第2話 十年後
十年という時間は、グレイにとって旅の途中に挟まった少し長めの寄り道と、それほど変わらなかった。
ミナと別れてからも、五人の旅は続いた。
西へ向かった先の街では、ライアンが気にしていた変わった料理を結局全員で食べることになり、見た目ほど味は悪くなかったものの、二度目を頼もうとする者はいなかった。その後は街道を北へ逸れ、冒険者ギルドの掲示板で新しい階層が見つかったと知ったグレイの一言から、近くのダンジョンへ三日ほど潜ったこともある。
未探索だった最奥まで歩き、珍しい鉱石をいくつか持ち帰った。帰り道でライアンが罠を踏み、本人だけが落とし穴へ落ちたことを除けば、特に問題もない探索だった。
別の土地では、街道脇で怪我をしていた野生のグリフォンをライカが見つけた。
治療だけして離れるつもりだったのだが、翌朝になると野営地のすぐ外に座っていた。追い払ってもついてきて、餌を与えればさらに懐き、三日目にはライアンの荷物を嘴で引っ張って遊び始める。五日目にはグレイが背中へ乗っても怒らなくなった。
さすがに連れて旅をするつもりはなく元いた山へ戻したものの、その後もしばらく後ろをついてきた。
「姫さん、これもう手懐けたってことでいいんじゃないっスか?」
最後までそう笑っていたライアンの顔を、グレイは今でも覚えている。
そんなことを繰り返しながら、いくつもの国を越え、海を渡り、知らない街を歩いた。長く滞在した場所もあれば、名前すら覚えないまま通り過ぎた小さな村もある。
そうして十年が過ぎた。
だから、その日もいつもと変わらない旅の一日になるはずだった。
「お姫ちゃん、見てください。あちらに市場がありますよ」
ライカの声に、グレイは顔を上げた。
昼を少し過ぎた町の大通りには、思っていた以上に多くの人が行き交っている。初めて訪れる町だった。
石造りの建物が並ぶ通りには布張りの日除けが張り出し、その下で野菜や果物、干し肉、衣服、日用品まで様々な品が売られている。少し離れたところから焼いた肉の匂いが流れてきて、グレイは自然とそちらへ目を向けた。
その視線に気づいたライアンが笑う。
「姫さん、さっき昼飯食ったばっかじゃないっスか」
「見ただけだろ」
「匂いの方までしっかり追ってたっスよ」
「いい匂いがしたら見るだろ。食べるとは言ってない」
「今のところは、でしょう?」
ライカまで加わってきた。
「何だよ。俺がいつも食べ物につられてるみたいに言うなよ」
「違うんスか?」
「違う」
即答したものの、セバスとロイから否定する声は聞こえてこない。
「だから何で誰も否定しないんだよ」
「主が食い物に釣られやすいのは、今に始まったことじゃないだろ」
「ロイまで言うの?」
「事実だからな」
納得できないまま歩いていると、大通りの向こう側から子供の笑い声が聞こえてきた。
何気なくそちらを見る。
買い物帰りらしい親子が歩いていた。
まだ幼い女の子が母親の手を握り、反対の手には小さな紙袋を抱えている。歩くたびに袋の口から焼き菓子らしいものが覗き、そのたびに少女は落とさないよう抱え直していた。
隣を歩く女性が、何かを言って笑う。
その横顔を見た瞬間、グレイの足が止まった。
「……ミナ?」
ほとんど無意識に名前が零れた。
十年前より髪が伸びている。背丈もわずかに変わり、少女らしさを残していた顔立ちはすっかり大人の女性のものになっていた。服装も、かつての旅人のそれではない。
それでも、見間違えるはずがなかった。
声が届いたのか、女性がこちらを見る。
一瞬、目が合った。
「……グレイ?」
驚きに見開かれた目が、さらに大きくなる。
「グレイ!?」
今度は町中へ響きそうな声だった。
手を繋いでいた少女が驚いて母親を見上げるのにも構わず、ミナは娘の手を引いて早足で近づいてきた。
グレイの前まで来ると一度立ち止まり、頭の先から足元まで何度も確かめるように見る。
「本当にグレイだ……」
「久しぶり」
「久しぶりって……全然変わってない」
「十年くらいだろ?」
そう答えると、ミナが口を開いたまま止まった。
「……十年だよ? 私、こんなに変わったのに?」
自分の顔を指差すミナを改めて見る。
「大人になったな」
「それだけ!?」
「他に何て言えばいいんだよ」
グレイが困っていると、後ろから笑い声がした。
「姫さんに十年の重みを求めても無駄っスよ、ミナ」
ミナの視線がグレイの肩越しへ移る。
「ライアン!」
「久しぶりっス」
「ライカも、セバスも……ロイも!」
「お久しぶりです、ミナ」
ライカが穏やかに微笑み、セバスも軽く頭を下げる。
「元気そうで何よりです」
「そっちも全然変わってない……」
ミナは五人を順番に眺め、やがて額へ手を当てた。
「私だけ十年経ってるみたい」
「実際、見た目で十年経ってるのはミナだけっスからねぇ」
「言わないでよ」
そんなやり取りを、幼い少女が不思議そうに見上げていた。
「あ、ごめん。リン」
ようやく思い出したらしく、ミナがしゃがんで少女と目線を合わせる。
「びっくりしたよね。この人たちは、ママが昔すごくお世話になった人たちなの」
「昔?」
「そう。リンが生まれるより、ずっと前」
リンと呼ばれた少女は五歳ほどだろうか。
大きな瞳でグレイを見たあと母親へ視線を移し、もう一度グレイへ戻して首を傾げる。
「でも、ママより若くて綺麗だよー?」
「もう、一言余計だよ!」
「だってほんとだよ?」
「本当でも言わなくていいことがあるの!」
「何で?」
「何でって……」
答えに詰まったミナを見て、ライアンが堪えきれず吹き出した。ロイも顔を逸らしている。
グレイは自分の顔へ触れた。
「ミナより若く見える?」
「見えるよー」
「そうか」
「グレイ、そこで普通に納得しないで」
「でも本当なんだろ?」
「そうだけど!」
頭を抱える母親を見ても、リンには何が問題なのか分からないらしい。
「何でママのお友達なのに、ママより若いの?」
「俺が吸血鬼だから」
「きゅうけつき?」
「ああ。それと長命種だから、人間とは歳の取り方が違うんだよ」
「ちょうめいしゅ?」
「長く生きる種族ってこと」
リンはグレイをじっと見つめ、牙でも探しているのか少し背伸びをして顔を覗き込んできた。
「ママより長く生きるの?」
「たぶんな」
「おばあちゃんより?」
「長いと思う」
「すごーい」
少し考えたあと、大きく頷く。
「なるほどー」
「絶対分かってないでしょ」
「分かったよー」
「じゃあ説明してみて」
「グレイはママより若くて、ママよりおばあちゃん!」
一瞬、周囲が静かになった。
最初に耐えられなくなったのはライアンだった。顔を背けて肩を震わせ、ロイも口元を押さえている。ライカも笑わないようにしているらしいが、完全には隠せていない。
グレイだけがリンを見た。
「間違ってないな」
「グレイまで認めないで!」
ミナの声が大通りへ響いた。
その時だった。
「ミナ?」
少し離れたところから男の声がした。
人混みの中から一人の男性が歩いてくる。買い物の途中だったらしく片手には包みを持ち、ミナの隣まで来ると、見慣れない五人を順番に見た。
「知り合い?」
「あ、うん」
ミナは立ち上がり、グレイたちへ男性を紹介した。
「私の夫」
グレイは男性を見て、それからミナへ視線を戻した。
「夫?」
「うん」
「リンの父親?」
「そうだよ」
「結婚したの、六年くらい前」
「そうなのか」
頷くグレイに、ミナが何とも言えない顔をする。
「……もうちょっと驚かない?」
「驚いてるぞ。リンがいるから結婚してるとは思ったけど、こうやって本人が出てくるとは思わなかった」
「その顔で言われてもなあ」
ミナが苦笑する。
隣の夫は二人の会話に少し戸惑っていた。妻が十年ぶりに再会した相手が、自分の妻より明らかに若く見えるのだから無理もない。
「この人がグレイ。昔、私が旅に出るきっかけをくれた人」
続いてライアンたちも紹介すると、夫は一人ずつに頭を下げた。
「話は何度も聞いています。妻がお世話になりました」
「俺は連れ出しただけだよ。そのあとのことは、ミナが自分でやった」
夫は少し驚いたようだったが、すぐに柔らかく笑った。
「それでも、あなたたちと旅をした時間がなければ、今の妻はなかったと思います」
グレイが隣を見ると、ミナは少し照れたように視線を逸らしていた。
「ところで、どうやって知り合ったんだ?」
ロイが口を挟む。
「ロイ、いきなりそこ聞く?」
「気になるだろ。十年前には幼かった奴が、今は夫と子供連れだ」
「俺も気になるっス」
ライアンまですぐに乗り、ミナは露骨に嫌そうな顔をした。
「絶対面白がってるでしょ」
「もちろんっス」
「隠しもしないんだ……」
隣で笑う夫を、ミナが少し恨めしそうに見る。
「あなたも笑わないでよ」
「ごめん。でも、話してもいいんじゃないか?」
「そっちはいいだろうけど……」
「何か変な出会い方だったの?」
「変じゃないよ。普通。この人、冒険者ギルドで働いてたの。私がよく利用してた支部の職員」
「へえ」
「それで何度も顔を合わせるようになって……」
そこで夫が続きを引き取った。
「私の方から何度も誘いました」
「何度も?」
「そこは言わなくていいって」
ミナが夫の腕を軽く叩く。
「最初は食事に誘って断られました。その次も、その次も駄目でした」
「何回断ったの?」
「覚えてない」
「俺は覚えてるよ、みたいな顔してるっスね」
ライアンが夫を見ると、本人は苦笑した。
「数えないことにしていました」
「結構な回数っスね」
「やめて!」
母親が騒ぐ様子を見て、リンは楽しそうに笑っている。
「それで、最終的にミナが折れたの?」
「言い方!」
「違うの?」
「……大体合ってるけど」
ミナは頬を少し膨らませた。
「最初は本当にそういうつもりなかったの。冒険者として色んな場所に行きたかったし、一人でできることも増えてきた頃だったから。でも、帰るたびにいるし、怪我して帰ったら怒るし、長い依頼から戻ったら毎回ほっとした顔するし……そのうち、この人ならいいかなって」
「それを折れたって言うんじゃないの?」
「グレイ!」
睨まれても違いが分からずにいると、横でライカが小さく笑った。
「お姫ちゃん、その辺りはあまり細かく追及しない方がいいですよ」
「そうなの?」
「はい」
「分かった」
言われた通り追及をやめ、代わりに気になったことを尋ねる。
「冒険者は?」
「もう引退したよ。リンが生まれる少し前にね。それまでは結構やってたんだけど」
ミナは懐かしそうに笑った。
「別れてから五年くらいかな。色んなところに行ったよ」
「どこまで上がったの?」
「ランク? A」
今度はグレイも目を見開いた。
「Aまで行ったの?」
「行ったよ」
得意そうに笑うミナの横で、ライアンが感心したように口笛を吹く。
「やるじゃないっスか。あの頃から考えたら、相当頑張ったっスね」
「本当に頑張ったよ。最初の頃は、セバスに言われた通り逃げてばっかりだったけど」
「それで正しいのです」
セバスが落ち着いて答える。
「生き残った上でAランクまで到達したのであれば、無謀な戦いを繰り返していたわけではないのでしょう」
「うん。無理そうなら逃げたし、仲間と組んだこともある。護衛もしたし、討伐もしたし、ダンジョンにも入った」
その話を聞いていると、別れた後の十年が少しずつ輪郭を持ち始めた。
自分たちと別れたあと、誰と出会い、何を見て、どんな仕事をしたのか。グレイは何も知らない。
それでよかった。
ミナは、自分の人生を歩くために一人で旅立ったのだから。
「ネックレスは?」
ふと思い出して尋ねると、ミナは首元へ手をやった。
「あれなら家にあるよ」
「使った?」
「まだ。危なかったことは何度かあったけど、結界が出るところまではいかなかった。引退してからは使う機会もないから、大事にしまってる」
「そうか」
十年前に渡した二つの青い石は、まだ割れていない。
それだけ分かれば十分だった。
「ライカにもらった指輪も、冒険者をしてた頃はずっと使ってたよ。最後の方は、なくてもかなり上手く魔力を使えるようになったけど」
「それなら何よりです。道具が必要なくなるくらい上達するのが一番だと、あの時もお話ししましたから」
「うん。ちゃんと覚えてる。それでね、途中で知り合った新人の子に譲ったんだ」
ライカが少し目を瞬かせた。
「譲ったのですか?」
「半分弟子みたいになってた子がいて、その子も魔力の使い方がまだ下手だったから。ライカから教えてもらった話をして、これは上手くなるまでの手助けだからって」
ミナは少し照れたように笑う。
「私が持ってるより、その子の方が必要だと思って」
ライカはしばらくミナを見たあと、柔らかく微笑んだ。
「それなら、私が持っていてほしかった形より、ずっと良い使われ方をしていますね」
「勝手にあげちゃったけど、よかった?」
「もちろんです。今はその方が、次の誰かへ教えられるくらい上達していると良いですね」
「うん。私もそう思う」
「俺らの鞄は?」
ライアンが尋ねる。
「それも家。今は家族で遠出する時に使ってる。リンが小さい頃なんて荷物が多すぎて、あれがなかったら大変だったよ」
「冒険用の魔法具が育児用品入れになったのか」
ロイが呟く。
「いいでしょ。便利なんだから」
「悪いとは言ってない。使い道を決めるのは持ち主だ」
その言葉にミナが笑ったところで、リンが母親の服を引っ張った。
「ママー、おなかすいた」
「さっきお菓子買ったでしょ」
「これ、おやつだよ? ご飯じゃないもん」
抱えていた紙袋を持ち上げる。
「それはそうだけど、もう少ししたら夕飯だから我慢して」
「えー」
頬を膨らませるリンを見て、グレイは先ほど匂いを嗅いだ露店の方向へ目を向けた。
「何か食べる?」
「グレイ、甘やかさないで。夕飯食べなくなるから駄目」
「そうなの?」
「そうなの」
今度はミナに即答され、グレイはリンを見る。
「駄目らしい」
「グレイもママに怒られたー」
「俺まで?」
「仲間だね」
「違うと思うぞ」
楽しそうに笑うリンの隣で、夫も穏やかに笑っていた。
その光景を見ているうちに、グレイは不思議な感覚を覚えた。
目の前のミナは大人になり、結婚して、娘を育てている。それでもグレイの中には、宿の値段が分からずライカへ助けを求め、野営の薪を両腕いっぱいに抱えて戻ってきた少女の姿も残っていた。
「グレイ?」
呼ばれて顔を上げる。
「どうしたの?」
「いや。ちゃんと母親なんだなと思って」
「何それ」
「初めて見るから」
ミナは一度だけ瞬きをして、それから少し柔らかく笑った。
「そっか。グレイからしたら、急にこうなったように見えるんだ」
「まあな。俺は途中を知らないから」
「十年だもんね」
「ああ」
同じ十年でも、二人が感じている長さはきっと違う。
「もっと聞きたい」
「私の話?」
「ああ。冒険者の時の話とか、どこへ行ったとか」
ミナが少し驚いた。
「珍しいね。グレイがそんなに人の昔話を聞きたがるの」
「だって知らないからな。別れた後のミナが何してたのか、俺は見てないだろ」
しばらくグレイを見つめていたミナが笑う。
「じゃあ、話すよ。結構あるから長いけど」
「いいぞ。時間ならある」
「グレイが言うと、本当に説得力あるね」
そこでリンがまた母親の服を引いた。
「ママ、歩かないの?」
「あ、ごめんごめん」
気づけば大通りの真ん中で長く立ち話をしていた。
「せっかくだし、一緒に歩こうよ。グレイたち、今日はこの町に泊まるんでしょ?」
「ああ。そのつもり」
「じゃあ案内する。私たち、ここに住んでるから」
四人を見ると、反対する者はいない。
「分かった。頼む」
そこからは七人で町を歩くことになった。
もっとも、リンはすぐにグレイの隣へ移動してきた。
「グレイはどこから来たの?」
「色んなところ」
「どこ?」
「最近だと北の方。その前は山を越えた」
「お山? 何がいた?」
「グリフォン」
リンの目が一気に輝いた。
「グリフォン!?」
「いたぞ」
「見たの!?」
「怪我してたからライカが治して、そのあとしばらくついてきた」
「乗った!?」
「乗った」
「飛んだ!?」
「少しだけ」
「すごーい!」
両手を上げるリンとは対照的に、後ろからミナの声が飛んできた。
「ちょっと待って。野生のグリフォンに乗ったの?」
「ああ」
「グリフォンってAランクの魔物だよ? 普通ならAランク冒険者がパーティを組んで挑む相手なんだけど」
「知ってる」
「知ってて何してるの、グレイ」
「懐いてたから」
「そういう問題じゃないでしょ」
「噛まれなかったぞ」
「グレイが大丈夫でも、普通の人は真似できないからね?」
「分かってる」
呆れ切ったミナを置いて、リンがグレイの服を引っ張る。
「グリフォン、かわいかった?」
「結構かわいかったぞ。ライアンの荷物を引っ張って遊んでた」
「可愛くないっスよ。俺の荷物、中身ぐちゃぐちゃになったんスから」
後ろから抗議が飛んできた。
「ライアン、グリフォンに負けたの?」
「負けてないっスよ!?」
「でも荷物取られたんでしょ?」
「油断してただけっス!」
「負けてるね」
ミナが追い打ちをかける。
「ミナまでそっち側っスか」
十年ぶりとは思えないやり取りに笑いながら、リンが走り出しかける。
「走らないの。人が多いから」
「はーい」
ミナに手を掴まれたリンは素直に歩調を戻し、今度はライカの隣へ行ってグリフォンについて質問を始めた。
その少し後ろで、グレイはミナと並ぶ。
「Aランクになった時、何したの?」
「昇格の時? 大きな討伐依頼。私一人じゃなくて、何人かで組んだけどね」
ミナは歩きながら、当時のことを少しずつ話した。
最初から順調だったわけではない。
初めて一人で受けた護衛依頼では緊張のあまり、夜番で何度も周囲を確認しすぎて翌朝には自分が一番疲れていた。依頼先の村へ向かう途中で道を間違え、予定より一日遅れたこともある。
それでも少しずつ仕事を覚え、気の合う冒険者と組み、やがて危険な依頼にも参加できるようになった。
「楽しかった?」
「楽しかったよ」
ミナは迷わず答えた。
「怖いこともあったけどね。でも、自分で依頼を選んで、自分で行く場所を決めて、帰ってきたら報酬をもらって……最初の頃は、それだけで嬉しかった」
「そっか」
「グレイたちと一緒だった時とは全然違ったよ。みんな強すぎるから、危ないところに行っても私が本当に死にそうになることって、ほとんどなかったでしょ?」
「まあ、そうだな」
「一人になってからは、自分が失敗したら自分で困るし、逃げるのも自分で決めなきゃいけない。セバスに教えてもらった意味も、あとから分かったことがいっぱいあった」
本人にも聞こえているはずだが、後ろを歩くセバスは口を挟まない。
「でも、それが嫌じゃなかったんだ。自分でやってるって感じがしたから」
「なら、一人で行ってよかったな」
「うん。すごく良かった」
笑って答えるミナを見れば、それで十分だった。
「でも、冒険者は辞めたんだな」
「うん」
「嫌になった?」
「違うよ。やりたいことが変わっただけ」
ミナは少し先を歩く夫とリンを見る。
リンはいつの間にか父親と手を繋ぎ、空いた手でライカを呼んでいた。
「冒険者を続けることもできたと思う。結婚したあともしばらく続けてたし、この人も辞めろなんて言わなかった。でも、リンができてから考えたんだ。今度は、こっちをやってみたいなって」
「母親?」
「うん。それに、この町で暮らすのも悪くないと思った」
グレイは周囲を見る。
市場から少し離れた通りは落ち着き、家々の窓辺には花が飾られている。店先では老人が椅子に座り、道行く人をのんびり眺めていた。
「気に入ってる?」
「結構ね」
「ならいいな」
「うん」
旅を続けることだけが自由ではない。
どこかに留まることも、自分で選んだのなら同じなのだろう。
しばらく歩いたところで、リンが急に立ち止まった。
「あ!」
視線の先には小さな雑貨屋があり、店先に木製の玩具や布製品、いくつものぬいぐるみが吊るされている。
熊、兎、猫。
その中には、翼を大きく広げたグリフォンらしきものまであった。
「リン」
「見るだけ!」
「まだ何も言ってないでしょ」
「見るだけだから!」
そう言いながら、すでに店へ向かっている。
グレイも後を追った。
「グレイまで行かないでよ」
「俺も見るだけ」
「絶対何か買う顔してる」
「どんな顔だよ」
店先まで行くと、リンは灰色の布で作られたグリフォンのぬいぐるみを見上げていた。翼は白く、実物とはかなり違うが、丸い顔には子供向けらしい愛嬌がある。
「欲しいの?」
「見るだけだよ。ママが、おもちゃはいっぱいあるから今日は買わないって」
追いついてきたミナが腕を組む。
「そういうこと。先月も新しいの買ったばっかりだから」
「じゃあ俺が買う」
「グレイ」
「俺が買うなら、ミナが買うわけじゃないだろ」
「そういう問題じゃないの」
グレイはぬいぐるみを手に取った。
リンの目がそれを追う。
「欲しくない?」
「……ほしい」
「じゃあ買う」
「グレイ!」
止められるより先に店主へ代金を払い、受け取ったぬいぐるみをリンへ差し出す。
「ほら」
「いいの!?」
「ああ。初めて会った記念」
リンは少し大きなぬいぐるみを両腕で抱え、顔いっぱいに笑った。
「ありがとう!」
「どういたしまして」
「グレイ、甘やかしすぎ」
「一個くらいいいだろ」
「会ったばっかりなのに」
「だからだよ。次にいつ会うか分からないし」
ミナが言葉を止めた。
グレイたちはまた旅へ出る。ミナはこの町で暮らしている。
次が一年後なのか、また十年後なのかは誰にも分からない。
だから今、渡したかった。
「名前つける!」
「何にする?」
「グレイ!」
「俺?」
「グリフォンだから!」
「それならグリフォンから取った方がよくないか?」
「グレイがくれたからグレイ!」
「そういうもの?」
「そういうもの!」
力強く言い切られ、グレイは頷いた。
「じゃあいいぞ」
「本人が許可するんスね」
後ろからライアンが笑う。
「ぬいぐるみだろ。別にいいじゃん」
「姫さん二号っスね」
「それは何か嫌だな」
「何で!?」
リンがすぐに抗議する。
「嫌じゃない。二号が嫌なだけ」
「じゃあグレイ!」
「ああ」
ミナは額へ手を当てた。
「絶対しばらく家で紛らわしいことになる……」
夫は隣で楽しそうに笑っている。
「いいんじゃないか。大切にするだろうし」
「あなたまで」
「リン、落とすなよ」
「落とさない!」
父親に答え、リンはぬいぐるみをさらに強く抱いた。
店を離れてからも町の散歩は続き、やがてミナは一軒の立派な石造りの建物を指差した。
「ここ。この人と会ったところ」
冒険者ギルドだった。
「ここで働いてたんだ」
「そう。私が依頼から戻るたびに受付にいた」
「担当だったの?」
「最初は偶然。でも、そのうち私がいる時間に合わせてたみたい」
「それは言わなくていいだろ」
今度は夫が止める。
ミナが得意そうに笑った。
「さっき私のこと色々言った仕返し」
「仲いいんだな」
二人が同時にこちらを見る。
「そう見える?」
「見える」
ミナは夫へちらりと視線を向けた。
「まあ、悪くはないかな」
「そこは普通に認めてくれてもいいと思うけど」
「何回も断られた話をした人には言わない」
「まだ気にしてたのか」
そんな二人の間を、リンがぬいぐるみを抱えたまま走り抜ける。
「パパー、ママー、早くー!」
「走らない!」
ミナがすぐに追いかけた。
その背中を見ながら、グレイは少しだけ足を止める。
「どうしました?」
隣へ来たライカに尋ねられ、グレイは前を歩くミナたちを見た。
「変わったなと思って。でも、ちゃんとミナだな」
「当然でしょう」
「そうなんだけど」
十年前と同じように笑い、グレイへ呆れる顔も変わらない。
けれど隣には夫がいて、その先には娘がいる。
「お姫ちゃん」
「何?」
「嬉しそうですね」
「そう見える?」
「はい」
少し考えてから、グレイは頷いた。
「うん。嬉しい」
それ以上は言わず、二人でミナたちの後を追った。
町を歩いているうちに、太陽は少しずつ傾いていった。
昼の白い光は柔らかな橙色へ変わり、建物の影が通りを長く横切っている。市場では店じまいを始める者が増え、家々の煙突からは夕餉の煙が上がり始めていた。
どこかで煮込み料理を作っているらしく、香草と肉の匂いが風に混じる。
「いい匂い」
「ほら」
ミナがすぐに反応した。
「やっぱり食べ物につられてる」
「これは誰でも気づくだろ」
「お昼も同じこと言ってたよ」
「違う匂いだぞ」
「そこじゃないの」
リンがグレイの袖を引く。
「グレイ、おなかすいた?」
「少し」
「リンも!」
「さっきお菓子食べてたでしょ」
「もうなくなったもん」
紙袋はいつの間にか空になっていた。
「だから夕飯前に全部食べないでって言ったのに」
「でも、おなかすいた」
「食べたからでしょ」
「食べたらおなかすくの?」
「……何でそうなるの」
困った顔をするミナに、グレイは笑う。
「大変だな」
「他人事だと思って」
「他人事だからな」
「そこは否定してよ」
ミナも笑った。
夕暮れの町を七人で歩いていると、不意にミナが足を止めた。
「ねえ、今日、ご飯食べていってよ」
「家で?」
「うん。せっかく会えたんだし、まだ聞きたいこともいっぱいあるから」
「俺たち五人いるぞ」
「分かってるよ。足りなかったら買い足せばいいし」
夫を見る。
「いいよね?」
「もちろん。私も、もう少し話を聞いてみたい」
リンもぬいぐるみを抱えたまま勢いよく手を上げた。
「リンも一緒に食べたい!」
「だって」
ミナが笑う。
グレイは後ろの四人を見た。
「どうする?」
「姫さん、もう行く気っスよね?」
「俺は行きたいけど、一応聞いてる」
「なら俺も行くっス」
「私も構いません」
ライカに続き、セバスも頷く。
「ミナが迷惑でないのであれば、お言葉に甘えてもよろしいかと」
最後にロイを見る。
「俺もいいぞ。主だけ行かせたら、帰ってくる時間が分からないからな」
「子供じゃないんだから帰れるよ」
「食い物があれば長居するだろ」
「しない」
「するっスね」
「にーちゃん、余計なことを言わないでください」
「ねーちゃんも否定はしてないっスよ」
いつものやり取りに、ミナが声を上げて笑った。
「変わってないね、みんな」
「俺たちだからな」
「そっか。グレイたちだもんね」
「でも、ミナには色々あったみたいだし」
グレイがリンへ目を向けると、少女は胸に抱えたグリフォンの翼を動かし、一人で飛ばす真似をしていた。
「うん。色々あったよ」
「なら、飯食いながら聞かせてくれ」
「全部聞いたら夜が明けるかもしれないよ?」
「別にいいぞ」
「リンが寝るから駄目」
「じゃあ途中まで」
「そうして」
ミナは笑い、家へ向かって歩き始めた。
夕日は町の屋根近くまで下がり、西側の建物を赤く染めている。市場の喧騒は遠ざかり、代わりに窓の向こうから食器の触れ合う音や家族の話し声が聞こえるようになっていた。
「グレイ!」
リンが振り返る。
「早くー!」
「ああ、今行く」
歩調を速めて追いつくと、少女が当然のように片手を差し出してきた。
「何?」
「手!」
「繋ぐの?」
「うん!」
グレイはその小さな手を握った。
反対側には、先ほど買ったグリフォンが抱えられている。
少し先を歩いていたミナが振り返り、その様子を見て笑った。
「リン、グレイのこと気に入ったみたい」
「今日会ったばっかりだぞ」
「ぬいぐるみ買ってくれたからじゃない?」
「それだけ?」
「子供には大事だよ」
「そういうものか」
「そういうもの」
グレイには短かった十年の間に、ミナは冒険者としてAランクまで上がり、一人の男と出会って結婚し、母親になった。
自分が見ていなかった時間も、こうして確かに続いていた。
「ねえ、グレイ」
「何?」
「グリフォンのお話、もっとして」
「いいぞ。どこから聞きたい?」
「最初から!」
「最初からか。結構長いぞ」
「いいよ!」
「じゃあ、ライカが見つけたところからな」
話し始めると、リンは嬉しそうに顔を上げた。
「俺の荷物を取られたところは省いていいっスからね」
後ろからライアンが口を挟む。
「そこが一番面白いだろ」
「ロイ!」
「にーちゃん、子供相手に格好つけても仕方ありませんよ」
「ねーちゃんまで!?」
ライカの声にミナの笑い声が重なり、セバスも一行の最後を歩きながら、わずかに口元を緩めていた。
やがてミナが一軒の家の前で足を止める。
「着いたよ」
大きすぎる家ではなかった。
けれど窓辺には小さな花が並び、入口の脇には子供用らしい靴が置かれている。軒先には洗濯物が干され、夕暮れの風にゆっくり揺れていた。
「ここがミナの家?」
「うん。私の家」
旅の途中で泊まる宿でも、依頼の合間に戻る冒険者の拠点でもない。
ミナが自分で選び、家族と暮らしている場所だった。
「入ろ!」
リンがグレイの手を引く。
「分かったから引っ張るなよ」
「早く!」
「リン、グレイを困らせないの」
「困ってないぞ」
「グレイが甘やかすから!」
「別にこれくらいいいだろ」
呆れたように笑いながら、ミナが扉を開けた。
家の中から、木や干した布、そこで暮らす者たちの生活が混ざり合った温かな匂いが流れてくる。
リンが真っ先に中へ駆け込み、ぬいぐるみを抱えたまま振り返った。
「グレイ、ここ!」
「ああ」
敷居を跨ぎ、後ろからライアンたちも続く。
最後にミナが扉を閉めると、外に残っていた夕暮れの音が少し遠くなった。
「ちょっと待ってて。すぐご飯の準備するから」
「手伝う?」
「グレイが?」
「何だよ、その反応」
「いや、だって……」
「料理くらいできるぞ」
「本当に?」
「できる」
「姫さん、そこは俺らに任せた方が安全じゃないっスか?」
「ライアン」
「冗談っスよ」
ミナが笑いながら奥へ向かう。
「じゃあ、手伝って。十年ぶりなんだから、今日はいっぱい話そう」
「ああ」
グレイは頷いた。
十年という時間は、今でもグレイにとってそれほど長くない。
けれど、短いから何も変わらないわけではないらしい。
ミナの隣には夫がいて、その間をリンが走り回っている。壁際には家族三人分の生活用品が並び、窓辺には花が飾られていた。
グレイが知らなかった十年は、それだけで十分に見えていた。
「グレイー! 手伝うって言ったなら早く来て!」
「今行く!」
奥から飛んできた声に答え、グレイは考えるのをやめて歩き出す。
「リンもやる!」
「あなたは手を洗ってから!」
「はーい!」
慌ただしい声にライアンの笑いが重なる。
窓の外では、沈みかけた夕日が町の屋根を赤く染めていた。
夜までは、もう少しだった。




