第2話 旗の向こうに
リインがまだ幼かった頃、家族は祖母ミナの家から歩いて行ける場所に暮らしていた。
朝になれば母親のリンに連れられて祖母の家へ遊びに行き、庭で花を眺めたり、焼き菓子を食べたりして過ごす。ミリアが生まれてからは妹も一緒になり、リインが先を歩けば、小さなミリアがその後を追いかけるのが当たり前になっていた。
そんな暮らしが変わったのは、二人で祭りへ出かけた年のことだった。
父親の母国へ戻ることになり、家族は住み慣れた街を離れた。
それからはミナと会う機会も年に数回ほどになったが、手紙のやり取りは続いていた。庭に咲いた花や最近訪れた場所のことが綴られ、ときには姉妹への小さな贈り物も添えられている。
リインはその手紙を読むのが好きだった。知らない街や景色について書かれていると、いつか自分も行ってみたくなる。まだ文字を覚えている途中のミリアには、母親やリインが読み聞かせていた。
そして、祖母の家を離れてから何度目かの春。
十歳になったリインは、五歳のミリアとともに、新しい街での暮らしにもすっかり馴染んでいた。
◇
その朝、リインは窓の外から聞こえてくる賑やかな声で目を覚ました。
普段なら商人の荷車や仕事へ向かう人々が行き交う通りに、今日は朝早くから大勢の人が集まっている。
窓を開けると、色鮮やかな布を抱えた男たちが建物の間を行き来し、通りの上には見慣れた自国の旗と、普段はあまり見かけない異国の旗が並んで吊るされていた。
「わあ……昨日よりずっと増えてる。あんなにたくさん旗を飾るんだ。ミリアにも見せてあげよう」
昨夜も準備の様子を眺めていたが、一晩で街の景色は大きく変わっていた。
通りの向こうでは兵士たちが何かを確かめながら歩き、店先では人々が飾りの位置を相談している。普段なら静かな朝の時間に、あちこちから笑い声が聞こえてきた。
リインは急いで着替えを済ませると、隣の部屋へ向かった。
「ミリア、起きて。今日は使節団が来る日だよ。外がすごいことになってるから、一緒に見よう」
布団がもぞもぞと動き、眠そうな顔が覗いた。
「……しせつだん?」
「そう。隣の国から来る人たちのこと。お父さんもお仕事で一緒に歩くんだって。ほら、早く起きないと準備が始まっちゃうよ」
「おとうさん、いるの?」
「いるよ。今日は大事なお仕事だから、きっとかっこいい服を着てると思う」
父親の名前が出ると、ミリアの目が少しだけ開いた。
リインは妹の手を取って窓際へ連れていき、通りを指さす。
「見て、あの旗。いつもの旗と違うのがあるでしょ? あれが隣の国の旗なんだって」
ミリアは風に揺れる二種類の旗を見つめた。
「いっぱいあるね」
「うん。あれ全部、今日来る人たちを歓迎するためなんだよ。お母さんが教えてくれたの」
「おまつり?」
「お祭りとはちょっと違うけど、似てるかもしれないね。音楽もあるって言ってたし、きっと楽しいよ」
嬉しそうに頷く妹の髪を整えようとしたところで、背後から声がした。
「リイン、ミリア。二人とも起きていたのね。朝ご飯ができたから、先に顔を洗っていらっしゃい」
振り返ると、リンが扉のところに立っていた。
「お母さん、外の旗がすごいよ。昨日はあんなになかったのに、朝になったら通りがいっぱいになってた」
「そうね。今日は遠くから大切なお客様がいらっしゃるんだもの。街のみんなも楽しみにしているのよ」
「お母さんも楽しみ?」
「もちろん。お父さんのお仕事も見られるし、普段はなかなか会えない国の人たちが来るんだから」
リンは娘たちの身支度を確かめ、ミリアの髪を整えながら続けた。
「ただし、今日は人が多いから、勝手に先へ行かないこと。特にリイン、気になるものを見つけても、お母さんに声をかけてからにしてね」
「分かってるよ。もう十歳なんだから、そんなに心配しなくても大丈夫」
「十歳になったからこそ、自分で気をつけられるようになってほしいの。お母さんも、ずっと二人の手を握っていられるわけじゃないでしょう?」
そう言われると、リインは少し考えた。
確かに、母親が買い物をしているときや荷物を持っているとき、自分がミリアの手を引くことも増えている。
「じゃあ、今日はわたしがミリアを見てるね。でも、何かあったらちゃんとお母さんを呼ぶから」
「ええ。それなら安心ね。ミリアも、お姉ちゃんから離れないようにしましょう」
「おねえちゃんと、いっしょ」
「うん。一緒に見ようね」
リインは妹へ笑いかけ、母親に促されて洗い場へ向かった。
◇
朝食の席に父親の姿はなかった。
今日は使節団の護衛を担当するため、まだ日が昇りきらないうちに家を出ている。
「お父さん、もうお仕事してるのかな。使節団が来るのはお昼頃なんでしょ?」
「ええ。でも、お客様が到着する前に準備しなければならないことがたくさんあるのよ。通る道を確かめたり、護衛の人たちと打ち合わせをしたりね」
「じゃあ、今日はずっと忙しいんだ」
「そうね。でも、パレードが終わったら少し会えるかもしれないって言っていたわ」
リインは嬉しそうに顔を上げた。
「ほんと? じゃあ、お父さんにいっぱい聞きたいことがあるんだ。隣の国の人たちがどんなところから来たのかとか、どうしてあんな服を着てるのかとか」
「お父さんも全部知っているわけじゃないと思うけど、聞いてみるのはいいんじゃないかしら」
リンは笑いながら、ミリアの皿へ食べ物を取り分けた。
リインは食事を進めながら、昨日父親が話していたことを思い出す。
隣の国とは長く友好的な関係が続いており、商人たちも頻繁に行き来しているという。今回の使節団も、両国の交流をさらに深めるために訪れるらしい。
難しい話はよく分からなかったが、リインにとって重要なのは、遠い国から人々がやって来ることだった。
「ねえ、お母さん。隣の国って、歩いて行けるの?」
「行けないことはないけれど、ずいぶん時間がかかるわね。途中にはいくつも街があるし、道によっては山も越えないといけないから」
「山も? じゃあ、使節団の人たちは、そんなに遠くから来たんだ」
「そうよ。だから、今日はみんなで歓迎するの」
リインは窓の外へ目を向けた。
あの旗の向こうには、自分がまだ見たことのない街や山がある。そこにも家があり、人が暮らし、子供たちが遊んでいるのだろう。
「わたしも、いつか隣の国に行ってみたいな。おばあちゃんが行ったことのある街も見たいし、海もまだ見てないし」
「そうね。行きたい場所がたくさんあるのね」
「うん。世界って、どのくらい広いんだろう」
リンは娘の顔を見つめ、穏やかに笑った。
「それは、お母さんにも分からないわ。地図を見れば国や街の場所は分かるけど、実際に行ってみないと知らないこともたくさんあるでしょうから」
リインはその答えが気に入った。
知らないことがあるなら、確かめに行けばいい。祖母が楽しそうに語ってくれる旅の思い出も、きっとそんな気持ちから始まったのだろう。
隣でパンを小さくちぎっていたミリアが、姉を見上げる。
「おねえちゃん、うみいくの?」
「うん。いつかね。ミリアも一緒に行こう」
「おばあちゃんも?」
「もちろん。おばあちゃんが行った海を、今度はわたしたちが見に行くんだよ」
ミリアは満足そうに頷いた。
「さあ、そろそろ支度をしましょう。早めに行かないと、通りが人でいっぱいになってしまうわ」
リンに促され、リインは残っていた食事を急いで口へ運んだが、注意されて少しだけ速度を落とした。
◇
家を出ると、通りにはすでに大勢の人が集まっていた。
普段は荷車が通る道も今日は広く空けられ、沿道には見物客が並び始めている。建物の窓には色鮮やかな布が飾られ、二つの国の旗が風に揺れていた。
「お母さん、あの旗って、どっちが隣の国のものなの? 昨日お父さんに聞いたんだけど、忘れちゃった」
「向こうの旗よ。ほら、同じものが使節団の通る道にずっと並んでいるでしょう?」
「ほんとだ。いつもの旗と一緒に飾ってあるんだね」
「ええ。二つの国が仲良くしていることを示すためなのよ」
リインは頭上を見上げた。
違う色や模様の旗が、同じ風を受けて揺れている。
「おねえちゃん、あれ、きれい」
「うん。ミリアはどっちが好き?」
ミリアはしばらく考え、両方を指さした。
「どっちも」
「そっか。わたしも両方好きだな」
リインは笑い、妹の手を握り直した。
沿道へ近づくにつれ、人の数はさらに増えていく。
商人たちは店先で飲み物や軽食を売り、子供たちは小さな旗を振っていた。通りの向こうでは兵士たちが整列し、見物客が道へ出ないよう声をかけている。
リンは人の少ない場所を見つけると、娘たちを立たせた。
「ここなら見えそうね。リイン、ミリアを前に立たせてあげて。あなたは少し背が高いから、後ろからでも見えるでしょう?」
「うん。ミリア、こっちにおいで。前に立った方がよく見えるよ」
リインは妹を自分の前へ立たせ、肩へ軽く手を置いた。
「まだ?」
「もう少しだと思う。ほら、兵士さんたちが並んでるでしょ? あの人たちが準備してるんだよ」
ミリアが再び通りへ目を向けると、リインも兵士たちの姿を眺めた。
揃いの制服を着た人々が一定の間隔で並び、時折、短い言葉を交わしている。
父親も軍人だったが、家で見る姿とはずいぶん違っていた。
普段は食卓で笑い、娘たちの話を聞いてくれる父親も、仕事のときはあの人たちと同じように真剣な顔をしているのだろうか。
「ねえ、お母さん。お父さんはどこにいるのかな。あの兵士さんたちの中にいる?」
「今は使節団の方にいると思うわ。護衛を担当しているから、行列が来たら見つけられるかもしれないわね」
「じゃあ、ちゃんと探さないと」
リインは通りの向こうを見つめた。
まだ行列は見えなかったが、遠くから聞こえてくる人々の声は少しずつ大きくなっていた。
◇
やがて、通りの奥から楽器の音が聞こえてきた。
最初はかすかだった音が次第にはっきりし、沿道の人々が一斉に顔を上げる。
兵士たちが姿勢を正すと、見物客の間から期待に満ちた声が上がった。
「来た!」
誰かが叫び、リインも思わず身を乗り出した。
通りの向こうから現れたのは、揃いの服を着た楽隊だった。
金属製の楽器が陽光を反射し、軽快な音楽が街へ広がっていく。その後ろには整然と歩く兵士たちが続き、太鼓の音に合わせて足並みを揃えていた。
「すごい……! ミリア、見て。あんなにたくさんの人が、同じ速さで歩いてるよ」
ミリアは姉の前で背伸びをした。
「おっきい、たいこ」
「ほんとだ。あんな大きな太鼓、どうやって持ってるんだろう。ずっと叩いてたら疲れそうだね」
沿道から拍手が起こる中、楽隊の後ろから異国の衣装をまとった人々が姿を現した。
色鮮やかな布を重ねた服や、細かな装飾の施された上着。見慣れない形の帽子をかぶった者もいれば、肩から長い布を掛けている者もいる。
彼らは沿道へ笑顔を向け、手を振りながら進んでいた。
「お母さん、あの人たちが使節団? 服が全然違うね。あんなの初めて見た!」
「ええ。国が違えば、服装や習慣も変わるものよ。あの人たちは自分たちの国の正式な衣装を着ているんでしょうね」
「じゃあ、向こうの国ではみんなあんな服を着てるの?」
「普段から同じものを着ているとは限らないわ。今日は大切な行事だから、特別な服なのかもしれないわね」
リインは納得したように頷き、使節たちの姿を目で追った。
衣装には見たことのない模様が描かれ、腰に下げた飾りが歩くたびに陽光を受けて光っている。
使節団の中には、沿道の子供たちへ笑いかける者もいた。小さな旗を振る子供に手を振り返し、何か言葉をかけている。
声は歓声に紛れて聞き取れなかったが、子供が嬉しそうに笑ったのは見えた。
「ねえ、お母さん。あの人たち、こっちの国の言葉も話せるのかな」
「話せる人もいるでしょうね。使節団のお仕事では、違う国の人と話すことが多いから」
「じゃあ、いろんな国の言葉を覚えてるんだ」
「そうかもしれないわね。もちろん、通訳の人が一緒にいることもあるでしょうけど」
リインは使節団の人々を見つめた。
祖母の話に出てくる旅は、知らない景色を見たり、初めての食べ物を味わったりするものだった。
けれど、使節団の人たちは違う国へ赴き、そこに暮らす人々と言葉を交わす。それが仕事なのだという。
「……いいなあ」
思わず漏れた声に、リンが顔を向けた。
「何が?」
「使節団のお仕事。いろんな国へ行けるんでしょ? 知らない人とお話して、その国のことも教えてもらえるんだよね」
「そうね。大変なことも多いと思うけど、いろんな人と出会えるお仕事でしょうね」
リインはしばらく考え、それから嬉しそうに笑った。
「わたし、ああいうお仕事してみたいな」
リンは少し驚いたように娘を見た。
リインはもう一度、行列へ視線を戻す。
ただ旅をするだけではなく、いろんな国の人と話してみたい。知らないことを教えてもらい、自分の国のことも伝えてみたい。
そうすれば、きっと今よりもっと世界を知ることができる。
リインは胸の奥が弾むのを感じながら、行列を見送った。
◇
使節団が近づくにつれ、沿道の歓声はさらに大きくなった。
リインは護衛の兵士たちへ目を向け、父親の姿を探し始めた。しかし、揃いの制服を着た人々の中から見慣れた顔を見つけるのは、思ったより難しかった。
「お父さん、どこかな……」
「おとうさん、いる?」
「いるはずなんだけど、みんな同じ服だから分かりにくいね」
リンも通りの向こうを見つめ、やがて使節団の少し後方を歩く兵士の一人へ目を留めた。
「あ、いたわ。リイン、あそこ。右側を歩いている人よ」
母親が指さした先には、見慣れた父親の姿があった。
普段とは違う整った軍服を着て、周囲へ注意を払いながら歩いている。家で見せる穏やかな表情とは違い、その顔は真剣だった。
「お父さん!」
リインは思わず声を上げ、ミリアも小さな手を振った。
「おとうさーん!」
けれど、歓声に紛れたのか、父親は振り向かなかった。
「気づかないね」
「今はお仕事中だからね。きっと周りをよく見ていないといけないのよ」
リンに言われ、リインはもう一度父親へ目を向けた。
父親は使節団と一定の距離を保ちながら歩き、時折、沿道へ視線を向けている。娘たちを探しているのではなく、危険なものがないか確かめているようだった。
「お父さん、かっこいいね」
「かっこいい」
ミリアも大きく頷くと、リンは二人の頭を撫でた。
「そうね。お父さんも、二人にそう言ってもらえたら喜ぶと思うわ」
リインは父親の姿が見えなくなるまで、じっと見送った。
家では何度も見ている父親なのに、今日は少し違う人のように感じられる。それが嫌なのではなく、大切な仕事を任されていることが誇らしかった。
行列が通り過ぎても、沿道の賑わいはしばらく収まらなかった。
「ねえ、お母さん。あの人たち、今日はどこへ行くの?」
「この後は、お城で歓迎の式典があるはずよ。お仕事のお話もするでしょうし、しばらくはこちらの国に滞在すると思うわ」
「じゃあ、また見られるかな」
「どうかしら。今日みたいに大きな行列はないかもしれないけど、街で見かけることはあるかもしれないわね」
リインは嬉しそうに頷いた。
もしまた会えたら、今度はどんな国から来たのか聞いてみたい。そこにはどんな街があり、どんな食べ物があって、どんな人たちが暮らしているのか。
質問したいことは、考えるほど増えていった。
◇
パレードが終わり、沿道の人々が少しずつ散り始めると、リンは娘たちを連れて近くの広場へ移動した。
そこでは使節団を見送った人々が、飲み物を片手に談笑している。
リインはまだ興奮が冷めない様子で、先ほど見た行列について話し続けていた。
「お母さん、使節団の人たちが着てた服、すごくきれいだったね。あの肩から掛けてた布、歩くたびに揺れてたの。あれって何のためにつけてるんだろう」
「飾りなのかもしれないし、何か意味があるのかもしれないわね。国によって服の形や使い方は違うでしょうから」
「じゃあ、向こうの国に行ったら分かるかな」
「実際に行ってみれば、教えてくれる人もいるでしょうね」
リインは満足そうに頷いた。
ミリアは母親の隣に座り、沿道で配られた小さな旗を眺めている。二つの国の旗が並んで描かれたもので、ゆっくり振りながら姉へ見せた。
「おねえちゃん、これ、もらった」
「うん。かわいいね。おうちに帰ったら飾ろうか」
「おとうさんにも、みせる」
「そうだね。お父さんも喜ぶと思うよ」
リインが妹の隣へ腰を下ろしたとき、聞き慣れた声がした。
「二人とも、楽しめたみたいだな」
顔を上げると、父親が立っていた。
先ほどの軍服のままだったが、表情は家にいるときと同じ穏やかなものに戻っている。
「お父さん!」
リインは勢いよく立ち上がって駆け寄り、ミリアも後からついていった。
「おとうさん、いた!」
「ああ、いたぞ。二人とも、ちゃんと見られたか?」
「うん! すごかったよ。音楽もあったし、使節団の人たちの服もきれいだったし、お父さんも見つけたんだよ」
父親は少し驚いたように笑った。
「そうか。俺も沿道に二人がいるか探してみたかったんだが、今日は仕事だったからな。気づいてやれなくて悪かった」
「ううん。お父さん、お仕事してたんでしょ? お母さんが教えてくれたから、ちゃんと分かってるよ」
リインが得意そうに胸を張ると、父親は娘の頭を撫で、続いてミリアを抱き上げた。
「ミリアも楽しめたか?」
「うん。おっきいたいこ、あった。おとうさん、かっこよかった」
「それは嬉しいな。頑張った甲斐があった」
父親は笑いながら娘を抱き直した。
リンも近づき、夫の顔を見上げる。
「お疲れさま。無事に終わったみたいでよかったわ。まだお仕事は残っているの?」
「ああ。これからも護衛の仕事があるが、少しだけ時間をもらえたんだ。せっかくだから、二人の顔を見ておこうと思ってな」
「そうだったのね。二人とも、朝からずっと楽しみにしていたのよ」
リインは二人の会話が終わるのを待ちきれず、父親の袖を引いた。
「ねえ、お父さん。使節団の人たちって、いろんな国へ行くんでしょ? 今日来た人たちも、ここへ来る前に別の国へ行ったのかな」
「そういう人もいるだろうな。使節団の仕事は、国と国の間を行き来して話をすることだから、遠くへ出かける機会も多い」
「じゃあ、知らない国の人といっぱいお話するんだよね。向こうの国の言葉も覚えたりするの?」
「必要になることもあるな。もちろん、言葉が通じるだけじゃ足りない。相手の国の習慣や考え方も知らないと、うまく話が進まないことがあるんだ」
リインは真剣な顔で頷いた。
思っていたより難しい仕事らしい。それでも、興味が薄れることはなかった。
「……わたし、いつか使節団に入りたい」
父親が少し目を丸くした。
「使節団に?」
「うん。いろんな国へ行って、知らない人とお話してみたいの。おばあちゃんが見た海も見たいし、ほかの国にはどんな街があるのかも知りたい」
リインは父親を見上げながら続けた。
「それに、今日みたいに違う国の人たちが仲良くしてるの、すごくいいなって思ったんだ。わたしも、そういうお仕事がしてみたい」
父親はすぐには答えず、娘の顔を見つめた。
腕の中のミリアも、姉の話を聞きながら父親の服を握っている。
「いい夢だと思うぞ。ただ、知らない国へ行くのは楽しいことばかりじゃない。言葉が通じなかったり、考え方が違って困ったりすることもある。それでも行ってみたいか?」
リインは少し考えた。
知らない国の言葉を覚えるのは大変そうだし、初めて会う人と話すのも、いつもうまくいくとは限らないだろう。
それでも、今日見た使節団の人々は楽しそうだった。沿道の子供たちへ手を振り、知らない街の人々と笑い合っていた。
「うん。難しいことがあっても、ちゃんと勉強すればいいんでしょ? わたし、いろんな国のことを知りたいから」
父親は嬉しそうに笑った。
「そうか。なら、今から少しずつ勉強しておくといい。自分の国のことも、ほかの国のこともな。知っていることが増えれば、話せることも増えるから」
「ほんと? じゃあ、お父さんも教えてくれる?」
「俺に分かることならな。ただし、全部知っているわけじゃないから、一緒に調べることもあるだろうけど」
「それでもいい! わたし、いっぱい勉強するね」
リインが嬉しそうに頷くと、父親はその頭を撫で、リンへ視線を向けた。
「いつの間に、こんな夢を持つようになったんだろうな」
「そういうところは、おばあちゃんに似たのかもしれないね。あの人も、知らない世界を見たくて仕方がなかったみたいだから」
「おばあちゃんも?」
「ええ。あなたたちに海の話をしてくれるとき、いつも楽しそうでしょう? きっと、初めて外の世界へ出たときも、いろんなものを見てみたかったんだと思うわ」
リインは祖母の顔を思い浮かべた。
海の話をするときの、少し遠くを見るような表情。知らない街で食べたものや、旅の途中で出会った人たちについて語る声。
あの人が見てきた景色を、自分も見てみたい。
「じゃあ、わたしが使節団に入れたら、おばあちゃんにもいっぱいお話してあげる。おばあちゃんが知らない国のことも教えてあげたいな」
「きっと喜ぶわ。おばあちゃんは、知らないお話を聞くのも好きだから」
リンが微笑むと、父親も嬉しそうに頷いた。
そのとき、腕の中のミリアが小さく声を上げた。
「……おねえちゃん、どこいくの?」
「いろんな国だよ。隣の国とか、もっと遠いところとか。まだどこに行くか決めてないけど、いっぱい見て回りたいんだ」
ミリアは少し考え、父親の服を握る手に力を込めた。
「おねえちゃん、いなくなる?」
先ほどまでより小さな声だった。
リインは一瞬、何を聞かれたのか分からなかったが、妹の表情を見て意味を理解した。
「いなくならないよ。どうして?」
「だって、とおくにいくって……」
ミリアが俯き、父親の肩へ顔を寄せる。
リインは少し驚いたあと、当然のように笑った。
「ミリアも一緒に行くんだよ。わたしだけで行くわけないでしょ?」
「……いっしょ?」
「うん。ミリアも連れていくよ。海も見に行くし、知らない街にも行くんだから。一人じゃつまらないもん」
リインが手を伸ばすと、ミリアはその手を握り、ようやく笑顔になった。
「わたしも、いく」
「もちろん。ミリアが大きくなったら、一緒にいろんな国へ行こうね」
何度も頷くミリアを見て、父親は少し困ったように笑った。
「使節団の仕事で家族を連れていけるとは限らないぞ。行き先によっては、長い間離れて暮らすことだってあるんだからな」
「えっ、そうなの?」
「ああ。仕事だからな。行きたい場所へ自由に行けるわけでもないし、決められた予定に合わせて動かないといけない」
リインは少し考え込んだ。
思っていた旅とは違うところもあるらしい。けれど、すぐに別の考えが浮かんだ。
「じゃあ、ミリアも使節団に入ればいいんじゃない?」
父親は思わず笑った。
「そう簡単に決められるものじゃないぞ。ミリアが大きくなったとき、何をしたいと思うかも分からないだろう?」
「ミリアは何したい?」
リインが尋ねると、妹は迷わず答えた。
「おねえちゃんと、いっしょ」
「ほら、一緒がいいって」
満足そうに頷くリインを見て、リンは声を立てて笑った。
「まだ二人とも小さいんだから、今すぐ決めなくてもいいのよ。これからいろんなことを知って、それぞれ好きなことを見つければいいんだから」
「そうだな。リインも、使節団以外に面白い仕事を見つけるかもしれない。今の夢を大事にしながら、いろんなものを見てみるといい」
リインは少しだけ口を尖らせた。
「でも、わたしは使節団がいいな。今日見た人たち、すごく楽しそうだったもん」
「なら、まずは勉強だな。隣の国のことを知るところから始めてみるか」
「うん!」
リインが元気よく答えると、ミリアも姉の真似をして頷いた。
父親は二人の様子に笑い、それから少し名残惜しそうに立ち上がった。
「さて、そろそろ戻らないとな。まだ仕事が残っているから、今日は先に帰っていてくれ」
「分かった。お父さん、お仕事頑張ってね。帰ってきたら、もっと使節団のお話を聞かせて」
「ああ。帰ったら話そう。二人とも、母さんの言うことをちゃんと聞くんだぞ」
ミリアは父親の首へ腕を回した。
「おとうさん、またね」
「またな。今日はよく見られてよかった」
父親はミリアをリンへ渡し、娘たちの頭を順番に撫でると、再び仕事へ戻っていった。
◇
父親の姿が人混みの向こうへ消えると、リインはしばらくその方向を見つめていた。
自分もいつか、あんなふうに異国の衣装をまとい、知らない街を歩くのだろうか。
沿道の人々へ手を振り、違う国の人たちと言葉を交わす。そんな自分の姿を想像すると、自然と頬が緩んだ。
「リイン、そろそろ帰りましょうか。ミリアも疲れてきたみたいだし、今日は朝からずっと外にいたでしょう?」
リンの声に振り返ると、ミリアが小さな旗を握って立っていた。少し眠そうだったが、姉と目が合うと嬉しそうに笑った。
「うん。帰ろう。でも、もうちょっとだけ旗を見ててもいい?」
「いいわよ。少しだけね」
リンは娘の隣へ並んだ。
通りには、まだ二つの国の旗が掲げられている。行列が通り過ぎた後も人々は楽しそうに話し合い、遠くでは楽器の音が聞こえていた。
リインは頭上を見上げた。
自分の国の旗と、隣の国の旗。
形も色も違う二つが、こうして並んでいる。
その向こうには、まだ知らない国がいくつもあるのだろう。
「お母さん。わたし、やっぱりいろんな国へ行ってみたい。今日みたいに、知らない人たちと仲良くなれるなら、きっと楽しいと思うんだ」
リンは娘の顔を見つめ、穏やかに頷いた。
「そうね。きっと楽しいこともたくさんあるでしょうね。だから、これから少しずつ準備していけばいいと思うわ」
「うん。お父さんにも教えてもらうし、本も読む。おばあちゃんにも、いろんな国のお話を聞いてみたいな」
「それなら、次に会うときが楽しみね。おばあちゃんも喜んでくれると思うわ」
リインが笑うと、隣にいたミリアがその手を握った。
「おねえちゃん、わたしもいくよ」
「うん。ミリアも一緒だよ。知らないところへ行くなら、二人で見た方が楽しいもんね」
ミリアは嬉しそうに笑い、握った手に少しだけ力を込めた。
リインもその手を握り返し、もう一度通りの向こうへ目を向ける。
使節団の姿はもう見えなかったが、彼らが歩いていった道は街の外へと続いている。
いつか自分も、その道を歩いてみたい。
風が吹き、二つの国の旗が揃って揺れた。
リインは妹の手を引いて歩き出した。その目には、旗の向こうまで続く、まだ知らない世界が広がっているように見えていた。




