第3話 それぞれの未来
十五歳になったリインが初めて仕事へ向かう朝、玄関には十歳のミリアが立っていた。
普段なら姉より遅く起きることもある妹が、今日は朝食を終えるなり身支度を整え、出かける準備をするリインの後ろをついて回っている。
「お姉ちゃん、本当に一人で行くの? お母さんもお父さんも一緒じゃないんでしょ?」
「大丈夫だよ。ギルドの場所なら何度も行ったことあるし、昨日だって受付の人に挨拶してきたんだから。ミリアはお母さんとお留守番しててね」
リインは肩に掛けた鞄の紐を直しながら答えた。
新しく用意した仕事着はまだ身体に馴染まず、袖を動かすたびに少し硬い。鏡の前で何度も確かめたはずなのに、いざ出かけるとなると襟元まで気になってしまう。
そんな姉の周りを一周したミリアが、背中へ回って服の裾を引いた。
「ここ、折れてるよ。お姉ちゃん、ちゃんとしていかないと、最初から怒られちゃうかもしれないよ?」
「えっ、どこ? あ、本当だ。ありがとう、ミリア。なんだか今日は、わたしよりミリアの方がしっかりしてるね」
「いつもわたしのこと、子供みたいに言うからだよ」
「まだ十歳でしょ?」
「お姉ちゃんだって、五年前は十歳だったもん」
言い返されて、リインは思わず笑った。
五年前、隣国から訪れた使節団のパレードを見に行った日のことは、今でもよく覚えている。華やかな衣装をまとった人々が通りを歩き、父親が軍服姿で護衛を務めていた。
あの日をきっかけに、リインは使節団に関わる仕事へ就きたいと考えるようになった。
知らない国を訪れ、そこで暮らす人々と言葉を交わし、自分の国のことも伝えられるようになりたい。その憧れは五年経っても変わらなかったが、夢を叶えるために何をすべきかは、まだ分からないことが多かった。
父親に相談すると、まずは人と接する仕事を経験してみてはどうかと勧められた。
相手の話を聞き、必要なことを伝え、困ったときには自分で考える。国が違っても、そうした経験は役に立つはずだという。
そこで選んだのが、街の冒険者ギルドだった。
さまざまな土地から人が集まるギルドなら、受付の仕事を通じて多くの人と関われる。何より、知らない土地の話を聞く機会もありそうだった。
「リイン、そろそろ時間じゃない?」
台所から声がして振り返ると、リンが小さな包みを手に立っていた。
「お昼に食べるものを用意しておいたわ。初日だから、食事を買いに出る時間があるか分からないでしょう?」
「ありがとう、お母さん。帰ってきたら、どんなお仕事だったかいっぱい話すね」
「楽しみにしているわ。でも、最初から何でもできると思わないこと。分からないことは、ちゃんと周りの人に聞くのよ」
リンは包みを鞄へ入れると、娘の襟元を軽く整えた。
「もう自分でできるよ。お母さんも、ミリアも心配しすぎなんだから」
「そうね。でも、今日くらいは心配させてちょうだい。初めてお仕事へ行く娘を送り出すんだもの」
そう言われると、リインもそれ以上は何も言えなかった。
靴を履いて鞄を肩へ掛け直すと、ミリアがもう一度近づいてくる。
「お姉ちゃん、帰ってきたらギルドのお話してね。冒険者さんって、本当に大きな剣を持ってる人がいるの?」
「いると思うよ。昨日も背中に大きな剣を背負った人がいたし、もっとすごい人だって来るかもしれないね」
「じゃあ、見たら教えて。どのくらい大きかったか、ちゃんと覚えてきてね」
「分かった。ミリアがびっくりするくらい大きな剣を見つけたら、一番に教えてあげる」
妹の頭を撫で、リインは扉を開けた。
朝の空気はまだ少し冷たかったが、通りにはすでに商人たちの声が響いている。
「行ってきます!」
見送る二人へ手を振り、リインは歩き出した。
何度も通った街並みが、今日は少し違って見える。学校でも買い物でもなく、これからは自分の仕事のために、この道を歩くのだ。
自然と背筋が伸びたところで、ふと忘れ物が気になり、道の端で鞄を開いた。
筆記具も昼食の包みも、ちゃんと入っている。
リインは安心して鞄を閉じ、今度こそギルドへ向かった。
◇
冒険者ギルドの朝は、想像していた以上に忙しかった。
大きな掲示板の前では冒険者たちが依頼を探し、受付には報酬の受け取りや登録手続きを待つ人々が並んでいる。職員たちは慣れた様子で書類を運び、質問に答えながら次々と仕事を片付けていた。
その中でリインは、教えられたことを覚えるだけで精一杯だった。
「まず、依頼を受ける人には登録証を確認してもらってね。依頼によって受注できるランクが違うから、そこは必ず確かめること。分からないものは勝手に判断しないで、私たちに聞いて」
「はい! 登録証と依頼のランクですね。分からないときは確認する、ちゃんと覚えました!」
先輩職員の説明に勢いよく頷いたものの、実際に受付へ立つと、覚えたはずの手順が思うように出てこない。
最初の冒険者には緊張して名前を聞き直し、次の依頼では確認した書類を別の棚へ置きかけて先輩に止められた。
午前中だけで何度も注意を受け、昼休みになる頃には、机の上に書き留めた注意事項が増えていた。
「……思ってたより、ずっと難しいなあ」
休憩室の椅子に腰を下ろし、母親が用意してくれた昼食を広げる。
食べやすい大きさに切られたパンと簡単なおかずを口へ運んでいると、午前中に仕事を教えてくれた先輩が隣へ座った。
「初日はそんなものよ。むしろ、あれだけ質問できるなら悪くないわ。黙って間違えるより、ずっと助かるもの」
「でも、同じことを何度も聞いちゃいました。教えてもらったときは分かったつもりだったんですけど、お客さんが来ると頭が真っ白になって……」
「受付に立つと、覚えることが急に増えたように感じるでしょう? 慣れるまでは一つずつ確認すればいいのよ。ただ、そのメモは後で見返しやすいように整理した方がいいわね」
先輩に言われて手元の紙を見ると、急いで書いた文字があちこちに並び、必要なことを探すだけでも時間がかかりそうだった。
「帰ったら書き直します。明日は、もう少しちゃんとできるようにしたいので」
「ええ。焦らず覚えていきましょう」
その日の午後、リインは午前中に間違えた手続きを、自分だけで終えることができた。
先輩に確認してもらい、問題ないと言われた瞬間、思わず大きく息を吐く。
目の前の冒険者が笑った。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ。俺も最初に依頼を受けたときは、書類の書き方が分からなくて何度も聞いたからな」
「そうだったんですか? 今はすごく慣れているように見えますけど」
「何年もやってりゃ、さすがにな。受付の仕事も、そのうち慣れるさ」
冒険者は登録証を受け取ると、軽く手を振って出ていった。
リインはその背中を見送りながら、少し肩の力を抜いた。最初から完璧にできなくても、一つずつ覚えていけばいいのだと思えた。
夕方、仕事を終えて帰宅すると、ミリアが玄関まで走ってきた。
「お姉ちゃん、おかえり! ねえ、今日は大きな剣を持った人、来た?」
「ただいま。来たよ。それも、ミリアが両手を広げたくらい大きな剣を背負った人がいたの」
「ほんとに? そんなの、どうやって振るの?」
「それがね、わたしも気になったんだけど、仕事中だったから聞けなかったんだ。今度、話せる機会があったら聞いてみようかな」
ミリアは目を輝かせた。その顔を見ていると、午前中に何度も失敗したことまで、少し面白い出来事のように思えてくる。
台所から顔を出したリンも、娘へ声をかけた。
「おかえりなさい。どうだった、初めてのお仕事は?」
「大変だったよ。覚えることがいっぱいあるし、書類を間違えそうになるし……でも、最後はちゃんと一人でできたこともあったんだ」
「そう。よかったわね。まずは一日、頑張ってきたんだから、手を洗って少し休んでいらっしゃい」
リインは頷き、洗い場へ向かった。
明日も仕事があると思うと少し緊張したが、不思議と嫌ではなかった。
◇
働き始めて数か月が経つ頃には、リインにも少しずつ余裕が生まれていた。
依頼の受付や報酬の手続きに慣れ、簡単な問い合わせなら自分で対応できる。難しい相談を持ち込まれたときは先輩に確認し、教わったことを次に生かすよう心がけていた。
ある日、遠方から来た冒険者が依頼の報告に訪れた。
隣国を経由してきたという彼は、登録証を受け取る際、受付の後ろにある地図へ目を向けた。
「こっちの国へ来るのは久しぶりなんだが、ずいぶん街が賑やかになったな。向こうでも、この国の品物はよく見かけるよ」
「そうなんですか? わたし、まだ隣の国へ行ったことがなくて。向こうでは、どんなものが人気なんでしょう?」
冒険者は旅の途中で見た市場や、商人たちが運ぶ品物について話してくれた。街によって建物の造りが違い、食事の味付けにも特徴があるという。
もっと聞いてみたかったが、後ろには次の利用者が待っている。
「あっ、すみません。お仕事の途中でしたね。お話してくださって、ありがとうございました」
「いいさ。興味があるなら、いつか自分で行ってみるといい。人から聞くのと、実際に見るのとじゃ、また違うからな」
冒険者を見送ったリインは、教えてもらった街の名前を忘れないよう心の中で繰り返し、休憩時間になると手帳へ書き留めた。
ギルドで働き始めてから、こうした記録をつけることが習慣になっていた。
旅人から聞いた街の名前や土地の習慣だけでなく、使節団に関わる仕事へ就くために必要な勉強についても調べている。
以前は知らない場所へ行けること自体が楽しみだったが、今では旅先で出会う人々の暮らしや、国によって異なる考え方にも興味が向くようになっていた。
夢へどれほど近づけたのかは分からない。それでも、何も知らなかった頃より、自分にできることは確かに増えていた。
◇
ギルドでの仕事に慣れ始めた頃、リインは剣術の訓練も始めていた。
きっかけは、依頼を終えて戻ってきた冒険者が腕に怪我をしていたことだった。治療を受ければ問題ない程度の傷だったが、旅の途中では何が起こるか分からない。
将来、使節団の仕事に就けたとしても、安全な場所ばかりを訪れるとは限らなかった。護衛の兵士がつくこともあるだろうが、いざというとき、自分の身を守る方法くらいは覚えておきたい。
そう考え、リインはギルドに常駐する指導官へ相談した。
「剣術を教えてほしい?」
指導官は意外そうに眉を上げた。
「はい。冒険者になりたいわけじゃないんですけど、将来は遠くの国へ行く仕事がしたくて。何かあったとき、少しでも自分で動けるようになりたいんです」
「なるほどな。ただ、剣を振れるようになったからといって、危険な場所で戦えるようになるわけじゃないぞ」
「それは分かってます。無理に戦いたいわけじゃなくて、逃げるときにも身体を動かせた方がいいと思うので」
指導官はしばらくリインを見つめ、それから頷いた。
「考え方は悪くない。まずは足の運び方と、相手との距離を覚えるところからだな。仕事に支障が出ない範囲なら、空いた時間に見てやるよ」
「ありがとうございます!」
こうして仕事終わりや休日に、短い時間だけ訓練を受けることになった。
最初に渡されたのは、刃のない練習用の剣だった。
教えられた姿勢を取ってみたものの、思っていた以上に身体が安定しない。足を開けば重心が後ろへ傾き、剣を構えることに意識を向けると肩へ余計な力が入ってしまう。
「腕だけで振ろうとするな。足元が崩れたら、どんなに強く振っても意味がないぞ」
「はい……あっ!」
言われたとおりに足を動かそうとして、危うく転びそうになった。指導官に支えられて倒れずに済んだが、思わず苦笑いする。
「受付の仕事より、こっちの方が難しいかもしれません」
「慣れないうちはそんなものだ。剣を持つ前に、まずは自分の身体をちゃんと動かせるようになることだな」
その日は基本の姿勢と足運びだけで終わった。
帰り道、普段使わない筋肉が疲れていることに気づき、リインは歩く速度を落とした。
「お姉ちゃん、どうしたの? いつもより歩くの遅いよ」
帰宅した姉の様子に、ミリアが首を傾げる。
「今日は剣の練習をしてきたんだ。そんなに長くやってないのに、足が疲れちゃって」
「剣? お姉ちゃん、冒険者になるの?」
「ならないよ。自分の身を守れるようになりたいだけ。遠くへ行くなら、少しはできた方がいいと思って」
ミリアはしばらく考え、真剣な顔で尋ねた。
「わたしも、教えてもらえるかな」
「ミリアも?」
「うん。お姉ちゃんだけ強くなったら、わたし、また後ろをついていくだけになっちゃうでしょ?」
リインは少し驚いた。
幼い頃から自分の後ろを歩くことが多かった妹も、いつまでも小さな子供ではないのだ。
「そうだね。でも、いきなり剣を持つのは危ないから、まずはお父さんに相談してみようか。身体を動かす練習なら、一緒にできるかもしれないし」
「うん! わたしも頑張る」
嬉しそうに頷く妹の頭を撫でようとして、リインはふと思い直した。
代わりに手を差し出す。
「じゃあ、明日から一緒に少しずつ練習しよう。わたしもまだ全然できないから、二人で覚えていこうね」
ミリアはその手を握り、満面の笑みを浮かべた。
◇
リンが最初に体調を崩したのは、それからしばらく経った頃だった。
ある休日の朝、リインが台所へ入ると、母親が椅子に座って休んでいた。いつもなら朝食の支度を始めている時間だった。
「お母さん、どうしたの? まだ具合悪い?」
「少し疲れが残っているだけよ。昨日は用事が多かったから、朝になっても身体が重くてね」
リンは普段と変わらない笑顔を向けたが、いつもより顔色が悪い。
「じゃあ、今日はわたしが朝ご飯を作ろうか? 簡単なものならできるし、ミリアにも手伝ってもらえば早いと思う」
「ありがとう。でも、少し休めば大丈夫よ。せっかくのお休みなんだから、リインもゆっくりしていて」
「お母さんは座ってて。最近はギルドでもいろいろ任せてもらえるようになったんだから、朝ご飯くらい作れるよ」
リインが袖をまくると、リンは困ったように笑った。
「仕事と料理は別でしょう?」
「それはそうだけど……でも、やってみないと上手にならないでしょ?」
「分かったわ。それならお願いしようかしら。火を使うときだけは気をつけてね」
「うん。任せて!」
途中で起きてきたミリアも加わり、二人で朝食を用意した。
慣れない作業に少し時間はかかったが、食卓には無事に料理が並ぶ。
「ありがとう。二人とも、いつの間にこんなにできるようになったのかしら」
「まだお母さんみたいにはできないけどね。今度はもっと上手に作るから、楽しみにしてて」
ミリアも得意そうに頷き、リンは嬉しそうに笑った。
午後には母親の顔色も戻り、普段どおり家事をしていたため、リインもひとまず安心した。
ただ、それからもリンが椅子に座って休む姿を見かけるようになった。
買い物から帰ってしばらく腰を下ろしたり、夕食の支度を始める前に手を止めたりする。声をかければいつも穏やかに答えてくれたが、以前より疲れやすくなっていることだけは、リインにも分かった。
◇
それから四年が過ぎた。
十九歳になったリインは、冒険者ギルドの受付職員として、すっかり仕事に慣れていた。
依頼の手続きに加え、新人冒険者への案内や簡単な相談も任されている。難しい依頼や特殊な手続きについては今でも先輩に確認することがあったが、必要なときに人へ頼るのも、仕事を進めるうえで大切なことだと分かっていた。
「リインさん、この依頼って、わたしでも受けられますか?」
若い冒険者が、少し緊張した様子で登録証を差し出した。
リインは依頼内容とランクを確かめ、笑顔で答える。
「この依頼なら受けられますよ。ただ、採取場所が街から少し離れているので、帰りの時間には気をつけてくださいね。初めて行く場所なら、地図も一緒に確認しておきましょうか」
「お願いします。実は、道が少し不安で……」
「大丈夫ですよ。迷いやすい分かれ道があるので、そこだけ覚えておけば行きやすいと思います。もし心配なら、同じ方面へ向かう方を探す方法もありますから」
地図を広げ、目的地までの道を指でなぞりながら説明すると、若い冒険者は安心したように笑った。
「ありがとうございます。初めてで分からないことばかりだったので、助かりました」
「いえいえ。気をつけて行ってきてくださいね。帰ってきたら、報告をお願いします」
冒険者を見送ったリインは、働き始めたばかりの頃を思い出した。
あの頃は登録証を受け取るだけでも緊張していたが、今では誰かの不安を和らげられることもある。
相手が何に困っているのかを聞き、必要な情報を分かりやすく伝える。急いでいる人には要点を先に話し、不安そうな人には落ち着いて説明する。
そうした経験を重ねるうちに、リイン自身も少しずつ変わっていた。
受付の奥にある地図には、まだ行ったことのない国や街がいくつも描かれている。
使節団への憧れは今も変わらない。ただ、遠くへ行くことだけでなく、そこで暮らす人々と話し、互いを理解する手助けがしたいと考えるようになっていた。
◇
ミリアも十四歳になっていた。
家事や買い物を任されるようになり、父親から教わった身体の動かし方も、休日に練習を続けている。姉と一緒に始めた訓練は、いつの間にかミリア自身の習慣になっていた。
ある休日、リインが庭へ出ると、ミリアが木剣を握っていた。
足元を確かめながら構えを取り、ゆっくりと剣を振る。まだ力強い動きではなかったが、以前のように足をもつれさせることはない。
「ミリア、今日も練習してたんだ。ずいぶん上手になったね」
「お姉ちゃん。うん、少しだけね。最近はお父さんも忙しいから、教えてもらったことを忘れないようにしてるの」
「そうなんだ。わたしも最近は仕事が忙しくて、ギルドであんまり練習できてないなあ」
「じゃあ、今度のお休みに一緒にやろうよ。お姉ちゃんが前に教えてくれた足の動かし方、ちゃんとできるようになったと思うから」
「いいよ。でも、わたしも負けないように練習しないとね。ミリアの方が上手になってたら、ちょっと悔しいかも」
「ふふ。そうなったら、今度はわたしがお姉ちゃんに教えてあげる」
ミリアは楽しそうに笑い、木剣を片付けた。
背も伸び、話し方も以前より落ち着いている。自分の意見をはっきり言うようになり、何かを決めるときにも、ただ姉の言葉を待つことは少なくなった。
それでも一緒に出かけようと誘えば、今でも嬉しそうに頷いてくれる。
「そういえば、お姉ちゃん。今度のお休み、街へ買い物に行かない? お母さんが使ってる布巾、だいぶ古くなってるから、新しいのを買っておきたいんだ」
「いいね。じゃあ、ほかにも必要なものがないか聞いておこうか」
「もう聞いたよ。台所で使うものと、少しだけ食材も買ってきてほしいって。ちゃんと書いてあるから大丈夫」
ミリアは懐から小さな紙を取り出した。買うものが丁寧な文字で書き並べられている。
「準備がいいね。わたしが言う前に、全部考えてたんだ」
「お姉ちゃん、仕事のことになるとしっかりしてるのに、家のことは時々忘れちゃうでしょ?」
「うっ……それは否定できないかも」
リインが苦笑いすると、ミリアは得意そうに笑った。
頼もしくなった妹の隣に並び、リインも買い物の紙を覗き込んだ。
◇
リンの体調が以前より悪くなっていることに、姉妹も気づいていた。
最初は疲れた日に少し休む程度だったが、最近では家事の途中で手を止めることが増えている。
ある日の夕方、仕事から帰ったリインは、台所で椅子に座っている母親を見つけた。
夕食の支度は途中まで進んでいたが、まな板の上には切りかけの野菜が残っている。
「お母さん、どうしたの? また疲れちゃった?」
「少し立ちっぱなしだったから、休んでいただけよ。もう大丈夫だから、続きを始めようと思っていたところ」
リンが立ち上がろうとしたため、リインはそっと肩へ手を置いた。
「今日はわたしとミリアで作るよ。お母さんは座ってて。最近、無理してることが多いんじゃない?」
「そんなことないわ。少し疲れやすくなっただけだから、心配しなくても大丈夫よ」
穏やかな返事だったが、以前より顔色の悪い日が増え、仕事から帰ると母親が横になっていることもあった。
「お母さん、前にも同じこと言ってたよ。疲れやすいだけならいいけど、ちゃんと診てもらった方がいいんじゃないかな」
「そうね。お父さんにも言われているし、今度きちんと診てもらうわ。だから、そんな顔をしないで」
リンは困ったように笑った。
その笑顔にどこか無理を感じたものの、本人が診てもらうと言うのなら、今は信じるしかない。
「……約束だよ。お母さんが元気じゃないと、わたしたちも心配なんだから」
「ええ。約束するわ」
リンが娘の手を握る。
その手は、少し冷たかった。
「じゃあ、今日はわたしたちが作るからね。ミリア、手伝ってくれる?」
「うん。お姉ちゃん、野菜はもう切ってあるから、先に鍋の準備をしよう」
ミリアは慣れた様子で道具を取り出し、二人で夕食の支度を進めた。
途中、リインが味を濃くしすぎたところをミリアが直す一幕もあったが、無事に食事ができあがった。
「いつの間にか、二人とも頼もしくなったわね」
「お母さんがいつも教えてくれたからだよ。今度は、わたしたちが少し楽をさせてあげる番なんだから」
リンは静かに微笑み、二人が作った料理をゆっくりと食べてくれた。
その夜、食器を片付けていると、ミリアが小さな声で話しかけてきた。
「お姉ちゃん、お母さん、最近ずっと疲れてるよね。前はこんなに休むことなかったのに」
「うん。わたしも気になってる。お母さんは大丈夫って言うけど、ちゃんと診てもらった方がいいと思うんだ」
「お父さんにも相談した方がいいかな」
「そうだね。お父さんも気づいてるみたいだけど、わたしたちからも話してみよう」
ミリアは頷き、洗った皿を布巾で拭きながら続けた。
「わたし、もっと家のことをできるようになりたい。お姉ちゃんが仕事に行ってる間、お母さんが一人で頑張らなくてもいいように」
リインは妹の顔を見つめた。
自分の後ろをついてきたミリアが、今では母親のためにできることを考えている。頼もしい反面、妹にも心配をかける状況になっていることが、少し胸に引っかかった。
「ありがとう、ミリア。でも、全部一人でやろうとしなくていいからね。わたしも帰ってきたら手伝うし、お父さんにもできることはお願いしよう」
「うん。みんなでやれば、お母さんも少しは休めるよね」
リインは頷き、拭き終わった皿を棚へ戻した。
台所の向こうからは、リンが父親と話す声が聞こえている。内容までは分からなかったが、時折、父親の低い声が返ってきた。
リインはその声を聞きながら、早く母親の体調が戻ってほしいと願った。
◇
同じ頃、街には別の変化も現れ始めていた。
隣国との関係が、以前ほど良くないらしい。
最初にその話を聞いたのは、ギルドの受付だった。
依頼を終えた商人の護衛が、報告のついでに国境付近での検問が厳しくなっていると話していた。
「前はもっと簡単に通れたんだがな。最近は荷物を細かく調べられるし、通行の許可にも時間がかかる。商人たちも困ってるよ」
「そうなんですか。何かあったんでしょうか?」
「詳しいことは分からん。ただ、向こうの兵士が増えてるって話もある。こっちも警戒してるんじゃないか?」
冒険者は肩をすくめた。
隣国とは長く友好的な関係が続いていたはずだった。
十歳の頃に見た使節団のパレードでは、沿道に両国の旗が並び、人々が笑顔で行列を歓迎していた。
「……何か、問題が起きてるんでしょうか」
「さあな。俺たちみたいな冒険者には、国同士の事情なんて分からんよ。ただ、仕事がしにくくなるのは困るな」
冒険者が去ったあとも、リインはその話が気になっていた。
国境での検問が厳しくなっただけなら、一時的なものかもしれない。
しかし、それからも隣国へ向かう商人が予定を変更したことや、国境近くで軍の動きが活発になっていることなど、似たような話を耳にする機会が増えていった。
以前は頻繁に行き来していた人々も、最近は移動を控えるようになっているという。
どれも詳しい事情は分からず、噂として語られるものが多かった。それでも、さまざまな土地から来た人々と接するリインには、何度も聞く話を簡単に聞き流すことができなかった。
今の自分に何ができるわけでもないが、受付の仕事を続けながら、遠くの国境で起きていることを気にかけるようになった。
◇
父親の帰宅が遅くなり始めたのも、その頃だった。
以前は夕食に間に合うことが多かったが、最近では日が暮れても帰らず、休日に呼び出されることもある。
ある夜、リインが食卓で書類を整理していると、玄関の扉が開いた。
「ただいま。遅くなって悪かったな」
「おかえり、お父さん。今日も遅かったね。ご飯は残してあるから、温めようか?」
「ああ、助かる。今日は少し長引いてな。母さんはもう休んだのか?」
「うん。今日は疲れてたみたいだから、早めに寝てもらったの。ミリアも一緒に休んでるよ」
父親は小さく頷き、椅子へ腰を下ろした。
軍服の肩には埃がつき、普段より疲れた顔をしている。
リインは食事を温めながら尋ねた。
「ねえ、お父さん。最近、軍のお仕事が忙しいのって、隣の国と関係があるの?」
父親はすぐには答えず、少し考えてから口を開いた。
「……そういう話もある。だが、今はまだ何かが決まったわけじゃない。軍として準備しなければならないことが増えているんだ」
「ギルドでも、国境の検問が厳しくなってるって聞いたよ。前は普通に行き来できたのに、最近は商人さんたちも困ってるみたい」
「そうか。仕事にも影響が出始めているんだな」
父親は眉を寄せた。
リインは温めた食事を運び、向かいの椅子へ座る。
「お父さん、前に使節団の護衛をしてたでしょ? あのときは、みんなすごく楽しそうだったのに。どうして急に仲が悪くなっちゃったんだろう」
「国同士の関係は、いろんな事情で変わることがある。商売のこともあれば、国の考え方が違うこともある。俺たちが知らないところで、難しい話が続いているのかもしれないな」
「……また、前みたいに仲良くなれるかな」
父親は娘の顔を見た。
「そうなってほしいと思っている人は、きっと大勢いる。俺も、その一人だよ」
それ以上、父親は詳しいことを話さなかった。リインも今は答えられない事情があるのだろうと思い、話題を変えた。
「そういえば、お母さん、今度ちゃんと診てもらうって言ってたよ。お父さんも一緒に行けそう?」
「ああ。仕事の都合をつけて、できるだけ付き添うつもりだ。最近は疲れやすいみたいだからな」
「うん。わたしとミリアも家のことはやるから、お母さんにはゆっくり休んでほしいな」
「ありがとう。二人とも、ずいぶん頼もしくなったな。母さんも、きっと助かっていると思うよ」
父親が表情を和らげると、リインは照れくさそうに笑った。
食事を始めた父親の邪魔にならないよう、机に広げていた書類を片付ける。
明日も仕事があり、父親も朝早く出かけるらしい。
家族それぞれの一日が、以前より少し忙しくなっていた。
◇
それからしばらくして、街の大通りを軍用の荷馬車が通るようになった。
最初は数台だったが、日が経つにつれて数が増え、荷台には木箱や布で覆われた荷物が積まれている。周囲を歩く武装した兵士たちの姿も、珍しいものではなくなっていた。
街の人々も変化を感じ取っているのか、店先で話す商人たちの声は以前より控えめになり、ギルドでは遠方への依頼を受ける冒険者が国境付近の状況を尋ねることが増えていた。
リインは、分かっている範囲の情報だけを伝えるようにしていた。
噂をそのまま話せば必要以上に不安を広げてしまうかもしれないが、何も知らないまま危険な場所へ向かわせるわけにもいかない。
受付で言葉を選ぶ機会は、以前より確実に増えていた。
ある日の夕方、仕事を終えたリインが大通りへ出ると、前方から車輪の音が聞こえてきた。
軍用の荷馬車が何台も列を作り、大きな木箱を載せてゆっくりと進んでいる。兵士たちは周囲を警戒しながら歩いていた。
リインは道の端へ寄り、列が通り過ぎるのを待った。
ふと頭上へ目を向ける。
そこは、十歳の頃に使節団のパレードを見た場所だった。
あの日は二つの国の旗が並び、楽器の音が通りいっぱいに響いていた。父親は使節団の護衛として歩き、異国の衣装をまとった人々が沿道へ笑顔を向けていた。
その姿に憧れ、いつか自分も知らない国を訪れる仕事がしたいと思った。
けれど、今その道を進んでいるのは使節団ではなく、軍の荷馬車だった。
華やかな衣装も沿道の歓声もなく、武装した兵士たちの足音と、車輪が石畳を踏む重い音だけが建物の間に響いている。
隣国との関係が悪くなっているという話は何度も聞いていた。それでも、目の前の景色が変わっていくのを見ると、遠くの国境で起きていることが、自分たちの暮らしにも近づいているように感じられた。
最後の荷馬車が通り過ぎる。
リインはしばらくその場に立ち、かつて同じ道を歩いていった使節団の人々を思い出していた。
彼らは今頃、どうしているのだろう。
また、この街へ来ることはあるのだろうか。
答えのないまま鞄の紐を握り直し、リインは家へ向かって歩き出した。
夕暮れの大通りには、遠ざかっていく荷馬車の音が、まだしばらく残っていた。




