第6話 長い人生
祭りの日にこの町へ着いたのは、偶然だった。
街道を抜けた先に見慣れた城壁が現れた時、グレイが最初に気づいたのは、門の上から垂らされた何本もの飾り布だった。赤や黄色、青に染められた布が秋の風を受けて揺れ、その下を普段より多くの人々が行き交っている。
町へ近づくにつれ、笛や太鼓の音まで聞こえてきた。
「何かやってるっスね」
「祭りじゃないですか? 門にも飾りが出ていますし、随分と人が多いです」
ライカの言葉に、グレイは少し歩調を速める。
「ちょうどよかったな。ミナのところに行く前に見ていこう」
「主、目的が逆になってないか?」
「ミナのところにも行くよ。祭りも見るだけだろ」
「見るだけで終わればいいんだがな」
ロイの視線の先には、門の向こうに並ぶ屋台がある。焼いた肉の匂いがここまで流れてきており、グレイも同じ方向を見た。
「……何だよ」
「何も言ってない」
「顔が言ってるだろ」
「お姫ちゃん。ミナの家へ着く前に食べすぎないでくださいね。夕食を用意してくださるかもしれませんから」
「まだ何も買ってないだろ」
「今から買う顔をしています」
否定しようとして、グレイはやめた。
実際、買うつもりだった。
門を潜ると、大通りの両脇には露店が並び、焼き菓子や串焼き、果物を煮詰めた甘い飲み物などが売られていた。広場へ続く道には小さな旗が渡され、色紙の風車を持った子供たちが人混みの間を駆け回っている。
楽器を抱えた一団の周りには人垣ができ、少し離れた場所では若者たちが大きな樽を転がす競争をしていた。
グレイは串焼きを一本買い、歩きながら齧る。
「美味い」
「やっぱり買ったっスね」
「祭りなんだからいいだろ」
「一本で終わるなら誰も言いませんよ」
セバスに言われても、グレイは次の屋台へ目を向けた。
「姫さん、聞こえないふりしてるっス」
「聞こえてるよ」
「では、聞いてください」
「食べながら聞いてる」
結局、串焼きのほかに焼き菓子を二つ買ったところでライカに止められた。
そのまま何度も歩いた道を進む。
訪れるたびに町の姿は少しずつ変わっていた。新しい店が増え、古い建物がなくなり、昔リンにグリフォンのぬいぐるみを買った店が別の建物になってからも随分経つ。
変わらないのは、道の形とミナの家がある場所くらいだった。
途中、家族に腕を支えられた老人や、杖をついて祭りを眺める者とすれ違う。
その姿を何となく目で追ってから、グレイは前を向いた。
前にミナと会ってから、それなりに年月が経っている。
次はあまり間を空けずに来ると言ったつもりだったし、グレイの感覚では実際そこまで空けてはいない。
ただ、人間にとって同じかどうかは分からなかった。
「お姫ちゃん。ミナへのお土産も買っていきませんか?」
「さっきの焼き菓子?」
「それはお姫ちゃんが食べる分でしょう」
「まだ残ってるぞ」
「一つだけですよね」
「じゃあ別に買うか」
少し戻り、ミナが食べやすそうな柔らかい焼き菓子と、香りの穏やかな茶葉を選んだ。
店主によれば、夜になると広場で無数の灯籠に明かりが入るらしい。
「年に一度しか見られないよ」
「じゃあ、ミナに聞いてみる」
土産を抱えて家へ向かう。
見慣れた玄関が見えたところで、グレイは足を止めた。
庭の花が以前より減っている。
手入れされていないわけではないが、夫が生きていた頃のように隅々まで整ってはいなかった。石の間から草が伸び、花壇の端には落ち葉が溜まっている。
ロイも庭を見ていた。
「後で少し触るか」
「勝手にやると怒られるぞ」
「聞いてからにする」
グレイが扉を叩く。
一度目には返事がなく、もう一度叩いて待っていると、やがて家の奥から杖の先が床を打つ音が聞こえてきた。
ゆっくりと近づき、扉が開く。
「あら」
そこに立つミナを見て、グレイは一瞬何も言わなかった。
前に会った時から老いていた。それでも今の姿は、さらにグレイの記憶から遠くなっている。
白かった髪は量そのものが減り、細い肩へ柔らかく落ちていた。背中は少し丸まり、杖を握る手には血管が浮いている。痩せた頬や目元には深い皺が刻まれていた。
けれど、グレイを見上げた目が細くなる。
「久しぶりだね、グレイ」
声は以前より細い。それでも、笑い方はよく知っているものだった。
「……久しぶり」
「何、その顔。私がすごいおばあちゃんになったって思ってる?」
「思ってるけど」
「正直だねえ」
ミナは声を上げて笑い、その拍子に少し咳き込んだ。
グレイが手を伸ばしかけると、杖を持っていない方の手を上げる。
「大丈夫、大丈夫。笑っただけ」
「本当に?」
「年寄りは咳くらいするよ」
「前より随分小さくなったな」
「久しぶりに会った人へ最初に言うことがそれ? そっちは全然変わらないくせに」
ミナは髪から頬、身体まで確かめるようにグレイを見る。
「本当にずるいね。私なんて鏡を見るたび知らないおばあちゃんがいるのに、グレイは昔とほとんど同じなんだから」
「俺は吸血鬼だからな」
「知ってるよ。何年付き合ってると思ってるの」
「俺よりミナの方が覚えてそう」
「最近は私も怪しいよ」
冗談めかして笑い、ミナは後ろを覗く。
「あれ、今日は一人?」
「いるよ」
グレイが身体をずらすと、門の近くで待っていた四人が見えた。
「元気そうっスね、ミナ」
「その言葉、今の私に言う?」
「姫さんよりは変わってるっスけど、ちゃんと元気そうじゃないっスか」
「そういうことにしておこうかな」
ライカも歩み寄る。
「お久しぶりです。急に訪ねてしまって申し訳ありません」
「何言ってるの。あなたたちはいつも急に来るでしょ。今さら予定を聞かれた方が驚くよ。ほら、入って」
ミナが身体をずらす。
杖を動かし、足を運び、また杖をつく。
グレイは黙って待った。急かす必要はないし、ミナが自分で歩けると言う間は、すぐに手を貸す必要もない。
居間の家具は以前より減っていた。
使わなくなったものを少しずつ片付けているのだろう。代わりに壁際の棚には家族から届いた手紙や絵が増えている。
グレイは持ってきた包みを卓上へ置いた。
「土産」
「珍しい」
「前も持ってきたことあるだろ」
「そうだっけ?」
「あるよ」
「じゃあ忘れた」
あっさり言われ、グレイは笑う。
「茶葉と菓子。祭りの屋台で買った」
「お祭り見てきたの?」
「途中まで。夜に灯りを上げるって聞いた」
「ああ、そうそう。綺麗だよ。昔はリンを連れて毎年見に行ってた」
ミナは卓へ手をつき、ゆっくり椅子へ腰を下ろした。
「さて、お茶でも――」
「俺がやる」
「また濃くする気?」
「もう失敗しないよ。何回その話するんだ」
「何回したっけ?」
「覚えてないのかよ」
「忘れたから何回でもできるね」
「便利だな」
「歳を取ると便利なこともあるんだよ」
ライカが立ち上がりかけたが、グレイが先に台所へ向かった。
「今日は俺がやる。ライカは座ってて」
「では、茶葉を入れすぎないようにしてくださいね」
「分かってるって」
茶器の場所は覚えている。
人数分の杯を出し、ミナにはいつも使っている小ぶりのものを選ぶ。
湯を沸かしながら居間を見ると、ミナはライアンと旅の話をしていた。
「それで、今度はどこから来たの?」
「北の方っスね。山を越えてきたんスけど、途中で姫さんが変な鳥を追いかけ始めて」
「変な鳥じゃない。見たことない鳥だったんだよ」
「結果、三日遠回りしたじゃないっスか」
「面白かっただろ」
「俺は面白かったっスけど、セバスは呆れてたっス」
「姫様が興味を持たれた時点で、止めても無駄だと判断しただけです」
ミナが楽しそうに笑う。
「変わらないねえ」
確かに、こちらはあまり変わっていない。
グレイだけではなく、魔導白磁の身体を持つ四人も人間のようには老いない。
この家を訪れるたび、変わっていったのは迎える側だった。
リンが幼かった頃。ミナが若い母親だった頃。夫が庭を歩いていた頃。孫が生まれたと聞いた頃。
そして今。
グレイは淹れた茶を運び、ミナへ渡す。
「熱いから気をつけろよ」
「分かってるって」
受け取った手がわずかに震え、茶の表面へ細かな波が広がった。
グレイは何も言わず席につく。
一口飲んだミナが、少し驚いたように目を開いた。
「普通に美味しい」
「何で驚くんだよ」
「上手になったねえ」
「茶を淹れただけだぞ」
「前はそれで失敗したでしょ」
「何年前の話してるんだよ」
「何年前だったっけ?」
「俺に聞くなよ」
二人で顔を見合わせ、ミナが先に笑った。
焼き菓子も開けたが、ミナは一つを半分に割る。
「全部食べないの?」
「一個は多いかな。最近、そんなに食べられないんだよ」
「前はもっと食ってたのに」
「グレイと一緒にしないでよ。そっちは昔から食べすぎ」
「今も食べられるぞ」
「知ってる。さっきライカさんが止めてたでしょ」
「見てたの?」
「窓からね。見覚えのある銀髪が屋台の前を行ったり来たりしてるなって」
「声掛ければよかったのに」
「来ると思ったから待ってた」
ミナは菓子をゆっくり食べ、茶を一口飲む。
「そうだ。リンがね」
「元気なのか?」
「元気だよ。あの子も、もう立派な大人になったね。私の中ではいつまで経っても子供なんだけど」
「実際、ミナの子供だろ」
「そういう意味じゃないよ。昔はあんなに小さかったのに、今じゃ自分の子供たちのことで悩んだり、仕事の話をしたりしてるんだから」
「ミナも同じだったんじゃない?」
「そうかもね。自分のことだと分からないものだよ」
ミナは少し懐かしそうに笑い、棚を指した。
「あそこに手紙あるから取って」
「どれ?」
「一番上。青い紐で結んであるやつ」
グレイが取って戻ると、ミナは首を傾げた。
「それ何?」
「ミナが取れって言ったんだろ」
「私が?」
「今言ったよ」
「ああ、そうだった」
悪びれもせず頷く。
「最近、こういうの増えたの?」
「増えたねえ。昨日食べたものを思い出せない時もあるし、何か取りに立ったのに、何を取りに来たのか分からなくなることもあるよ」
「困らない?」
「困る時もある。でも大抵、しばらくすると出てくるから」
「出てこなかったら?」
「必要ならまた思い出すでしょ」
「適当だな」
「長く生きてると、全部覚えておくのも大変なんだよ」
グレイは少し目を細めた。
「俺に言う?」
「あ」
一瞬の間のあと、二人で笑う。
「グレイに言うことじゃなかったね」
「俺の方がずっと長いぞ」
「じゃあ、何でそんなに覚えてるの?」
「俺だって忘れるよ。どうでもいいことは特に」
「人の名前とか?」
「……それはライアンが勝手に言ってるだけだ」
「宿の主人の名前、三回聞いたんでしょう?」
「何でまだ覚えてるんだよ」
「こういうことだけ残るんだよね。不思議」
ミナは手紙を一枚抜いたものの、小さな文字を追うのを諦めてグレイへ差し出した。
「読んで」
「見えにくい?」
「小さい字はね。リン、昔から字が細かいんだよ」
家族の近況が綴られていた。
季節が変わって少し寒くなったこと。庭の野菜が思ったよりよく育ったこと。近いうちにミナのところへ顔を出したいこと。
そして、リインとミリアの話。
「リイン、仕事辞めたの?」
「ああ、それね。辞めたっていうか、変えたんだよ。前より家から近いところにしたの」
「何で?」
「何でだったかな……」
ミナは少し考え、首を振る。
「忘れた」
「手紙に書いてあるぞ。通うのが大変になったからって」
「ああ、それそれ」
「俺が読まなくても知ってるじゃん」
「思い出したんだよ。ミリアは?」
「……また何か始めたみたいだぞ。小さな店の手伝い。知り合いに頼まれたって」
「そうだった。あの子は昔から、頼まれるとすぐやるんだよ」
「考える前に動くんだろ」
「そうそう。子供の頃から全然変わらない」
そこからしばらく、手紙を読みながら話をした。
最近のことを忘れる一方で、ミナはリインが幼い頃に初めて一人で買い物へ行った日のことを細かく覚えていた。
「頼まれたものを全部紙に書いてね。一個ずつ確認しながら買ったんだって。お釣りまでちゃんと数えて帰ってきたってリンが――」
「それ、前にも聞いたぞ」
「本当?」
「何回か聞いた」
「そっか。なら別の話にしよう」
「気にしないんだな」
「グレイが覚えてるなら教えてくれればいいでしょ」
「俺が忘れてたら?」
「二人とも初めて聞く話になるから問題ないよ」
あまりにも自然に言うものだから、グレイは笑った。
「便利だな、それ」
「でしょ?」
ミナも笑い、ふと思い出したように続ける。
「そういえば、海を見た時ね――」
今度は、ずっと昔の話だった。
初めて海を見た日のこと。思っていたより波の音が大きかったこと。水平線の向こうに何があるのか、ずっと眺めていたこと。
細かな部分は昔聞いた話と少し違っている気もする。
それでもグレイは訂正しなかった。
忘れたことが増えている一方で、何十年も前の景色は驚くほど鮮明に残っているらしい。
「グレイ、あの時ずっと笑ってたよね」
「笑ってた?」
「私が海見て騒いでるの見て」
「覚えてない」
「ほら。グレイだって忘れてるじゃん」
「そうだな」
今度は素直に認めた。
誰が何を忘れていて、誰が何を覚えているのか。
長く一緒にいれば、それでいいのかもしれない。
◇
夕方が近づく頃、ミナが窓の外を見た。
「そろそろ灯りの時間かな」
「見に行く?」
「行こうかな。久しぶりに広場まで」
「歩ける?」
「ゆっくりならね」
グレイは立ち上がる。
「じゃあ行こう」
ミナが杖を手に取り、玄関へ向かう。
外へ出ると、祭りは昼よりさらに賑わっていた。
大通りを進む途中、揃いの衣装を着た人々の行列が現れ、笛と太鼓に合わせて踊りながら広場へ向かっていく。
ミナは通りの端で足を止めた。
「昔はね、リンもあっちに混ざったんだよ」
「踊ったの?」
「一回だけ。練習ではちゃんとできたのに、本番になったら人が多すぎて緊張して、途中から隣の子と全然違う動きしてた」
「リンでも緊張するんだな」
「するよ。終わったあと泣いてたもん。でも旦那が褒めたら、帰る頃には機嫌直してた」
行列を見つめるミナの横顔には、深い皺がある。
グレイは通りを走る子供たちへ目を向けた。
ミナにも、あんな頃があった。
初めて会った時には十五歳だったが、それより前の時間も当然ある。
内門で育ち、外の世界を知らなかった少女は、街を出て旅をした。一人で歩き、冒険者になり、誰かを好きになって家族を作った。娘を育て、孫が生まれ、夫を見送り、今は杖をついて祭りを眺めている。
そのすべてが、一人の人間の時間だった。
「グレイ」
「何?」
「ぼーっとしてる」
「ちょっと考えてた」
「珍しいね」
「俺だって考えるよ」
「食べ物以外も?」
「ミナ、最近俺への扱い雑じゃない?」
「昔からこんなもんでしょ」
否定できず、グレイは笑った。
人混みではミナの歩調がさらに遅くなる。
グレイが前を歩いてぶつかりそうな人を避け、ライカたちも自然と周囲を囲む位置についた。
誰も「守っている」とは言わない。
ミナも何も言わなかった。
広場へ着く頃には空が赤く染まり、中央に立てられた高い柱の間には、無数の小さな灯籠が吊るされていた。
グレイたちは端にある長椅子を見つける。
「座る?」
「そうしようかな」
ミナは腰を下ろし、長く息を吐いた。
「疲れた?」
「ちょっとだけ」
「帰る?」
「まだ。灯り見てから」
「無理するなよ」
「ここまで来たんだから見たいよ」
グレイも隣へ座る。
やがて鐘が鳴り、広場のざわめきが少しずつ静まった。
係の者たちが低い位置の灯籠から順に火を入れていく。
一つ、また一つと橙色の光が増え、夕暮れの広場を柔らかく照らしていった。
最後に高い場所の灯籠へ火が入り、周囲から歓声が上がる。
「綺麗だな」
「でしょ?」
ミナは灯りを見上げていた。
「昔はもっと少なかったんだよ。年々増えてるの」
「毎年見てるの?」
「最近は家から見ることも多いかな。でも今日は来てよかった」
「旦那とも来た?」
「何回も。リンが家を出てからは二人でね。あの人、人混みがそんなに好きじゃなかったから、毎年『今年は家でいいんじゃないか』って言うの」
「ミナが連れてきた?」
「うん。来たら来たで、屋台のもの食べて楽しんでたよ」
「素直じゃないな」
「そういう人だったから」
ミナの声は穏やかだった。
寂しさが消えたわけではないのだろう。それでも今は、夫の話をするたび沈むより、思い出せることそのものを大事にしているように見えた。
やがてライアンたちが食べ物を手に戻ってくる。
「姫さん、これ食うっスか?」
「食う」
「夕飯前ですよ」
ライカがすぐに止める。
「半分だけ」
「さっきも同じことを言っていませんでしたか?」
「ミナも食う?」
「私はいらない」
「じゃあ俺が全部食う」
「お姫ちゃん」
「半分にするよ」
受け取った焼き菓子を割り、残りをライアンへ返そうとしたが、本人はすでに別の串焼きを食べていた。
「いらないっス」
「じゃあ食う」
「結局全部食べるんですね」
ライカが呆れ、ミナが隣で笑う。
「本当に変わらないね」
「そんなに変?」
「ううん。変わらないのも、いいものだなって思っただけ」
「ミナは結構変わったけどな」
「そりゃそうだよ」
「でも、話してるとあんまり変わってない」
「中身はそんな簡単に変わらないよ。グレイだってそうでしょ」
「俺は……どうだろ」
「変わってるところもあるよ」
「どこ?」
「教えない。自分で考えて」
「面倒だな」
「長い人生なんだから、考える時間くらいいくらでもあるでしょ」
ミナが笑う。
長い人生。
人間の一生は、グレイが生きてきた年月と比べれば短い。
けれど、短いから中身まで少ないわけではない。
目の前のミナを見れば分かる。
海を見て、一人で旅へ出た。冒険者として生き、夫と出会い、リンを育てた。孫たちの成長を見て、夫を見送り、今も自分で選んだ町で暮らしている。
身体に刻まれた皺も、細くなった指も、震える手も、その時間を通ってきた結果だった。
「ミナ」
「ん?」
「長かった?」
何を聞いているのか、自分でも少し曖昧だった。
けれどミナは聞き返さない。
「長かったよ。すごく長かった。色々あったもん」
「そうか」
「でも、あっという間だった気もする」
「どっちだよ」
「両方」
「またそれ?」
「人生ってそういうものなんじゃない?」
ミナは灯りを見上げたまま笑う。
「十五の頃の私に今の私を見せても、絶対信じないと思うよ。外に出て、冒険者になって、結婚して、子供ができて、おばあちゃんになって、旦那を見送って……最後はまた同じ町で暮らしてるなんて」
「海を見たかっただけだったのにな」
「そう。最初はそれだけだった」
灯籠の光が、ミナの目に映る。
「でも、一個叶ったら次が見えたんだよ。海を見たら別の場所にも行きたくなったし、一人でやってみたくなった。冒険者になったら続けたいと思ったし、あの人と一緒にいたいと思ったら、今度は家族ができた」
一度言葉を切り、静かに続ける。
「だから、長かったよ。ちゃんと」
グレイは返事をしなかった。
必要なかった。
祭りの音が周囲を満たしている。
笑い声や笛の音、屋台からの呼び声、子供たちの足音。その中で、ミナは穏やかに灯りを眺めていた。
グレイはふと、以前から気になっていたことを口にする。
「ミナって、人間にしても老けるの早くないか?」
「急に失礼だね」
「悪口じゃないよ。前から少し思ってた。生きた年数だけ考えれば、もう少し元気でもおかしくない気がする」
ミナは自分の手を見る。
「血かな」
「俺も少し思った」
内門では、長い年月をかけて魔力量の高い人間が多く暮らすようになっていた。
それが直接の原因なのか、グレイにも断定はできない。
「お医者さんにも、普通より身体の衰えが早いかもしれないって言われたことあるよ。昔いた場所のことまでは話してないけどね」
「具合悪いの?」
「今は歳相応。少なくとも、すぐどうこうって言われたわけじゃないよ」
「ならいいけど」
「心配?」
「そりゃするだろ」
普通に答えると、ミナは少し目を丸くし、すぐに笑った。
「じゃあ、これが最後かもねー」
あまりにも軽い調子だった。
グレイは眉を寄せる。
「そういう冗談やめろよ」
「冗談だって」
「笑えない」
「ごめんごめん。でも、グレイたちが次にいつ来るか分からないのは本当でしょ?」
「だからって最後にする必要ないだろ。次も来るよ」
「分かってるよ」
「ならいい」
ミナが隣で小さく笑う。
「グレイって、そういうところ意外と心配性だよね」
「普通だろ」
「昔はもう少し適当だった気がする」
「ミナが歳取ったからだよ」
「やっぱり年寄り扱いしてる」
「実際年寄りだろ」
「それをグレイに言われるの、すごく納得いかないんだけど」
「俺の方が年上だから言えるんじゃない?」
「見た目が若いから駄目」
「理不尽だな」
また二人で笑った。
◇
夜が深まり、祭りの人波も少しずつ落ち着き始めた。
帰り道では、グレイがミナの隣を歩く。
行きより歩調は遅かったが、ミナは道沿いの飾りや屋台を眺めながら進んでいた。
「来年も見に来る?」
「元気だったらね」
「元気じゃなくても、家から見えるんだろ」
「少しだけ。でも広場の方が綺麗だよ」
「リンに連れてってもらえば?」
「来てくれたらね。あの子にも生活があるから、毎回呼びつけるわけにはいかないよ」
「遠慮してる?」
「してない。必要なら呼ぶよ。ただ、できることは自分でやりたいだけ」
「それ、昔から変わらないな」
「でしょ?」
少し誇らしげに笑う。
途中で一度だけ足が止まった。
「休む?」
「ちょっとだけ」
グレイは何も言わず隣に立ち、ミナが息を整えるのを待つ。
祭りの灯りが軒先で揺れ、遠くではまだ笛が鳴っていた。
「グレイ」
「何?」
「昔、私が一人で行くって言った時、止めなかったよね」
「ああ」
「怖くなかった? 私が死ぬかもしれないとか」
グレイは少し考える。
「心配はしたよ。でも、それで止めるのは違うと思った」
「そっか」
「何で急に?」
「何となく思い出しただけ。今でも、止められなくてよかったと思ってる」
「ならよかった」
「それだけ?」
「前にも似たようなこと話しただろ。今さら長く言うことないよ」
「そうだったっけ?」
「……忘れた?」
「ちょっと」
「大事なところ忘れるなよ」
「今また聞いたから大丈夫」
グレイは呆れながらも笑った。
家へ戻る頃には、祭りの音も随分遠くなっていた。
玄関の段差を上がるところだけ、グレイが手を貸す。
「夕飯食べてく?」
「ミナ、今から作るの?」
「簡単なものなら」
「やめとけ。今日は祭りで食べる」
「もう結構食べてたじゃない」
「まだ食えるよ」
「知ってるけど」
ミナが笑う。
「じゃあ今日はやめとこうかな。私もちょっと疲れたし」
「そうしろ」
「グレイに言われると腹立つなあ」
「何で?」
「偉そうだから」
「心配してるんだよ」
「分かってるよ」
玄関先で向き合う。
少し離れたところでは、ライアンたちも待っていた。
「今日はありがとうございました。お祭りも一緒に見られてよかったです」
「こちらこそ。久しぶりにあんなに歩いたよ」
「明日はゆっくり休んでください」
「そうする。ライカさんたちも元気でね」
ライアンが笑う。
「ミナも元気でいるっスよ。次に来た時、姫さんの昔話もっと聞かせてほしいっスから」
「にーちゃん、余計なことを頼まないでください」
「いいよ。いっぱいあるから」
「ミナ、それはやめろ」
「嫌だよ」
ロイも口元を緩める。
セバスは静かに一礼した。
「どうかお身体を大切に。またお会いできる日を楽しみにしております」
「ありがとう。セバスもね」
「私は姫様に振り回されながら、変わらず過ごしていると思います」
「おい」
「否定できますか?」
「……できないけど」
ミナがまた笑う。
その顔を見て、グレイも少し表情を緩めた。
「じゃあ、俺たちは行くよ」
「うん」
「体調には気をつけろよ。無理して一人で何でもやろうとするな。困ったらリンにも頼れ」
「分かってるって」
「本当に?」
「本当だよ」
ミナは杖を持っていない手を腰へ当て、わざと胸を張った。
「まだまだ元気いっぱいだよ!」
声だけは、昔のようによく通った。
グレイは一瞬驚き、それから笑う。
「それなら安心した」
「心配しすぎなんだよ」
「次に来た時も同じこと言えよ」
「任せなさい」
「じゃあ、またな」
「うん。またね」
グレイが背を向け、四人も続く。
祭りの灯りが残る通りへ、五人の姿が遠ざかっていった。
◇
ミナは玄関の前に立ったまま、それを見送っていた。
杖を握る手にはわずかな震えが残り、さっき胸を張ったせいで少し息も切れている。
それでも、すぐに家へ戻ろうとはしなかった。
人混みの向こうへ進んでいく銀色の髪。その隣には、昔と変わらない四人がいる。
何度、この背中を見送っただろう。
最初は、自分が一人で旅へ出る側だった。
それから何度もこの町で再会し、今度は彼らを見送るようになった。
次も同じように扉を開けられるのかは、ミナにも分からない。
朝起きるだけで身体が重い日がある。昨日できたことが今日はできず、名前や物の置き場所がすぐに出てこないことも増えた。
医者に身体の衰えを指摘された時も、それほど驚かなかった。
自分の身体のことくらい、自分が一番よく分かっている。
だから、さっきの言葉は半分だけ冗談だった。
――これが最後かもしれない。
けれど少なくとも今夜、そのことを悲しいとは思わなかった。
祭りを見た。
グレイたちと笑い、昔の話をして、リンやリイン、ミリアの話もした。忘れていたことを教えてもらい、覚えていたことを何度も話した。
長かった。
本当に、長かった。
海を知らなかった少女が外へ出て、ここまで生きてきた。
グレイについていくと決めたことも、一人で歩くと決めたことも、冒険者になったことも、あの人と一緒に暮らすと決めたことも、全部自分で選んだ。
その先にリンがいて、リインとミリアがいる。
夫はもういない。
それでも、一緒に過ごした年月までなくなったわけではない。
増えた皺も、弱った足も、震える指も、自分がその時間を生きてきた証だった。
若い頃へ戻りたいとは思わない。
ただ、初めて海を見た時の驚きだけは、もう一度味わってみたいと思う。
それはきっと、戻りたいのとは少し違う。
通りの先で、グレイが何かに気づいたように振り返った。
遠くて表情までは見えない。
ミナは杖から片手を離し、大きく振った。
グレイも手を上げる。
それから再び前を向き、五人の姿は祭りの人波へ紛れていった。
「元気いっぱい、か」
自分で言った言葉を思い出し、ミナは小さく笑う。
少しくらい大げさでもいい。
グレイが安心した顔をしたのなら、それでよかった。
次に会えたら、また同じことを言えばいい。
その時には今日のことを少し忘れているかもしれないし、何十年も前の海の話をまた始めるかもしれない。
グレイならきっと、呆れながら聞くだろう。
――前にも聞いた。
そう言いながら。
想像すると、ミナの目元がゆっくりと細くなった。
祭りの灯りが遠くに揺れ、夜風が白い髪を撫でていく。
ミナは誰もいなくなった道の先へ、少女の頃とよく似た笑顔を向けた。
「また会えるといいね」
返事の代わりに、遠くから祭りの鐘が聞こえた。




