第8話 救った村
ミナの町を離れてから、いくつかの街道を越えた。
グレイたちは西へ向かっている。
目指しているのは、リンが家族と暮らしていると聞いていた国だった。ミナから何度か名前を聞いており、町の大まかな場所も分かっている。
ただ、まっすぐ進める状況ではなかった。
国境に近づくにつれ、街道を行き交う商人の数が目に見えて減っている。反対方向から来る荷馬車には、家財道具を積めるだけ積んだものまで混じっていた。
宿場で聞く話も似たようなものだった。
隣り合う二つの国の関係が悪化し、すでに国境付近では小さな衝突が起きているらしい。
正式に戦争が始まったという者もいれば、まだ睨み合っているだけだという者もいる。商人の噂は日ごとに形を変え、どこまで正しいのかは分からない。
それでも、道が安全ではなくなっていることだけは確かだった。
「また検問っスね」
前を歩いていたライアンが、街道の先へ目を細める。
木製の柵が道を塞ぎ、その脇には十人ほどの兵士が立っていた。荷馬車を一台ずつ止め、積み荷や通行証を確認している。
「これで今日二つ目ですね」
ライカが小さく息を吐く。
「前はここまで多くなかったんだろ?」
「地図を見る限り、この辺りはまだ国境から離れています。少なくとも、常時これほど兵を置く場所には見えませんね」
セバスの言葉を聞きながら、グレイは旅人を調べる兵士たちを見る。
どの顔にも疲れがあり、周囲を警戒する目にも余裕がない。
やがてグレイたちの順番になると、若い兵士が前へ出た。
「旅の目的は?」
「人を訪ねに行く途中」
「行き先は?」
グレイが国の名を告げると、兵士はわずかに眉を寄せた。
「そちらへ向かうなら、北側の街道は避けた方がいい。隣国軍が越境しているという報告がある」
「この辺まで来てるの?」
「小規模な部隊だけだ。村や補給路を狙っているらしい」
兵士はグレイたちの装備を順に見る。
「冒険者か?」
「まあ、そんなところ」
「なら分かっていると思うが、兵を見ても近づかない方がいい。向こうも旅人かどうかなんて、いちいち確かめてくれるとは限らないからな」
「分かった。ありがとう」
荷物を簡単に確認され、そのまま道を通される。
検問を離れてしばらくすると、ライアンが肩越しに振り返った。
「姫さん、北は避けるっスか?」
「そうだな。わざわざ危ない方へ行く必要もないし」
「では、次の分かれ道で南へ回りましょう。少し遠回りになりますが、その方が確実です」
ライカの提案に、グレイは頷いた。
リンたちの無事は気になっている。
だからといって、道中で起きている争いへ自分から首を突っ込む理由はない。
戦争には国同士の事情があり、どちらが正しいのかも知らない。そもそも確かめるつもりもなかった。
自分たちは旅人だ。
行きたい場所へ行き、会いたい者に会う。
それでよかった。
◇
その日の午後。
南へ延びる街道を歩いていたグレイは、丘の向こうから立ち上る黒煙に気づいた。
最初は野焼きかと思ったが、煙は一か所ではない。太い煙が何本も上がり、風に乗って金属のぶつかる音や何かが壊れる音、それに混じって人の叫び声まで聞こえてくる。
「お姫ちゃん」
「見えてる」
セバスの表情が変わった。
「村があるようですね」
ロイが街道脇の小高い場所へ上がり、遠方を確認する。
「家が燃えてる。兵もいるな。かなり近い」
「どっちの兵?」
「ここからじゃ分からない。ただ、村人らしい連中が逃げてる」
グレイは煙の上がる方角を見た。
数時間前、検問の兵士から聞いた話が頭をよぎる。
小規模な部隊が越境し、村や補給路を狙っている。
その話が正しければ、目の前で起きていることも同じなのだろう。
「行くぞ」
グレイは街道を外れた。
ライアンがすぐに続く。
「やっぱ行くっスよね」
「村人が逃げてるんだろ。放っておけないよ」
「了解っス」
誰も止めなかった。
兵同士が戦っているだけなら、近づかなかったかもしれない。
けれど、そこには暮らしている人間がいる。
それだけで十分だった。
丘を越えると、村の全景が見えた。
家屋は数十軒ほど。周囲には畑が広がり、中央には井戸と小さな広場、その先に穀物を保管する倉が並んでいる。
そのうち二棟が燃えていた。
村の入口では三十ほどの兵士が動いている。鎧の意匠は検問で見たものとは違い、おそらく隣国の兵だろう。
対する村人側には、まともな武器を持つ者すらほとんどいない。
鍬や斧を握った男たちが数人いるものの、戦うためというより、家族を逃がすために立っているだけだった。
「姫さん、右!」
ライアンの声に視線を向ける。
村の端で、一人の兵士が逃げる男へ剣を振り上げていた。
その腕が下りるより早く、グレイは指を動かす。
空間が歪み、兵士の手から剣が消えた。
「なっ――」
消えた剣は、数十歩離れた畑へ突き刺さる。
兵士が固まった隙に、男は走って逃げた。
「殺すなよ」
グレイは村へ歩きながら言った。
「分かってます」
ライカが扇を開く。
「向こうがこちらを殺すつもりでも?」
ロイの問いに、グレイは一度だけ振り返った。
「できる範囲でな。無理なら自分を優先していいよ」
「了解」
五人はそれぞれ散った。
真っ先に村の入口へ駆けたライアンは、突き出された槍を身体をずらして避け、その柄を掴む。相手の勢いを利用して地面へ転がすと、立ち上がろうとした腹へ加減した蹴りを入れた。
「悪いっスけど、ちょっと寝ててください!」
その横を抜けようとした二人の足元が凍りつく。
「今は動かないでください」
ライカが扇を閉じると、冷気が兵士たちの剣へ絡みつき、その手元まで凍らせた。
村の反対側では土が隆起し、村人と兵士の間へ厚い壁が立ち上がる。
高い屋根へ移動したロイが、戦場を見下ろした。
「主、倉庫の裏に六人。村人を追ってる」
「分かった」
グレイの姿が消える。
次の瞬間には、倉庫の裏へ立っていた。
突然現れた銀髪の少女に、兵士たちが足を止める。
「何者だ!」
「通りすがり」
「退け!」
「それは無理」
一人が剣を振る。
グレイは避けなかった。
刃が届く直前、空間がずれ、兵士の腕はグレイの身体を通り抜けるように空を切った。
「え?」
理解できず固まった兵士の胸元へ、グレイは手を添える。
「ちょっと下がってろ」
軽く押す。
空間ごと押し出された兵士が一瞬で数歩分の距離を移動し、後ろの仲間へ衝突した。三人まとめて地面へ倒れる。
残った兵士たちの顔色が変わった。
「魔術師だ! 囲め!」
「囲んでも変わらないと思うよ」
左右から迫った二人の位置を入れ替える。
互いに相手を斬る寸前で気づき、二人が慌てて剣を止めた時には、グレイは最後の一人の背後へ回っていた。
「もうやめた方がいい」
兵士が振り返る。
その顔には明らかな恐怖があった。
グレイは剣を持っていない。大きな術式を展開しているわけでもない。
それでも、誰一人触れることすらできなかった。
「俺たちは、この村を守りに来たわけじゃないよ」
「……何?」
「たまたま通りかかっただけ。だから今引くなら追わない」
兵士は周囲を見た。
倒れている仲間。
遠くではライアンとライカが別の部隊を抑え、村の中央ではセバスが兵士の剣を素手で逸らし、そのまま手首を取って投げ飛ばしている。
屋根の上にいるロイの周囲には土の弾丸が浮かび、兵士の身体ではなく剣や槍だけを正確に弾き飛ばしていた。
戦況は、すでに決まっていた。
「撤退しろ!」
どこかで声が上がる。
兵士たちは動きを止め、やがて倒れた仲間を引きずりながら村の外へ下がり始めた。
グレイたちは追わなかった。
最後の一人が丘の向こうへ消えたところで、グレイは燃えている倉庫へ目を向ける。
「火を消すぞ」
まだ終わっていない。
怪我人もいる。
五人はそのまま救助へ移った。
◇
日が傾く頃には、火も消えていた。
焼け落ちた倉庫は二つ。壊された家屋もいくつかあったが、幸い村人に死者はなく、怪我人にも命に関わる者はいなかった。
「本当に……ありがとうございます」
村長だという老人が、何度目か分からないほど頭を下げる。
「もういいよ。さっきも聞いたから」
「ですが、あなた方が来なければ、この村はどうなっていたか……」
「たまたま通りかかっただけだから」
そう答えても、老人はまた頭を下げた。
周囲の村人たちも同じだった。
畑から戻ってきた者、子供を抱いた母親、額に包帯を巻いた男まで、代わる代わる礼を言ってくる。
途中からグレイは、どう返せばいいのか分からなくなっていた。
「姫さん、諦めた方がいいっスよ」
少し離れたところで、ライアンが笑っている。
「助かった側は言いたいんスから、言わせてあげればいいんじゃないっスか?」
「お前は気楽でいいな」
「俺もさっきまでめちゃくちゃ言われてたっスよ」
「それで?」
「全部受け取ったっス」
「だから気楽なんだよ」
そんなやり取りをしていると、村人の一人が大きな籠を持ってきた。
中には焼いた肉や野菜、黒パンが山ほど入っている。
「せめて今夜は泊まっていってください。大したものは出せませんが、皆で礼をさせてほしいんです」
「別にそこまでしなくても――」
「お姫ちゃん」
後ろからライカの声が飛ぶ。
「村の方々も準備を始めています。ここまで来たら断る方が大変ですよ」
振り返ると、広場ではすでに長机が運ばれ、子供たちまで皿を並べていた。
「……早くない?」
「姫様が怪我人を見ている間に決まったようです」
「誰も俺に聞いてないんだけど」
「聞けば断られると思ったのでしょう」
「それで勝手に始めたの?」
「合理的ではあります」
「セバスまでそっちかよ」
結局、その夜は村に泊まることになった。
宴といっても豪華なものではない。
襲撃を受けたばかりの村で出されたのは、普段から食べている保存肉や野菜の煮込み、焼いた芋、パン、薄い酒。それでも村人たちは、できる限りのものを並べてくれた。
広場に灯りが点る。
壊れた家の修理は明日からになる。
それでも今夜だけは、誰も死ななかったことを喜びたいのだろう。
グレイは長机の端で、差し出された煮込みを口へ運んだ。
「美味い」
「本当ですか!」
料理を持ってきた女性の顔が明るくなる。
「ああ。肉も柔らかいし」
「もっと持ってきますね!」
「いや、まだ残って――」
女性はもう行ってしまった。
向かいのロイが小さく笑う。
「主が余計なことを言うからだ」
「感想言っただけだろ」
「主の場合、それで十分なんだよ」
「何が?」
「食わせれば喜ぶと思われる」
「間違ってないっスけどね」
横からライアンが口を挟む。
「うるさい」
戻ってきた女性は、本当に先ほどより大きな器を持っていた。
グレイが言葉を失うと、近くの子供たちが笑った。
少し離れた席では、ライカが村の女性たちに囲まれ、襲撃の際に兵士を凍らせた話を聞かれている。
セバスの周囲には若い男たちが集まっていた。
「どうすれば素手で剣を止められるんですか?」
「真似をしない方がいいでしょう。あれは長い訓練が前提です」
「じゃあ、何年くらい鍛えれば?」
「人によります」
「俺でもできますか?」
「まずは剣を素手で受けようとする発想を捨てるところから始めてください」
真顔で返すセバスに、周囲から笑いが起こった。
昼間とは別の空気が広場を満たしている。
焼けた倉庫からはまだ焦げた匂いが残り、家を失った者もいる。
それでも、死者はいなかった。
グレイにとっては、それで十分だった。
どちらの国が正しいのかは知らない。襲ってきた兵士たちにも、それぞれ事情があるのかもしれない。
だから可能な限り殺さず、目の前にいた村人を助けただけだ。
「銀髪のお姉ちゃん!」
声をかけられ、グレイが振り向く。
昼間、母親に抱かれて逃げていた少年だった。
「何?」
「お姉ちゃん、英雄なの?」
「違うよ」
即答すると、少年が首を傾げる。
「でも、みんな助けたよ?」
「助けただけで英雄になるなら、世の中英雄だらけだろ」
「そうなの?」
「たぶん」
「じゃあ、すごい人?」
「それも別に」
少年はしばらく考える。
「強い人?」
「それなら、まあ」
ようやく納得したらしく、笑って走っていった。
それを見送っていると、ライアンが隣へ座る。
「最後だけ認めるんスね」
「嘘つく必要ないだろ」
「そこは姫さんらしいっスけど」
グレイは煮込みを一口食べた。
「明日には出るぞ」
「リンちゃんたちのところっスね」
「ああ。ここで時間使いすぎても仕方ないからな」
ライアンの表情が少しだけ変わる。
「無事だといいっスね」
「そうだな」
今はまだ何も分からない。
考えすぎても仕方がなかった。
◇
翌朝。
村を出ようとしていたグレイたちの前に、十数騎の一団が現れた。
昨日の兵士とは違う。
検問で見たものと同じ紋章を付けている。
村人たちが緊張する中、先頭の男が馬を下り、武器を持たずに近づいてきた。
四十代ほどだろうか。
日に焼けた顔に短い髭を生やし、鎧の上から厚手の外套を羽織っている。階級を示す装飾はあるが、必要以上に飾り立てた様子はない。
「あなたがグレイ殿か?」
「そうだけど」
男は胸に手を当て、軽く頭を下げた。
「この地域の防衛を任されている者だ。昨日の件を聞いて、礼を言いに来た」
「早いな」
「近くに部隊を置いている。村から伝令が来た」
男は焼けた倉庫や壊れた柵、それから無事に歩いている村人たちへ視線を巡らせる。
「間に合わなかった我々に代わって村を守ってくれたこと、感謝する」
「別に、あんたたちの代わりにやったわけじゃないよ」
男は少し驚いたあと、笑った。
「そうらしいな。村長から聞いた。通りかかったら襲われていたから助けた、と」
「そのままだよ」
「それでも結果は変わらない。ここにいる者たちが生きている」
少なくとも、その感謝に嘘はなさそうだった。
自分たちが守れなかったことを悔やんでいるようにも見える。
「君たちは、この戦争に参加するつもりはあるか?」
「ない」
グレイは迷わなかった。
「俺たちは人を訪ねに行く途中だ。どっちの国に味方するつもりもないよ」
「そうか。なら、それで構わない」
あまりにあっさり引いたため、グレイは少し意外に思った。
「引き止めないんだな」
「戦う理由のない者を無理に戦場へ引き込んでも、ろくなことにならん。まして君たちは我が国の兵ではない」
男は一度、村へ視線を向ける。
「ただ、一つだけ頼ませてもらえないか」
「内容による」
「積極的に戦争へ参加してほしいとは言わない。敵軍を探して攻撃しろとも頼まん」
そこで言葉を区切った。
「だが、もし旅の途中で昨日のように困っている村を見つけたら、可能な範囲で手を貸してやってほしい」
グレイは黙って続きを待つ。
「我々もすべての村を守れるわけではない。兵を置けば別の場所が薄くなる。住民を避難させようにも、畑や家畜を捨ててすぐ動ける者ばかりではない」
男の顔には疲れが見えた。
「もちろん、危険を冒せとは言わない。君たちには君たちの目的がある。ただ、目の前で助けを必要としている者がいた時、昨日と同じようにしてくれればありがたい」
「……それなら、言われなくてもするよ」
グレイは答えた。
「目の前で人が襲われてたら、たぶん放っておけないから」
男は少し笑った。
「そうか。それなら十分だ」
その言葉を疑う理由はなかった。
男は兵を連れて村の被害状況を確認し始め、グレイたちは出発する。
道の両側には村人たちが集まっていた。
「ありがとうございました!」
「また来てください!」
「今度は何もない時にな!」
いくつもの声が飛ぶ。
グレイは少し困ったように片手を上げた。
「何もない時ならな」
村を離れてしばらくすると、ロイが口を開いた。
「悪い奴には見えなかったな」
「司令官?」
「ああ」
「俺もそう思う」
グレイは振り返らなかった。
「別に頼まれたから助けるわけじゃないし。今までと変わらないよ」
「そうですね」
セバスが頷く。
「我々が戦争へ参加する必要はありません。旅の途中で見過ごせないものがあれば、その時に判断すればよいでしょう」
「それでいい」
少なくともグレイにとって、その話はそこで終わった。
◇
その日の夕方。
グレイたちが次の宿場へ向かう頃、先ほどの司令官は村長の家を借り、部下から報告を受けていた。
机には周辺地域の地図が広げられ、赤と青の小さな駒が街道や村の位置に置かれている。
「本当に五人だけだったのか?」
「はい。襲撃部隊は三十七名。死者はありませんが、半数以上が負傷。武器の多くを破壊され、撤退しています」
「こちらの村人は?」
「死者なし。重傷者も二名だけです」
司令官は地図を見たまま、口元を緩めた。
「とんでもないな」
「特に銀髪の少女です。兵の証言では、魔法の発動を認識する前に武器が消えたと」
「少女、か」
「外見だけでは判断できません。同行者も相当な手練れです」
「分かっている」
司令官は椅子へ深く座った。
昼間グレイへ向けていた柔らかな表情は残っている。
村を救われたことへの感謝も、嘘ではなかった。
「こちらへ引き込めそうですか?」
「軍には入らんだろうな。戦争そのものに興味がない」
「では、放置しますか?」
「まさか」
司令官は地図の上に置かれた駒を一つ動かした。
「兵にはならんが、人が困っていれば助ける。しかも、頼まれれば無視しにくい性格だ」
副官が黙る。
「昨日の襲撃を止めたのも、この国を守るためではない。村人が襲われていたからだ。なら、こちらがやることは簡単だろう」
「……危険に晒されている村の情報を流す?」
「そういうことだ」
司令官は笑った。
「こちらから敵を討てと言えば断る。部隊へ加われと言っても同じだ。だが、『村が危ない』『住民が困っている』と伝えれば、自分から動いてくれる可能性が高い」
「しかし、それでは彼女たちを利用することになります」
「利用するさ。戦争だからな」
副官の表情がわずかに固くなる。
司令官は肩を竦めた。
「勘違いするな。嘘の襲撃を作るつもりはない。本当に危険な村だけだ。助けられる命があるなら助けてもらう。その結果として敵の進軍が止まるなら、こちらにとっても都合がいい」
「それでも、本人には伝えないのですか」
「伝えたら断るだろう?」
悪びれた様子はない。
困っている村を救いたいという気持ちも本物なのだろう。
ただ、その善意と軍事的な利益を分けて考えてはいなかった。
「使えるものを使わずに兵を死なせる方が、俺にはよほど馬鹿らしく見える」
司令官は地図の一点を指した。
「ここだ。敵の斥候が昨日から周辺を探っている。次に狙われる可能性が高い」
「兵を送りますか?」
「最低限だけな。まず村へ知らせろ。避難の準備をさせる。それから、あの旅人たちが通る宿場へ情報を回しておけ」
副官は少し迷ったあと、頷いた。
「承知しました」
司令官は椅子にもたれ、地図へ目を戻す。
「いい駒が手に入った」
その声には、昼間グレイへ向けていた人の好さそうな響きが、そのまま残っていた。
◇
二日後。
グレイたちが街道沿いの小さな町で昼食を終え、そろそろ出発しようとしていた時だった。
宿の前で馬が止まる。
乗っていた若い兵士は周囲を見回し、グレイたちを見つけると駆け寄ってきた。
「グレイ殿!」
「俺?」
「先日、村を救った方ですよね?」
「そうだけど」
兵士は息を整える。
「近隣の村が危険です。敵の小隊がこちらへ進んでいるという報告が入りました」
グレイの表情が変わる。
「どこ?」
兵士が地名を告げると、宿の入口にいた女性が反応した。
「その村って……」
手にしていた籠を落としかける。
「どうした?」
「私の姉が住んでるんです。夫と、子供も二人いて……昨日も手紙が届いたばかりで、まだ村にいるはずです」
兵士が女性を見る。
「避難を呼びかけています。しかし、敵が予想より早い」
「そんな……」
女性は青ざめたまま、グレイへ顔を向けた。
一瞬躊躇ったあと、両手を強く握る。
「お願いします。姉たちを……助けてもらえませんか」
グレイは目を閉じた。
「……俺たち、急いでるんだけどな」
「お姫ちゃん」
「分かってるよ」
ライカへ返し、息を吐く。
聞いてしまった。
危険があり、そこに人がいる。
しかも今、目の前で家族を案じている者までいる。
「どのくらい離れてる?」
「徒歩なら半日。馬なら――」
「方角だけ教えて」
「え?」
「正確な位置が分かればいい」
兵士が地図を広げる。
グレイは村の位置を確認した。
「……行くぞ」
ライアンが笑う。
「了解っス」
ロイも荷物を持ち直した。
「主がそう言うと思った」
「嫌なら残っててもいいぞ」
「誰も嫌とは言ってない」
セバスは兵士から敵の規模を聞き、ライカは宿の女性へ向き直る。
「お姉様のお名前を教えていただけますか。見つけたら、あなたが無事だと伝えます」
「はい……!」
グレイは地図から顔を上げた。
少し予定が遅れる。
それだけだと思った。
◇
二つ目の村にも、本当に敵兵がいた。
最初の村より数は少なく、住民の避難も始まっていたため、グレイたちは逃げ遅れた者を外へ出しながら兵士を追い払った。
グレイが街道を分断し、ロイが土壁で進路を塞ぐ。
ライアンとライカが左右から回り込み、セバスが正面へ出たことで、敵兵は村の奥へ入ることすらできず撤退した。
宿の女性の姉も、その家族も無事だった。
「妹が……?」
「心配していましたよ。皆さんが無事だったと知れば安心するでしょう」
ライカがそう伝えると、女性はその場で泣き崩れた。
グレイは少し離れた場所から、その姿を見る。
来てよかった。
そう思った。
翌日には再び旅へ戻った。
その三日後。
別の宿場で、今度は商人たちの話が耳に入った。
「東の農村が危ないらしい」
「兵が向かったって聞いたぞ」
「足りないらしい。向こうもあちこち攻めてくるからな」
「うちの仕入れ先なんだよ。焼かれたら困る」
グレイはそのまま食事を続ける。
しばらくして、ライアンがちらりとこちらを見た。
「姫さん」
「何?」
「いや、別に」
「言いたいことあるなら言えよ」
「行くのかなって」
「……まだ何も言ってないだろ」
「顔に出てるっス」
「出してない」
向かいのロイが口を挟む。
「出てるな」
「お前まで言うな」
セバスが茶を飲みながら尋ねた。
「予定の街道からは、どの程度外れますか?」
ライカが地図を開く。
「東へ半日ほどですね。そこから北へ抜ければ、完全な遠回りにはなりません」
グレイは煮込みの中の芋を崩した。
「……行くだけ行くか」
その村にも敵兵がいた。
グレイたちは村人を助け、兵を追い返した。
◇
さらに数日後。
今度は街道の掲示板に、避難を促す紙が貼られていた。
「ここ、昨日通った分かれ道から近いな」
グレイが呟く。
「行きますか?」
「危ないって分かってて通り過ぎるのもな」
引き返した先では、村の外れで小競り合いが起き、住民が逃げていた。
グレイたちは兵を退かせた。
次は、避難してきた老人から頼まれた。
孫と、足の悪い妻が村に残っている。
助けてほしい。
グレイは向かい、二人を無事に連れ出した。
そうして旅を続けるうち、グレイたちは何度も村へ寄るようになった。
焼かれた畑。
略奪された倉庫。
怪我人や、泣いている子供。
どの場所にも本当に危険があり、本当に助けを必要としている人間がいた。
だから、そのたびに助けた。
軍から命令されたことは一度もない。
報酬を受け取ったこともなかった。
ただ情報を知り、その先に困っている人間がいた。
それだけだった。
◇
「最近、多くないか?」
グレイがそう言ったのは、五つ目の村を離れた夕方だった。
街道脇には小さな川が流れ、今夜はその近くで野営する予定になっている。
ライアンが薪を集め、ライカが食事を作る。セバスは水を汲みに行き、ロイは地図を広げていた。
「何がだ?」
「村」
グレイはロイの隣へしゃがむ。
「危ない村に当たりすぎてない?」
ロイは地図へ視線を落とした。
「戦争中なら、こんなものじゃないか」
「そうなのかな」
「俺も戦争に詳しいわけじゃないけどな」
ロイの指が、これまで立ち寄った場所を順番になぞる。
「ただ、国境に近づいてるのは確かだ。敵の動きが増えるなら、襲われる場所も増える」
「……まあ、そうか」
理屈は通っている。
最初の村は偶然。
二つ目は兵士。
その次は商人、掲示板、避難民。
情報源はどれも違い、危険そのものが嘘だったこともない。
「お姫ちゃん、考え事は後にしてください。食事ができましたよ」
「今行く」
立ち上がり、数歩進んだところで、グレイはもう一度だけ地図を見た。
何かが引っかかる。
けれど、まだ形にはならない。
どの村にも、本当に守るべき人がいた。
なら、助けたこと自体は間違っていない。
「姫さん、今日の飯いい匂いするっスよ!」
「お前、さっきから鍋の周りうろついてただろ」
「味見っス」
「それをつまみ食いって言うんだよ」
「違うっスよ。毒見っス」
「誰が信じるんだ、それ」
いつものやり取りへ戻る。
胸に残った小さな引っかかりも、その夜はそれ以上形にならなかった。
◇
同じ頃。
国境近くの砦では、夜になっても作戦会議が続いていた。
大きな机に地図が広げられ、その中央には以前グレイと話した司令官が座っている。
副官が報告書を読み上げた。
「第五農村、住民の避難完了。敵部隊は撤退しました」
「こちらの損害は?」
「派遣した兵に軽傷者が三名。死者なし」
「敵は?」
「詳細は不明。ただし、少なくとも当面は同じ経路から進軍できないでしょう」
司令官は満足そうに頷く。
「銀髪の一行は?」
「すでに村を離れています」
「次へ向かわせられそうか?」
副官が地図を見る。
「北東の村で、敵の斥候が確認されています」
「なら情報を流せ」
「どこから?」
「今回は商人でいい。軍からばかり知らせれば、さすがに気づくだろう」
副官の目がわずかに細くなった。
「すでに二度、軍関係者から間接的に情報を渡しています」
「だから次は別口だ」
司令官は地図の上にある銀色の小さな駒を摘まむ。
本来はなかったものを、数日前に部下へ作らせたものだった。
「……本人たちは、自分たちの意思で村を助けているつもりでしょう」
「実際そうだろう?」
「ですが、情報の出し方は選んでいます」
「当然だ」
司令官は銀の駒を指先で転がした。
「親族がいる者。取引先を持つ商人。避難してきた住民。あの娘は軍の命令には従わないが、目の前の人間から頼まれると弱い」
副官は何も言わない。
「国を守る気はない。戦争にも興味がない。それでも、困っている人間は放っておけない。なら、その性格ごと戦力にすればいい」
「もし気づかれたら?」
「怒るだろうな」
「それでも続けるのですか」
「続ける」
即答だった。
司令官は地図の端にある村を指す。
「ここには三百人が住んでいる。兵を送れば別の街道が空き、放置すれば敵に焼かれるかもしれない。だが、あの五人なら短時間で片づけられる」
指が次の村へ移る。
「こっちは百五十人。その先には橋がある。橋を取られれば補給路が切れる」
「つまり、村を救わせながら進軍路も潰している」
「そういうことだ」
住民が助かれば、その間に正規軍を別の場所へ回せる。
グレイたちは軍属ではなく、命令を受けてもいない。
それでもすでに、戦況を動かす戦力として数えられていた。
「戦争っていうのはな、強い奴を前へ並べれば勝てるほど単純じゃない。どこに兵を置き、どこを捨て、誰を動かすかだ」
司令官は銀色の駒を、次の村の近くへ置いた。
「本人が兵になる気がないなら、兵にしなければいい」
「駒として動けば、それで十分だと?」
「ああ」
司令官は満足そうに頷く。
「こんなに使いやすい駒は、そうそう手に入らんよ」
砦の外で風が鳴った。
窓の隙間から入り込んだ冷気が、机の端の報告書を揺らす。
司令官はそれを押さえ、次の指示を書き始めた。
◇
翌朝。
野営地の火を消し、出発の準備を終えた頃だった。
街道の向こうから、一台の荷馬車がやってくる。
大きく軋む車輪の音とともに近づいてきた商人は、グレイたちを見つけると馬を緩めた。
「旅の人かい?」
「ああ」
「北へ行くなら気をつけな。少し先の村の辺りに兵が出たって話だ」
グレイの手が止まる。
「また?」
「またって?」
「いや、何でもない」
商人は気にせず続けた。
「俺も本当ならあっちを通る予定だったんだが、怖くて道を変えたんだ。あの村には世話になってるから心配なんだけどな」
「危ないって、どのくらい?」
「そこまでは分からん。昨日の夕方に兵を見たって奴がいた。村の方へ向かってたらしい」
「そう」
グレイは地図を取り出した。
商人が示した村は、目的地へ向かう道から少し外れている。
まただ。
昨夜感じたものが、胸の奥に残ったままだった。
「お姫ちゃん?」
ライカがこちらを見る。
「……近いな」
「ええ」
行かなければならない理由はない。
自分たちはリンたちの安否を確かめに行く途中で、すでに何度も寄り道している。
本来なら、そちらを急ぐべきだった。
「姫さん」
ライアンは珍しく何も続けず、判断を待った。
グレイは少しの間地図を見つめ、それから畳む。
「見るだけ見に行く」
「分かりました」
セバスが荷物を持ち直した。
「何も起きていなければ、そのまま通過しましょう」
「ああ。それでいい」
グレイは北へ続く道を見る。
何かがおかしい。
そう思い始めているのに、まだ理由までは見つからない。
情報は本物だった。
危険も、助けを求める声も嘘ではない。
だから今回も、同じだろう。
そう考え、グレイは歩き出した。
その先で何が待っているのか、まだ知らないまま。
遠く離れた砦の地図では、銀色の駒がすでに次の村へ置かれていた。




