は懐かしそうに笑った。
「そういえば、義母さんとは最近も会っているのか? 俺たちは戦が始まってから、なかなか顔を出せなくてな」
グレイは杯を持つ手を止めた。
ミナとは、もう会えない。
彼女が亡くなった日も、葬儀で最後の別れを告げたことも、今なお覚えている。
だが、目の前の男は何も知らない様子だった。
「……最近は、会っていないな」
「そうか。元気にしているといいんだが。リンも心配していてな。手紙を出しても、返事がなかなか届かないんだ」
「戦の影響か」
「ああ。街道が封鎖されることも増えたし、郵便を運ぶ者も減っているらしい。義母さんのところからも手紙が来なくなって、もう随分になるよ」
男は困ったように笑った。
「まあ、あの人のことだから、きっと元気にしているとは思うんだがな。戦が落ち着いたら、娘たちを連れて顔を見せに行きたいと思っている」
グレイは男を見つめた。
ミナの訃報は、まだこの家族に届いていないのだろう。
葬儀の日、家族へ知らせるための手紙が出されていたとしても、今の街道の状況では、途中で止まっていても不思議ではなかった。
今ここで伝えることはできる。
けれど、軍務へ戻ろうとしている男に、酒場の席で突然その事実を告げることが、果たしてよいのだろうか。
少なくとも、軽く口にできる話ではなかった。
「……ミナは、家族の話をするのが好きだったな」
グレイがそう言うと、男は嬉しそうに頷いた。
「ああ。特に孫たちの話になると止まらなくてな。リンも、母親には敵わないって笑っていたよ」
「そうか。あいつらしいな」
グレイは小さく笑い、初めて海を見た日のミナを思い出した。
波打ち際で足元へ寄せてくる水を不思議そうに眺め、何度も振り返っては楽しそうに笑っていた少女。
あの日から長い年月が過ぎ、彼女は自分の人生を歩み、家庭を持ち、孫たちの成長を見守った。
そして、その生涯を終えた。
目の前の男が語るミナの姿は、グレイの知る晩年の彼女と何も変わらなかった。
「戦が終わったら、義母さんも一緒に海へ行けたらいいな。娘たちも、あの話を聞いてからずっと行きたがっているんだ」
男は何気なくそう言った。
グレイはすぐには答えられなかった。
「……そうだな。あの二人にも、いつか海を見せてやるといい」
「ああ。きっと喜ぶと思うよ」
男は笑い、残っていた酒を口に運んだ。
グレイも杯を傾けたが、先ほどまでとは少し違う味がした。
ミナが大切にしていた家族が、今も彼女との再会を楽しみにしている。
その事実を知りながら、グレイは何も言えなかった。
「ミナから、お前の話も少しは聞いていたんだがな。家族を大切にする、真面目な軍人だと言っていた気がする」
「それは褒めすぎだな。家では娘たちに注意されることも多いし、最近は仕事ばかりで、家族に迷惑をかけている」
「仕事が忙しいのは仕方ないだろう。ただ、家族が待っているなら、できるだけ帰ってやれ」
「ああ。俺も、そうしたいと思っている」
男は静かに頷いたが、その表情からは先ほどまでの明るさが少し薄れていた。
街道の様子を思えば、軍人としての仕事が以前より重くなっていることは想像できる。ただ、彼がどこまで話せる立場なのかは分からず、グレイも無理に尋ねることはしなかった。
◇
酒場の窓から差し込む光が、少しずつ傾き始めていた。
男は杯に残った酒を飲み干すと、時間を確かめるように外へ目を向けた。
「そろそろ戻らないとな。思ったより長居してしまった」
「一杯だけという約束だったからな。引き留めるつもりはないが、話せてよかったよ」
「俺もだ。まさか義母さんの知り合いと、こんなところで酒を飲むことになるとはな」
二人は席を立ち、グレイが会計を済ませて店を出た。
夕方の風が通りを抜け、商人たちは店じまいの準備を始めている。遠くを軍用の荷馬車が通り、車輪の音が石畳に響いていた。
男はその音へ一度だけ目を向けた。
「……戦が始まってから、街の空気も変わったな」
「そうだな。俺も各地を歩いているが、以前より人の顔が硬くなったように感じる」
「仕方のないことかもしれないが、できれば早く終わってほしいものだ。兵士にも、帰る家があるからな」
男が腰の剣を確かめるのを見て、グレイは尋ねた。
「お前は、今の戦をどう思っている?」
男はすぐには答えず、通りを歩く人々へ目を向けた。
「軍人としては、命令に従って動くしかない。国を守るために必要なこともあるし、俺たちが何もしなければ、もっと多くの人が傷つくかもしれない」
そこで一度、言葉を切る。
「ただ、戦場で向かい合う相手にも、家族がいるんだよな。そんな当たり前のことを考えるようになってから、剣を抜くたびに少しだけ重く感じるようになった」
グレイは黙って耳を傾けた。
「だからといって、何もしないわけにはいかない。俺には守るべきものがあるし、そのために軍人を続けている。できることなら、誰かを殺すためじゃなく、誰かを生かすために剣を使いたいんだ」
男は少し気恥ずかしそうに笑った。
「すまない。酒が入ると、つい余計なことまで話してしまうな」
「いや、悪い話じゃない。むしろ、今の時代には必要な考え方だと思うぞ」
グレイが答えると、男は表情を和らげた。
通りの向こうから軍服姿の兵士たちが歩いてきて、男を見つけると軽く敬礼する。男も自然な動きで応じ、そのまま彼らを見送った。
「そういえば、娘たちは元気にしているんだな。リインはギルドで働いていると言っていたが、ミリアももう大きくなったんだろう?」
「ああ。姉が十九で、妹が十四だ。二人とも最近は家のことをよく手伝ってくれる。俺が帰る頃には、夕食の支度まで終わっていることもあるよ」
「そうか。ミナが話していた頃は、まだ小さな子供だったのにな」
「義母さんも同じことを言っていたよ。会うたびに大きくなっているから、次に会うときが楽しみだって」
男は笑ったものの、その表情はすぐに曇った。
グレイが何も言わずにいると、男はしばらく通りの先を見つめてから、静かに口を開いた。
「グレイ。少し、頼みたいことがあるんだ」
「何だ。俺にできることなら聞こう」
「……もし、俺に何かあったら、娘たちのことを頼めないだろうか」
グレイは男へ視線を向けた。
「何かあったら、というのは?」
「軍人だからな。戦場へ出れば、必ず帰ってこられるとは限らない。もちろん、俺だって簡単に死ぬつもりはないし、家族の元へ戻るためにできることは全部する」
男は一度息を吐いた。
「ただ、最近は状況が良くない。家族には余計な心配をかけたくないから、こんな話はできないんだが……君なら、聞いてもらえる気がした」
出会ってから、まだ半日も経っていない。それでも、彼が軽い気持ちで頼んでいるわけではないことは、その表情から十分に伝わってきた。
「娘たちを守ってほしい、ということか」
「ああ。何か困ったことがあったとき、力を貸してやってほしい。あの子たちはまだ若いし、これから先、いろんなことがあるだろうから」
男はグレイの顔を見つめた。
「義母さんが君を信頼していた理由は、今日少し分かった気がする。だから、こんなことを頼んでしまった。無理なお願いだというのは分かっているんだが……」
グレイはすぐには答えなかった。
思い浮かんだのは、初めて海を見た日のミナと、その生涯を見送った日のことだった。
かつて、あの少女は自分の足でいろいろな場所へ行ってみたいと話していた。
誰かに与えられた人生ではなく、自分で選んだ道を歩いてほしい。
そう願った少女はやがて家庭を持ち、娘を育て、孫たちに囲まれて生涯を終えた。
そして今、その孫たちの父親が、娘の未来を案じている。
グレイは男へ視線を戻した。
「分かった。お前がそこまで頼むなら、俺もできる限り力を貸そう。ただし、最初から俺を頼るつもりで、無茶な戦い方をするなよ」
男は驚いたように目を見開き、それから苦笑した。
「もちろんだ。俺だって、娘たちの成長をまだまだ見ていたいからな。できることなら、君の世話にならずに済むのが一番いい」
「それならいい。俺も、そうなることを願っている」
男は深く頭を下げた。
「ありがとう。これで少し、肩の荷が下りた気がするよ」
「礼を言うのは早いだろう。何も起こらないうちから、俺に仕事を押しつけるつもりか?」
冗談めかして言うと、男は声を上げて笑った。
「はは、そうだな。確かにそのとおりだ」
その笑顔を見て、グレイも小さく笑った。
男はもう一度時間を確かめ、軍の施設がある方角へ目を向けた。
「そろそろ行くよ。今日は本当にありがとう。義母さんや娘たちにも、君に会ったことを話したいところだが……今は帰る時間もなかなか取れなくてな」
「無理に急ぐ必要はない。落ち着いたときにでも、家族に話してやればいい」
「ああ。リンも娘たちも、きっと驚くだろうな」
男は頷き、グレイへ手を差し出した。
握り返した手は、長く剣を握り続けてきた硬いものだった。それでいて、力任せに握ることはなく、相手を気遣うような穏やかさがあった。
「また会おう、グレイ。今度はもっと落ち着いた場所で、ゆっくり酒を飲みたいものだ」
「ああ。そのときは家族の話だけじゃなく、お前自身の昔話も聞かせてもらおう。随分と面白い経験をしていそうだからな」
「それなら、話すことは山ほどあるよ。若い頃の失敗談ばかりになるかもしれないが」
「構わない。そういう話の方が、案外面白いものだからな」
男は最後に笑って手を離すと、背筋を伸ばし、軍の施設へ続く道を歩き始めた。
夕暮れの光が軍服の肩を照らし、長い影が石畳に伸びていく。途中で一度だけ振り返った男が軽く手を上げたため、グレイもそれに応じた。
やがて、その姿は通りの向こうへ消えていった。
グレイはしばらく、その方角を眺めていた。
戦が始まってから、怒りや恐怖に任せて誰かを傷つける人間を何度も見てきた。自分の命を守るために、他人を犠牲にする者も少なくなかった。
だが、今日出会った男は、相手が誰なのかも知らず、見返りを求めることもなく、ただ目の前で困っている人間を助けた。
彼にとっては、きっと特別なことではなかったのだろう。
グレイはふと、ミナの顔を思い浮かべた。
あの少女が大切にしてきた家族の中に、こんな男がいたのか。
そして、その男もまた、家族の未来を守ろうとしている。
長く旅をしていても、まだ知らないことは多い。
「……人間も、捨てたものじゃないな」
小さく笑い、グレイは踵を返した。
夕暮れの街には店じまいを始める商人たちの声が響き、どこかの家からは夕食の匂いが漂ってくる。通りを走っていた子供が母親に呼び止められ、笑いながら家へ駆け戻っていった。
グレイはその光景を眺めながら、ゆっくりと歩き出した。
久しぶりに、街の灯りが少し温かく見えた。




