第1話 おばあちゃんの見た海
リインが祖母の家へ遊びに行く日は、いつも朝から少し忙しくなる。
普段なら母親に起こされるまで布団の中で粘っているのに、その日に限っては誰よりも早く目を覚ます。着替えを済ませると、まだ眠っている妹の部屋へ向かい、布団から覗く小さな肩を揺らした。
「ミリア、起きて。今日はおばあちゃんのところに行く日だよ。早くしないと、お母さんが先に出かけちゃうかもしれない」
もちろん、母親が二人を置いて出かけるはずはない。それでも、今日を楽しみにしていたリインには、妹が目を覚ますまでの時間さえ長く感じられた。
布団の端から顔を出したミリアは、眠そうに目をこすりながら姉を見上げる。
「……おばあちゃん?」
「そう。今日はお菓子を作って待っててくれるって。だから、早く起きよう?」
差し出された手を握って身体を起こしたミリアの髪は、寝癖であちこち跳ねていた。
リインは少し考えてから手櫛で直そうとしたものの、右を撫でれば左が跳ね、左を押さえれば今度は後ろが膨らんでしまう。どうにかしようと奮闘しているうちに、部屋の扉が開いた。
「リイン。ミリアを起こしてくれたのは助かるけど、髪はお母さんに任せてくれる? それ以上触ると、余計に大変なことになりそうだから」
娘たちの様子を見たリンは、困ったように笑った。
「だって、ミリアの髪が変な方向を向いてたんだもん。ちゃんと直そうと思ったんだけど」
「気持ちは嬉しいわ。でも、ほら。こっちにおいで、ミリア」
リンが櫛を取りに行く間、リインは妹の隣に腰を下ろした。まだ眠気の残るミリアは姉の袖を掴み、確かめるように尋ねる。
「おねえちゃん、きょう、おばあちゃんのおうち?」
「うん。お昼も一緒に食べるんだって。おばあちゃんのところに行ったら、先にお庭を見ようね」
嬉しそうに頷く妹を見て、リインも笑顔になる。
櫛を手に戻ってきたリンは二人の前に腰を下ろし、ミリアの髪を整えながら言った。
「お庭を見るのはいいけど、勝手に遠くまで行かないこと。それから、ミリアが疲れたらちゃんと休ませてあげるのよ」
「分かってるよ。ミリアはわたしが見てるもん」
「それなら安心ね。だけど、リインもお母さんの言うことを聞いてちょうだい」
そう言われると、リインは少しだけ口を尖らせた。
自分はもう小さな子供ではないつもりだったし、妹の面倒だって十分に見られると思っている。それでも母親からすれば、二人ともまだ目を離せない年頃なのだろう。
やがて身支度を終えた姉妹は、揃って朝食の席へ向かった。
窓の外では柔らかな日差しが庭先を照らし、祖母の家へ出かけるにはちょうどいい天気になっていた。
◇
ミナの家は、姉妹が暮らす家から歩いて行けるところにあった。
朝の通りには買い物をする人々が行き交い、店先には焼きたてのパンが並んでいる。道端の花壇には色とりどりの花が咲き、時折吹く風が甘い香りを運んできた。
リインは母親の少し前を歩きながら、気になるものを見つけるたびに足を止めていた。
「あ、お母さん。あのお花、前に見たときは咲いてなかったよね。いつの間に咲いたんだろう」
「暖かくなってきたからでしょうね。でも、今日はお花を見に来たんじゃないでしょう?」
「分かってる。ちょっと見ただけだよ」
そう答えた直後、今度は店先に飾られた木彫りの鳥に目を奪われる。
リンは何も言わずにその後ろ姿を見送り、隣で手を繋いでいるミリアへ視線を落とした。
「ミリアも気になる?」
「ううん。おねえちゃん、なに見てるのかなって」
「そう。じゃあ、お姉ちゃんが戻ってくるまで、ここで待っていましょうか」
ほどなくして、リインが小走りで戻ってきた。
「ねえ、あの鳥、羽が動くんだって。お店のおじさんが見せてくれたの。ミリアにも見せたかったな」
「それなら帰りに寄ってみましょう。ただし、おばあちゃんを待たせないように、今は先へ進むわよ」
「はーい」
元気よく返事をする娘に笑いながら、リンは空いている手を差し出した。リインは少し迷ってからその手を取り、三人は並んで歩き始める。
やがて見慣れた家が見えてくると、リインは駆け出そうとしたが、隣にいる妹を見て思い直した。
「ミリア、着いたよ。おばあちゃん、もう起きてるかな」
「いるとおもう」
「そうだよね。きっと待ってるよね」
二人が門の前へ来たところで扉が開き、中からミナが姿を見せた。
「あら、もう来たの? 今日はずいぶん早かったのね。お菓子を焼き終えたところだから、ちょうどよかったわ」
「おばあちゃん!」
駆け寄ってきたリインを、ミナは腰を落として迎えた。続いてミリアも控えめに服へ手を伸ばす。
「ミリアもいらっしゃい。二人とも元気そうでよかった。さあ、中へ入って。リンも、わざわざ連れてきてくれてありがとう」
「いつものことじゃない。お母さんこそ、朝からお菓子を焼いてくれたんでしょう?」
「好きでやっているんだから、気にしなくていいのよ。それに、この子たちが喜んでくれるなら、作り甲斐もあるもの」
ミナは孫たちの頭を順番に撫で、家の中へ招き入れた。
焼き菓子の甘い香りにリインは目を輝かせたが、母親に手を洗うよう言われると、素直にミリアを連れて洗い場へ向かう。
その後ろ姿を見送りながら、ミナはリンへ笑いかけた。
「あの子、あなたの小さい頃によく似てきたわね。気になるものを見つけたら、確かめるまで落ち着かないところなんて、そっくり」
「そうだったかしら。私はもう少し大人しかったと思うけど」
「あら、そういうことにしておきましょうか」
「お母さんまで、そんな言い方するのね」
二人は顔を見合わせて笑った。
洗い場からは、姉妹の楽しそうな声が聞こえていた。
◇
お茶の時間になると、リインとミリアは祖母を挟むように席へ着いた。
テーブルには焼き菓子と温かな飲み物が並び、リンが菓子を取り分ける間、ミナは孫たちに今日の出来事を尋ねた。
リインは道端で見つけた花や木彫りの鳥について話し、ミリアも時折、小さく言葉を添える。
「それでね、鳥の羽がこうやって動くの。おじさんが持つところを回したら、本当に飛びそうだったんだよ」
両腕を広げて羽ばたく真似をした拍子に、袖が飲み物の器へ触れそうになった。
「リイン。お話するのはいいけど、テーブルの上に気をつけて。せっかくのお茶をこぼしたら大変でしょう」
「あっ、ごめんなさい」
慌てて腕を下ろす孫を微笑ましく眺めていたミナは、話が一段落すると、自分が若い頃に出会った海鳥のことを話し始めた。
白い翼を大きく広げ、波の上を風に乗って飛んでいた鳥。波が高くても平気な様子で飛び続け、時折、鋭い声を響かせていたという。
「そんなに大きいの? わたしより?」
「翼を広げたら、きっとリインより大きかったわね。でも、近づこうとするとすぐに飛んでいってしまうの。何度も見かけたけれど、結局触れなかったわ」
「わたしだったら、もっと近くまで行けると思う」
「そうかしら。あの鳥は人の気配に敏感だったから、なかなか難しいと思うけど」
「じゃあ、隠れて近づくの。こうやって、そーっと」
リインが椅子から身を乗り出すと、ミリアも真似をして身体を傾けた。
リンは二人が落ちないよう見守りながら、呆れたように息をつく。
「鳥を見るために海へ行くなら、まずは泳げるようにならないとね。リインはまだ深いところへ入れないでしょう?」
「泳げるようになるもん。それに、海ってすごく広いんでしょ? どこまで行っても水があるなんて、ちょっと信じられない」
その言葉に、ミナは懐かしそうに窓の外へ目を向けた。
「私も、初めて見るまでは信じられなかったわ。どれだけ話を聞いても、実際に目の前へ広がる景色は想像していたものと違っていたもの」
リインは菓子を持つ手を止めた。
祖母が海の話をするときの声が好きだった。いつも穏やかなミナが、そのときだけ少し楽しそうに、遠くを見るような顔になるからだ。
「ねえ、おばあちゃん。海を初めて見たときのお話、また聞かせて」
「また? この前も聞いたでしょう」
「だって、好きなんだもん。ね、ミリアも聞きたいよね?」
ミリアも口元についた菓子の欠片を拭いながら、大きく頷いた。
「ききたい。おばあちゃんと、グレイのおはなし」
ミナは二人を見比べ、柔らかく笑った。
「それじゃあ、少しだけね。あのとき私は、海というものを知ってはいたけれど、実際に見たことがなかったの。外の世界には知らないものがたくさんあるって、頭では分かっていたのだけれど……」
飲み物で喉を潤し、ミナは記憶を辿るように続けた。
「初めて海が見えたとき、最初は空が地面まで降りてきたのかと思ったわ。青いものがずっと遠くまで続いていて、どこからが海で、どこからが空なのか分からないくらいだったの」
「ほんとに、そんなに広いの?」
「ええ。風が吹くと水面がきらきら光って、波が砂浜までやってくるの。近づいたら足元が濡れてしまって、思わず声を上げたのを覚えているわ」
ミリアは自分の足を見下ろした。
「おみず、つめたい?」
「少し冷たかったわ。でも、とても気持ちよかった。波が引くと足の下の砂まで動くから、最初は転びそうになってしまったのよ」
「おばあちゃんが転びそうになったの?」
「そうよ。今なら上手に歩けるけれど、あの頃は何も知らなかったもの。グレイにも少し笑われてしまったわ」
その名前に、ミリアが嬉しそうに顔を上げる。
「グレイも、いっしょだったの?」
「ええ。私を海へ連れていってくれたのは、グレイだったから」
リインは何度も聞いているはずの話に、また胸を弾ませた。
祖母の話に出てくるグレイは、いつも少し不思議な人だった。
知らない場所へ平気で出かけ、強い相手がいると興味を持ち、ときには祖母を驚かせるようなこともする。それでもミナがその名前を口にするとき、怖そうな人だと感じたことは一度もなかった。
「グレイって、どんな人だったの? おばあちゃんより背が高かった?」
「そうね。あの頃の私よりは高かったわ。でも、初めて会ったときは、こんなに若い人なんだって驚いたのよ」
「お母さんより若い?」
「見た目だけなら、そうだったかもしれないわね」
リインは不思議そうに首を傾げた。
「じゃあ、グレイはおばあちゃんのお姉ちゃんみたいな人?」
「お姉ちゃん、という感じではなかったかしら。私が知らないことをたくさん知っていたけれど、グレイも初めて見るものにはすぐ興味を持つ人だったから。一緒に歩いていると、私までいろんなものを見たくなったの」
「じゃあ、わたしと似てる?」
「ふふ。そういうところは、少し似ているかもしれないわね」
得意そうに胸を張るリインへ、リンが横から口を挟む。
「でも、グレイはちゃんと周りも見ていたんでしょう? リインは興味を持つと、ほかのことを忘れてしまうから」
「忘れてないよ。ミリアのことはちゃんと見てるもん」
「ええ、それは知っているわ。だからこそ、自分の足元にも気をつけてほしいの」
母親の言葉にリインは足を揃え、隣でミリアが小さく笑った。
そんな姉妹を眺めながら、ミナは海へ向かった日のことを思い返していた。
道中、グレイは何度も声をかけてくれた。疲れていないか、休みたくないか、何か食べたいものはないか。
特別な言葉ではなかったけれど、何をしたいのか自分で決め、それを当たり前のように受け止めてもらえることが、当時のミナには新鮮だった。
初めて目にした海の景色は、今でも鮮やかに思い出せる。
けれど、何より心に残っているのは、波打ち際で立ち尽くしていた自分に、グレイが何も急かさず付き合ってくれたことだった。
「おばあちゃん?」
リインの声に、ミナは顔を上げた。
「グレイとは、また会えるのかな。わたしも会ってみたい。海のこととか、ほかの国のこととか、いっぱい聞いてみたいんだ」
ミナはすぐには答えなかった。
グレイが今どこを旅しているのかは分からない。それでも、あの人なら今もどこかで知らない景色を見つけているのだろうと思えた。
「そうね。いつか会えたらいいわね。きっと、リインの質問にも答えてくれると思うわ」
「ほんと?」
「ええ。ただし、グレイも気になったことはすぐに聞く人だから、リインもたくさん質問されるかもしれないわよ」
「それなら平気。わたし、お話するの好きだもん」
ミリアが姉の袖を引いた。
「わたしも、あいたい」
「じゃあ、二人で会いに行こうね。グレイに会えたら、おばあちゃんの海のお話をもっと聞かせてもらおう」
嬉しそうに頷くミリアを見て、リンも懐かしそうに微笑んだ。
自分も幼い頃、母親に同じようなことを言った覚えがある。顔を見たことはなくても、楽しそうに語られるグレイという人物は、ずっと昔から身近な存在だった。
そして、その名前は今もリンの暮らしの中に残っている。
◇
お茶を飲み終える頃には、リインの関心は庭へ移っていた。
窓の向こうの花壇には、以前訪れたときにはなかった花が咲いている。ミナが少しずつ育てているもので、季節が変わるたびに庭の色も変わっていくのだ。
「おばあちゃん、お庭に出てもいい? 前に植えたお花がどうなったか見たいの」
「いいわよ。でも、さっきまで雨が降っていたから、土の柔らかいところには気をつけてね。ミリアも一緒に行く?」
「いく。おねえちゃんと、おはな見る」
リインは椅子から降りた妹の手を取り、庭へ向かった。
昼前の日差しが花壇を照らし、湿った土から柔らかな匂いが立ち上っている。
以前ミナと一緒に種を蒔いた場所では、小さかった芽が葉を広げ、いくつかは花を咲かせていた。
「見て、ミリア。こんなに大きくなってる! 前はわたしの指くらいしかなかったのに、もうこんなに伸びたんだよ」
リインがしゃがむと、ミリアも隣に膝を折り、小さな花へそっと指を近づけた。
「かわいいね。これ、おねえちゃんがうえたの?」
「そうだよ。おばあちゃんに教えてもらって、種を埋めたの。ミリアも一緒にやったけど、覚えてない?」
「……おぼえてない」
「そっか。じゃあ、今度また一緒に植えよう。ミリアの好きな色のお花にしたら、きっと覚えていられるよ」
ミリアは少し考え、庭の端に咲いている白い花を指さした。
「あれがいい」
「白いお花? うん、きれいだね。あとでおばあちゃんに名前を聞いてみようか」
妹の手を引いて歩き始めたリインだったが、途中で葉の上を歩く虫を見つけ、思わず足を止めた。
「ミリア、こっちにも来て。変わった虫がいるよ。ほら、背中がきらきらしてる」
ミリアが覗き込むと、虫は葉の裏へ隠れてしまった。
「あ、いなくなっちゃった」
「大丈夫。たぶん、葉っぱの下にいるだけだから」
別の角度から覗こうと花壇の縁へ足をかけた瞬間、湿った土に靴が滑った。
慌てて近くの枝へ手を伸ばしたものの、届くより先に尻もちをついてしまう。
「いたた……」
「おねえちゃん、だいじょうぶ?」
「うん、平気。ちょっと滑っただけだよ。ほら、どこも痛くないから」
笑って立ち上がるリインの服には土がついていた。ミリアが小さな手で払おうとすると、リインも妹の手についた土を落としてやる。
「あとで落とせば大丈夫だよ。ミリアの服じゃなくてよかった」
そのとき、台所の窓からリンが顔を出した。
「リイン。転んだでしょう?」
「えっ、見てたの?」
「音が聞こえたもの。怪我がないならいいけど、花壇の中へ入らないようにね。おばあちゃんが大事に育てているんだから」
「はーい。もう入らないよ」
リインは返事をすると、まだ服の裾を気にしている妹へ笑いかけた。
ミリアも安心したように笑い、二人は今度こそ白い花のところへ向かった。
◇
昼食を終えると、リンは娘たちを連れて一度自宅へ戻ることにした。
夕方から街で祭りが開かれ、ミナも一緒に出かける約束をしている。
リインは祖母の家に残りたがったが、祭りの服へ着替える必要があると言われると、渋々頷いた。
「お祭りの服、ちゃんと用意してあるでしょう? おばあちゃんだって支度があるんだから、一度帰ってから迎えに来ましょう」
「分かった。でも、早く来るからね。おばあちゃん、待っててね」
「ええ。楽しみにしているわ。二人とも、気をつけて帰るのよ」
ミナは門まで見送りに出て、三人が角を曲がるまで手を振っていた。
帰り道、リインは祭りの屋台について母親へ尋ね続けた。
去年食べた甘い菓子は今年もあるだろうか。広場ではまた音楽が聞けるだろうか。小さな飾りを売っていた店は来るだろうか。
リンは一つずつ答えながら歩いていたが、やがて質問が途切れたところで、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、グレイの様子も見ておかないとね。今朝は慌ただしくて、まだ顔を見に行けていなかったから」
リインが顔を上げる。
「グレイ? お母さん、グレイっておばあちゃんのお友達じゃなかったの?」
「もちろん、そっちのグレイもいるわよ。今言ったのは、うちのグリフォンのこと」
「そういえば、同じ名前だよね。ねえ、お母さん。どうしてグレイって名前にしたの?」
リンは少し意外そうに娘を見た。
「まだ話していなかったかしら?」
「うん。おばあちゃんのお話にはグレイが出てくるけど、うちのグレイも同じ名前なのが不思議だったんだ」
リンは二人の歩く速さに合わせて足を緩めた。
「私が小さかった頃もね、おばあちゃんはよく海の話をしてくれたの。知らない街で食べたものや、旅の途中で出会った人たちのことも、楽しそうに話してくれたわ」
「それで、グレイの名前をつけたの?」
「ええ。お母さんにとって大切な人だったし、私にとっても小さい頃から親しみのある名前だったから。グリフォンを迎えたとき、自然と思い浮かんだのよ」
リインはしばらく考え込んだ。
グリフォンのグレイは、祖母の話に出てくる人物とはまったく違う姿をしている。それでも母親が名前を呼ぶときの声は、どちらについて話すときも優しかった。
「じゃあ、お母さんもグレイに会ってみたい?」
「そうね。もし会えたら、お母さんがどんな子供だったのか聞いてみたいわ。私の知らない頃のおばあちゃんを知っている人だもの」
「それ、わたしも聞きたい! おばあちゃんが小さかったとき、どんな遊びをしてたのかな」
「ふふ。聞けるといいわね」
二人の会話を聞いていたミリアが、不思議そうに首を傾げた。
「グレイ、ふたりいるの?」
「そうだよ。おばあちゃんのお友達のグレイと、うちのグリフォンのグレイ。ミリアはどっちも好き?」
「うん。おうちのグレイ、すき。おばあちゃんのグレイも、あってみたい」
リインは嬉しそうに頷き、妹の手を握り直した。
家へ戻ると、三人はグリフォンの様子を確かめに向かった。
グレイは姉妹を見つけるとゆっくり頭を動かし、近づいてきたリインの手へ慣れた様子で顔を寄せる。
「グレイ、ただいま。今日はおばあちゃんのおうちに行ってきたんだよ。おばあちゃんも、グレイのことを話してたの」
グリフォンが人間の言葉をどこまで理解しているのかは分からない。それでも、こうして声をかけると、いつもちゃんと聞いてくれているような気がした。
ミリアも姉の隣へ並び、小さく手を伸ばす。
「グレイ、いいこ」
グレイが頭を下げると、ミリアは嬉しそうに羽毛へ触れた。
リンは手入れに必要なものを確かめながら、二人へ声をかける。
「今日はお祭りだから、夕方は少し賑やかになるわね。グレイも落ち着いて過ごせるようにしておきましょう」
「グレイも一緒にお祭りへ行けたらいいのに」
「人がたくさん集まるところへ連れていったら、みんな驚いてしまうでしょう? それに、グレイだって静かなところで休みたいかもしれないわ」
「そっか。じゃあ、帰ってきたらお祭りのお話をしてあげよう」
リインはグレイの首元を撫でながら約束し、ミリアも真似をして頷いた。
◇
夕方になると、街は昼間とは違う賑わいに包まれていた。
通りには色とりどりの飾りが吊るされ、店先からは焼いた肉や甘い菓子の香りが漂っている。遠くの広場からは楽器の音が聞こえ、祭りへ向かう人々の話し声が重なっていた。
リインは母親に髪を整えてもらい、お気に入りの服へ着替えていた。ミリアも普段より華やかな服を着て、姉の隣で嬉しそうに笑っている。
「お母さん、もう行ってもいい? おばあちゃん、待ってるよね」
「まだ約束の時間には少し早いわ。でも、ゆっくり歩いていけばちょうどいいかもしれないわね」
「じゃあ行こう! ミリア、忘れ物ない?」
「ないよ」
「本当に? さっき持ってた小さい袋は?」
ミリアは自分の手元を見てから、部屋の方へ視線を向けた。
「あ……」
「ほら、やっぱり。わたし、取ってきてあげるね」
得意そうに駆け出したリインを、リンが呼び止める。
「リイン。走らなくても袋は逃げないわよ。それから、自分の上着も忘れているでしょう?」
足を止めて振り返ると、母親が椅子に掛けられた上着を指さしていた。
「……あっ」
「おねえちゃんも、わすれてる」
今度はミリアが笑い、リインも照れくさそうに笑い返した。
「そうだったね。じゃあ、一緒に取りに行こうか」
二人は並んで部屋へ戻り、忘れ物を持ってくると、ようやく家を出た。
ミナの家へ迎えに行く途中、リインは何度も広場の方を振り返ったが、母親に言われた通り寄り道はしなかった。
祖母はすでに支度を済ませて待っていた。
「あら、二人とも素敵ね。リインもミリアも、今日はいつもよりお姉さんに見えるわ」
「ほんと? お母さんに髪を結んでもらったの。ミリアもかわいいでしょ?」
「ええ、とてもかわいいわ。リンも、二人の支度で大変だったでしょう」
「少しだけね。でも、本人たちが楽しみにしていたから、思ったより早く終わったわ」
ミナはミリアの髪飾りをそっと直し、照れて姉の後ろへ隠れる孫に微笑んだ。
「さあ、行きましょうか。広場の音楽も、そろそろ始まる頃でしょう」
「ミリア、行こう! 今日はいっぱい遊ぼうね」
リインが差し出した手をミリアが握り、四人は賑やかな通りへ向かった。
◇
祭りの広場には、昼間とは比べものにならないほど多くの人が集まっていた。
通りの両側には屋台が並び、焼き菓子や串焼き、色鮮やかな飾りを売る声が響いている。広場の中央では演奏が始まり、子供たちは音楽に合わせて跳ねるように歩いていた。
リインは目に入るものすべてが気になり、どこから見て回ろうか迷っていた。
「あっちにお菓子のお店がある! でも、向こうの飾りもかわいいし……ねえ、お母さん、最初はどこに行く?」
「そんなに急がなくても、お店は逃げないわよ。まずはみんなで一通り見て回りましょう。それから気になるところへ戻ればいいでしょう?」
「それもそうだね。じゃあ、ミリアは何が見たい?」
ミリアが指さしたのは、小さな飾りを吊るした屋台だった。
花や鳥、星をかたどったものが並び、風が吹くたびにゆっくり揺れている。
「あれ、きれい」
「ほんとだ。じゃあ、先に見に行こうか」
二人が近づくと、店主は小さな鳥の飾りを手に取って見せてくれた。
「これ、羽が動くんだよ。ほら、ここの紐を引っ張るとね」
紐を引くと鳥の羽がぱたぱたと動き、リインは目を輝かせた。
「すごい! 朝見た鳥とは違うけど、こっちもかわいいね。ミリア、見た? 本当に飛んでるみたいだったよ」
「うん。かわいい」
店主がほかの飾りも見せてくれると、リインは一つずつ確かめながら、どれが一番いいか真剣に悩み始めた。
その様子を見ていたミナが、ミリアへ声をかける。
「ミリアはどれが好き? 気に入ったものがあったら、おばあちゃんが一つ買ってあげるわよ」
「いいの?」
「もちろん。でも、一つだけね。ちゃんと自分で選んでごらんなさい」
ミリアは並んでいる飾りを見比べ、やがて小さな白い鳥を指さした。
「これがいい」
「白い鳥ね。リインは決まった?」
リインは少し迷ってから、青い花の飾りを手に取った。
「わたしはこれにする。おばあちゃんの海のお話みたいな色だから」
ミナはその言葉に目を細め、二人の選んだ飾りを買ってやった。
「おねえちゃん、これ、いっしょにつけようね」
「うん。帰ったらお母さんにつけてもらおう。ミリアの鳥、すごくかわいいよ」
姉妹は買ってもらった小物を大切そうに持ちながら、四人で屋台を見て回った。
焼きたての菓子を分け合い、広場の音楽に耳を傾け、知り合いに会えば足を止めて挨拶を交わす。
やがてミナが休みたいと言うと、リインも素直に足を止めた。
広場の端に置かれた椅子へ腰を下ろし、買ったばかりの飾りを眺めていると、祖母が尋ねる。
「リインたちは、まだ遊び足りないでしょう?」
「うん。でも、おばあちゃんが休むなら、わたしもここにいるよ。ミリアも、ちょっと疲れたみたいだし」
隣ではミリアが母親の膝へ寄りかかっていた。
「ミリア、足が痛い?」
「ちょっとだけ。でも、だいじょうぶ」
「じゃあ、少し休もう。あとでまた一緒に見に行けばいいもんね」
リインは妹の隣へ移動し、二人で飾りを並べて眺め始めた。
その姿を見ながら、ミナがリンへ静かに話しかける。
「リインは、本当にミリアのことが好きなのね。自分の行きたいところがあっても、ちゃんと妹の様子を見ているわ」
「ええ。普段はあんなに落ち着きがないのに、ミリアのことになると急にお姉ちゃんらしくなるのよ。もっとも、二人で一緒に転んで帰ってくることもあるんだけど」
「あら、それも仲がいい証拠じゃない。あなたも小さい頃は、私の後をどこへでもついてきたものよ」
リンは少し意外そうに母親を見た。
「そうだったかしら」
「ええ。台所に立てば隣へ来て、庭仕事をしていれば一緒に土を触って。今のミリアを見ていると、あの頃のあなたを思い出すわ」
「それなら、私もお母さんにずいぶん甘えていたのね」
「そうね。でも、私はそれが嬉しかったわ。今だって、こうして一緒に出かけられるんだから」
リンは母親の横顔を見つめ、それから姉妹へ視線を戻した。
広場には少しずつ灯りが増え、夕暮れの色が広がり始めている。
「私も嬉しいわ。こうしてみんなで出かけられるの、やっぱりいいものね」
ミナは娘の言葉を聞き、穏やかに微笑んだ。
◇
日が沈む頃、広場の音楽は一段と賑やかになった。
演奏に合わせて踊る人々が増え、子供たちも輪の外側で真似をしている。
リインはその様子を見つけると、椅子から立ち上がった。
「お母さん、あっちに行ってもいい? みんな踊ってるよ。ミリアも一緒に見に行こう!」
「いいけど、あまり遠くへ行かないでね。人が増えてきたから、ちゃんと手を繋いでいるのよ」
「分かってる!」
リインはミリアの手を取り、広場の中央へ向かった。
踊る人々を見ているうちに自然と身体が動き始め、姉が楽しそうにしているのを見たミリアも、少しずつ真似をするようになった。
「ミリア、こうだよ。右に一歩、それから左。ほら、簡単でしょ?」
「みぎ……ひだり……」
「そうそう。上手だよ!」
リインは妹の手を引きながらゆっくり足を動かした。
最初は何度も間違えていたミリアも、繰り返すうちに動きを覚え、姉と一緒に小さく跳ねるようになる。
少し離れたところで見守っていたリンが、ミナへ笑いかけた。
「あの子たち、すっかり夢中ね。帰る頃には疲れて眠ってしまうんじゃないかしら」
「そうなったら、帰りは少し大変ね。でも、あんなに楽しそうなんだもの。もう少し遊ばせてあげましょう」
やがて一曲終わり、周囲から拍手が起こった。
リインも大きく手を叩き、ミリアもそれに続く。
二人が次の曲を待ちながら広場の端へ移動したとき、近くの屋台から甘い香りが漂ってきた。
「あ、あのお菓子! 去年食べたやつだ。ミリア、覚えてる? 外がさくさくしてて、中が甘いやつ」
「……わかんない」
「そっか。じゃあ、見に行こう。きっとミリアも好きだと思うよ」
リインは屋台へ向かって歩き始めた。
しかし、人の流れは思ったより速く、前を横切る大人たちに視界を遮られてしまう。
少し横へ避け、そのまま屋台の前へ出ると、ちょうど店主が焼きたての菓子を並べているところだった。
「ミリア、見て。ちょうど焼きたてだよ!」
嬉しくなって振り返ったリインは、そこで初めて妹がいないことに気づいた。
「……ミリア?」
さっきまで隣にいたはずなのに、見えるのは知らない人たちの服や足ばかりだった。
屋台の前から離れて人々の間を覗き込むが、妹の姿は見つからない。
「ミリア! どこにいるの?」
声を張り上げると、近くにいた人が振り返った。
母親から手を離さないよう言われていたのに、菓子に気を取られてしまった。来た道を戻ろうにも、人が多くてどちらから歩いてきたのか分からなくなりそうだった。
唇を噛んで周囲を見回していると、少し離れたところから小さな声が聞こえた。
「……おねえちゃん」
顔を上げたリインの目に、人々の隙間から見覚えのある髪飾りが映った。
ミリアだった。
妹は通りの端に立ち、泣きそうな顔で周囲を見回している。
「ミリア!」
駆け寄ろうとしたリインは、目の前を人が横切ったため慌てて足を止め、人の流れが途切れるのを待ってから妹のところへ向かった。
「おねえちゃん……」
「ごめんね、ミリア。わたしがちゃんと手を繋いでなかったから。怖かったよね、もう大丈夫だよ」
差し出した手を、ミリアが強く握る。
小さな指は少し震えていた。
「どこか痛いところはない? 誰かにぶつかったりしなかった?」
ミリアは首を横に振った。
「おねえちゃん、いなくなっちゃった……」
「うん。ごめんね。もう勝手に行かないから、一緒にお母さんのところへ戻ろう」
リインは妹の手を握り直し、今度は人の少ない通りの端を歩いた。
ほどなくして、二人を探しに来たリンとミナの姿が見えた。
「リイン、ミリア!」
リンは駆け寄ってくると、手を伸ばしたミリアを抱き寄せ、二人の顔を確かめた。
「二人とも、怪我はない? 急に見えなくなったから心配したのよ」
「ごめんなさい。わたしがお菓子のお店を見つけて、ミリアの手を離しちゃったの」
リインは俯きながら答えた。
リンはしばらく娘を見つめ、それから小さく息をつく。
「ちゃんと話してくれてありがとう。でも、人が多いところでは本当に気をつけないといけないわ。ミリアだけじゃなく、リインも危ないんだから」
「うん……もうしない」
隣へ来たミナが、リインの頭をそっと撫でた。
「ミリアを見つけられてよかったわね。二人とも、ずいぶん驚いたでしょう。少し休んでから、また一緒に歩きましょうか」
リインは祖母を見上げ、それから母親の腕の中にいる妹へ視線を向けた。
「ミリア、ごめんね」
「……うん」
ミリアは少し迷ってから、姉へ手を伸ばした。
「おねえちゃん、いっしょ」
「うん。ずっと一緒にいるよ」
リインがその手を握ると、リンもようやく表情を和らげた。
四人は近くの椅子へ移動し、しばらく休むことにした。
◇
少し休むと、ミリアはすっかり元気を取り戻した。
リインは母親の隣で大人しく座っていたが、遠くから聞こえる音楽には何度も顔を向けている。
その様子に気づいたリンが笑いながら尋ねた。
「まだ遊びたい?」
リインは先ほどのことを思い出し、少し迷ってから答えた。
「……いいの?」
「もちろん。ただし、今度はみんなで一緒に行きましょう。お母さんもおばあちゃんもいるんだから、慌てて先へ行かなくていいのよ」
「うん。今度はちゃんと一緒に歩く」
嬉しそうに頷いたリインが立ち上がると、ミリアもその手を握った。
四人が再び祭りの通りへ戻る頃には、屋台の灯りが夜の街を明るく照らしていた。
リインは今度こそ妹の手を離さず、気になるものを見つければ先に母親へ声をかけた。
途中で先ほどの菓子の屋台を見つけると、リンが姉妹に一つずつ買ってくれた。
焼きたての菓子は外側が香ばしく、中には甘い餡が入っている。
「やっぱりおいしい! ミリアも食べてみて。さっき言ってたの、これなんだよ」
ミリアは小さく齧り、しばらく口を動かしてから頷いた。
「おいしい」
「でしょ? わたし、これ大好きなんだ」
満足そうに笑う姉妹の隣で、ミナも同じ菓子を一つ買い、リンと半分ずつ分け合っていた。
「お母さん、こういうお菓子好きだったわよね。昔もよく買っていたでしょう?」
「ええ。旅をしていた頃にも、似たようなものを食べたことがあるわ。土地によって味が違うから、見つけるとつい買ってしまうのよ」
「それなら、今度別の街へ行ったときにも探してみましょうか」
「そうね。みんなで食べ比べるのも楽しそうだわ」
二人の会話を聞いたリインが、顔を上げた。
「別の街? わたしも行きたい! おばあちゃんが行ったことのある街にも、みんなで行ける?」
「もちろん、機会があればね。でも、リインが行きたい場所も見つけてみたらどうかしら。おばあちゃんが知らないところだって、きっとたくさんあるわよ」
リインは目を輝かせた。
「じゃあ、わたしが見つけた場所に、おばあちゃんを連れていってあげる。ミリアも一緒にね」
「おねえちゃん、どこいくの?」
「まだ決めてないよ。でも、海は見たいな。おばあちゃんのお話に出てきたみたいに、ずっと遠くまで水が続いてるところ」
「うみ……」
ミリアは小さく繰り返した。
「ミリアも見たいでしょ? 波が来たら一緒に逃げようね。おばあちゃんみたいに、足が濡れちゃうかもしれないけど」
「うん。おねえちゃんと、うみいく」
ミナは姉妹の言葉を聞きながら、静かに微笑んでいた。
リンも娘たちへ目を向ける。
まだ幼い二人が、いつか本当に海へ行く日が来るのだろうか。そのときは、どんな顔をするのだろう。
そんなことを考えながら、リインの髪をそっと撫でた。
「そのときは、お母さんも連れていってね」
「もちろん! お母さんも、おばあちゃんも、みんな一緒だよ」
リインは迷わず答え、ミリアも何度も頷いた。
その後、四人は広場の演奏を最後まで聞き、いくつかの屋台を見て回ってから帰路についた。
リインはまだ元気そうだったが、ミリアは歩く速度が少しずつ遅くなっていた。
リンが抱き上げようとすると、ミリアは首を横に振る。
「あるける」
「そう? でも、無理しなくていいのよ。今日はたくさん遊んだものね」
しばらくは頑張って歩いていたものの、やがて姉の手を握る力も弱くなってきた。
「ミリア、眠い?」
「……ちょっと」
「じゃあ、お母さんに抱っこしてもらおう。おうちに着くまで寝ててもいいよ」
ミリアは少し迷ってから母親へ手を伸ばし、抱き上げられると、その肩へ顔を寄せた。
「リインも疲れたでしょう? 帰ったらお風呂に入って、今日は早く寝ましょうね」
「うん。でも、おばあちゃんのおうちで少し休んでから帰ってもいい?」
リンがミナへ視線を向けると、祖母は嬉しそうに頷いた。
「もちろん。せっかくだから、お茶でも飲んでいきなさい。ミリアも少し休めば、また元気になるかもしれないわ」
こうして四人は、祭りの帰りにもう一度ミナの家へ立ち寄ることになった。
◇
夜のミナの家は、昼間とは違う静けさに包まれていた。
窓の外では風が庭の葉を揺らし、遠くから聞こえる祭りの音楽も、家の中へ届く頃には柔らかな響きに変わっていた。
リンは眠りかけているミリアを長椅子へ寝かせ、薄い掛け物をかけてから、ミナの手伝いをするため台所へ向かった。
リインは妹の隣に腰を下ろし、穏やかな寝顔を覗き込む。
「ミリア、もう寝ちゃったかな」
「少し眠った方がいいわ。今日はずっと歩いていたから、疲れたんでしょうね」
リンの言葉に頷き、リインは買ってもらった飾りを取り出した。
青い花と白い鳥。
二つを並べて眺めていると、屋台で見た飾りや広場の音楽、焼きたての菓子といった今日の出来事が思い浮かんだ。
その中には、人混みでミリアの姿が見えなくなったときのこともあった。
リインは隣で眠る妹へ目を向け、白い鳥の飾りをその手元へ置いた。起きたとき、すぐに見つけられるように。
そこへ、飲み物を持ったミナが戻ってきた。
「リイン、今日は楽しかった?」
「うん。すっごく楽しかったよ。お菓子もおいしかったし、ミリアと一緒に踊れたし。でも……」
言葉を止めた孫の隣へ、ミナは静かに腰を下ろした。
「ミリアがいなくなったとき、すごくびっくりした。わたし、お姉ちゃんなのに、ちゃんと手を繋いでなかったから」
「そうね。あのときは心配したわ。でも、リインはちゃんとミリアを探して、見つけたでしょう?」
「うん。でも、ミリアが泣きそうだった。わたしが先に行かなかったら、怖い思いをさせずに済んだのに」
リインは膝の上で指を重ねた。
ミナは孫の頭をそっと撫で、穏やかな声で話しかけた。
「リインがミリアを大切に思っているのは、よく分かるわ。でもね、リインだってまだ小さいんだから、全部一人で頑張ろうとしなくていいのよ」
リインは祖母を見上げた。
「でも、わたしがお姉ちゃんだもん。ミリアのこと、ちゃんと守ってあげたい」
「ええ。その気持ちは大切にしてほしいわ。ただ、困ったときにはお母さんや私を頼ってもいいの。誰かを大切にすることと、何でも一人でできることは、同じではないのよ」
ミナの言葉を聞きながら、リインは少し考え込んだ。
ミリアを守ってあげたいという気持ちは変わらない。それでも、今日のように自分だけではどうにもならないことがあるのも分かっていた。
「……おばあちゃんも、助けてくれる?」
「もちろん。私だって、二人のおばあちゃんなんだもの。頼ってもらえたら嬉しいわ」
ミナが笑うと、リインも少しだけ表情を緩めた。
「じゃあ、今度困ったらおばあちゃんに聞くね。でも、ミリアのことはわたしもちゃんと見てるよ」
「ええ。それでいいと思うわ。二人で助け合って、足りないところは周りの人に手伝ってもらえばいいの」
リインが頷いたとき、隣で眠っていたミリアが小さく身じろぎした。
「……おねえちゃん」
「ミリア、起きた?」
ゆっくりと目を開けたミリアは、姉の姿を見つけると安心したように笑った。
「おねえちゃん、いた」
「いるよ。ずっとここにいたもん」
リインが手を握ると、ミリアも小さく握り返し、今度は祖母へ顔を向けた。
「おばあちゃん……」
「なあに、ミリア。喉が渇いた? それとも、まだ眠いかしら」
ミリアは首を横に振り、少し考えてから小さな声で言った。
「うみのおはなし、ききたい」
「海のお話? 今日はお昼にも聞いたでしょう。ミリアは本当にあのお話が好きなのね」
「うん……ききたい」
リインも祖母の方へ身体を向けた。
「わたしも聞きたい。おばあちゃん、もう一回お話してくれる?」
ミナは二人を見比べ、柔らかく笑った。
「いいわよ。それじゃあ、もう一度お話しましょうか。私が初めて海を見た日のことを」
リインはミリアの隣へ寄り、二人で祖母の方を向いた。
台所から戻ってきたリンも、娘たちの様子を見て静かに腰を下ろす。
ミナは窓の外へ目を向けた。
夜風に混じって、遠くの祭りの音が聞こえている。
あの日も、風が吹いていた。
潮の匂いを含んだ風が頬を撫で、目の前にはどこまでも続く青い景色が広がっていた。
「私が初めて海を見たのはね、グレイと一緒に旅をしていたときだったの。遠くに青いものが見えてきて、最初は何なのか分からなかったわ。近づくほど波の音が大きくなって、潮の匂いがしてきて……」
リインは妹の手を握りながら、祖母の話に耳を傾けた。
ミリアも眠そうな目でミナを見つめている。
何度も聞いたはずの話だった。それでも二人にとって、まだ見たことのない海や知らない街の話は、いつも新鮮だった。
そして、祖母をその場所へ連れていってくれたグレイという人のことも。
ミナは孫たちの顔を見ながら、懐かしい海の話を続けた。
窓の外では夜風が静かに吹き、庭の葉が柔らかく揺れていた。




