第10話 ひとり
宿場へ着いたのは、日が傾き始める少し前だった。
二本の街道が交わる場所にできた小さな町で、規模の割に宿と厩舎が多い。普段なら商人や旅人で賑わうのだろうが、今は閉じられた店が目立ち、通りを行き交う荷馬車にも空荷のものが多かった。
戦争が始まれば道が塞がれる。
そうなる前に荷を運び終えようとする者と、危険な土地から離れようとする者。その両方が同じ道を使うせいで、町の入口だけが妙に混み合っている。
グレイたちは宿を取ったあと、必要な物だけを買い足すため外へ出た。
誰かに聞き込みをすると決めていたわけではない。
砦で軍との関係は切った。自分たちはリンたちの安否を確かめるために旅をしている途中で、この戦争に参加する理由などない。
そう考えているはずなのに、北西へ続く道から荷馬車が来るたび、グレイの視線はそちらへ向いていた。
「お姫ちゃん。干し肉はこれくらいで足りますか?」
ライカが店先に積まれた包みを持ち上げる。
「足りるんじゃない? 次の町までそんなにかからないだろ」
「予定通り進めば、ですけどね」
「……何で俺を見るんだよ」
「別に何も言っていませんよ」
そう答えながら、ライカは僅かに笑っている。
ライアンも隣で肩を揺らした。
「姫さん、ここ最近だけで何回予定変えたと思ってるんスか」
「今回は変えないよ」
「その言葉、前にも聞いた気がするっス」
「じゃあ今度こそ信じろ」
「努力するっス」
軽口を交わしながら買い物を済ませる。
ロイとセバスは少し離れた店で旅用の消耗品を見ていた。
いつもと変わらない時間だった。
だからこそ、通りの向こうから聞こえた声が耳に残った。
「北へ行くならやめとけ。国境の向こうまで軍が入ったらしいぞ」
荷馬車の脇で、二人の商人が話していた。片方は泥だらけの外套を着ている。
「向こうって、隣国側か?」
「ああ。国境近くの村がいくつかやられたって話だ。俺も遠回りして戻ってきた」
「敵がこっちへ来てるんじゃなかったのかよ」
「それだけじゃないらしい。こっちの軍も押し返した勢いで向こうへ入ってる。どっちがどこまで行ってるのか、もう旅人には分からんよ」
グレイの手が止まった。
商人たちはそのまま話を続ける。
「村まで襲うのか?」
「知らん。俺が見たわけじゃない。ただ、逃げてきた連中はいた。家を焼かれたとか何とか言ってたな」
「物騒になったもんだ」
「国境なんて越えるもんじゃない。命が惜しけりゃ南へ行け」
二人は荷馬車へ乗り込み、そのまま通りを離れていった。
「お姫ちゃん」
「……うん」
グレイは持ったままだった包みをライカへ渡す。
「聞こえていましたね」
「聞こえてた」
「どうしますか?」
「どうもしないよ。もう関係ない」
すぐに答えると、ライカは何も言わず、買った物を魔法鞄へ収めた。
その反応が少し気になり、グレイは眉を寄せる。
「何?」
「いえ。お姫ちゃんがそう決めたのでしたら、私は何も言いません」
「……そう」
それ以上の会話はなかった。
戻ってきたセバスとロイにも、グレイは先ほどの話を伝えなかった。聞こえていたライアンも口にせず、一行はそのまま宿へ戻った。
◇
夕食を終えても、グレイは部屋へ戻らなかった。
宿の一階にある食堂。その壁際に貼られた旅人向けの地図を、一人で眺めている。
現在地から北西へ続く街道。
その先に国境があり、さらに向こうにはいくつもの村が点在していた。
詳しい地図ではない。軍の配置など分かるはずもなく、主要な町と道が記されている程度のものだ。
「関係ないだろ」
誰に聞かせるでもなく呟く。
軍との関係は切った。
村を助けたことも後悔していない。自分たちが間に入ったことで、今も家族と暮らせている者がいる。
その事実まで否定するつもりはなかった。
グレイは地図から離れ、階段を上がった。
二階の廊下では、ライアンが自室へ戻ろうとしているところだった。
「姫さん、まだ下にいたんスか?」
「ちょっと地図見てた」
「北の?」
足が止まる。
「何で分かるんだよ」
「分かるっスよ、それくらい。でも、行かないんスよね?」
「行かない」
「なら、早く寝た方がいいっス。明日は結構歩く予定なんで」
「お前に言われなくても寝るよ」
「それならいいっス」
ライアンはそれ以上聞かず、軽く手を振って部屋へ入った。
グレイも寝台へ横になる。
だが、目を閉じても商人の言葉が残っていた。
――こっちの軍も押し返した勢いで向こうへ入ってる。
軍同士が戦うだけなら、自分が考える必要はない。
引っかかっているのは、そのあとの話だった。
国境近くの村。
焼かれた家。
逃げてきた人間。
「……知らないって」
グレイは寝返りを打つ。
商人自身も見たわけではない。戦争の最中なら、噂はいくらでも形を変える。
それを確かめるためだけに国境へ向かえば、自分から戦争へ近づくことになる。
リンたちの安否確認が先だ。
ミナとの約束もある。
そう自分へ言い聞かせて毛布を引き上げたものの、その夜は眠りにつくまでいつもより時間がかかった。
◇
翌朝。
宿を出た一行は、予定通りリンたちのいる国へ続く街道を歩いていた。
空は薄曇りで、雨になるほどではないものの陽射しがないせいか空気が冷たい。
宿場を出てから一刻ほど。
ほとんど喋らず先頭を歩いていたグレイへ、後ろから声が飛んだ。
「姫さん」
「何?」
「分かれ道、通り過ぎたっスよ」
グレイが止まる。
振り返ると、ライアンが後方を指差していた。
「リンちゃんたちの方、さっき右だったっス」
「……知ってる」
「知ってて真っ直ぐ来たんスか?」
「うん」
ライアンは一度だけ瞬きをする。
「北に行くんスか?」
「ちょっとだけ」
「昨日、行かないって言ってなかったっスか?」
「言った」
「俺の聞き間違いじゃなかったっスね」
「うるさいな」
四人の視線を受けながら、グレイは頭を掻いた。
「気になるんだよ。このままリンたちのところへ行っても、ずっと考えると思う。だったら一回見て、何もなかったら戻ればいい」
ライカは小さく息を吐いた。
「分かりました」
「止めないの?」
「止めてほしいのですか?」
「いや」
「でしたら行きましょう。お姫ちゃんが一人で勝手に向かうより、その方が安心です」
ライアンも肩を竦める。
「どうせこうなると思ってたっス」
「お前、昨日は早く寝ろって言っただろ」
「寝不足で国境越えられるよりマシっスから」
「……何か腹立つな」
「正論っスよ」
ロイが前へ出て、街道の先を見る。
「主。行くなら、どこまで見るか決めておいた方がいい。このまま軍の動きを追い始めたらきりがない」
「村の話が本当かどうか。それだけ見る」
「軍には?」
「関わらない」
「戦ってたら?」
答えるまで、少しだけ間が空いた。
「民間人が巻き込まれてたら助ける」
「結局そこは変わらないか」
「変えるつもりないよ」
ロイはそれ以上何も言わず、セバスも反対しなかった。
「国境周辺です。警戒だけは怠らないようにしましょう」
「分かってる」
進路が変わる。
グレイが気になったから確かめる。
四人は、それに付き合った。
◇
国境へ近づくほど、街道から人の姿が減っていった。
代わりに捨てられた荷車や壊れた柵、戦闘の跡らしい焦げた草地が目につくようになる。
途中で出会った老人によれば、北側の検問所は数日前の戦闘で使えなくなり、国境そのものがほとんど機能していないらしい。
「向こうへ行くのか?」
「ああ。少しだけ」
「やめといた方がいい。こっちも危ないが、向こうはもっと酷いぞ」
「村が襲われたって聞いた」
老人の顔が曇った。
「俺も聞いただけだ。向こうから逃げてきた連中がいる。軍が来たって言ってたよ」
「どっちの軍?」
老人は、グレイたちが来た方向を指差した。
「こっちだ」
グレイは礼だけを告げ、老人と別れた。
しばらくして、ライアンが口を開く。
「噂だけじゃなさそうっスね」
「うん」
「戻るっスか?」
道の先には低い丘があり、その向こうが国境だった。
「ここまで来たから見るよ」
壊れた検問所を抜ける。
国境を示していたらしい石柱が倒れ、木造の詰所は半分焼け落ちていた。地面には矢が残っているが、死体はない。
国境線を越えても、景色は何も変わらなかった。
同じ土と草。
同じ曇り空。
少し先には畑が広がり、その向こうに山が見える。
「何も変わらないな」
「国境ですからね。線を越えただけで、土地そのものが変わるわけではありません」
セバスの言葉に、グレイは足元を見る。
石柱がなければ、どこからが隣国なのかさえ分からない。
そこからさらに歩いた時、焦げた木と湿った灰の匂いが風に混じった。
「お姫ちゃん」
「分かってる」
歩調を速め、丘を一つ越える。
その先に、村があった。
黒く焼けた屋根。
完全に潰れた家。
壁を失い、柱だけが残った建物。
踏み荒らされた畑には荷車が横倒しになり、井戸の近くでは村人たちが瓦礫を運んでいる。
少し離れた場所には簡素な治療場所が作られ、包帯を巻いた者たちが横たわっていた。
子供の泣き声が聞こえる。
グレイは丘の途中で足を止めた。
見覚えのある光景だった。
少し前まで、自分たちが守っていた村とよく似ている。
ただ、あちらではこうなる前に間に合った。
敵兵を追い返し、火を消し、怪我人を運んだからこそ、夕方には家々から食事を作る煙が上がった。
ここには、その先がなかった。
「……行こう」
グレイは丘を下りた。
◇
村へ入ると、焦げた匂いはさらに強くなった。
道端には割れた食器が散らばり、焼け残った家財が泥の中へ倒れている。
グレイたちに気づいた男が、警戒するように鍬を握った。
「誰だ」
「旅人だよ」
「どこから来た」
男は答えを待つより先に服装を確認し、軍装ではないと分かったのか、少しだけ力を抜いた。
「……悪い。今はよそ者を見ると身構えちまう」
「気にしなくていい。何があった?」
「兵が来た」
「いつ?」
「三日前だ」
「どこの?」
男は国境の向こうを顎で示した。
「向こうの国だよ」
予想していた答えだった。
「何人くらい?」
「分からん。何十人どころじゃなかった。騎兵もいたし、荷車もあった。村の外を通るだけかと思ったら、食料を出せって言われた」
男は焼けた家を見る。
「村長が全部は渡せないって言ったんだ。冬を越す分まで持っていかれたら、俺たちは生きていけない。それで揉めた」
「それで?」
「最初に誰が手を出したのかなんて、もう分からんよ。石を投げた奴がいたって話もあるし、兵が先に殴ったって奴もいる。気づいた時には家に火がついて、逃げる奴も斬られてた」
疲れの滲んだ声だった。
「軍はもういない?」
「ああ。食える物と使えそうな馬を持って、北へ行った」
北。
砦の地図で、青い駒が集まっていた方向だ。
「その軍、どこから来たか分かる?」
「国境を越えてきた。旗も見たよ」
男が説明した特徴は、砦に掲げられていたものと同じだった。
横でライアンが息を吐き、ロイの顔からも普段の軽さが消える。
「……そうか」
「知ってるのか?」
「少しだけ」
自分たちが、その軍の作戦へ知らないうちに組み込まれていた。
それを男へ話したところで何かが変わるわけではない。
グレイは治療場所へ目を向けた。
「怪我人、手伝っていい?」
「治療できるのか?」
「俺は少しだけ。こっちの方が詳しい」
ライカを見ると、彼女はすぐに頷いた。
「診せてください。できる範囲でお手伝いします」
男は一瞬迷ったあと、頭を下げた。
「頼む」
それからは考える暇がなくなった。
ライカが傷を診て、セバスが身体を動かせない者を運ぶ。ライアンは倒れかけた家から必要な物を取り出し、ロイは崩れた壁を土魔法で支えた。
グレイも水を運び、必要なところでは魔法を使う。
困っている人間がいる。
できることをする。
そこに迷いはなかった。
幼い子供の脚に刺さった木片を抜き、傷を洗う。
「痛い?」
「……ちょっと」
「もう終わるから我慢して」
子供は唇を噛んで頷いた。
傷を塞ぎ、布を巻く。
「歩けると思うけど、今日は走るなよ」
「うん」
「偉いな」
頭を撫でると、子供は少しだけ笑った。
その顔に、以前の村で自分を英雄なのかと尋ねてきた子供が重なる。
グレイは一瞬だけ手を止め、すぐ次の負傷者へ向かった。
◇
日が傾く頃には、重傷者の処置も瓦礫の撤去もかなり進んでいた。
それでも、焼けた家も失われた食料も元には戻らない。
村の外れには、新しい土がいくつも盛られていた。
墓標すら間に合わなかったのか、細い木を二本組み合わせただけのものもある。
グレイが近づくと、後ろから男の声がした。
「十二人だ」
「死んだのは?」
「ああ。村の者が十人。たまたま泊まってた旅人が二人。年寄りもいた。子供も一人」
グレイは一番小さな墓を探さなかった。
探せば分かってしまいそうだった。
「……そう」
「もっと死んでもおかしくなかった。森へ逃げられた奴が多かったからな」
男は墓を見てから、グレイへ向き直る。
「助かったよ。あんたらが来なかったら、怪我人からも死人が出てたかもしれん」
「俺たちは、たまたま来ただけだよ」
「それでもだ」
その言葉を、別の国でも聞いた。
あちらでも感謝され、ここでも同じように礼を言われている。
どちらも兵士ではなく、戦争を始めたわけでもない。
暮らしていた場所が違った。
それだけだった。
男が作業へ戻ったあと、グレイは墓の前に残った。
やがて四人もやってくる。
「姫さん」
「……俺たちが止めてたからだよな」
ライアンは答えなかった。
「向こうの村に来た敵を俺たちが止めた。その分、あいつらは兵をこっちへ回せた」
「姫さん」
「分かってるよ。俺たちがここを襲ったわけじゃない」
命令もしていない。
兵を送ったわけでも、家を焼いたわけでもない。
この村の存在さえ、今日まで知らなかった。
「でも、関係ないとも言えないだろ」
セバスが墓へ視線を向けたまま答える。
「因果として繋がっている可能性は高いでしょう。ただし、それと責任は別です。姫様が村を守ったことで軍が別方面へ兵を送る余裕を得たとしても、その兵をここへ向かわせ、民間人を傷つけた判断をしたのは軍です」
「分かってる。でも、それだけで終われないんだよ」
思わず声が強くなり、グレイは額へ手を当てた。
「悪い。セバスに怒ってるわけじゃない」
「承知しています」
「俺がここを襲わせたなんて思ってない。そこまで何でも自分のせいにする気もないよ。ただ、俺が何も知らないまま動いたことで、軍ができることを増やしたのは本当なんだろ」
だからといって、助けた村を見捨てればよかったとも思えない。
軍に利用されると知っていたとしても、目の前で人が死にそうなら、きっと同じことをした。
それでも、その先に十二の墓がある。
「……分かんないな」
ライカがそっと隣へ来る。
「俺、助けたかっただけなんだけどな」
「はい」
「それで助かった人がいる。そこはよかったって今も思ってる。でも、その力が別の場所でこういう結果に繋がった」
グレイは墓を見る。
焼けた家も、包帯を巻いた人々も、自分たちが守った村にあったものと同じだった。
生活も。
家族も。
その先にあるはずだった明日も。
国が違うというだけで、価値が変わるわけではない。
「……誰を救ったんだろうな、俺」
ライカは少し間を置いてから答えた。
「少なくとも、お姫ちゃんが手を伸ばした人たちは救われました」
「うん」
「それ以上の答えを、今ここで出す必要はないと思います」
「出さなくていい?」
「出せないものを無理に決めれば、お姫ちゃんは後でまた考え直すでしょう。それなら、今は分からないままでもいいのではありませんか」
グレイは墓へ目を戻す。
分からないままでいい。
その言葉は思っていたより素直に胸へ入った。
ただ、それで楽になれたわけではなかった。
◇
その夜は、村から少し離れた林で野営した。
空いている家を使ってほしいと言われたが、家を失った者がいる中で借りる気にはなれなかった。
ライカが簡単な食事を作り、グレイも食べたものの、いつもほど手は伸びない。
「姫さん、もう食わないんスか?」
「うん。今日はいい」
ライアンが何か言いかけたところで、ライカが小さく首を横へ振った。
焚き火の向こうには、ずっと一緒に旅をしてきた四人がいる。
グレイが迷えば付き合い、止まれば待ってくれる。
今日だって誰も責めなかった。
ありがたかった。
けれど今は、誰かに答えを出してほしいわけでも、自分は悪くないと慰めてほしいわけでもなかった。
「なあ。ちょっと頼みがある」
四人がこちらを見る。
「悪い。少しだけ一人にしてくれ。お前たちが邪魔なわけじゃない。ただ、今は自分で考えたい」
最初に反応したのはライカだった。
「一人で、どこへ行くつもりですか?」
「まだ決めてない。戦場から離れるよ。適当に歩く」
「適当に、ですか」
「危ないところには行かない」
「お姫ちゃんの危ないと、私たちの危ないは少し基準が違う気がします」
「それは……まあ」
否定できない。
ライアンも眉を下げた。
「俺らが一緒じゃダメなんスか?」
「ダメじゃないよ。お前らがいるから考えられないとか、そういうことじゃない。ただ、一回一人になりたい」
「どれくらい?」
「分からない。でも、そんなに長くするつもりはないよ」
ロイが焚き火越しにグレイを見る。
「主がそうしたいなら、俺は止めない。ただし条件はつける」
「何?」
「何かあったら呼べ。敵に囲まれたでも、怪我したでも、腹が減ったでもいい」
「最後のは自分でどうにかできるだろ」
「なら、帰りたくなったでもいい」
ロイは真っ直ぐにグレイを見る。
「一人になりたいのと、一人で全部抱えるのは別だ。そこだけ間違えるな」
「……分かった」
セバスも続ける。
「姫様。一人で考えること自体には反対いたしません。ただ、我々を遠ざけることを目的にはなさらないでください」
「しないよ」
「でしたら、答えが出なくてもそのまま戻ってきてください。姫様がどの結論を選ばれても、我々が傍にいることとは別の話です」
「……うん」
ライアンも頭の後ろを掻く。
「俺も同じっス。待つっスけど、何かあったら絶対呼んでくださいよ」
「分かったって」
「姫さん、たまに分かったって言いながら無茶するじゃないっスか」
「そんなにしてないだろ」
四人から視線が集まる。
「……分かったよ。ちゃんと呼ぶ」
「約束っスよ」
「約束する」
最後にライカを見る。
彼女だけは、まだ納得しきれていない顔をしていた。
「ライカ」
「本当は一緒にいたいです。お姫ちゃんが何も話さなくても、隣にいるくらいならできます」
「知ってる」
「それでも、一人がいいんですね?」
「今だけ」
ライカは目を伏せ、しばらくして小さく息を吐いた。
「分かりました。では、戻ってきた時にちゃんと食事をしてください。それを条件にします」
「そこ?」
「大事なことです」
「分かったよ。帰ったら食べる」
「約束ですよ」
「約束」
ようやくライカの表情が少し緩んだ。
グレイは立ち上がり、《ドールハウス》への入口を開く。
今日はそこへ四人を送り、自分だけ外へ残る。
ライアンは入口の前で何度も念を押し、セバスは「お気をつけて」と一礼した。
ロイも中へ入る直前、振り返る。
「主。戻る場所はあるからな」
「知ってるよ」
「ならいい」
最後に残ったライカが、グレイの前へ立った。
「お姫ちゃん。一人になりたい時まで止めるつもりはありません。でも、一人でいなければならないと思い始めたら、その時は呼んでください」
グレイは少し目を見開き、静かに頷いた。
「分かった」
「では、行ってらっしゃい」
「行ってくる」
ライカが《ドールハウス》へ入り、入口を閉じる。
途端に林が静かになった。
焚き火の爆ぜる音。
風に擦れる枝と、遠くで鳴く夜鳥。
「……静かだな」
自分の声が妙に近く聞こえた。
グレイは残った火へ土をかけ、完全に消えたことを確かめてから歩き出した。
◇
村へ戻る道も、国境へ引き返す道も選ばなかった。
地図を確認し、戦場から離れる山道へ入る。
山へ進むほど焦げた匂いは薄れ、代わりに湿った土と草の匂いが濃くなった。
誰もいない。
それでも頭の中は静かにならなかった。
「……間違えたのか?」
自分が何を間違えたのか。
最初に浮かんだ問いはそれだったが、そもそも間違いだったのかさえ分からない。
襲われていた村があった。
自分には止める力があった。
だから助けた。
もし時間を戻され、軍に利用されることまで知った状態で同じ場面へ立たされたとしても――。
「……無理だな」
きっと行く。
利用されると分かっていても、目の前の人間が死ぬなら助ける。
では、その結果として今日見た村が生まれると知っていたら。
そこまで考えると、答えは出なかった。
どちらかしか助けられないと知っていたわけではない。
片方を救えば、もう片方が襲われると選ばされたわけでもない。
軍が何をするのか、自分には何も知らされていなかった。
それでも結果を辿れば、自分たちが村を守ったことで軍に余裕が生まれ、その力が別の場所へ向かった。
そこで人が死んだ。
「どこまで考えればいいんだよ」
目の前の一人を助けても、その人が明日誰かを傷つけるかもしれない。
村を守れば、そこで浮いた兵が別の場所へ向かうかもしれない。
そんな先まで考えていれば、何もできなくなる。
だからといって、今日見た墓を「自分には関係ない」と切り離すこともできなかった。
自分たちが救った村にも子供がいた。
今日の村にもいた。
片方は救えて、片方は仕方がなかった。
そんなふうに命を分けたいわけではない。
「……国が違うだけだったな」
国境を越えても景色は変わらなかった。
村へ行けば家があり、畑と井戸がある。
怪我をすれば痛がり、家族が死ねば泣き、助かれば礼を言う。
自分たちを宴へ招いた村人と、今日グレイへ頭を下げた男に、どれほどの違いがあったのだろう。
だから、軍の言う「敵」という言葉だけで片方を切り捨てることはできない。
けれど、すべてを救えるわけでもない。
グレイは強い。
手を伸ばせば助けられる場面は多い。
それでも世界中で起きることを全部止めることなどできず、今日の村だって知らなければ来なかった。
「……じゃあ、どこからなんだろうな」
知った時からか。
関わった時からか。
自分の行動が原因の一つになった時からか。
境目は見つからない。
山道の脇を流れる小さな沢で足を止め、グレイは水辺の岩へ腰を下ろした。
月が水面に細く映っている。
指先を浸せば、冷たい流れが触れて、そのまま下流へ抜けていった。
「助けなきゃよかった、とは思えないんだよな」
そこだけは変わらない。
あの人たちは、ただ生きたかっただけだ。
今日の村も同じだった。
なら、自分が嫌なのは助けたことではない。
自分の力が知らない目的へ利用され、その先で何が起きるのかを何も知らなかったことだ。
「……知らなかったから仕方ない、で終わらせるのも違うか」
全部を知ることはできない。
それでも次に誰かから助けを求められたなら、その人だけでなく少し先を見ることはできる。
誰が情報を持ってきたのか。
なぜ自分へ頼むのか。
自分が動けば、誰が代わりに動けるようになるのか。
何も考えないよりはいい。
そこまで考えて、グレイは小さく笑った。
「面倒だな」
以前なら、もっと単純だった。
困っている人がいるなら助ける。
それで終われた。
けれど、もう今日の村を見てしまった以上、知らなかった頃と同じには戻れない。
だからといって、助けることまでやめる気もなかった。
その二つをどう繋げればいいのか。
今はまだ分からない。
グレイは岩から立ち上がった。
「……答え出てないな」
セバスは、答えが出なくても戻ってこいと言った。
ライカは、一人でいなければならないと思ったら呼べと言った。
ライアンは何かあれば絶対に呼べと言い、ロイは戻る場所があると言った。
思い出すと、少しだけ肩の力が抜ける。
今はただ、迷っているだけだ。
それなら、もう少し歩いてもいい。
◇
夜が明ける頃には、山の中腹まで来ていた。
夜通し歩いていたわけではない。
途中で何度か休み、眠くなれば木にもたれて目を閉じた。
山道を進むうち、戦場の気配は完全に消えている。
兵士の姿も、焼けた匂いもない。
聞こえるのは鳥の声だけで、朝露に濡れた草が靴へ触れた。
グレイは一人で歩く。
昔も一人で旅をしたことはある。
けれど今は、完全な一人ではなかった。
《ドールハウス》には四人がいる。
呼べば来る。
その事実を知っているだけで、山道の静けさは以前とは違って感じられた。
グレイは一度だけ、《ドールハウス》へ繋がる感覚を確かめる。
四人ともそこにいる。
「……まだ呼ばなくていいか」
独り言を残し、そのまま歩き続けた。
昼近くになると道は緩やかな下りへ変わり、木々の間から遠くが見えるようになった。
山の反対側へ出たらしい。
谷の向こうに街がある。
村よりはずっと大きく、石造りの建物が集まり、中央には細い塔が立っている。
煙突から上がる煙。
行き交う荷馬車。
遠目にも、そこに人の暮らしが続いていることが分かった。
どこの国に属する街なのか、今のグレイには分からない。
地図を見れば確かめられる。
けれど、すぐには取り出さなかった。
国の名前を知るより先に見えたのは、ただの街だった。
誰かが暮らし、働き、食事をして、夜になれば眠る場所。
昨日見た、国境を挟んだ二つの村と同じように。
答えは出ていない。
自分が間違っていたのかも、目の前の人間を助けた先で起こることをどこまで背負うべきなのかも、まだ分からない。
それでも、歩くことまでやめる理由はなかった。
朝の光が少しずつ強くなり、遠くの街並みを照らしていく。
グレイは一人のまま、山道を下っていった。




