第7話 海、終点
知らせが届いたのは、グレイたちが小さな宿場町に滞在していた日のことだった。
朝から細い雨が降っていた。
窓を打つ雨粒は弱く、旅を続けられないほどではない。ただ、急ぐ理由もなかったため、昼を過ぎてもグレイたちは宿に残っていた。
ライアンとロイは一階の食堂で何かを話し、セバスは必要な物を買いに出ている。ライカは部屋の隅で荷物を整理していた。
グレイは窓際の椅子に座り、少し前に手に入れた古い魔法書を眺めていた。
扉が叩かれたのは、その時だった。
「はい」
ライカが立ち上がり、扉を開ける。
そこには宿の主人が立っていた。
「失礼します。グレイさんという方はこちらに?」
「お姫ちゃんでしたら、そこにいますが」
「冒険者ギルドから使いの方が来ています。急ぎの連絡だそうです」
グレイは本から顔を上げた。
「俺に?」
「はい。直接渡したいものがあると」
旅の途中で冒険者ギルドから連絡を受けること自体は珍しくない。以前立ち寄った場所から依頼の相談が来ることもあれば、知り合いがギルドを通して所在を探すこともある。
それでも、急ぎと言われる心当たりはなかった。
「分かった。下に行く」
一階へ降りると、食堂の入口近くにギルド職員らしい男が立っていた。
男はグレイを確認すると、胸元から一通の封書を取り出す。
「グレイ様でお間違いないでしょうか」
「ああ」
「別支部からの転送です。受取人を見つけ次第、可能な限り早く渡すよう指定されています」
「誰から?」
「差出人は個人ではありません。こちらを」
受け取った封書にはグレイの名と、いくつものギルド支部を経由した印が残されていた。
旅をしているグレイを追って、何度か行き違ったらしい。
封を切り、紙を開く。
最初の数行へ目を落としたところで、グレイの指が止まった。
「主?」
ロイの声にも答えず、もう一度同じ場所を読む。
書かれていることは変わらない。
――ミナが亡くなった。
それを知らせる、短い手紙だった。
葬儀の日付と場所。そして、この連絡はミナ本人が生前、町の冒険者ギルドへ頼んでいたものだと記されている。
旅を続けるグレイたちの居場所は分からない。
だから各地の支部へ連絡を回し、見つけた時点で知らせてほしい。
ミナが頼んでいたのは、それだけだった。
「……いつ届いた?」
「当支部へ届いたのは今朝です。ただ、最初の発信日は数日前になっています」
紙の下へ視線を落とす。
葬儀は明日だった。
ここから普通に向かえば、間に合わない。
「分かった。ありがとう」
必要な手続きを済ませ、職員が宿を出ていく。
グレイはその背中を見送らず、手紙へ目を戻した。
前に会った夜。
祭りの灯りの中、杖を持ちながら胸を張ったミナは、
『まだまだ元気いっぱいだよ!』
そう言って笑っていた。
別れたあとも玄関の前に立ち、振り返ったグレイへ大きく手を振っていた。
あれが最後になった。
「姫さん」
ライアンの声が、さっきまでより少し低い。
グレイは手紙を畳んだ。
「ミナが死んだ」
ライアンから表情が消える。
ロイも何も言わなかった。
階段から降りてきたライカも、その一言だけで察したらしい。グレイの手にある封書を見て、静かに足を止めた。
「葬儀は?」
「明日」
「ここからでは……」
「間に合わせる」
グレイは立ち上がった。
「空間を繋ぐ。準備してくれ」
ライカは一瞬だけグレイを見たが、止めなかった。
「分かりました。すぐに荷物をまとめます。にーちゃん、セバスを呼んできてください」
「了解っス」
「主、俺は荷物をまとめる」
「頼む」
それぞれが動き始める中、グレイはもう一度手紙を開き、亡くなった日付を見る。
最期には、間に合わなかった。
どれほど急いでも、それだけは変えられない。
なら、せめて。
見送る時くらいは、傍にいたかった。
◇
空間が裂ける。
見慣れた宿場町の景色が消え、次の瞬間には別の空気が流れ込んできた。
何度も訪れた町だった。
祭りの日には飾り布が垂れ、屋台が並び、夜になれば無数の灯籠が灯った大通りも、今日は普段通りの姿をしている。
それなのに、以前とは違って見えた。
「姫様、お身体は?」
「大丈夫。これくらいなら問題ないよ」
遠距離を一度に繋いだため、普段より多く魔力を使った。それでも休むほどではない。
グレイは手紙に記された場所を確認する。
葬儀は町の共同墓地に近い礼拝堂。
まだ前日だった。
間に合った。
その事実を確かめて、ようやく息を吐く。
「今日は宿を取ろう。明日、そこへ行く」
誰も異論を挟まなかった。
◇
翌朝。
薄く曇った空の下、グレイたちは礼拝堂へ向かった。
途中には何度も歩いた道があり、ミナの家へ続く角も見える。
けれど、そちらへは行かなかった。
今訪ねても、あの扉を開ける者はいない。
分かっているのに、玄関の向こうから杖の音が聞こえてくるような気がした。
やがて礼拝堂が見えてくる。
予想していたより、ずっと多くの人がいた。
老人だけではない。働き盛りの男女や若者、小さな子供を連れた家族まで、入口の外にまで人が集まっている。
「……多いな」
「長く暮らした町ですからね」
ライカの言葉に頷き、グレイは中へ入った。
中央の奥には、白い花に囲まれた棺が置かれている。
すぐには近づかず、まず受付の女性へ名前を告げた。
「あの、グレイといいます」
女性は一瞬グレイの顔を確かめ、目を大きくした。
「もしかして……ミナさんが話していた?」
「俺のこと、話してた?」
「はい。銀髪の、昔一緒に旅をした人がいるって。見れば分かるからって言ってました」
「そう」
「間に合ったんですね」
「ああ。知らせてもらったから」
女性は少し笑った。
「ミナさん、ずっと気にしていました。ちゃんと連絡が届くかなって」
「自分で頼んでたらしいな」
「ええ。随分前からです。旅をしているから居場所は分からないけど、ギルドならいつか見つけてくれるだろうって」
そこまで準備していたのか。
前に会った時には何も言わず、最後かもしれない、と冗談めかして笑っていただけだった。
「……そうか」
受付を離れ、棺へ向かおうとした時だった。
近くにいた老人たちの会話が耳に入る。
「リンちゃんは、やっぱり来られないのか」
「連絡そのものが届いてないらしいよ。向こうへ送った人も戻ってこないって」
「隣国との境が騒がしいからなあ。戦になるかもしれないって、商人も道を変えてるそうじゃないか」
「娘さんのところは、そっちの方だったか?」
「隣国に近い町だよ。家族みんな、今はどうしてるんだか……」
グレイの足が止まった。
「まさか葬式に来ない子じゃないしねえ。何も知らないんじゃないか」
「そうだろうな。ミナさんも、リンちゃんのことはずっと大事にしてたから」
ライカが横へ来る。
「お姫ちゃん」
「聞こえた」
それ以上は言わなかった。
今ここで確かめられることではない。
葬儀が始まる時間も近づいている。
グレイはそのまま棺の前まで進み――そこにいる人を見て、足を止めた。
ミナだった。
当然なのに、すぐにはそう思えなかった。
白い髪。深く刻まれた皺。細くなった頬。胸元で静かに重ねられた手。
最後に会った時より、さらに身体が小さくなったように見える。
けれど目を閉じた顔は穏やかで、苦しんだ様子はなかった。
十五歳で初めて海を見た少女でも、一人で旅へ出ると言って不安を隠すように笑っていた若者でもない。夫の話をしながら照れていた女でも、幼いリンを抱いていた母親でもなかった。
そのすべてを通り過ぎ、最後まで生きた一人の老女が、そこにいた。
棺の傍らには、小さな貝殻が置かれている。
白く、端が少し欠けた、海辺なら珍しくもないものだった。
それが何を意味しているのかは、誰に説明されなくても分かった。
「……幸せだったんだろうな」
返事はない。
必要もなかった。
最後に見た笑顔を覚えている。
長かった、とミナ自身が言っていた。
色々あったから、ちゃんと長かったのだと。
なら、それでいい。
グレイは棺の縁へそっと指を触れた。
「来たよ、ミナ」
それだけ告げ、場所を譲った。
◇
葬儀が始まり、グレイたちは後ろの方へ座った。
前方にはミナと長く付き合いのあった者たちが並んでいる。その中で、リンたち家族のために用意された席だけが空いていた。
やがて弔いの言葉を求められ、一人の老婆が前へ出る。
「ミナとは、あの子がこの町に来てからの付き合いでした」
杖を持った老婆は棺を見ながら笑った。
「最初の頃はね、本当に海の話ばっかりしてたんですよ。誰かが旅の話を始めると、すぐ『海は見たことある?』って聞くんです」
参列者から小さな笑いが起こる。
「見たことがある人には根掘り葉掘り聞くくせに、最後には自分が見た海の方が綺麗だったって言うんですよ。だったら聞くなって、何度言ったか分かりません」
グレイの口元も少し緩んだ。
知らなかった。
海を見たあとも、ミナがそんなふうに何度も話していたことを。
次に前へ出たのは、中年の男だった。
「俺が子供の頃、ミナさんにはよく冒険の話を聞かせてもらいました。この町の子供なら、一度くらいは聞いてると思います」
魔物に追いかけられたこと。山で道に迷ったこと。野宿で失敗したこと。
「俺たちは格好いい冒険の話が聞きたいのに、失敗した話ばっかりするんですよ。でも、それが面白かった。冒険者っていうのは何でもできる人じゃなくて、失敗して、困って、それでも次へ行く人なんだって教わりました」
男は少し笑う。
「自分の子供も同じ話を聞いてました。たぶん、何回か内容が変わってましたけど」
また笑いが起こった。
グレイも小さく息を漏らす。
晩年のミナなら、本当に少しずつ話が変わっていたのかもしれない。
それでも、子供たちは喜んで聞いたのだろう。
そのあとも、冒険者だった頃に助けられた者、市場で顔を合わせていた知人、夫婦で食事をした友人、祭りのたびに話した近所の住人が、次々とミナのことを語った。
どれも、グレイの知らないミナだった。
「リンちゃんが小さい頃、一度だけ海へ連れていったんですよ」
そう話した老女の言葉に、グレイは顔を上げる。
「ミナが?」
「ええ。自分が初めて見た時と同じ海を、娘にも見せたいって。旦那さんとリンちゃんと三人で出かけたんです」
老女は懐かしそうに目を細めた。
「でもリンちゃんは海より、浜辺で拾った石の方が気に入ったらしくてね。ミナは『こんなに綺麗なのに!』って納得してませんでした」
礼拝堂に柔らかな笑いが広がる。
「帰ってからは、会う人みんなに娘と海へ行ったって話してましたよ。それはもう嬉しそうに」
グレイは棺の傍らにある貝殻を見る。
その話も、聞いたことがなかった。
当然だった。
グレイがミナと共にいたのは、その人生の一部だけだ。
旅立ちを見送り、ときどきこの町へ戻って話を聞いた。その間にもミナは働き、誰かと笑い、失敗し、家族と食卓を囲んでいた。
グレイがいない日の方が、ずっと多かった。
けれど、それを寂しいとは思わない。
自分の知らないミナが、これほどたくさん残っている。
それはきっと、グレイの傍にいなかった時間にも、ミナが自分の人生を生きていたということだった。
◇
葬儀を終え、棺は町外れの墓地へ運ばれた。
低い丘の一角には、ミナの夫が眠っている。
新しい墓穴は、そのすぐ隣に用意されていた。
棺がゆっくりと下ろされ、白い花が一輪ずつ置かれていく。
最後に土が戻され、二つの墓標が並んだ。
以前ここへ来た時、ミナは夫の墓前に花を置いて、
『今日はね、グレイたちも来てくれたよ』
そう話しかけていた。
今度は、その隣にミナ自身がいる。
グレイは花を一輪置いた。
「今度は隣か」
それ以上は言わなかった。
◇
昼を過ぎた頃。
礼拝堂近くの小さな食堂で、グレイたちは遅い昼食を取っていた。
誰も必要以上に沈んではいない。
ライアンは普段より静かだったが食事には手をつけ、ロイは窓の外を眺めている。セバスは温かい茶を飲んでいた。
ライカがグレイの前へ皿を寄せる。
「お姫ちゃん。ほとんど食べていませんよ」
「食べてるよ」
「パンが一つ減っただけです」
「あとで食う」
ライカは少しだけグレイを見たが、それ以上は言わなかった。
窓の外では、いつもと変わらず町が動いている。
子供が走り、荷車が通り、商人が声を上げる。
ミナがいなくなっても、町の時間は続いていく。
「俺、あとで一人で墓に行ってくる」
ライアンが顔を上げる。
「一人で?」
「ああ。ちょっと話したいことがある」
誰も理由を聞かなかった。
「分かりました。私たちは宿を探しておきます」
「悪い」
「構いませんよ。今日はもう移動しないのでしょう?」
「そのつもり」
ロイも窓から視線を戻した。
「主。戻りが遅くなるなら、一応知らせてくれ」
「分かってる」
セバスも静かに頷く。
「お気をつけて」
「墓地に行くだけだぞ」
「姫様の場合、その途中で何かを見つけて別の場所へ行かれる可能性がありますので」
「今日は行かないよ」
「でしたら安心しました」
グレイは少しだけ笑った。
いつも通りのやり取りが、今はありがたかった。
◇
夕方。
グレイは一人で墓地へ戻った。
昼間は大勢いた丘に、もう人影はほとんどない。
雲の切れ間から差し込む夕日が、風に揺れる草と墓標の影を長く伸ばしていた。
グレイはミナの墓の前まで歩き、しゃがみ込む。
新しく掘り返された土の隣には、夫の墓がある。
「本当に隣になったな」
墓標に刻まれた名前を指でなぞる。
――ミナ。
短い名前だった。
けれど、その名前を知る人間が、今日あれだけ集まった。
「俺の知らない話、いっぱいあったよ。海の話ばっかりしてたんだってな。子供にも冒険の話してたらしいし、リンを海にも連れてったって聞いた」
少し笑う。
「それくらい教えてくれてもよかっただろ」
返事はない。
グレイはそのまま墓の前へ腰を下ろした。
遠くから町の鐘が聞こえる。
その音を聞いているうちに、昔の会話が浮かんできた。
夫を亡くしてから、まだそれほど経っていなかった頃。
あの日も、二人で茶を飲みながら話していた。
◇
『グレイ』
『何?』
『ちょっとお願いがあるんだけど』
珍しくミナがすぐに続きを言わなかったため、グレイは杯を置いた。
『先に言っとくけど、金なら貸さないぞ』
『何でそうなるの』
『お願いって言うから。一応な』
『お金じゃないよ。そもそも今さらグレイに借りるくらいならリンに頼むよ』
『じゃあ何?』
ミナは少し考え、窓の外へ目を向けた。
『リンのこと』
『リン?』
『あの子はもう大人だし、家庭もある。私が何かしてあげる歳でもないんだけどね。それでも、親だからさ。どうしても考えちゃうんだよ』
『何か心配なの?』
『今は何もないよ。みんな元気。でも、私の方が先にいなくなるでしょ』
グレイが眉を寄せると、ミナはすぐに手を振った。
『そんな顔しないの。今日明日の話じゃないよ』
『分かってるけど』
『リンだけじゃない。リインもミリアも、その先に家族が増えるかもしれない。私には分からないけど、みんな私より長く生きるんだから』
ミナは皺の増えた指をゆっくり組む。
『もし、いつかあの子たちに本当に困ったことがあって……グレイがそれを知ることがあったら、その時は少しだけ手を貸してあげてほしい』
『少しだけ?』
『何でも助けたら駄目だよ。自分でできることは自分でやらせて』
『注文多いな』
『大事でしょ。グレイが全部やったら、あの子たち何もしなくてよくなっちゃうもん』
『俺だってそこまでしないよ』
『本当かなあ』
『俺を何だと思ってるんだ』
『心配性のおばあちゃん』
『ミナにだけは言われたくない』
二人で笑ったあと、ミナは少しだけ表情を和らげた。
『だから、本当にどうしようもない時だけでいい』
グレイはミナを見る。
『分かった』
『いいの?』
『そのくらいなら。俺が気づかなかったら無理だけど、知ってて放っておくことはしないよ』
『うん。それで十分』
『でも、まずミナが長生きしろよ。自分で面倒見ればいいだろ』
『そのつもりだよ』
ミナは笑った。
『できるだけね』
◇
風が銀髪を揺らし、墓前の草が同じ方向へ倒れる。
あの時は、もっと先の話だと思っていた。
けれどミナは、自分がいつまでも家族の傍にはいられないことを分かっていたのだろう。
「……約束は忘れてないよ」
グレイは墓標を見つめる。
「リンも、リインも、ミリアも。俺ができることなら、必要な時には手を貸す。何でもやるなっていう注文も覚えてる」
少しだけ口元が緩んだ。
今日、リンたちは葬儀に来なかった。
来なかったというより、来られなかった可能性が高い。
連絡が届いていないこと。
隣国との境が不安定になり、戦争が始まりかけていること。
それだけで何かが起きたと決めることはできない。
それでも、気にはなった。
「一度くらい会いに行ってみるかな」
リンには幼い頃に会っているが、成長して家庭を持ってからは長く顔を合わせていない。
リインとミリアに至っては、一度も会ったことがなかった。
それなのに、好きなものも性格も、子供の頃に起こした騒ぎまで知っている。
「葬式に来ていないことも気になるし」
もし何もなければ、それでいい。
突然訪ねて、ミナが亡くなったことを伝えるだけになるかもしれない。すでに知らせが届いていて、道が塞がっているだけなら、顔を見て無事を確認して帰ればいい。
グレイは立ち上がり、墓の土を見下ろした。
何かもう一つ言おうとして、やめる。
別れの言葉なら、前にも言った。
――またな。
――次に来た時も同じこと言えよ。
あの夜に交わした約束は、果たされなかった。
それでも、不思議と腹は立たない。
ミナは十分に生きた。
今日、グレイの知らなかった時間まで含めて、そのことをたくさんの人から聞いた。
「じゃあな、ミナ」
今度は、それだけにした。
背を向け、数歩進んだところで強い風が吹く。
グレイは一度だけ振り返った。
二つ並んだ墓標の向こうに、夕暮れの空が広がっている。
ここから海は見えず、波の音も届かない。
それでもグレイの中には、あの日の海が残っていた。
初めて水平線を見て立ち尽くしたあと、子供のように砂浜を走っていったミナ。海水を舐め、本当に塩辛いと驚き、波が来るたび足元を見て笑っていた。
あの十五歳の少女は、もういない。
けれど、今日棺の中にいた老女と別の人間だったわけではない。
海を見た少女が旅を続け、自分の道を選び、誰かと出会い、家族を作った。
そしていつか、自分の娘にも同じ海を見せた。
そうして、今日見た穏やかな顔まで辿り着いたのだ。
グレイはもう振り返らなかった。
丘を下り、町へ戻る。
そこには四人が待っている。
そして、その先には長く会っていないリンと、まだ一度も会ったことのないリインとミリアがいる。
ミナが何度も語った家族。
海を知らなかった一人の少女から、今へ続いている人たち。
夕暮れの中、グレイは静かに歩いていった。
墓地を抜ける頃、雲の切れ間から差した最後の光が、遠く西の空を淡く照らしていた。




