第3話 帰れる場所
夕食を終えた頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。
昼間まで人の声で賑わっていた通りも静まり、時折、家路を急ぐ足音や遠くを走る馬車の音が聞こえる程度になっている。窓辺の小さな灯りが薄い硝子を通して揺れ、食卓の端を淡く照らしていた。
「もう食べられない……」
リンは椅子の背へ身体を預け、膨らんだ腹を両手で押さえている。
夕食が始まった頃までは、グレイたちに聞きたいことが山ほどあったらしい。グリフォンから始まり、ダンジョンには何がいるのか、海の向こうには何があるのかと質問は途切れなかったが、食事が進むにつれて勢いを失い、今では瞼まで重そうだった。
ミナが空になった皿を重ねながら娘を見る。
「だから最初に飛ばしすぎないでって言ったでしょ。お昼のお菓子も全部食べたのに」
「でも、おいしかったもん」
「それなら残さなければよかったのに」
「おなかがいっぱいなの」
「分かってるよ」
呆れながらも、その声は柔らかい。
グレイは向かい側の席から二人を眺めていた。
昼間にも似た光景を見たはずなのに、家の中では少し違って見える。旅の途中で偶然出会った親子ではなく、この場所で毎日を暮らしている家族なのだと分かるからかもしれない。
食卓には使い込まれた傷があり、リンの椅子だけ少し高さが違う。壁際の棚には木の器や杯が家族の人数に合わせて並び、今夜だけ、そこへグレイたち五人分が増えていた。
「姫さん、まだ食うんスか?」
隣からライアンの声が飛んでくる。
グレイは、最後に残っていた煮込みをパンですくった手元を見た。
「これで最後だよ」
「さっきも聞いた気がするっス」
「気のせいだろ」
「お姫ちゃん、鍋はもう空ですよ」
ライカが笑いながら鍋を持ち上げる。中を確認したグレイは、それなら仕方ないとパンを口へ運んだ。
「美味かった」
「それはよかったけど、よく食べるところも全然変わってないね」
食器を片付けていたミナが笑う。
「変える必要ないだろ」
「別に悪いとは言ってないよ。作った側としては嬉しいし」
ミナの夫も席を立ち、空いた皿をまとめ始めた。ライカが手伝おうとしたものの、「今日はお客さんなんだから座ってて」と止められ、結局、食後の片付けは夫婦二人に任せることになった。
グレイたちが居間へ移ると、リンも昼間に買ったグリフォンのぬいぐるみを抱えたままついてくる。
自分でつけた名前を何度も呼んでいたため、すでに家族の中でもぬいぐるみの方の「グレイ」が定着し始めているらしい。
「グレイ、こっち」
リンが長椅子の隣を叩く。
「俺?」
「うん」
言われるまま座ると、リンも隣へよじ登り、膝に灰色のグリフォンを乗せた。
「グレイもここ」
「そいつもグレイだろ」
「こっちはグリフォンのグレイ」
「俺は?」
「きゅうけつきのグレイ」
「分け方そこなんだな」
グレイがぬいぐるみを見ると、リンも同じように見下ろした。
「グリフォンのグレイは飛べるよ」
「俺も飛ぼうと思えば飛べるぞ」
「ほんと!?」
「吸血鬼の能力や空間魔法を使えばな」
勢いよく顔を上げたリンに、台所からミナの声が飛んでくる。
「グレイ、変なこと教えないでよ。明日から自分も飛べるって言い出すから」
「教えてないだろ」
「リンも飛びたい!」
「ほら」
「俺のせいか?」
笑い声が居間へ広がった。
やがて片付けを終えたミナたちも戻り、夫が温かい飲み物を人数分運んでくる。リンには薄めた果実水が渡されたものの、半分ほど飲んだところで欠伸をした。
「眠いなら寝てきたら?」
「まだ寝ない」
「さっきから目閉じてるよ」
「閉じてないもん」
言いながら、また瞼が落ちる。
しばらく様子を見ていたミナも、とうとう諦めたように立ち上がった。
「ほら、寝るよ。今日はいっぱい遊んだでしょ」
「まだグレイいる?」
「もう少しはいるよ」
「起きたら?」
「その頃には宿に戻ってると思う」
「えー……」
不満そうに頬を膨らませたリンが、今度はグレイを見る。
「帰るの?」
「ああ。でも、この町にいる間ならまた会えるだろ」
「明日も?」
「俺たちがまだ出てなかったらな」
「じゃあ、明日も来て」
明日の予定は決めていない。グレイは少し考えてから頷いた。
「分かった。起きてからミナに聞いてみろ」
「うん……」
返事にはもうほとんど勢いがなかった。
ミナに手を引かれて立ち上がったリンは、ぬいぐるみを抱えたまま数歩進み、ふと思い出したように振り返る。
「きゅうけつきのグレイ、おやすみ」
「おやすみ」
「グリフォンのグレイも、おやすみ」
「それはお前と一緒に寝るだろ」
「そっか」
眠そうに納得し、今度こそ母親と部屋を出ていった。
残された一同の間に、先ほどまでとは違う静けさが落ちる。
夫は小さく笑いながら、リンが置き忘れた空の杯を手に取った。
「随分懐いたな」
「ぬいぐるみの力じゃないっスか?」
「それなら姫さんじゃなくて、ぬいぐるみの方に懐いたことになるっスけど」
「どっちでもいいだろ」
グレイは香草を入れた温かい飲み物へ口をつけた。細い湯気と一緒に、食後にはちょうどいい穏やかな香りが広がる。
セバスは向かいの椅子へ腰を下ろし、ロイは窓際の壁へ軽く背を預けている。ライカは長椅子の端に座り、ライアンはその隣で身体を伸ばしていた。
旅の途中なら、宿の食堂か野営地で過ごしている時間だ。
それが今夜は、ミナの家にいる。
少しして、寝かしつけを終えたミナが戻ってきた。
「寝た?」
「たぶん一瞬で寝た。ぬいぐるみ抱えたまま」
「気に入ったならよかった」
「明日から何回『グレイ』って呼ばれて振り返ることになるんだろうね」
「俺はいないから大丈夫だろ」
「私が大丈夫じゃないの」
ミナは苦笑しながら夫の隣へ座った。
全員が揃うと、話は自然に昼間の続きへ戻る。
初めてまとまった報酬を受け取り、嬉しくなって必要もない装備を買い、その日のうちに後悔したこと。護衛先で子供たちに冒険者だと知られ、延々と武勇伝を求められたものの、話せるほど格好のいい出来事がなくて困ったこと。
夫との出会いについては昼間に散々話したため、今度はミナが仕返しとばかりに、彼がどれほど分かりやすく自分の帰還を待っていたかを話し始めた。
「私がギルドに入ると、毎回すぐ気づくの。受付に他の人がいても、奥から出てくるんだよ」
「仕事があっただけだ」
「私が三週間の依頼から戻った時なんて、持ってた書類落としたじゃん」
「それは……たまたまだ」
「へえ」
「仲いいっスねぇ」
ライアンが笑うと、夫は諦めたように飲み物へ口をつけた。
グレイも笑いながら二人の話を聞く。
大きな出来事だけではない。失敗して、笑って、誰かと出会い、同じ場所へ何度も帰ってくる。昼間に聞いた冒険譚より、そんな話の方が今のミナへ繋がっているように思えた。
やがて話が一段落したところで、グレイの頭にふと一人の顔が浮かんだ。
「そういえば」
「ん?」
「アイツには言ったのか」
名前は出さなかったが、ミナにはすぐ伝わったらしい。
先ほどまで笑っていた表情が、ほんの少しだけ静かになる。
「……うん」
その返事で、ライアンたちにも誰のことか伝わったようだった。
「結婚したことも?」
「知らせたよ。手紙で」
「返事は?」
「来た」
ミナは自分の指先へ視線を落とす。
「すごく長い手紙だった。最初の半分くらい、私の体調と相手の人柄を心配することばっかりだったけど」
夫が苦笑する。
「私も読ませてもらいました。随分心配されているんだなと思いましたよ」
「お前のこと、何か言ってた?」
「直接会ったこともないのに、ミナを泣かせたら許さない、と」
「アイツらしいな」
グレイは小さく笑った。
夜の王。
ミナが生まれ育った街を治め、人間を心から大切にしながら、それでも自分が守り育てる家畜として見ていた吸血鬼。その価値観を、グレイは今も覚えている。
「リンが生まれた時は?」
尋ねると、ミナは少しだけ間を置いた。
「帰ったよ。一度だけ」
「街に?」
「うん。リンが生まれて少し経ってから、この人と三人で」
それはグレイの知らない話だった。
「大丈夫だったのか?」
「最初はちょっと怖かったよ。出ていった私が、結婚して、子供まで連れて戻るんだもん。手紙では祝ってくれたけど、実際に会ったらどうなるのかなって考えた」
夫も頷く。
「私も緊張しました。妻から昔の話は聞いていましたから」
「それで?」
促すと、ミナは少し笑った。
「普通に迎えてくれたよ」
その声に、かつてのような硬さはなかった。
「門を通って、昔住んでた場所を歩いて……あの人のところまで行ったら、最初に私じゃなくてリンを見たの」
ミナは当時を思い出すように目を細める。
「しばらく何も言わなかった。だから、やっぱり駄目だったかなって思ったんだけど」
夜の王は、ミナの腕の中にいた赤子をしばらく見つめたあと、ようやく顔を上げた。
『その子が、君の娘か』
『……うん』
『抱いてもいいだろうか』
予想していなかった言葉に、ミナはすぐには返事ができなかった。
夜の王は手を伸ばさず、ただ待っていた。
だからミナは、自分の腕の中で眠っていたリンをそっと渡した。
受け取る手つきは、驚くほど慎重だった。
『小さいな』
『赤ちゃんだからね』
『知識としては知っている。だが、君もこれほど小さかったのだと思うと不思議なものだ』
そう言ってリンの顔を覗き込んでいると、小さな指が彼の指先を握った。
その瞬間だけ、夜の王は言葉を失った。
『……そうか』
やがて零れた声は、とても静かだった。
『君は、母親になったのだな』
『うん』
『おめでとう、ミナ』
それだけだった。
街を出たことを責められることも、戻るよう求められることもなく、夜の王はリンが生まれたことを心から喜んでいた。
そこでミナが話を止める。
居間には、灯りの燃える小さな音だけが残った。
「……泣いてた?」
「泣いてないよ」
「アイツが」
「ああ」
ミナは少し考える。
「泣いてはいなかったと思う。でも、ずっとリンの手を見てた」
「そうか」
グレイには、その姿が何となく想像できた。
夜の王の愛情は、決して偽物ではなかった。
だからこそ、簡単ではなかったのだ。
「昔はね」
ミナが静かに口を開いた。
「私、あの人に大切にされてたって言われるの、ちょっと嫌だったんだ」
誰も口を挟まない。
「大切なら、どうして外へ行かせてくれなかったのって思ってた。海を見たいって言っても危ないから駄目、外の街へ行きたいって言っても必要ない。欲しいものがあるなら持ってきてくれるし、困ることがあれば全部解決してくれた」
膝の上で指を組み、少しだけ笑う。
「私が病気になった時なんて、たぶん本人より周りの方が大変だったと思う。食べたいものも、欲しい本も、言えば何とかしてくれた。本当に、大切にはされてたんだよね」
そこで笑みを消し、まっすぐ前を見る。
「でも、私はあの街から出たかった」
その声に迷いはなかった。
「若い頃は、その二つが一緒にあるのが分からなかったんだと思う。あの人を嫌わないと、自分が外へ出たかったことまで間違いになるような気がしてた」
「今は違う?」
「うん。外に出て、色んな人に会ったから」
冒険者として旅をし、自分で失敗し、逃げることも覚えた。夫と出会い、自分で隣に立つことを選び、娘が生まれてからは誰かを守る側にもなった。
「リンが生まれてから、少し分かったこともあるよ。危ないことなんてさせたくないし、できるならずっと目の届くところにいてほしい」
ミナは、娘が眠る廊下の先を見る。
「今日だって、走るなとか、お菓子食べすぎるなとか、ずっと言ってたでしょ?」
「ああ」
「たぶんこれから、もっと言うと思う。大きくなって一人でどこかへ行きたいって言い始めたら、心配もする」
そこで苦笑する。
「それでも、閉じ込めたくはないけどね」
グレイは何も言わず、続きを待った。
「あの人と私は、そこが違ったんだと思う」
夜の王の愛情を否定するわけでも、自分が我慢すればよかったと言うわけでもない。
「今なら、あの人が私を本当に大切にしてたことは分かるよ。でも、だからって考え方まで全部受け入れられるわけじゃない。それでいいんだって、やっと思えるようになった」
「両方、本当ってこと?」
「そう」
ミナが笑う。
「大切にしてもらった。感謝もしてる。でも、私はあそこで一生暮らしたくなかった」
グレイはその言葉を聞きながら、初めてミナと海を見た時を思い出した。
目の前に広がる水面を見つめたまま、なかなか動かなかった少女。
あの時に何を考えていたのか、そのすべてを知っているわけではない。ただ、海を見たかったのだということだけは知っていた。
「帰った時、アイツにも言ったのか?」
「少しだけね」
リンを寝かせたあと、久しぶりに二人で話す時間があったのだという。
『外へ出て、よかったかい』
夜の王からそう聞かれ、ミナは迷わず答えた。
『うん』
彼はしばらく黙っていた。
『そうか』
『怒らないの?』
『なぜ怒る必要がある』
『だって、私は戻らなかったし……今も、ここで暮らすつもりはないよ』
夜の王は少し寂しそうに笑った。
『それは残念だ。私は今でも、君がここで暮らしてくれれば安心できると思っている』
『そこは変わってないんだ』
『簡単には変わらないよ』
否定しない彼に、ミナも少し笑った。
『私も変わってないよ。ここに戻って暮らすつもりはない』
『そうか』
『でも……大切にしてくれてたことは、今なら分かる』
夜の王はそこで初めて驚いた顔をした。
『受け入れられなかったことまで、受け入れたわけじゃないよ』
『分かっている』
『それでも、ありがとうって思ってる』
長い沈黙のあと、夜の王は穏やかに笑った。
『それなら、私は十分だよ』
ミナはそこで話を終えた。
グレイもしばらく何も言わず、窓の外を通り過ぎた風が硝子を小さく鳴らす音を聞いていた。
「今も手紙は?」
「たまに送ってるよ。リンのことばっかり聞かれるけど」
「会いにも行くの?」
「毎年とかじゃないよ。でも、また行くつもり」
「そっか」
それなら、それでいい。
「グレイ」
「何?」
「私ね」
ミナは一度、言葉を選ぶように間を置いた。
「あの街から出たことは、今でも間違ってなかったと思ってる」
「ああ」
「グレイについていって、海を見て、一人で旅して、冒険者になって、この人と会って、リンが生まれた。もしあそこに残ってたら、どれもなかったから」
夫は何も言わず、隣で聞いている。
「でも、だからって、あの街にいた時間まで嫌いになる必要はなかったんだって、今は思える」
ミナの表情は穏やかだった。
「時間はかかったけどね」
グレイは少しだけ考え、それから頷く。
「なら、よかった」
「それだけ?」
「それ以上いる?」
ミナは目を丸くしたあと、吹き出した。
「いらないかも」
「だろ」
グレイも笑った。
あの街を離れた頃には持てなかった答えも、外の世界で自分の人生を歩いたからこそ見つけられたのだろう。
「そういえば」
ライアンが空気を変えるように身を乗り出した。
「リンって冒険者になりたいとか言わないんスか?」
「今のところはグリフォンに乗りたいって言ってる」
「今日の姫さんのせいじゃないっスか?」
「俺?」
「完全にそうでしょう」
ミナまで頷く。
「別に乗るくらいいいだろ」
「野生のグリフォンは駄目!」
「懐いてれば?」
「駄目!」
「お姫ちゃん、そこは母親の意見を尊重してください」
「分かったよ」
ライカにまで言われ、グレイは素直に引き下がった。
ロイが窓際から口を挟む。
「何年かして会ったら、本当にグリフォンに乗ってるかもしれないぞ」
「やめてよ。想像したら心配になってきた」
「まだ五歳だろ」
「子供ってすぐ大きくなるんだよ」
ミナの言葉に、グレイは首を傾げる。
「俺からすると、そうでもないけど」
「グレイ基準で話さないで」
「またそれか」
「またそれだよ」
昼間と似たやり取りに、全員が笑った。
その後も、リンが初めて歩いた日のことや、ミナが冒険者時代の癖で今でも旅支度だけは異様に早いこと、夫が元ギルド職員だったため町の冒険者たちから今でも相談を持ち込まれることなど、話題は次々と移っていった。
ライアンが例のグリフォンに荒らされた荷物の被害を大げさに語れば、ライカから「自分で地面に置きっぱなしにしたのが悪いでしょう」と切り捨てられる。
話は尽きなかったが、やがて壁際の時計が遅い時刻を示した。
「そろそろ宿へ戻られた方がよろしいかと。明日の予定は決めておりませんが、あまり遅くまでお邪魔するのもよくありません」
セバスに言われ、グレイは時計を見る。
「もうそんな時間?」
「姫さん、飯のあと結構喋ってたっスよ」
「そうか」
窓の外へ目を向ければ、通りから人影はほとんど消え、向かいの家の灯りもいくつか落ちていた。
「じゃあ帰るか」
グレイが立ち上がると、ミナも一緒に席を立つ。
「泊まっていってもいいんだけど、さすがに五人分は寝る場所ないなあ」
「宿取るから大丈夫だよ」
「明日、まだ町にいる?」
「たぶん。急いで出る理由もないし」
「じゃあ、リンが起きたら伝えとく。朝から来るって言い出すかもしれないけど」
「別に来ればいいだろ」
「宿が分からないでしょ」
「それもそうか」
「ほんと、そういうところ変わらないね」
ミナは笑いながら玄関まで見送り、夫もその隣に立った。
「今日はありがとうございました」
「こっちが飯を食わせてもらったんだぞ」
「リンも楽しそうでしたから」
「俺も楽しかった」
グレイが答えると、夫は柔らかく笑った。
扉を開ければ、夜の冷えた空気が家の中へ流れ込み、食事や木の温かな匂いが少しずつ薄れていく。
外へ出る直前、グレイは振り返った。
「ミナ」
「ん?」
「アイツに会った時、俺たちのことも話した?」
「話したよ」
「何て言ってた?」
ミナは少し考え、口元を緩めた。
「グレイは相変わらずだね、って」
「何だよ、それ」
「私もそう思う」
「ミナまで?」
「だって本当だもん」
納得できないまま外へ出る。
「じゃあ、またね」
「ああ。またな」
扉が閉じると、家の窓から漏れる明かりだけが夜道の一角を柔らかく照らしていた。
五人で宿へ向かって歩き出す。
昼間とは違って町は静まり、石畳を踏む足音がよく響く。夜風が軒先の看板を小さく揺らす中、しばらく誰も口を開かなかった。
「よかったですね」
やがてライカが言った。
「何が?」
「ミナです」
「うん」
それ以上説明されなくても分かった。
夫と笑い、娘を叱り、昔の失敗を笑い話にする今の生活を、ミナは気に入っている。
そして、あの街を出る時には整理できなかった夜の王への気持ちにも、自分なりの答えを見つけていた。
「ちゃんと自分で決めたんだな」
グレイが呟く。
「昔から、最後は自分で決める子でしたから」
ライカが答えた。
「そうだったな」
あの分岐路で、一人で行きたいと言ったのもミナ自身だった。
グレイは、それを止めなかっただけだ。
「姫さん、安心したんスか?」
反対側からライアンが尋ねる。
「少しな」
「昼間はあんなに普通だったのに?」
「普通だっただろ」
「久しぶりに会って『大人になったな』だけだったじゃないっスか」
「大人になってたからな」
「そういうところっスよ」
「何だよ」
ライアンは笑うだけで答えない。
代わりに、後ろからセバスの落ち着いた声が聞こえた。
「今の暮らしを本人が選び、過去についても自分なりの答えを持っているのであれば、それ以上こちらが心配する必要はないでしょう」
「俺もそう思う」
グレイは前を向いた。
薄い雲の隙間から星が覗いている。
昼間、偶然再会したミナは確かに変わっていた。それでも、笑い方や呆れた時の顔には昔の面影が残っている。
その両方が、今のミナなのだろう。
少し先に宿の明かりが見えてきた。
「明日どうする?」
ロイが尋ねる。
「まだ決めてない」
「リンが朝から探しに来るんじゃないか?」
「宿知らないって言ってただろ」
「ミナならギルドに聞けば見つけられるんじゃないっスか? 元Aランク冒険者ですし、この町に住んでるなら顔も広そうですからね」
「それなら来るかもな」
グレイは少し笑った。
「来たら、またどこか連れてけばいいだろ」
「また何か買ってあげるつもりですか?」
ライカがすぐに聞く。
「まだ何も言ってないだろ」
「今日の様子を見ていれば分かります」
「一個しか買ってないぞ」
「明日二個目が増えないことを願っています」
「欲しがったら考える」
「お姫ちゃん」
「分かったよ。ミナに聞く」
答えると、ライカは満足したように頷いた。
宿の前まで来たところで、グレイは何となく一度だけ振り返る。
ここからミナの家は見えない。それでも、あの家にはミナがいて、夫がいて、リンが眠っている。
そして遠く離れた街には、今も夜の王がいる。
生まれ育った場所を離れたからこそ、ミナは今の暮らしを手に入れた。それでも故郷との繋がりまで捨てる必要はなく、会いたければ自分の意思で戻り、またこの町へ帰ってこられる。
「どうしました、主」
ロイの声に、グレイは首を横へ振った。
「何でもない」
ただ、次に会った時も、ミナたちが今日と同じように笑っていればいい。
リンはもう少し大きくなっているかもしれないし、ぬいぐるみのグレイがまだ残っているかは分からない。ミナはまた呆れた顔をして、夫はその隣で笑っている気がする。
それで十分だった。
「入ろう。今日はもう眠い」
「姫さん、あれだけ食って喋ればそりゃ眠くなるっスよ」
「ライアンも同じだけ喋ってただろ」
「俺は姫さんほど食ってないっス」
「そこ関係ある?」
「あるんじゃないっスか?」
「適当言うなよ」
言い合いながら扉を開けると、暖かな宿の明かりが夜道へ広がった。
先に入ったライカが振り返る。
「二人とも、入口で話していないで早く入りやがってください。夜風を入れると寒いです」
「ねーちゃん、今ちょっと怒ってるっス?」
「寒いと言っています」
「はいはい」
「返事は一回で十分です」
ライアンが笑いながら中へ入り、セバスとロイも続く。
最後にグレイは扉を閉める前に、もう一度だけ夜の町を見た。
静かな家々の屋根と、その向こうへ続いていく道。
ミナがどの道を歩くかは、もうグレイが決めることではない。
最初から、そうだったのかもしれない。
ただ今夜は、その道の先に、ミナが自分で選んだ帰れる場所があることを知った。
グレイはわずかに口元を緩め、宿の中へ入る。
扉が閉じる直前、冷たい夜風が頬を撫でていった。




