第10話 海
内門を出る朝は、雲一つない晴天だった。
まだ日が昇りきる前だというのに、通りには何人もの姿があった。旅支度を整えたグレイたちを見送りに来た者もいれば、ミナのために早くから家を出てきた者もいる。
荷物は多くなかった。
グレイたちは元から旅を続けている身だが、ミナにとっては初めての長旅になる。母親が用意した着替えや日用品を詰めた鞄を背負い、使い慣れた水筒を腰へ下げている。大切にしていた海の冒険譚だけはどうしても置いていけず、鞄の奥へ収めていた。
その母親は、門の少し手前に立っていた。
「忘れ物はない?」
「昨日も三回確認したから大丈夫。それに、何か忘れても買えるってライカさんが教えてくれたし」
「そう。なら大丈夫ね」
母親は笑った。
けれど、娘の肩紐を直す指はなかなか離れなかった。
ミナも急かさない。
これからどれほど離れるのか、いつ帰るのかは決めていない。そもそも帰るかどうかさえ、自分で決めることになった。
だからこそ、別れの言葉を決められないのだろう。
やがて母親は娘の頬へ触れた。
「行ってらっしゃい」
「……行ってきます」
ミナは母親を抱き締めた。
ほんの少し長い抱擁のあと、どちらからともなく腕を離す。
友人たちとも言葉を交わした。泣きながら抱きついてくる少女もいれば、外で見つけた面白いものを全部教えてくれと笑う少年もいた。
ミナは一人ずつに返事をする。
それが終わるまで、グレイたちは少し離れた場所で待っていた。
「思ったより多いっスね」
ライアンが集まった人々を眺めながら言う。
「そりゃ十五年もここで暮らしてたんだから、別れを惜しむ知り合いくらいいるだろ」
「いや、それは分かってるっスよ。ミナって結構人気者だったんスね」
「にーちゃんと違って、普段から余計なことをしていないのでしょう」
「何でそこで俺を刺すんスか?」
ライカは涼しい顔で荷物の留め具を確認している。
セバスはすでに旅装を整え、門の外へ続く道を眺めていた。ロイは最後尾に立ち、見送りの人々とミナの様子を静かに見ている。
やがてミナが戻ってきた。
「お待たせしました」
「気にしなくていい。もう話す相手はいない?」
グレイが尋ねると、ミナは一度だけ周囲を見回した。
「……はい」
「じゃあ行こう。急ぐ旅じゃないから、疲れたらすぐ言えよ」
「はい!」
元気な返事だった。
五人だった一行に、一人が加わる。
ミナはグレイたちと並び、内門を出た。
門を抜けてから数歩。
そこで足を止める。
振り返った。
母親と友人たちはまだいる。
皆が手を振っていた。
ミナも大きく振り返す。
それから歩き出して、十歩ほど進んだところでもう一度振り返った。
ライアンが隣で笑う。
「別に何回振り返ってもいいっスよ。誰も置いてくなんて言ってないんで」
「……すみません」
「謝ることでもないだろ。俺だって最初の旅なら気になると思うぞ」
グレイも足を緩める。
ミナはもう一度だけ後ろを見る。
今度は内門のさらに奥だった。
遠く、館へ続く道の途中に一人の男が立っている。
夜の王。
見送りの人々とは少し離れた場所から、こちらを見ていた。
ミナの足が止まる。
夜の王が片手を上げた。
いつもの穏やかな笑顔だった。
ミナはしばらく動かなかったが、やがて胸元まで手を上げる。
小さく振った。
それだけだった。
夜の王も追ってこない。
呼び止めもしなかった。
ミナは自分から前を向いた。
歩き出してからは、もう振り返らなかった。
◇
内門から外門へ抜け、さらに街の外へ出る。
ミナにとって、そこから先はほとんどが初めて見る景色だった。
最初のうちは、それだけで歩みが遅くなった。道端に咲いている小さな花を見つけては目を向け、遠くを走る野生の獣に足を止める。街道を行き交う荷馬車や旅商人の積み荷も、外門で似たものを見たことはあるはずなのに、街の外で見るだけで違うらしい。
昼を過ぎる頃には、遠くに見えていた内門の塔も完全に消えた。
その頃から、ミナの口数が少し減った。
疲れたのかと思ったが、歩調は変わらない。
グレイはしばらく様子を見てから、隣へ並んだ。
「疲れたなら休むぞ。初日から無理して歩いても仕方ないからな」
「大丈夫です。まだ歩けます」
「ならいいけど、遠慮する必要はないぞ。俺たちは慣れてるけど、お前は今日が初めてなんだから」
ミナは頷き、それから少しだけ迷った。
「グレイさん」
「どうした?」
「王様のこと、どう思っていますか?」
グレイは歩きながら横を見る。
唐突ではあった。
だが、いつか聞かれる気はしていた。
「どうって?」
「嫌いですか?」
グレイは少し考えた。
「嫌いじゃない。考え方は合わないけど、話してて嫌な奴ではなかったし、人間を大切にしてたのも本当だからな」
ミナの視線が足元へ落ちる。
「……そうですよね」
「何で聞いた?」
「私、まだ分からなくて」
道の端で小石を蹴りそうになり、ミナは少しだけ歩幅を変えた。
「王様が私たちを家畜だと思っていたことは嫌です。今でも嫌です。でも、だからって、今までのことまで全部嫌だったって思えなくて」
グレイは黙って聞く。
「小さい頃、一度すごく熱を出したことがあるんです。お母さんがずっと看病してくれて、王様も来てくれました。朝になったらいなくなると思っていたのに、起きた時もまだ椅子に座っていて……私が目を開けたら、よかったって笑ってくれたんです」
その横顔に涙はない。
ただ、遠くを見るような目をしている。
「誕生日も覚えていました。私が甘い果物を好きなのも、苦い野菜が嫌いなのも知っていました。私が本を好きだって知ってからは、外から本を取り寄せてくれたこともあります」
ミナは一度言葉を切った。
「それも全部、家畜を大切にしていただけなんでしょうか」
グレイはすぐには答えなかった。
街道の脇を風が抜け、草が一斉に揺れる。
「俺には、あいつがお前を愛してなかったとは言えない。それはたぶん事実じゃないからな」
ミナが顔を上げた。
「でも、お前が嫌だったことまで我慢して好きでいる必要もないだろ。今すぐ答えを決めなくてもいいんじゃないか?」
「決めなくても……いいんですか?」
「いいだろ。好きだったことと嫌だったことが両方あるなら、そのままでいい。どっちか一つにしなきゃいけない理由なんてないし」
ミナはしばらく黙っていた。
やがて、少しだけ肩から力が抜ける。
「グレイさんは、そういうの平気なんですね」
「俺だって分からないことくらいあるぞ。分からないなら、分かるまでそのままにしてるだけだ」
そこで話は終わった。
グレイもそれ以上、夜の王について何かを教えるつもりはなかった。
どう受け止めるかはミナ自身のものだ。
その日の夕方、一行は街道から少し離れた林で野営した。
ミナにとっては初めての野宿だった。
ライアンが火を起こし、ライカが食事の準備を始める。セバスとロイは周囲を確認し、グレイは水を用意した。
ミナも手伝おうとしたが、何をすればいいのか分からず、結局ライカの隣で野菜を切ることになった。
「その大きさなら十分です。初日から全部覚える必要はありませんから、今日は火と刃物の扱いだけ気をつけてください」
「はい。あの、旅って毎日こうやってご飯を作るんですか?」
「宿がある場所なら宿で食べますし、食堂があればそちらを使います。野営なら基本的には自分たちで用意しますね」
「思っていたより普通なんですね」
「どんな旅を想像してたんスか?」
火の向こうからライアンが笑う。
ミナは少し恥ずかしそうに答えた。
「もっと毎日、魔物と戦ったりするのかなって……」
「そんな旅を毎日してたら、食事より先に装備が駄目になるっスよ。何も起きない日の方が多いくらいでちょうどいいんですって」
「にーちゃんは何もなくても騒ぎを見つけますけどね」
「ねーちゃん、今日ちょっと当たり強くないっスか?」
ミナが笑った。
昼間より自然な笑い方だった。
グレイは鍋の中を覗き込みながら、その声を聞いていた。
◇
旅を始めて五日目。
ミナの方から、グレイたちへ頼み事をした。
朝の支度を終え、街道へ戻ろうとしていた時だった。
「皆さんにお願いがあります」
普段より真剣な声だったため、ライアンまで手を止めた。
「どうした?」
グレイが尋ねる。
ミナは一度息を整える。
「私に、外で生きるためのことを教えてほしいんです」
「外で生きるため?」
「はい。今まで私は、食べるものも寝る場所も、困ったら助けてくれる人もいるのが普通でした。でも、外ではそうじゃないって、この数日だけでも分かりました」
ミナは腰の水筒へ触れる。
「水がなくなったら探さないといけないし、夜は自分たちで安全な場所を見つけるし、魔物が出ることもある。私は今、皆さんがいるから何も困っていません。でも、それじゃ前と同じだと思うんです」
グレイは何も言わず続きを待つ。
「すぐに一人で何でもできるようになりたいわけじゃありません。ただ、いつか自分でどこへ行くか決めるなら、そのために必要なことを覚えたいです」
ライカが静かにミナを見る。
セバスも腕を組んだまま聞いていた。
グレイは少し考えてから頷いた。
「いいと思う。俺たちもずっと一緒にいるとは限らないし、自分でできることが増えるなら、その方が選べる場所も増えるだろ」
「ありがとうございます」
「ただ、俺は教えるのあんまり上手くないからな。それぞれ得意な奴に聞いた方がいい」
グレイが周囲を見る。
「野営とか旅の基本は全員で教えればいい。戦う方はセバスに聞け。魔法は……まず何が使えるか見ないと分からないな」
「魔法なら少し使えます」
ミナが片手を出した。
掌の上に魔力が集まる。
薄い水の膜が生まれたかと思うと、その表面に白い霜が広がった。
やがて小さな氷の粒となり、朝の光を反射する。
ライカの目が少し細くなった。
「水だけではありませんね。冷気へ変化させる方が自然にできています」
「昔から水を凍らせるのは得意でした。でも、生活で使うくらいで……」
「それなら氷魔法の適性があります。魔力量もかなりありますし、基礎から覚えれば使える範囲は広いでしょう」
ミナの顔が明るくなる。
「教えてもらえますか?」
「構いません。ただし、魔力量が多いからといって最初から大量に使わないでください。制御できない魔法は、自分にも周囲にも危険ですから」
「はい!」
その返事を聞き、ライアンが肩を竦める。
「ねーちゃんの訓練、結構細かいっスよ。頑張ってくださいね」
「にーちゃんは一度、余計な口を閉じる訓練から始めますか?」
「ほら、こういう感じっス」
ミナが困ったように笑う。
その隣でセバスがミナの立ち姿へ視線を向けた。
「近接なら俺が見る。だが、最初から殴り方を覚える必要はない。まずは立ち方と足運びからだ。自分の身体をまともに動かせなきゃ、覚えた技も役には立たん」
「立ち方から、ですか?」
「ああ。相手を倒すより先に、自分が倒れないことを覚えろ。それができれば逃げる時にも役に立つ。実際に打ち合うのは、そのあとで十分だ」
ミナは少し驚いたあと、真剣に頷いた。
「お願いします」
「毎日少しずつ見てやる。旅の途中なんだ、訓練だけで一日を潰す必要はない」
こうして、ミナの日々に新しい時間が加わった。
◇
最初に教えられたのは、戦うことではなかった。
水場の探し方や天候が崩れそうな時の雲の見方、野営地に選んではいけない場所、火を残さない方法。食べられる野草と触らない方がいい植物、知らない街へ入った時に最初に確認しておく場所。
ライアンは商人や旅人との話し方を教え、ライカは荷物のまとめ方や衛生管理を教えた。ロイは地面や街道に残る痕跡から、少し前に何が通ったのかを見る方法を教える。
全部を一度に覚えられるはずもない。
ミナは小さな帳面を用意し、夜になるとその日に教わったことを書き込んだ。
そして朝にはセバスの訓練がある。
「腰が少し高いな。そのままだと押された時に足が遅れる。膝を固めず、どちらへでも動けるように立ってみろ」
「こうですか?」
「さっきよりはいい。だが俺の手を見るな。肩と腰を見ろ。手だけ追っていると、動き出してから反応することになる」
セバスがミナの肩を軽く押す。
身体が傾き、慌てて一歩を踏み出した。
「今ので転ばなかったのは悪くない。ただ、足を出したのが遅いな。もう一度やるぞ」
「はい!」
派手なことは何もしない。
立つことから始まり、歩き、踏み込み、下がり、崩れた体勢を戻す。地味な動きを何度も繰り返すうちに、ミナが最初に想像していた戦闘訓練とは随分違うものになっていた。
それでも文句は言わなかった。
数日もすると、街道を歩く姿勢そのものが少し変わった。
ライカとの魔法訓練も似たようなものだった。
いきなり大きな氷を作らせることはない。
「同じ量の魔力で、同じ大きさの氷を十回作ってください。形もなるべく揃えて」
「攻撃魔法じゃなくていいんですか?」
「攻撃する前に、自分がどれだけ魔力を使っているのか把握してください。大きなものを一度作るより、同じ結果を何度でも出せる方が大切です」
ミナは両手を前へ出した。
冷気が集まり、小さな氷ができる。
一つ、二つと数を重ね、四つ目で形が少し大きくなった。
「あ……」
「今ので魔力を余分に使いましたね。次は戻してください」
「はい」
グレイは少し離れた木陰からその様子を見ていた。
隣ではライアンが干し肉を齧っている。
「結構真面目っスね」
「自分から頼んだんだから、そりゃ真面目にやるだろ」
「姫さんだったら途中で大きいの作って怒られそうっスけど」
「俺はそんなことしないぞ。たぶん大丈夫だと思う」
「最後の一言で全然信用できなくなったっスよ」
ライカの視線がこちらへ向く。
グレイとライアンは同時に黙った。
ミナだけが小さく笑った。
◇
もちろん、旅は訓練だけではなかった。
小さな村で収穫祭の準備を手伝い、街道沿いの宿ではミナと同じくらいの年齢の旅人と出会った。大きな町では市場を歩き、内門では見たことのなかった果物を食べる。
夜、野営地から空を見上げれば、建物に遮られない星空が広がっていた。
初めて魔物とも遭遇した。
街道を外れた森で、小型の獣型魔物が三体。
グレイたちにとって危険と呼ぶほどの相手ではない。
だが、ミナにとっては違った。
唸り声を聞いた瞬間、足が止まった。
「ミナ、俺たちの後ろまで下がれ。今日は戦わなくていいから、まず動きを見てろ」
グレイの声で我に返り、ミナが後退する。
セバスが一歩前へ出た。
一体目が飛び込む。
身体を半歩ずらし、拳を叩き込む。魔物が地面へ落ちるより先に二体目が横から回り込んだが、ライアンが短剣の柄で頭部を打ち、勢いを逸らした。
残った一体がミナの方へ向きを変える。
その瞬間、ライカの鉄扇が開いた。
冷気が地面を走り、魔物の前脚だけを凍らせる。
転倒したところへセバスが踏み込み、一撃で終わらせた。
ほんの短い戦闘だった。
ミナはしばらく動けなかった。
「怖かったか?」
グレイが近づくと、ミナは素直に頷いた。
「……はい。訓練していた時と、全然違いました」
「それでいい。怖いのに平気なふりする方が危ないからな。次は怖くても動けるようになればいい」
セバスは倒れた魔物を確認してから、ミナへ視線を向けた。
「グレイ様の言う通りだ。今は怖かったことを覚えておけばいい。次に同じことがあった時は、まず逃げ道を探せ。戦うかどうかを決めるのは、そのあとでも遅くない」
「はい」
「動けなかったことを気にする必要もない。初めてならそんなものだ。ただし、次も同じように止まるつもりではいるなよ」
厳しい言葉ではあったが、声は落ち着いていた。
ミナは自分の手を見る。
魔法を使うことさえ忘れていたらしい。
ライカが隣へ立った。
「今はそれで構いません。初めてなのですから、次に同じ状況になった時、一つでもできることが増えていれば十分ですよ」
それ以上、誰も感想を重ねなかった。
翌朝からミナは、訓練を始める前に必ず周囲を見るようになった。
◇
旅を始めてから、季節が少し進んだ。
海まで一直線に向かったわけではない。
ミナが興味を示せば寄り道をした。市場の大きな街へ入り、川沿いの村へ泊まり、山の麓を通った。遠回りになった日もあるが、急ぐ者はいない。
ミナは少しずつ旅に慣れていった。
野営の準備では言われる前に水を確保するようになり、荷物の置き場所も自分で考える。知らない人間へ道を尋ねる時も、以前ほどグレイたちの顔を窺わなくなった。
氷魔法はまだライカには遠く及ばない。
それでも手のひらほどの氷を作るだけだった頃から比べれば、狙った場所へ細い氷柱を飛ばせる程度にはなった。
セバスの訓練でも、押されるたびに転ぶことはなくなった。
ある日の夕方。
野営地でセバスの手を避けようとしたミナが、初めて一歩だけ横へ逃げた。
ミナは驚いたように自分の足元を見る。
「今の、避けられましたよね?」
「ああ。今のはよかった。俺の手を見てから動いたんじゃなく、身体が動き出す前に足を出せていた」
セバスは一度だけ頷いた。
「忘れないうちにもう一度やるぞ。同じようにできれば、今の動きが偶然じゃなくなる」
「はい!」
少し離れた場所で見ていたグレイが笑う。
「セバス、ちゃんと褒めるようになったな。最初の頃は悪くないくらいしか言わなかったのに」
セバスがグレイへ顔を向ける。
「できたことをできたと言っただけですよ。グレイ様も見ているだけなら、あとで少し身体を動かしませんか?」
「俺は今日は見てるだけでいいだろ。ミナの訓練に混ざったら邪魔になるし」
「では、ミナの訓練が終わってからにしましょう。以前直したところが戻っていないか、ついでに見ておきます」
グレイは一瞬黙った。
「……それなら夕飯のあとにしてくれ。今からやると腹が減るからな」
「最初からそう言ってくださればいいでしょう」
ライアンが横で吹き出した。
「姫さん、完全に逃げようとしてたっスよね?」
「逃げてない。時間を変えただけだろ」
ミナもつられて笑う。
そんな夜が増えていった。
◇
それでも、内門を思い出さないわけではなかった。
ある町で母親と娘が並んで買い物をしている姿を見た時。
内門でよく食べていた料理と似た匂いがした時。
宿で、夜の王からもらったものと同じ装丁の本を見つけた時。
ミナは時折、立ち止まった。
一度だけ、夜の野営地でグレイへ言ったことがある。
「帰りたいって言ったら、どうしますか?」
焚き火の向こうで、他の四人はすでに休んでいた。
グレイは薪を一本足しながら答えた。
「本当に帰りたいなら一緒に戻る。前にも言ったけど、外へ出たからって戻っちゃいけない理由はないだろ」
「せっかく自由にしてもらったのに?」
「自由なら戻るのも自由だろ。戻ったあと王がまた出してくれなくなるなら、その時はちゃんと考えた方がいいけどな」
ミナは膝を抱えた。
「私、王様のことが嫌いになれませんでした」
「そうか」
「離れたら、もっと嫌いになると思ってたんです」
火の粉が一つ舞い上がった。
「でも逆でした。旅をしていると、王様がしてくれていたことを思い出すんです。知らない街で困った時とか、病気にならないように気をつけている時とか……私たちの生活を守るために、あの人が本当にいろんなことをしていたんだって分かりました」
ミナは炎を見る。
「だから余計に、分からなくなりました」
グレイは少し考える。
「なら、今は帰らなくていいんじゃないか。帰りたいから戻るんじゃなくて、分からないから戻るなら、たぶん戻っても同じだぞ」
「……そうですね」
「海を見てから考えればいい。最初からそのつもりで出てきたんだろ」
ミナは焚き火の向こうで頷いた。
その夜を境に、帰るかどうかを口にすることはなくなった。
◇
海が近いと最初に気づいたのはロイだった。
街道を歩いている途中、不意に鼻先を上げる。
「潮の匂いがするな」
その一言に、ミナが勢いよく振り返った。
「海ですか?」
「たぶんな。風がこっちから来てる」
ミナも真似するように鼻から息を吸う。
けれど分からないらしい。
「普通の風と同じに感じます……」
「初めてならそんなもんだ。もう少し近づけば嫌でも分かる」
それからというもの、ミナの歩く速度が目に見えて上がった。
「ミナ、そんなに急がなくても海は逃げないっスよ」
「分かってます。でも、近いって聞いたら早く見たいじゃないですか」
「気持ちは分かるっスけどね。姫さんまで速くなってるのは何でなんスか?」
指摘され、グレイが足を止める。
「俺は普通に歩いてるぞ。ミナが速くなったから合わせてるだけだ」
「絶対ちょっと楽しんでるっスよね?」
「久しぶりに海を見るのは楽しみだぞ。前は渡るのが目的だったから、ゆっくり見ることも少なかったし」
ライカが後ろから追いつく。
「二人とも、先へ行きすぎないでください。荷物を持っている人間に合わせるのも旅の基本ですよ」
ミナが慌てて速度を落とした。
「すみません!」
「ミナは初めてなので仕方ありません。お姫ちゃんは知っているでしょう」
「俺まで怒られるのかよ」
ライアンが笑う。
セバスは前方の道を確かめてからグレイへ視線を向けた。
「この調子なら今日中には着くでしょう。急ぐ必要はありませんが、楽しみにしているミナへ遅く歩けと言っても難しそうですね」
「だろ? それなら俺が合わせても別にいいじゃないか」
「グレイ様まで先へ行かなければ、俺は何も言いませんよ」
その言葉にミナが少し照れたように笑った。
午後になると、潮の匂いがはっきりした。
風が少し湿っている。
鳥の鳴き声も変わった。
道の先には港町がある。
荷馬車の数が増え、積み荷には魚を入れる木箱や、船で運ばれてきたらしい品が混じり始める。
ロイが以前話していた通り、道を歩く人間の服装も様々だった。
ミナは何度も周囲へ目を向ける。
それでも海そのものはまだ見えない。
町の外れへ入った頃には、建物の向こうから低い音が聞こえ始めた。
ざあ、と遠くで何かが崩れる。
少し間を置いて、また同じ音。
ミナの足が止まった。
「……これ、何の音ですか?」
グレイは前方を見る。
「波だよ。もうすぐ見える」
ミナは何も答えなかった。
歩き出す。
今度は走らない。
一歩ずつ進む。
建物の間を抜け、坂道を上る。
その先で、視界が開けた。
青が広がっていた。
空の下、町の屋根の向こう。
どこまで目を凝らしても、終わりが見えない水面が午後の日差しを反射している。
ミナが立ち止まった。
誰も声をかけなかった。
そのまま坂を下り、海岸へ向かう。
港から少し離れた浜には人が少なかった。
砂へ足を取られながら、ミナは進む。
波が寄せる。
白く砕け、足元の砂を濡らし、また引いていく。少し間を置けば次の波が来る。その繰り返しなのに、一度として同じ形にはならない。
潮の匂い。
頬を撫でる湿った風。
鳥の声。
遠くの船。
水面のきらめき。
ミナは波打ち際の手前で止まった。
長い間、何も言わなかった。
グレイたちは少し後ろにいる。
ライアンも珍しく黙っていた。
ライカは風で髪が乱れるのを片手で押さえながら、ミナを見ている。
セバスは静かに水平線へ目を向け、ロイもその隣で遠くの船を眺めていた。
やがてミナの口が動いた。
「……本当に、向こうが見えないんですね」
グレイが隣まで歩く。
「言っただろ。陸が見えなくなるくらい広いって」
「聞いてました。でも……全然違います」
「何が?」
「分かりません。全部です」
ミナは笑った。
目には涙が溜まっていた。
「本には、海は広いって書いてありました。潮の匂いがするって。波の音がして、水平線があって、船が浮かんでるって。全部書いてあったのに……」
一粒、涙が落ちる。
ミナは慌てて拭った。
「何にも分かってなかったんですね、私」
グレイは海を見る。
「見たことないんだから仕方ないだろ。俺だって初めて見た時は、思ってたよりずっと広いと思ったぞ」
「グレイさんもですか?」
「そりゃそうだ。最初から何でも知ってたわけじゃないし、今だって知らないものはいくらでもある」
ミナはまた海を見る。
今度は涙を拭わなかった。
波が近づき、靴の先を濡らした。
「あっ」
慌てて一歩下がる。
その反応を見て、ライアンがとうとう笑った。
「そこに立ってたら濡れるっスよ。波って思ったより来ますからね」
「先に言ってください!」
「それも経験っス」
「にーちゃんは以前、自分も同じことをして靴を濡らしていましたけどね」
「ねーちゃん、それ今言う必要あったっスか?」
「ミナだけではないと教えてあげただけです」
ミナが吹き出した。
涙を拭いながら笑う。
そのまま靴を脱いだ。
「ミナ?」
ライカが声をかける。
「少しくらいなら、入ってもいいですよね?」
「足元だけなら構いません。ただし急に深くなる場所もあるので、あまり先へ行かないでください」
「はい!」
裾を持ち上げ、ミナは裸足で波へ入った。
冷たさに声を上げる。
一度逃げ、また近づく。
寄せる波を待ち、今度は踏ん張る。
ロイがそれを眺めながら小さく笑った。
「元気になったな」
「ここまで来たかったんだろ。しばらく好きにさせとけばいい」
グレイは砂浜へ腰を下ろした。
ライアンも靴を脱ぎ始め、ライカに止められている。
「俺も入ってくるっス」
「その前に荷物を置いてください。濡らしたら自分で全部乾かしてもらいますからね」
「分かってるっスって」
「にーちゃんの『分かってる』は信用していません」
結局、荷物をロイの横へ置いてからライアンも海へ走っていった。
ミナへ水を蹴りかけ、すぐに反撃される。
「ライアンさん!」
「今のは波っス!」
「絶対違います!」
笑い声が波音へ混じる。
セバスはグレイの少し後ろへ腰を下ろした。
「グレイ様は行かないのですか?」
「俺はあとでいい。今は見てる方が面白いからな」
「そうですか。では、私も少し休ませてもらいます。ここまで来れば、今日はもう歩く必要もないでしょう」
それきり、二人は海へ目を向けた。
日が少しずつ傾いていく。
水面へ伸びる光が長くなり、昼間の青とは違う色が混ざり始める。
グレイはその景色を眺めながら、夜の王の顔を思い出した。
穏やかな男だった。
人間を傷つけることを好まず、健康を気遣い、病めば治療し、老いても捨てない。
吸血鬼として考えれば、随分と理性的な生き方をしていた。
人柄だけを見れば、グレイも嫌いではない。
話していて面白いと感じたことさえある。
それでも、同じように生きたいとは思わなかった。
夜の王は、大切なものを自分の手の中へ置く。
グレイにも、守りたいものはある。
長い時間を一緒に過ごしてきた家族がいる。
失いたくないと思う。
危険な場所へ行こうとすれば止めることもあるだろう。
けれど――。
「……俺は……いや、いいか」
言葉にしかけて、やめた。
誰に聞かせるものでもない。
夜の王へ答えを返す必要もなかった。
自分がどうするかは、自分が知っていればいい。
「グレイーーーー!」
海の方から大きな声が飛んできた。
グレイが顔を上げる。
ミナが両手を振っていた。
夕日に照らされた海を背に、裸足のまま波打ち際に立っている。
グレイは立ち上がり、砂を払った。
「随分元気になったな。それで、これからどうする?」
ミナの動きが止まった。
少し離れた場所で、ライアンも振り返る。
ライカも、セバスも、ロイも何も言わない。
海を見たあと。
どこへ行くのか。
街へ戻るのか。
このまま旅を続けるのか。
別の場所で暮らすのか。
グレイは答えを用意していなかった。
用意する必要がなかった。
ミナは海を見る。
波が足首を洗っていく。
内門を出てから見た街。
知らない人々。
初めての野営。
怖くて動けなかった魔物。
少しずつ形を揃えられるようになった氷。
セバスの手を初めて避けられた朝。
帰りたいと思った夜。
それでも進んできた道。
そして今、自分の目の前にある海。
ミナは一度だけ目元を拭った。
「私は……」
言葉が止まる。
けれど迷っている顔ではなかった。
ミナは波から上がり、砂の上へ一歩踏み出す。
「もう少し、旅をしてみたいです」
グレイは黙って続きを待った。
「海を見たら満足すると思っていました。でも、ここまで来る途中にも知らないものがいっぱいありました。だから今度は、海の向こうに何があるのかも、自分で見てみたいです」
ミナは少し笑った。
「それから、いつか内門にも帰ります。お母さんや友達に、見てきたものをちゃんと話したいです」
「王にも?」
ミナは一瞬だけ目を伏せた。
それでも、すぐに頷いた。
「はい。王様にも話します」
風が吹く。
ミナの髪が揺れた。
「まだ、王様のことを全部分かったわけじゃありません。たぶん、ずっと分からないところもあると思います。それでも……私を大切にしてくれたことは、忘れたくないです」
そこで一度、言葉を選ぶ。
「でも、次にどこへ行くかは、自分で決めたいです」
グレイの口元がわずかに緩んだ。
「じゃあそうすればいい。海の向こうへ行くなら船がいるし、まずは港で行き先を探すところからだな」
「はい!」
「ただし今日はもう動かないぞ。せっかく来たんだから、暗くなるまで海を見てればいい」
ミナが笑う。
「グレイさんも一緒に見ますか?」
「見る。俺も久しぶりだから、今日はゆっくり見たい」
グレイはミナの隣へ並んだ。
ライアンたちも戻ってくる。
誰もミナの選択を褒めなかった。
正しいとも言わない。
ただ、これからの行き先について自然に話し始めた。
「船なら、先に港で便を調べた方がいいっスね。変なの選ぶと揺れ方も飯も酷いっスから」
「にーちゃんは船を選ぶ前に酔わない方法を覚えてください。前回も途中から食事どころではなかったでしょう」
「それ言わない約束じゃなかったっスか?」
「そんな約束をした覚えはありません」
ミナがセバスを見る。
「船の上でも訓練ってできるんですか?」
「できなくはないが、最初の船でやる必要はないだろう。揺れる足場へ慣れるだけでも十分な経験になる。訓練は海と船を楽しんだあとでいい」
「よかった……」
ミナが露骨に安堵したため、グレイが笑う。
「セバスは何でもすぐ訓練にするわけじゃないぞ。俺の時だって、できないことを無理にやらせたりはしなかったしな」
「ええ。ですがグレイ様の場合、できるようになってから余計なことを始めるので、その分はきっちり付き合っていただきましたが」
「それ、俺のこと言ってる?」
「他に誰がいるんですか」
ライアンが吹き出した。
「姫さん、昔から変わってないっスね」
「俺は結構変わったと思うぞ。少なくとも今は、怒られる前にやめることもあるからな」
「『こともある』なんスね」
ミナがまた笑った。
波が寄せ、六人分の足跡の一部を消していく。
陽はさらに低くなっていた。
水面が赤く染まり、その光が水平線から浜まで長く伸びている。
ミナは話の途中で何度も海を見た。
初めて見る景色を、忘れないように目へ焼き付けるように。
グレイも同じ方向を見る。
夜の王とは、最後まで分かり合えなかった。
おそらく次に会っても、あの男は人間を家畜と呼ぶだろう。
そして同じ口で、大切だと笑う。
その二つが彼の中で矛盾する日は来ないのかもしれない。
それでいいとは思わない。
けれど、あの愛まで偽物だったことにする必要もなかった。
ミナ自身が、その両方を抱えたままここまで歩いてきた。
今、彼女の目の前にある景色だけは、誰かに与えられたものではない。
自分で見たいと思い、自分で街を出ると決め、自分の足で辿り着いた。
「グレイさん、見てください!」
ミナが水平線を指差す。
遠くを一隻の船が横切っていた。
夕日に照らされ、小さな影になって進んでいく。
「見えてるよ。あれより大きい船も港にいるだろうし、明日見に行けばいい」
「はい。あんな船に乗って、向こうへ行くんですね」
「まだ行き先も決めてないけどな。そこから考えるのも旅のうちだろ」
ミナは水平線を見つめた。
もう涙はなかった。
代わりに、少し眩しそうに目を細める。
波の音が続いている。
潮の匂いがする。
風が髪を揺らしている。
本には、そのどれも書かれていた。
けれど、本を何度読んでも知ることのできなかったものが、今は目の前にあった。
やがて陽が水平線へ触れる。
ミナは誰に言うでもなく、小さく息を吐いた。
「来てよかった」
グレイはその横顔を見たあと、海へ視線を戻した。
返事はしなかった。
必要ないと思った。
水平線の向こうには、まだ知らない場所がある。
そこへ行くのか。
別の道を選ぶのか。
いつか内門へ戻るのか。
今はまだ、どれも決まっていない。
だからこそ、ミナは自分で選べる。
夕暮れの海を前に、六人はしばらくそこを動かなかった。
波だけが何度も浜へ届き、残された足跡を少しずつさらっていった。




