第1話 それぞれの道
朝の街道には、昨夜降った雨の名残がまだ残っていた。
道の端にできた浅い水溜まりが柔らかな朝日を映し、風が吹くたび、街道沿いの草から細かな雫が落ちていく。少し離れた森から聞こえる鳥の声に混じって、荷馬車の車輪が土を踏む音が遠くから届いていた。
グレイたちは、そんな街道の分岐に立っていた。
西へ進めば大きな交易都市があり、南へ続く道はいくつかの小さな村を経由しながら海沿いへ抜けるらしい。
昨日までなら、どちらへ向かうかを皆で決めていただろう。
けれど、今日は違った。
ミナは背負った荷物の肩紐を引き直すと、南へ伸びる街道をしばらく眺めてから、隣に立つグレイへ顔を向けた。
「私、ここからは一人で行ってみたい」
迷いを押し隠したような声ではなかった。
グレイはすぐには答えず、目の前に立つ少女を見る。
初めて会った頃より髪が少し伸びていた。舗装されていない道を半日歩くだけで疲れていた少女は、今では自分の荷物をまとめ、宿の値段を確かめ、地図を見ながら目的地までに必要な食料を考えられる。
魔物の気配を感じれば不用意に近づかず、野営する場所を選ぶ時には水場だけでなく周囲の地形にも目を向けるようになった。
それらすべてをグレイが教えたわけではない。
むしろ細かなことの大半は、後ろにいる四人から覚えたものだった。
「一人で?」
「うん」
ミナは頷くと、もう一度南の道を見る。
「まだ行ったことのない場所がたくさんあるから。みんなと一緒に行くのも楽しいけど……今度は、自分でどこへ行くか決めて、自分で行ってみたい」
グレイも同じ方向へ視線を向けた。
どこにでもある土の街道だった。遠くへ行くほど細くなり、やがて朝の薄い霞の中へ溶けている。
ミナがどこまで行くのか、グレイは聞いていない。
目的地が決まっているのかさえ知らなかった。
「そうか」
それだけ答えてから、もう一度ミナを見る。
「なら、行けばいい。ミナがそうしたいなら、俺が止める理由はないから」
ミナの肩から、わずかに力が抜けた。
「……止めないんだね」
「止めてほしかったの?」
「それは困るけど」
「じゃあ止めない」
グレイが当たり前のように返すと、ミナは困ったように笑った。その顔につられるように、グレイの口元もわずかに緩む。
一年ほど一緒に旅をした。
グレイにとって一年は決して長くない。それでも、何も残らないほど短い時間でもなかった。
最初の頃は、知らない街へ入るたびにミナはグレイたちの後ろについて歩いていた。露店に見慣れない物が並んでいれば足を止め、そのたびにライアンが面白がって寄り道を増やした。
初めて自分で宿を選ばせた時には、相場を知らずに高い部屋を取ろうとしてライカに止められたし、野営では必要以上の薪を抱えて戻ってきたこともある。
セバスに護身のための身体の使い方を教われば、何度転ばされても翌日にはまた頼みに行った。ロイから地図の読み方を教わった時には、目印にした山を逆に覚えて半日ほどからかわれていた。
今では、どれも手を出さなくてもできる。
だからこそ、自分で決めたというのなら止める理由はなかった。
ただ、それを少し寂しいと思っている自分がいることに、グレイは気づいていた。
「ミナ」
「なに?」
「これ、持ってろ」
腰の収納具へ手を伸ばし、取り出したものを掌に載せる。
細い銀の鎖だった。
中央には深い青色をした二つの小さな石が並んでいる。朝日を受けても派手に輝くことはなく、磨かれた石の奥にだけ、光の角度に合わせて澄んだ濃淡が浮かんでいた。
ミナが目を瞬かせる。
「ネックレス?」
「魔法具。俺が作った」
「グレイが?」
「その反応は何だよ。俺だってこれくらい作れるぞ」
少し離れたところから、ライアンが吹き出す気配がした。
「いや、姫さんの場合、作れる作れないじゃなくて、見た目までちゃんとしてるのが意外だったんじゃないっスか?」
グレイが振り返る。
「どういう意味?」
「そのままの意味っス」
「ライアン」
ライカが穏やかな声で名前を呼ぶと、ライアンはすぐに両手を上げた。
「はいはい、黙るっスよ」
少しだけ睨んでからミナへ向き直ると、本人まで笑いを堪えている。
「笑うなよ」
「ごめん。でも、綺麗だから」
「ならいい」
グレイは銀の鎖を指先で持ち上げた。
二つの青い石が小さく揺れる。
「危ない時に一度だけ結界が出る。普通の怪我じゃ動かないけど、このままだと死ぬってくらいの攻撃なら勝手に反応するようにしてある」
ミナの表情から笑みが消え、ネックレスを見る目が真剣なものへ変わった。
「一度だけ?」
「一度使ったら石が割れる。そうなったら終わりだ。何でも防げるわけじゃないし、これがあるから大丈夫だと思って無茶するなよ」
そう言って、鎖を差し出す。
「ずっと傍にいてやれるわけじゃない。だから、せめてこれくらい持ってろ」
ミナはすぐには受け取らなかった。
二つの青い石を見つめ、それからグレイの顔を見る。
「……これ、作るの大変だった?」
「別に。少し時間がかかったくらい」
「どれくらい?」
「三日」
「それ、大変だったって言うんじゃない?」
「三日くらい短いだろ」
「グレイにとってはね」
そう言われると、返す言葉がない。
後ろから今度こそライアンが声を立てて笑った。
「ミナ、もう姫さんの扱い分かってるじゃないっスか」
「にーちゃん、余計なことを言わないでください」
「ねーちゃんだって笑ってるっスよ」
「笑っていません」
そう答えたライカの口元も、わずかに緩んでいた。
ミナは笑いながら両手を伸ばす。
グレイがその掌へネックレスを置くと、細い鎖が指の間を滑り、青い石が手の中心に収まった。
「ありがとう。大事にする」
「大事にしまっておくんじゃなくて、ちゃんと着けろよ」
「うん」
ミナはその場で首へ回そうとしたものの、途中で鎖が髪に引っかかった。
「あれ……」
「貸して」
グレイは後ろへ回り、ミナの髪を片手で持ち上げると、細い留め具を繋いだ。
指を離せば銀の鎖が首元へ落ち、二つの青い石が鎖骨の少し上で並ぶ。
ミナが指先で触れた。
「どう?」
「似合ってる」
「そっか」
嬉しそうに青い石を撫でるミナからグレイが離れると、今度はセバスが前へ出た。
いつものように背筋を伸ばしてミナの前に立つと、別れの場であってもほとんど表情を変えない。
「ミナ」
「はい」
呼ばれただけでミナまで自然に背筋を伸ばす。
一年の間に染みついた反応らしい。
「一人で旅をすること自体には、もう何も言いません。最低限、自分で判断できる程度には教えたつもりです」
「最低限なんだ……」
「最低限です」
迷いのない即答に、ミナが苦笑する。
「特に気をつけるべきは、自分で対処できる危険と、逃げるべき危険を間違えないことです。多少戦えるようになったからといって、魔物を見つけるたびに相手をする必要はありません」
「分かってるよ。セバスには何回も言われたから」
「なら結構です。ただし、疲れている時ほど判断は鈍ります。日が落ちてから無理に先へ進まないこと。知らない土地では地元の者から話を聞くこと。それと……」
そこでセバスが言葉を止める。
何を言われるのかとミナが待っていると、少しの間を置いて続けた。
「食事を抜かないように」
ミナが目を丸くし、グレイも思わずセバスを見る。
「最後だけ急に普通だな」
「大事なことです。姫様も人のことは言えませんが」
「何で俺まで怒られるんだよ」
「姫様にも覚えがあるからです」
反論しかけたグレイは、思い当たることが一度や二度ではなかったため、そのまま口を閉じた。
ミナが笑いながら頷く。
「ちゃんと食べる。危ないと思ったら逃げるし、無理もしない」
「それでいいでしょう。あなたは姫様ではありませんから、致命傷を受けてから考えればいいなどとは思わないように」
「俺だってそんなこと考えてないぞ」
「似たようなことはしています」
セバスはグレイを一瞥しただけで、それ以上取り合わなかった。
「旅を続ければ、私が教えていないことにもいずれ出会います。その時は自分で考えなさい。教わった通りにすることだけが正しいとは限りません」
先ほどまで笑っていたミナが、その言葉には静かに頷いた。
「うん。ありがとう、セバス」
セバスが小さく頭を下げて戻ると、入れ替わるようにライカが歩み寄る。
「では、次は私ですね」
その手には、小さな指輪があった。
装飾はほとんどなく、淡い銀色の輪に細かな魔法文字だけが刻まれている。
「これをどうぞ」
「指輪?」
「魔法具です。魔力を使う時の無駄を少し減らしてくれます。劇的に強くなるような物ではありませんが、今のミナさんにはこちらの方が役立つでしょう」
受け取ったミナが指輪を朝日に透かす。
「魔力の無駄?」
「はい。魔法を使う時、すべての魔力が望んだ現象へ変わるわけではありません。以前より上手になりましたが、まだ余分に消費している部分がありますから、その変換を少し助けてくれます」
「それって、私がもっと上手くなったらいらなくなる?」
ライカは少し目を細めた。
「そうですね。そのうち、自分の技術だけで同じくらい効率よく扱えるようになるのが一番です。ですから、これは上達するまでの手助けだと思ってください」
ミナが指輪を自分の指にはめると、最初から合わせてあったらしく、ぴたりと収まった。
「ありがとう、ライカ。練習もちゃんと続ける」
「ええ。無理をする必要はありませんが、続けてください。使える魔力が多いことと、上手に使えることは別ですから」
そこまで言ったライカの視線が、ミナの首元へ移る。
先ほどグレイが留めた銀の鎖が少し捻れていた。
ライカは自然に手を伸ばして直すと、そのまま襟元を整えた。
「それから、服はきちんと乾かしてから着てくださいね。以前のように、生乾きのまま着て風邪を引きかけるのは禁止です」
「一回だけだよ」
「一度あれば十分です」
「はい……」
ミナが小さくなる様子を見て、グレイは笑った。
「ライカ、最後はそっちなんだな」
「大切でしょう?」
「まあ、大切だけど」
「お姫ちゃんも覚えておいてください。濡れた服を空間収納へ放り込んだまま忘れるのも禁止です」
「何で俺にも来るんだよ」
「心当たりがありますよね?」
グレイは黙るしかなかった。
横で肩を震わせているライアンへ、ライカの視線が向く。
「にーちゃん?」
「何も言ってないっスよ」
「笑っています」
「気のせいっス」
露骨に顔を逸らす兄を見て、ミナも声を漏らして笑った。
「本当にありがとう。これも大事に使うね」
「はい。なくさないようにしてください」
ライカが戻ると、待っていたようにライアンがロイの肩を叩いた。
「じゃ、俺らの番っスね」
「俺まで一緒なのか」
「一緒に用意したんだから一緒でいいっしょ」
「選んだのは俺で、お前は金を半分出しただけだろ」
「細かいことはいいんスよ」
言いながら、ライアンは一つの鞄を持ち上げた。
肩から下げられる程度の大きさで、丈夫そうな濃い茶色の革から作られている。見たところ、旅人が使う普通の鞄と大きな違いはない。
「ほい、ミナ」
「……また魔法具?」
「そうっス。みんな考えること似てたみたいで」
「お前もだろ」
ロイが呆れたように言うが、ライアンは気にせず鞄を差し出した。
「見た目より入るっスよ。中に入れた物に合わせて容量が広がるようになってるから、今使ってる鞄よりずっと楽になるはずっス」
ミナが受け取り、中を覗き込む。
外から見た大きさに対して、内部には不自然なほど奥行きがあった。
「すごい……」
「入るからって詰め込みすぎんなよ」
ロイが続ける。
「中身が増えても、持つ側が何を入れたか忘れたら意味がない。食料と着替えと道具くらいは分けて入れとけ。必要な時に探し回るのは面倒だからな」
「ロイらしいっスねぇ。渡す時くらい、もうちょい気の利いたこと言えないんスか?」
「お前に言われたくない」
「俺はこのあと言う予定だったんスよ」
「なら早く言え」
「急かすなって」
二人のやり取りを聞きながら、ミナは新しい鞄を肩へ掛けた。
ライアンは具合を確かめるように眺めてから、少しだけ声を落ち着かせる。
「まあ、何か困ったら人を頼るんスよ。一人で旅するって言っても、全部一人でやらなきゃいけないわけじゃないっスから」
「うん」
「あと、知らない奴についてくのは駄目っスよ。親切そうな奴が本当に親切とは限らないんで」
「それ、ライアンが言うと説得力あるね」
「どういう意味っスか?」
「最初に会ったら、絶対ちょっと怪しいと思うから」
「ひどくないっスか!?」
ミナが声を上げて笑う。
納得がいかないらしいライアンは、助けを求めるようにロイを見た。
「俺、そんな怪しいっスか?」
「黙ってれば多少はましだな」
「主、ロイがひどいっス」
「俺に言うなよ」
グレイが返すと、ライアンは大げさに肩を落とした。
その横からロイがミナへ目を向ける。
「こいつの話は半分くらいで聞いとけばいい。ただ、人を頼れってところはその通りだ。一人で歩くと決めたことと、一人で全部抱えることは違う。町に着けば宿屋があるし、道に迷えば人に聞けばいい。怪我したら治療を受けろ。それくらいは覚えとけ」
「うん。覚えておく」
「ならいい」
「半分って何スか」
今さら抗議するライアンをロイは無視した。
ミナは新しい鞄と、これまで使っていた物を見比べる。
「今、入れ替えていい?」
「もちろんっスよ。そっちの古いのも入ると思うっス」
「鞄の中に鞄を入れるの?」
「入るっスよ」
「なんか変な感じ」
ミナはしゃがみ込み、荷物を移し始めた。
保存食と水筒を分け、着替え、小さな調理器具、地図、旅の途中で買った細かな道具を順番に収めていく。ライカが手伝おうと一歩動いたものの、自分で分類している姿を見て、そのまま静かに足を止めた。
最後に空になった古い鞄まで折り畳んで入れると、ミナは中を覗いて目を丸くする。
「本当に入った」
「便利っしょ?」
「うん。ありがとう、二人とも」
「なくすなよ」
「ロイ、そればっかり」
「大事だからな」
ミナは笑いながら立ち上がり、新しい鞄を肩へ掛けた。
そこでグレイは、ふと気づく。
もう、渡すものがなかった。
皆が順番に話していた間は気にならなかったのに、会話が途切れた途端、朝の街道が思っていた以上に静かに感じられる。
鳥の声に混じって、葉に残った雨粒が落ちる音が聞こえた。先ほどまで遠くから届いていた荷馬車の音はすでに消え、南から吹いてくる風だけが湿った土と草の匂いを運んでいる。
ミナが全員を見回した。
「じゃあ……行くね」
「ああ」
グレイは答えた。
けれど、ミナはその場から動かなかった。
「……何だよ」
「いや」
「行かないの?」
「行くよ」
「なら行けばいいだろ」
「グレイ、こういう時くらいもう少し何かないの?」
「さっきネックレス渡しただろ」
「そういうことじゃなくて」
呆れたように笑われても、グレイには何を求められているのか、いまひとつ分からない。
考えていると、後ろからライアンが小声で教えた。
「姫さん、別れの言葉っスよ」
「分かってる」
「絶対分かってなかったっスよね?」
「うるさい」
一度息を吐いてから、グレイは改めてミナを見る。
一年前、自分で行き先を決めることなど考えたこともなかった少女が、今は自分でまとめた荷物を背負っている。
胸元にはグレイが贈った青い石があり、指にはライカの指輪がある。肩から下がっているのはライアンとロイが選んだ鞄だ。
けれど、そのどれもミナを自分たちの傍へ留めるための物ではない。
これから先を、自分の足で歩くための物だった。
「ミナ」
「うん」
「俺たちと一緒にいたからって、俺たちみたいになる必要はないからな」
ミナが少しだけ首を傾げる。
「俺たちのやり方が全部正しいわけじゃない。行きたい場所に行って、会いたい奴に会って、自分で決めればいい。途中で嫌になったら、別の道に行ってもいい」
「……うん」
「それでも困ったら戻ってこい。どこにいるかは、その時に探せばいいだろ」
ミナの唇がわずかに動いた。
何かを言おうとして一度閉じ、それから小さく息を吸う。
「見つけられる?」
「俺を誰だと思ってるんだよ」
「すごく長い間、同じところにいなさそうな人」
「それはそうだけど」
眉を寄せるグレイを見て、ミナが笑う。
「じゃあ、私が探すよ。いろんなところを旅して、それでもまた会いたくなったら、今度は私がみんなを見つける」
「それでもいい」
グレイも笑った。
「見つけたら、どこに行ったか教えてくれ。俺たちが知らない場所だったら、今度はミナに案内してもらう」
「うん。約束」
ミナが右手を差し出す。
「握手?」
「駄目?」
「別にいいけど」
その手を握る。
最初に触れた頃より、少しだけ硬くなっていた。
荷物を持って長い道を歩き、何度も転びながら、自分の身体を自分で守ることを覚えた手だった。
ミナが強く握り返す。
「グレイ」
「何?」
「連れ出してくれて、ありがとう」
返事を探すのに、ほんの少しだけ時間がかかった。
「……俺が勝手にやったことだよ」
「それでも。海を見られたし、知らない街にも行けた。山にも登ったし、最初は怖かった野営もできるようになった。自分でお金を払って、自分で欲しい物を買って、次にどこへ行くかも考えられるようになったから」
そこで一度言葉を切り、ミナは真っ直ぐグレイを見る。
「ありがとう」
胸の奥に残ったものを、グレイはすぐには言葉にできなかった。
嬉しいだけでも、寂しいだけでもない。
だから無理に名前をつけることはせず、握った手へもう一度だけ力を込めた。
「……そっか。じゃあ、ちゃんと楽しんでこい。せっかく自分で決められるようになったんだから、行きたいところ全部行けばいい」
「全部は無理じゃない?」
「時間はあるだろ」
「グレイと一緒にしないでよ」
「そうだった」
二人で笑って、手を離す。
ミナは次にライカの前へ立った。
「ライカも、ありがとう」
「はい。どういたしまして」
いつもの穏やかな声で返したライカだったが、ミナが一歩近づき、そのまま抱きつくと身体を止めた。
「……ミナ?」
「これくらいはいいでしょ?」
ライカは目を瞬かせたあと、ゆっくり腕を回す。
「仕方ありませんね。身体には気をつけてください。旅をするなら、自分の調子を自分で知ることも大切ですから」
「うん」
「それから、困った時に我慢しすぎないこと。助けを求めるのは恥ずかしいことではありません」
「うん」
まだ何か言いかけたライカだったが、途中で小さく息を吐いた。
「……もう十分ですね」
「ライカ、まだ言いたそう」
「言い始めたらきりがありませんから」
柔らかく笑って腕を解く。
ミナは身体を離すと、今度はライアンへ向かった。
「ライアン」
「俺も抱きつかれる流れっスか?」
「嫌ならやめるけど」
「嫌とは言ってないっスよ」
言い終わるより先に、ミナが勢いよく抱きついた。
「うおっ」
ライアンは一歩後ろへ下がりながらも、危なげなく受け止める。
「危ないっスねぇ。最後に転んだらセバスさんに怒られるっスよ」
「ライアンなら受け止めると思ったから」
「そりゃ受け止めるっスけど」
笑いながら、ライアンはミナの頭を軽く撫でた。
「元気でやるんスよ。次に会った時、つまんなそうな顔してたら無理やり遊びに連れてくっスから」
「どこに?」
「その時決めるっス」
「相変わらず適当」
「旅なんてそんなもんっスよ。行ってから考えるのも楽しいっス」
ミナが離れると、次はロイだった。
先ほどから腕を組んでいたロイは、自分の前まで来たミナを見て少し眉を上げる。
「俺もか?」
「ロイは嫌そうだからやめとく」
「そうか」
「そこはちょっと残念そうにしてよ」
「面倒だな、お前」
そう言いながらも、ロイの口元には薄い笑みがあった。
「ロイもありがとう。地図の見方、ちゃんと覚えたから」
「最初みたいに北と南を逆にしなきゃ問題ない」
「あれは一回だけ」
「一回あれば十分だろ」
「みんな同じこと言う」
「一回目で覚えろってことだ」
ロイはミナの肩に掛かった鞄を軽く叩く。
「気をつけて行け。あと、面白い土地があったら覚えといてくれ。主が聞いたら行きたがる」
「俺だけ?」
「ライアンも行くだろ」
「行くっスね」
「ライカも止めない」
「お姫ちゃんたちだけで行かせる方が心配ですから」
「セバスは?」
「姫様が向かわれるのであれば、お供します」
「ほらな」
ロイが当然のように言う。
ミナは全員の顔を順番に見て、嬉しそうに笑った。
「じゃあ、いっぱい探しておく」
最後にセバスの前へ行くと、ミナは一瞬だけ迷った。
ライカにもライアンにも抱きついたが、セバスにも同じことをしていいのか判断できないらしい。両腕をわずかに広げかけて、そのまま止める。
「……セバスは、やめとくね」
「なぜです?」
「え?」
「ここまで全員にしておいて、私だけないというのも不自然でしょう」
ミナが目を丸くした。
グレイも思わずセバスを見る。
ライアンが口元を押さえた。
「セバス、意外と気にするんスね」
「ライアン」
「はい、黙るっス」
しばらく呆然としていたミナは、やがて堪えきれなくなったように笑いながらセバスへ抱きついた。
セバスは驚く様子もなく、その背へ片手を添える。
「元気で」
それだけだった。
先ほどまでいくつもの注意を並べていたことを思えば、あまりにも短い。
それでもミナは、どの言葉をもらった時より素直な顔で頷いた。
「うん。セバスも元気でね」
身体を離す。
これで全員への挨拶が終わった。
今度こそ、本当に行く時だった。
ミナは南へ向かう道へ身体を向け、一歩だけ進む。
そこで足を止めて振り返った。
「じゃあ、行ってきます!」
さよならではなかった。
その言葉を聞いたグレイは、少しだけ目を細める。
「ああ。行ってこい」
ミナが歩き始めた。
今度は止まらない。
昨夜の雨を含んだ土を踏みながら南へ進んでいく。新しい鞄が歩調に合わせて小さく揺れ、朝日を受けるたび、首元の青い石がわずかに光った。
誰も追わなかった。
ライアンもいつものような軽口を言わず、ライカは両手を身体の前で重ねて静かにその背を見ている。セバスは真っ直ぐ立ったまま、ロイも腕を組んで道の先へ目を向けていた。
少しずつ、ミナの姿が小さくなる。
やがて彼女が一度だけ振り返り、大きく手を振った。
真っ先に応えたのはライアンだった。
「元気でやるんスよー!」
「にーちゃん、声が大きいです」
「もう離れてるんだから、これくらいじゃないと聞こえないっスよ」
ライカも小さく手を振り、ロイは片手だけを上げる。セバスが軽く頭を下げた横で、グレイも手を上げた。
それを見届けたミナが前を向く。
もう振り返らなかった。
「寂しいっスか?」
隣から聞かれ、グレイは少しだけ考える。
「少しな。でも、それでいいと思う。自分で行きたいって言ったんだから、俺が寂しいからって止めるのは違うだろ」
「そうっスね」
ライアンはそれ以上何も言わなかった。
代わりにライカが、遠ざかる背中を見ながら静かに息を吐く。
「ずいぶん遠くまで歩けるようになりましたね」
「ああ」
初めて一緒に街の外へ出た頃、ミナは見慣れた場所が遠ざかるたび、確かめるように何度も後ろを振り返っていた。
けれど今は、自分で選んだ道を迷わず歩いている。
誰かに連れていってもらうためではなく、自分が見たいものを探すために。
グレイは、その背中が街道の緩やかな曲がり角へ差しかかり、木々の向こうへ完全に隠れるまで見送った。
それでも、すぐに動こうとは思わなかった。
セバスも急かさず、ライカも何も言わない。ライアンは街道脇の小石を靴先で避け、ロイだけがしばらくしてから口を開いた。
「主、そろそろ俺たちも行かないか」
「もう少し」
「見えなくなったぞ」
「分かってる」
「なら何を見てるんだ?」
グレイは答えず、南へ続く道の先を見る。
確かに、もうミナの姿はない。
聞こえるのは、風が葉を揺らす音だけだった。
それでも、あと少しだけここにいたかった。
やがてグレイは息を吐き、南の道から視線を外した。
「よし。行こう」
「どっちへ行くっスか?」
ライアンが尋ねる。
目の前には、二つの道がある。
一つは、ミナが選んだ南への道。
もう一つは、グレイたちが進もうとしていた西への道。
グレイは迷わず西を指した。
「こっち。昨日、向こうの街に変な料理があるって聞いた」
「それ覚えてたんスね」
「気になるだろ」
「お姫ちゃん、食べ物の話だけは本当に忘れませんね」
「美味いかもしれないからな。知らないなら食べてみないと分からないだろ」
「姫様。昨日聞いた話では、味ではなく見た目が変わっているという話だったかと」
「それでも食べてみれば分かる」
グレイは西へ一歩踏み出した。
その後ろを、いつものように四人がついてくる。
「姫さん、もし不味かったら俺に押しつけるの禁止っスよ」
「まだ何も言ってないだろ」
「先に言っとくんスよ。前にもあったじゃないっスか」
「にーちゃんが何でも食べるからでしょう」
「俺のせいなんスか?」
「違うなら断ればいい」
「ロイまでそっち側っスか」
重なった声が、静かだった街道にいつもの空気を戻していく。
グレイもその中を歩いていたが、数歩進んだところで一度だけ足を緩めた。
振り返る。
南へ続く道には、もう誰もいない。
朝露の残る草の間を、細い街道だけが遠くへ伸びていた。
「姫さん?」
「何でもない。行こう」
前を向き、歩調を戻す。
西へ向かう五人と、南へ向かった一人。
同じ道を歩いていた旅は、ここで二つに分かれた。
それでも、どちらかが置いていかれたわけではない。
どちらかが残されたわけでもない。
それぞれが、自分で行き先を選んだだけだった。
朝の光が差し込む街道を、グレイは四人とともに西へ歩いていく。
もう南の道を振り返ることはなかった。
その頃にはきっと、ミナも同じように前を向いている。
自分で選んだ次の街へ向かって。




