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白銀の旅路  作者: 人形遣い
第六章 残された約束

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第5話 知らない者たち


 それからも、グレイたちの旅は続いた。


 一つの国に長く留まることもあれば、季節が変わる前に次の土地へ移ることもある。海を越え、山を越え、時には街道すらない場所へ入り込み、気になったものがあれば予定を変えた。


 そんな旅の途中、近くまで来ればミナの暮らす町へ寄るようになった。


 毎年でも、決まった時期でもない。数年空くこともあれば、思ったより早く近くを通ることもある。


 けれど不思議なことに、何度訪ねてもリン本人とは会わなかった。


「またいないの?」


 久しぶりに訪れた家の居間で、グレイは渡された茶を手にしながら尋ねた。


「またって言わないでよ。仕方ないでしょ。あの子だって、もう子供じゃないんだから」


 向かいに座るミナが笑う。


 以前より髪に白いものが増え、目尻には笑った時に深くなる皺が刻まれていた。立ち上がる動きも昔より少しゆっくりになったが、グレイを見る目は変わらない。


 何年ぶりに訪れても、最初の一言は大抵同じだった。


 ――本当に変わらないね。


 もっとも、最近では言うだけ無駄だと思ったのか、それすら減っている。


「今はどこにいるんだ?」


「少し離れた町。旦那さんの仕事の都合でね。そこまで遠くないから、たまには帰ってくるよ」


「結婚したのか」


「したよ。前に話したでしょ」


「聞いたっけ?」


「聞いた。絶対聞いた」


「姫さん、俺も聞いた覚えあるっスよ」


 横からライアンまで口を挟む。


 グレイは少し考え、言われてみればそんな話を聞いた気がしてきた。


「じゃあ聞いたな」


「軽いなあ」


 ミナは呆れながらも楽しそうだった。


 ライカが焼き菓子を皿へ並べながら笑う。


「お姫ちゃんの場合、何年前に聞いた話なのかが曖昧なのではありませんか?」


「それはあるかも」


「普通は結婚したって聞いたら覚えてると思うけどね」


「リンが元気なのは覚えてるぞ」


「そこは覚えてるんだ」


「大事だろ」


 そう答えると、ミナは一度だけ目を丸くし、それから仕方なさそうに笑った。


「まあ、元気だよ。私よりずっと忙しそうにしてる」


「ならいい」


 グレイは焼き菓子を一つ取った。


 以前、ミナの夫がよく用意していたものとは違う。形も少し不揃いで、表面の焼き色にもばらつきがある。


 一口齧ってから、グレイは首を傾げた。


「これ、ミナが作った?」


「そうだけど。何で分かったの?」


「前に食ったのと違う」


「よく覚えてるね、そういうのは」


「食べ物だからな」


「そこだけ妙に記憶力いいよね」


 向かいから伸びてきたライアンの手より先に、二つ目を取る。


「姫さん、それ俺が狙ってたやつっスよ」


「早い者勝ち」


「まだあるでしょう。喧嘩しないでください」


 ライカに止められ、ミナは昔と同じように笑った。


 ただ、そこで交わされる話だけは、訪れるたびに少しずつ変わっていった。


「そうだ。リンに子供が生まれたよ」


 グレイの手が止まる。


「子供?」


「うん。女の子」


「いつ?」


「少し前。手紙が来たの」


 ミナは棚から一通の封筒を持ってきた。何度も読み返したらしく、紙の端が柔らかくなっている。


「名前はリイン」


「リイン」


 グレイは一度、口に出した。


「そう。リンが決めたんだって。旦那さんとも色々考えたらしいけど、最後はそれにしたって」


「元気なの?」


「すっごく元気」


 即答だった。


「泣き声が大きくて、夜になるとなかなか寝ないんだって。リンなんて『私もこんなだった?』って聞いてきたから、もっと大変だったって返しておいた」


「俺が会った時は五歳だったから、その頃は知らないな」


「ああ、そっか。あの頃には随分落ち着いてたからね。小さい頃は本当に大変だったんだよ」


 寝たと思えば起き、抱いていなければ泣いていた時期もあったらしい。


 まだ会ったことのない赤子の話を、グレイは茶を飲みながら聞いた。


 どんな顔なのかも、どんな声なのかも知らない。それどころか、リンの夫にさえ会ったことがない。


 それでもミナがあまりにも楽しそうに話すものだから、リインという名前だけは、その日のうちに覚えた。


     ◇


 次に町へ来たのは、それから数年後だった。


 季節は春。


 通りの景色も少し変わり、昔リンにグリフォンのぬいぐるみを買った雑貨屋は別の店になっていた。


 それでも、ミナの家は同じ場所にある。


 扉を叩くと、少ししてミナが顔を出した。


「あら。今度は随分早かったね」


「近くを通ったから」


「それ、前も聞いた気がする」


「近くを通ったら来るんだから同じになるだろ」


「確かにそうだけど」


 ミナは笑いながら扉を大きく開ける。


「入って。みんなもいるんでしょ?」


「ああ」


「相変わらず五人一緒なんだね」


「そう簡単に減らないっスよ」


 グレイの後ろからライアンが顔を出し、ミナは一人ずつ迎え入れた。


 以前なら夫が先に気づいて奥から出てくることも多かったが、その日は庭にいるらしい。窓の外では、少し腰の曲がった男が植木の手入れをしていた。


 ロイがその姿を眺め、枝の方へ目を細める。


「随分丁寧に手を入れてるな。あの枝も、伸ばすところと落とすところをちゃんと見てる」


「あなた、そういうところ見るんだ」


「植物を見るのは嫌いじゃない」


「そうなんだ」


 ミナは笑いながら茶の用意を始めた。


 グレイも手伝おうとしたが、「座ってて」と止められる。


 ただ、以前ならさっさと済ませていた動作の一つ一つに、今は少し時間がかかっていた。


「ミナ」


「何?」


「俺がやろうか?」


「いいよ。これくらいできる」


「無理してるように見えたら言ってるだけだよ。できるなら任せるけど」


「そういう言い方する時点で、ちょっと年寄り扱いしてるでしょ」


「してないって。前よりゆっくりになったから気になっただけだろ」


 振り返ったミナが笑う。


「その気にし方がもう、グレイには一生分からない顔なんだよ」


「何だそれ」


 結局、茶だけはミナが淹れた。


 人数分の杯を運ぶ時にはライカが立ち上がり、今度はミナも止めない。


「ありがとうございます。最近、重いもの持つと手が疲れるようになってきたから助かる」


 そう言って軽く振った手には皺が増え、指も昔より細くなっている。


 けれど、その手で何十年もこの家の暮らしを作ってきたのだろう。


「そうだ」


 席についたミナが思い出したように手を叩いた。


「リインね、この前初めて一人で買い物に行ったんだって」


「一人で?」


「もうそのくらいの歳だよ」


「そうだっけ」


「グレイの中では、まだ赤ちゃんなんじゃない?」


「最初に聞いた時の印象しかないからな」


「結局、会ったことないもんね」


「ああ」


 リインは頼まれた物を紙に書き、一つずつ確認しながら買い、釣り銭まできちんと数えて帰ってきたらしい。


「しっかりしてるな」


「でしょ?」


「ミナよりしっかりしてるんじゃない?」


「どういう意味?」


「昔、報酬入った日に要らない装備買って後悔したって言ってたじゃん」


「あれは若い頃の話!」


 ミナが声を上げたところで、庭から戻ってきた夫が居間を覗いた。


「どうした?」


「グレイが昔の失敗を掘り返してるの」


「事実だろ」


「何十年前の話してるの!」


「何十年経っても事実は変わらないだろ」


「こういう時だけおばーちゃんみたいなこと言わないでよ!」


 夫が笑い出し、グレイもつられて笑った。


 その日、リインについて聞いたのはそれだけではない。


 几帳面で、頼まれたことは最後までやろうとする。初めてのことには慎重だが、一度決めると意外なほど頑固らしい。


「誰に似たんだろうね」


「リンじゃない?」


「どの辺が?」


「頑固なところ」


「それはあるかも」


 本人のいないところで勝手に納得する二人を見て、グレイは少し面白くなった。


     ◇


 次に訪れた時には、話題が一つ増えていた。


「ミリア?」


「そう。リインの妹。五歳違いで、今度も女の子だって」


「また孫が増えたのか」


「増えたよ」


「ミナ、すごい嬉しそうだな」


「そりゃ嬉しいよ。孫だもん」


 ミナはすでに夫と一緒に会いに行ったらしい。


「リインの時もそうでしたが、赤子を抱くのは緊張しますね」


「あなた、二人目なのにずっと固まってたよね」


「小さいから怖いんだ」


「リンの時は普通に抱いてたじゃない」


「あの頃は私も若かったからな」


「関係あるの?」


「あると思う」


 夫婦の会話を聞きながら、グレイは新しく増えた名前を頭の中で繰り返した。


 リインと、ミリア。


「どんな子?」


「まだ赤ちゃんだよ」


「リインの時は、生まれたばっかりでも色々言ってただろ」


「私、そんなに話してた?」


「結構」


 ライアンも頷く。


「姫さんが名前覚えるくらいには聞いたっスね」


「どういう意味?」


「姫さん、人の名前は興味ないと忘れるんスよ」


「失礼だな。ちゃんと覚えてるぞ」


「この前、宿の主人の名前を三回聞いてたじゃないですか」


 ライカに指摘され、グレイは黙る。


 ミナが笑った。


「じゃあ、リインを覚えてるのはすごいんだ」


「何度も聞いたからな」


「ミリアも覚えてよ」


「分かった」


「そんな約束みたいに覚えるもの?」


「覚えろって言ったのミナだろ」


 また笑いが起きた。


 ミリアについて分かることは、まだ少ない。


 よく眠り、姉のリインが傍へ来ると不思議と泣き止む。髪の色は幼い頃のリンに少し似ているらしい。


 何より、リインは妹ができたことを喜んでいた。


「ずっと傍にいるんだって。リンが寝かせておきなさいって言っても、起きたらすぐ覗きに行くみたい。自分がお姉ちゃんなんだから守るって張り切ってるらしいよ」


「五歳で?」


「五歳だからじゃない?」


「そういうもの?」


「そういうものだよ」


 グレイにはよく分からなかったが、赤子の傍から離れようとしない小さな姉の姿くらいなら想像できた。


     ◇


 町を離れれば、グレイたちにも自分たちの旅がある。


 知らない土地を歩き、厄介事に巻き込まれ、何も起きない日は景色を眺めながら進む。


 けれど、ミナの町へ戻るたび、会ったことのない姉妹の時間も同じように進んでいた。


「リインが学校で喧嘩したらしいよ」


 ある時は、そんな話から始まった。


「喧嘩?」


「殴ったとかじゃないよ。友達と口喧嘩」


「何で?」


「ミリアが同じくらいの子より泣き虫だって、からかわれたんだって。それでリインが怒ったみたい」


「妹のため?」


「そうみたい。でも家に帰ったら、ミリア本人には『すぐ泣くのやめなさい』って怒ったんだって」


「何だそれ」


「自分が言うのはいいけど、他の子に言われるのは嫌なんじゃない?」


 ライカが小さく笑う。


「身内だからこそ言えることもありますからね。外の方から同じことを言われれば、腹が立つのも分からなくはありません」


「ねーちゃんもそういうとこあるっスよ」


 ライアンが横から言った。


 すぐにライカの視線が向く。


「何か言いましたか?」


「何でもないっス」


「聞こえていますよ」


 グレイは二人を見比べてから、ミナへ視線を戻した。


「姉弟も同じらしいぞ」


「みたいだね」


 別の日には、ミリアがリインの大切にしていた髪飾りを勝手に持ち出し、なくした話を聞いた。


 普段は滅多に怒らないリインが激怒し、二人で探しに行ったものの見つからなかったらしい。


「じゃあ仲直りできなかったのか」


「それがね、次の日にミリアが自分のお小遣い全部持って、代わりを買いに行こうとしたんだって」


「一人で?」


「うん。でも店までの道が分からなくて、途中でリインに見つかった」


「何してるんだよ」


「結局、二人で帰ってきたらしいよ。髪飾りはもういいから、そのお金は取っておきなさいって」


「怒ってたのに?」


「ちゃんと謝ったからじゃない?」


 グレイは少し考える。


「リインって、結構面倒見いいんだな」


「そうなの。真面目で、ちょっと心配性でね。ミリアは逆に、考えるより先に動くところがあるみたい」


「だから物をなくす?」


「それだけで決めないであげて」


「でもなくしたんだろ」


「なくしたけど」


 否定できなくなったミナと一緒に笑う。


 いつの間にか、グレイの中でも姉妹の違いができていた。


 慎重で真面目な姉と、気になれば先に動いてしまう妹。


 もちろん、すべてミナから聞いた話でしかない。実際に会えば印象は違うのかもしれないが、名前しか知らなかった二人には、いつの間にかそれぞれの輪郭が生まれていた。


「俺、会ったこともないのに妙に詳しくなったな」


 ある日、そう口にすると、ミナは声を上げて笑った。


「今さら気づいたの?」


「だって毎回来るたびに話すだろ」


「聞くからでしょ」


「聞いてなくても話すじゃん」


「孫の話くらいさせてよ」


「嫌とは言ってないよ」


 グレイは卓上の菓子を一つ取る。


「むしろ、次に来た時に何してるかちょっと気になる」


「ほら」


「何だよ」


「もう立派に気にしてるじゃない」


「知ってる奴の続きが気になるのは普通だろ」


「会ったことないのに?」


 言われて、グレイは黙った。


 確かに、一度も会ったことはない。


「……まあ、知ってるだろ。色々聞いたし」


 ミナの顔がゆっくり綻ぶ。


「じゃあ、いつか会えたらいいね」


「そのうちな」


 けれど、その「そのうち」は、なかなか来なかった。


     ◇


 リインが成長して家を離れ、やがて働き始めた。初めての給金で家族へ食事を奢ったと聞けば、ミリアは自分も働くと言い出し、まだ早いと止められて不満そうにしていたらしい。


 やがてミリアも自分の道を選び、姉妹が揃って実家へ戻る機会は減っていった。


 それでも会えばよく話し、時には昔のことで喧嘩し、翌日には何事もなかったように同じ卓を囲んでいるという。


 グレイはそのほとんどを、ミナの口から知った。


 そして姉妹が大人になるのと同じだけ、ミナの時間も進んでいた。


 歩く速度は遅くなり、一緒に町を歩けば、グレイたちが無意識に歩幅を合わせる。家には杖が置かれ、棚の高いところにある物は夫や訪ねてきた誰かに取ってもらうようになった。


 髪も、いつしか白い方が多くなっている。


 それでもグレイたちが来れば、自分で茶を淹れようとした。


「座ってろよ」


「嫌だよ。私の家なんだから」


「別に茶くらい俺が淹れるぞ」


「グレイに任せると濃すぎる」


「前に一回失敗しただけだろ」


「一回じゃない」


「二回?」


「回数の問題じゃないよ」


 そんなやり取りだけは、昔と変わらない。


 夫も同じように歳を重ねていた。


 以前は自分で庭の手入れをしていた男が、やがて椅子に座り、興味を持って手伝うようになったロイへ枝の状態を伝えるようになった。


「そこ、少し枝を落とした方がいいと思うんですが」


「この辺か?」


「ええ。その方が下まで日が入ります」


「分かった」


 窓から見ていたミナが声を掛ける。


「ロイに庭仕事させていいの?」


「本人がやると言ったんだ」


「主が茶を飲んでいる間、暇だからな」


「俺のせいみたいに言うなよ」


 庭から返ってきた声にミナが笑い、夫も楽しそうに二人のやり取りを眺めていた。


 グレイは、その光景を特別なものだとは思わなかった。


 次に来ても、同じようにいるのだろう。


 どこかで、そう考えていた。


     ◇


 だから、さらに年月が過ぎてその町へ戻った日。


 扉を開けたミナの後ろに誰もいないことにも、最初は気づかなかった。


「久しぶり」


「本当に久しぶりだね」


 杖をついて笑うミナは、随分小さくなったように見えた。


 肩や腕から昔の張りがなくなり、薄い服の中で輪郭が細くなっている。それでも目だけはよく動いた。


「ライアンたちもいる?」


「いるぞ」


「じゃあ入って。外で立ってたら疲れるでしょ」


「俺たちは疲れないけど」


「私が見上げてるのに疲れるの」


「ああ、そっちか」


 五人で中へ入る。


 懐かしい居間だった。


 家具の配置は少し変わり、リンが幼い頃に使っていた物はとうになくなっている。代わりに棚の上には何枚かの絵や手紙が飾られていた。


 室内を見回して、グレイはようやく気づく。


 椅子が一つ少ない。


「旦那は?」


 茶葉の箱へ伸びていたミナの手が止まった。


「ああ。亡くなったよ」


 声は穏やかだった。


「いつ?」


「少し前。眠るみたいにね」


「そうか」


「うん」


 それだけ答え、ミナは再び茶葉へ手を伸ばす。


 グレイは少し迷ってから立ち上がった。


「今日は俺がやる」


「濃くしない?」


「しない」


「本当に?」


「ライカに見てもらう」


「それなら安心かな」


「俺への信用低くない?」


「長い付き合いだからね」


 ミナが笑う。


 ライカも立ち上がり、二人で茶の準備を始めた。


 以前なら「自分でやる」と言っただろうが、今のミナは素直に椅子へ腰を下ろしている。


 茶を淹れて戻ると、一口飲んだミナが頷いた。


「ちゃんと飲める味だ」


「当たり前だろ」


「お姫ちゃん、私が分量を見ましたから」


「ライカ、それ言わなくていい」


「事実です」


 楽しそうに笑うミナを見て、グレイは少しだけ安心した。


「旦那、苦しまなかった?」


「うん。最後まで大きな病気もしなかったよ。身体は弱ってたけど、前の日まで普通に話してた」


 ミナは杯を両手で包む。


「朝、起こしに行ったら、そのまま」


「そっか」


「びっくりしたよ。昨日までいた人が、急にいなくなるんだもん」


 声は落ち着いていた。


 グレイは何を言うべきか考えたものの、慰めの言葉は思いつかなかったし、目の前のミナもそれを求めているようには見えない。


「寂しい?」


 だから、そのまま聞いた。


「寂しいよ。すごくね」


 ミナもそのまま答え、少し笑う。


「でも、悲しいことだけじゃないから」


 結婚して、リンが生まれ、喧嘩をして、旅行にも行った。何もせず二人で家にいた日も数え切れない。


 リンが家を出てからは、久しぶりに夫婦二人だけになった。子供中心だった生活が変わり、最初は何を話せばいいか分からない日さえあったという。


「そのうち慣れたけどね。庭をいじったり、近くの店に食べに行ったり、たまにリンたちのところへ行ったり。リインとミリアが来れば、二人ともあの人に色々頼むから大変そうだったけど、嬉しそうだった」


「何を頼まれてたんだ?」


「小さい頃は玩具の修理とか。大きくなってからは相談事。リインは一人で考え込みすぎるし、ミリアは逆に決めるのが早すぎるから、二人の話を順番に聞いてた」


「旦那らしいな」


「でしょ?」


 ミナは嬉しそうに笑った。


「だから、幸せだったよ」


 静かな声だったが、そこに迷いはない。


「もっと一緒にいたかったとは思うし、今でも朝になると隣の部屋にいる気がする時はある。でも、足りなかったとは思わないかな。いっぱい一緒にいられたし、楽しいこともいっぱいできたから」


 グレイは頷いた。


「墓、近い?」


「近いよ」


「行っていい?」


 ミナが目を丸くする。


「会いに行ってくれるの?」


「俺も知ってる奴だからな」


「そっか」


 皺の深くなった目元が、ゆっくりと細くなった。


「じゃあ、一緒に行こうか」


     ◇


 町の外れにある墓地までは、それほど遠くない。


 ただ、今のミナには少し長い道だった。


 グレイたちは急がず、杖をついて歩く彼女の歩調に合わせる。


 途中で何度か立ち止まるたび、ミナは疲れたとは言わず、「昔はここに店があった」とか、「リンが小さい頃、この角で転んだ」とか、そんな話をした。


 町の景色は変わっている。


 初めて来た頃の店はいくつもなくなり、新しい建物が増えた。それでも曲がり角や石畳には覚えがある。


 墓地へ着く頃には、午後の日差しが少し傾いていた。


 整えられた草の間に並ぶ石碑の奥へ、ミナは迷わず進む。


「ここだよ」


 一つの墓の前で止まった。


 特別大きくはない。


 名前と、生きた年月だけが刻まれた静かな墓だった。


 グレイはその文字を見る。


 家で何度も会った男。


 ミナが何度断っても諦めず、依頼から帰るたび彼女を待っていた。初めて会った日には戸惑いながらグレイたちへ頭を下げ、夕食を囲めば騒ぐリンを笑って見ていた。


 歳を取ってからは、庭の椅子に座ってロイと植物の話をしていた。


 もういない。


 それだけは、グレイにも分かった。


 ミナが墓の前へしゃがもうとして身体を揺らし、グレイは咄嗟に腕を支えた。


「ありがとう」


「ああ」


 ミナは持ってきた花を供え、少し曲がった向きを直してから墓石を軽く撫でる。


「来たよ。今日はね、グレイたちも来てくれたよ」


 まるで家の奥にいる夫へ声を掛けるような調子だった。


 グレイも墓へ向かって片手を上げる。


「久しぶり」


「姫さん、墓にその挨拶するんスか」


「いいだろ。知り合いなんだから」


「まあ、姫さんらしいっスけど」


 ライアンも軽く頭を下げ、ライカとセバスが続く。


 ロイだけは墓石を見たあと、少し離れた木へ視線を向けた。


「ここの手入れ、丁寧にされてるな」


「そんなとこ見る?」


「アイツなら気にするだろ」


「ああ、確かに。庭好きだったもんね」


 ミナが笑う。


 墓参りなのに、誰も無理に暗い顔をしなかった。


 グレイには、それでいいように思えた。


 ミナは墓石の前で、今日あったことを少しずつ話した。


 グレイたちが相変わらずだったこと。グレイとライアンが菓子を取り合い、ライカが茶を淹れ、ロイが道沿いの植物を気にしていたこと。


「でも、みんな元気そうだったよ」


 最後にそう言って、墓石を撫でる。


「私も元気。だから心配しなくていいからね」


 返事はない。


 風が草を揺らし、どこかで鳥が鳴いている。


 それでもミナは、返事を待っているようには見えなかった。


 話したいから、話している。


 それで十分なのだろう。


     ◇


 帰り道。


 墓地を出てしばらくしたところで、ミナがふと口を開いた。


「本当はね、リンのところに行こうかなって思ったこともあったんだ」


「一緒に住むってこと?」


「そう。あの子も何度か言ってくれてるよ。もう一人なんだから、こっちに来たらって」


「行かないの?」


「うん」


 ミナは杖をつきながら、ゆっくり歩く。


「リンのところに行けば、リインとミリアにも今より会えるし、賑やかだと思う。あの子たちも来ていいって言ってくれてるみたい」


「なら、何で?」


 夕方の光が石畳へ長い影を作る。


「旦那を置いていくのが、ちょっと忍びなくてね」


 グレイは黙って続きを待った。


「あの人、この町が好きだったし、ずっとここで暮らしたでしょ。私も長いこと一緒に暮らしたから、今さら別の場所へ行くのも何だか落ち着かないんだ」


「墓は動かせないの?」


「できなくはないと思うよ。でも、そういうことじゃないかな」


「そっか」


「うん」


 ミナは穏やかに笑う。


「だから、私はここで最後まで過ごそうと思う」


 かつてミナは、一つの街から出ることを望んだ。


 外の世界を見たい。海を見たい。自分の足で歩きたい。


 そう願って旅立ったミナが今、自分の意思で一つの町に残ると言っている。


 誰かに留められたのではない。


 ここにいたいから、いる。


「いいと思う」


「うん。私もそう思ってる」


 ミナは杖を止め、それから少し困ったように笑った。


「だけどね、寂しいのは間違いないんだ」


 その声には、ほんの少しだけ弱さが混じっていた。


 夫を亡くし、リンは別の町で家族と暮らしている。リインとミリアも、それぞれの時間を生きている。


 この家へ帰れば、一人だ。


「だから、また遊びに来てね」


 大げさな頼み方ではなかった。


 次はいつ来るのかと問い詰めることもせず、ただ、また来てほしいと言った。


「分かった」


「本当?」


「ああ。近くを通ったら来る」


「そこは変わらないんだ」


「旅してるんだから、いつ来れるかは分からないだろ」


「それはそうだけど」


 グレイは少しだけ考えてから、ミナを見る。


「でも来るよ。次はもう少し早く来る」


 ミナが瞬きをした。


 やがて、皺の深くなった顔が綻ぶ。


「じゃあ、待ってる」


「ああ」


「忘れないでよ」


「忘れない」


「リインとミリアのことも?」


「覚えてるよ」


「本当に?」


 疑うような目を向けられ、グレイは少しむっとした。


「リインは真面目で慎重。妹のことになると結構頑固。ミリアは考える前に動くことが多くて、昔リインの髪飾りを勝手に持ち出してなくした」


 ミナが足を止めた。


「……よく覚えてるね」


「何回聞いたと思ってるんだよ。会ったこともないのに、俺は二人のこと妙に詳しいぞ」


 しばらく黙っていたミナが、堪えきれなくなったように笑い出した。


「何?」


「いや、ごめん。何か嬉しくて」


「何が?」


「グレイの中にも、ちゃんとあの子たちがいるんだなって」


「名前と話だけだけどな」


「それで十分だよ」


 ミナはまた歩き始め、グレイもその隣を歩く。


 後ろからは四人の足音が続いていた。


     ◇


 しばらくすると、昔と同じ場所に建つミナの家が見えてきた。


 最初に訪れた夜にはリンが走り回り、夫が食器を運び、ミナが台所から声を飛ばしていた家。


 今はミナ一人が帰る場所になっている。


 それでも玄関脇には花が咲き、窓は綺麗に拭かれていた。


「今日は泊まっていく?」


 家の前でミナが聞く。


「五人分の場所ないだろ」


「昔と同じこと言うね」


「昔も言った?」


「言ったよ」


「覚えてない」


「もう」


 ミナが笑う。


「宿を取るなら、夕飯くらい食べていけば?」


「いいの?」


「一人分作るのも六人分作るのも、そんなに変わらないよ」


「それは絶対違うだろ」


「じゃあ手伝って」


「それならいいぞ」


「姫さん、前に茶で失敗してるんスから料理はやめた方がいいんじゃないっスか?」


「茶と料理は違うだろ」


「お姫ちゃんは座っていてください。私がお手伝いします」


「何で俺だけ戦力外なの?」


「主は食う方を担当すればいい」


「ロイまで」


 ミナが声を上げて笑った。


 昔より少し小さくなった声。それでも、グレイの知っている笑い方だった。


「じゃあ、みんなで食べよう」


 扉が開く。


 静かだった家の中も、六人が入ればすぐに足音と声で満たされた。


 ライカは台所へ向かい、ミナから食材の場所を聞く。ライアンは椅子を動かし、セバスは水を運び、ロイは窓の外を眺めている。


 グレイだけが居間の真ん中に残った。


「グレイ?」


「俺だけ仕事がない」


「じゃあ、お皿出して」


「どこ?」


「そこの棚」


 言われた場所を開けると、皿が何枚も重ねられている。


 必要な数を食卓へ並べようとして、棚の奥に古い杯があることに気づいた。


 以前、ミナの夫が使っていたものだった。


 手に取ろうとして――やめる。


 グレイは何も言わず、そのまま棚を閉じた。


「グレイ、終わった?」


「ああ」


「じゃあ次、これ運んで」


 振り返ると、ミナが野菜の入った籠を持っている。


「重いだろ。持つよ」


「じゃあお願い」


 今度は素直に渡された。


 グレイにはほとんど重さを感じない籠を受け取ると、ミナが杖をつきながら後ろを歩く。


「そういえば」


「何?」


「リイン、この前またやらかしたよ」


「リインが?」


「珍しいでしょ?」


「何したの?」


「それがね――」


 ミナが楽しそうに話し始めた。


 まだ一度も会ったことのない女――最初に名前を聞いた頃には赤子だったリインも、もう少女と呼ぶような歳ではない。


 話の途中ではミリアの名前も出てきた。


 どうやら今回も姉妹で随分騒がしいことになったらしい。


「それでミリアがね」


「待って。そこ、リインが悪くない?」


「私もそう言ったんだけど、リンは二人とも悪いって」


「ミリアは何したんだよ」


「最後まで聞いてよ」


「分かった」


 グレイが籠を台所へ置くと、横でライカが小さく笑った。


「お姫ちゃん、本当に詳しくなりましたね」


「ミナが毎回話すからだよ」


「聞いてくださる方がいるのは、嬉しいものですよ」


 グレイはライカを見て、それから続きを話したそうに待っているミナへ視線を戻した。


「それで?」


「ミリアが――」


 また話が続く。


 グレイは、リインの声を知らない。


 ミリアの顔も知らない。


 二人が笑うところも、喧嘩するところも、一度も見たことがない。


 それでも名前を聞けば、次に何をしたのかが気になる。


 慎重で真面目な姉と、考えるより先に動く妹。腹を立て、喧嘩をして、それでも結局は互いを気に掛けている二人。


 そのすべてを、グレイはミナの話から知った。


 知らない者たちのはずなのに。


 もう、まったく知らないとは言えなかった。


 窓の外では、夕日がゆっくりと町の屋根へ沈んでいく。


 昔と同じ家に、久しぶりにいくつもの声が重なっていた。


 ミナは何度も笑いながら、リインとミリアの話を続けている。


 グレイは皿を並べながら、その続きを聞いた。


 次に来た時には、また知らない話が増えているのだろう。


 それなら、その時に聞けばいい。


 今度は、あまり間を空けずに。


 そう思いながら、グレイは食卓の端へ最後の皿を置いた。

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