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白銀の旅路  作者: 人形遣い
第五章  愛の在り方

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第9話 交換


 朝から降っていた細い雨は、昼を過ぎても止まなかった。


 内門の石畳は薄く濡れ、軒先から落ちる雫が一定の間隔で地面を叩いている。普段なら通りで遊んでいる子供たちも今日は家の中にいるらしく、窓の向こうから時折笑い声が聞こえてくる程度だった。


 グレイは宿の窓辺に腰を預け、灰色の空を眺めていた。


 手の中には、小さな透明の瓶がある。


 中身は暗い赤。


 傾けても、人間の血よりわずかに重く動く。


 白耀龍神アルディエルから分けてもらった龍の血だった。


 昨夜、夜の王に少量を飲ませた時の反応を思い出す。普段は何を口にしても穏やかな笑みを崩さない男が、一口飲んだだけでしばらく杯を見つめていた。


 欲しい。


 言葉にこそしなかったが、その後で何度も瓶へ向けられた視線は分かりやすかった。


 グレイは指先で瓶を一度転がす。


「姫さん、朝からずっとそれ見てるっスけど、飲むつもりじゃないっスよね?」


 背後から声がした。


 振り返ると、ライアンが椅子の背へ腕を預けている。その向かいではセバスが茶を飲み、ライカは濡れた外套を畳んでいた。ロイだけは少し離れた壁際で窓の外を眺めている。


 グレイは瓶を持ち上げた。


「飲まない。俺が飲むには惜しいからな。こいつは別のことに使えるかもしれない」


「別のこと、ですか」


 ライカの手が止まった。


 グレイはすぐには答えなかった。


 昨夜から考えていた。


 龍の血を夜の王が欲しがっている。それを使えば、何かを動かせるかもしれない。


 だが、その先を考えるたびに引っかかる。


 ミナをどうするか。


 本人の人生を本人に選ばせろと考えながら、その本人を取引の材料にする。それでは、やっていることの形が夜の王とあまり変わらない。


「ミナに聞いてくる」


 瓶を懐へしまい、グレイは窓辺から離れた。


 ライアンが眉を上げる。


「何を聞くんスか?」


「俺たちと来たいかどうか。そこを聞かないまま話を進めたら意味ないだろ」


 ライアンは口を閉じた。


 セバスも何も言わない。


 ライカだけが畳み終えた外套へ視線を落とし、それからグレイを見る。


「それなら、先に本人へ聞くべきでしょうね。お姫ちゃんが何を考えているのかは分かりませんが、ミナのことならミナが決めるべきです」


「だから聞く。嫌ならそこで終わりだ」


 グレイが扉へ向かうと、壁際にいたロイが身体を起こした。


「主、一人で行くのか?」


「話をするだけだからな。人数が多いと、あいつも言いにくいことがあるだろ」


 誰も反対しなかった。


 グレイは外套を一枚借り、雨の内門へ出た。


     ◇


 ミナの家を訪ねると、彼女は母親と一緒に昼食の片付けをしていた。


 突然やってきたグレイに驚いたものの、母親はすぐに椅子を勧めてくれた。だがグレイは座らず、ミナへ向き直る。


「少し歩かないか。聞きたいことがある」


「私にですか?」


「ああ。できれば二人で話したい」


 ミナは母親を見る。


 母親は娘とグレイを交互に見たあと、静かに頷いた。


「行っておいで。雨も弱くなってきたから」


 ミナは外套を羽織った。


 二人で家を出る頃には雨粒はかなり細くなり、軒先から落ちる水音だけがやけに大きく聞こえていた。


 グレイは目的地を決めずに歩いた。


 ミナも尋ねない。


 しばらく並んで進んだところで、通りの先に小さな広場が見えてきた。中央には雨に濡れた噴水があり、その周囲には誰もいない。


 グレイは屋根の張り出した建物の壁際で足を止めた。


「ミナ。海を見たいって言ってたよな」


 隣にいた少女の肩がわずかに動く。


 あの日以来、海について話すことはなかった。


「……はい」


「今も見たい?」


 ミナはすぐには答えなかった。


 噴水から溢れた水が石の縁を伝い、雨水と混ざって流れていく。


「見たいです。でも……もう無理だって分かりましたから」


「それは王が許さなかったからだろ。お前自身が行きたくなくなったのかを聞いてる」


 ミナが顔を上げた。


 迷いが浮かぶ。


 やがて視線を落とし、両手を身体の前で組んだ。


「見たいです。本で読んでからずっと、本当にあんな場所があるのかなって思っていました。グレイさんたちの話を聞いて、もっと見たくなりました」


 そこで言葉が途切れた。


「でも、海だけじゃなくなっちゃったんです」


 グレイは黙って続きを待った。


「外には、私の知らない街があるんですよね。港もあって、山もあって、いろんな人がいて……。ここにいる時は、外のことなんて本の中だけで十分だと思っていました。でも今は、自分で見てみたいです」


 ミナは困ったように笑った。


「こんなこと、考えなければよかったのかもしれませんね」


「それは違うだろ。知ったから見たくなっただけだ。悪いことじゃない」


「でも、お母さんも友達もここにいます」


「それも分かってる。だから、俺は海を見たいかだけを聞きに来たんじゃない」


 ミナが瞬きをする。


 グレイは壁から背を離した。


「もしこの街を出られるなら、俺たちと来る?」


 雨音の中で、その言葉だけが妙にはっきり残った。


 ミナは何も言わなかった。


 驚いた顔のままグレイを見ている。


「ずっと一緒にいろって話じゃない。海を見て、その先をどうするかは自分で決めればいい。戻りたいなら戻る方法を考えるし、別の場所へ行きたいなら、それもお前が決めればいい」


「そんなこと……できるんですか?」


「まだ分からない。だから先に聞いてる。俺だけで勝手に決めたら、王と変わらないだろ」


 ミナの唇がわずかに震えた。


 視線が足元へ落ちる。


 しばらくして、小さく息を吸う音がした。


「行きたいです」


 グレイは答えを急がせず、そのまま待った。


「海を見たいです。それから……自分で、帰るかどうか決めたいです。今すぐここが嫌いになったわけじゃありません。お母さんもいるし、友達もいるし、王様との思い出だって……なくなったわけじゃないから」


 最後の言葉だけが少し掠れた。


 グレイは頷いた。


「分かった。それなら俺が王と話してくる」


「グレイさん」


 歩き出しかけたところで呼び止められた。


「王様と戦うんですか?」


 グレイは振り返る。


 ミナの顔には、本気の不安があった。


「戦わない。あいつは話が通じない相手じゃないし、俺も喧嘩しに来たわけじゃない。まず話して、それで駄目なら別の方法を考える」


 それを聞いて、ミナの肩から少しだけ力が抜けた。


 グレイは雨の向こうにある館を見た。


 懐には龍の血がある。


 使い方は決まった。


 ただし、ミナを値段のついた品物として扱うつもりはない。


 本人が行きたいと言った。


 なら、その意思を通すために使う。


     ◇


 夜の王の館へ向かう前に、グレイは宿へ戻った。


 ライアンたちは同じ部屋にいた。


 扉を開けるなり、ライアンが椅子から身体を起こす。


「どうだったんスか?」


「行きたいってさ。海だけじゃなくて、外を自分で見たいらしい」


 ライカは小さく息を吐いた。


「そうですか。それなら、あとは夜の王ですね」


「姫さん、どうするつもりなんスか?」


 グレイは懐から瓶を取り出し、机へ置いた。


 赤い液体を見たライアンが、わずかに眉を寄せる。


「それと交換するつもりっスか?」


「そうする。ただ、ミナを物として買うつもりはない。あいつが出たいって言ってる。その意思を王に認めさせるための条件として使う」


 セバスが杯を置いた。


「言葉を変えても、相手からすれば同じことになるかもしれんぞ」


「分かってる」


 グレイは瓶へ指を置いた。


「王はミナを自分のものだと思ってる。そこを今すぐ変えさせるのは無理だろ。だったら、あいつが納得する形で手放させるしかない」


「主らしくないな」


 ロイが言った。


 グレイはそちらを見る。


「何が?」


「もっと先に殴ると思ってた」


「俺を何だと思ってるんだよ。話せる奴をいきなり殴ったりしない」


 ロイの口元が少し上がった。


「そうだったな。俺の時も一応話はしてた」


「お前は俺の頭を撃ったあとだっただろ。一緒にするな」


 ライアンが吹き出し、ライカは呆れたように二人を見る。


「その話を始めると長くなるので、今はやめてください。それより、お姫ちゃん。夜の王が交換を拒否した場合はどうするつもりですか?」


「その時に考える。まだ断られてもいないのに、次の手まで決めても仕方ないだろ」


 グレイは瓶を手に取った。


「俺一人で行ってくる。ミナにも王にも、余計な圧をかけたくない」


 セバスが一度だけ頷いた。


 それ以上、誰も止めなかった。


     ◇


 館の応接室には、昨夜と同じ茶の香りが残っていた。


 夜の王はグレイを一人で迎えた。


「今日は皆さんと一緒ではないんだね」


「お前と二人で話したかったからな。少し頼みがある」


「君から頼み事とは珍しい。私にできることなら聞こう」


 夜の王は向かいの椅子を勧めた。


 グレイは腰を下ろす。


 卓上には茶と小さな焼き菓子が置かれている。グレイは一つ摘み、口へ入れた。


「これ、美味いな」


「気に入ったなら持って帰るといい。内門の菓子職人が作ったものだよ」


「じゃあ帰りにもらう。それとは別に頼みがある」


 夜の王が笑った。


「そちらが本題だね」


 グレイは菓子を飲み込み、真正面から男を見る。


「ミナを俺にくれ」


 夜の王の笑みが止まった。


 消えたわけではない。


 ただ、その表情のまま動かなくなった。


「……それは困るな」


「やっぱり?」


「やっぱり、と言われてもね。君も知っているだろう。私はあの子をとても気に入っている」


「知ってる。だからお前に聞いてる」


 夜の王は椅子へ深く腰を預けた。


「理由を聞いても?」


「ミナが外へ行きたいと言った。海を見て、そのあとどうするかも自分で決めたいってさ」


「それは以前にも聞いたよ。それでも私は認めなかったはずだ」


「だから今度は俺が頼んでる。俺が連れていくなら、少なくとも旅の途中で簡単に死なせたりはしない」


 夜の王は困ったように眉を下げた。


「君ならそうだろうね。そこは疑っていない。しかし、それとミナを君へ渡すことは別だよ」


 予想通りだった。


 グレイは懐へ手を入れた。


 小瓶を取り出し、卓上へ置く。


 夜の王の視線が止まる。


 瓶の中で暗赤色の液体が揺れた。


「これをやる」


 夜の王はすぐには触れなかった。


「昨日の……」


「アルディエルの血だ。昨日飲ませた分よりずっと多い。これだけあれば、お前ならかなり長く持つんじゃないか?」


 夜の王は瓶を見つめたまま黙っている。


 グレイは急かさなかった。


 龍の血がどれほど希少かは、説明する必要もない。


 まして、ただの龍ではない。


 白耀龍神アルディエル。


 あれほどの存在から血を分けてもらう機会など、探して得られるものではなかった。


「それを、ミナと?」


「交換だ。お前がミナを俺に渡すなら、この血は全部やる」


 夜の王がようやく瓶を手に取った。


 光へ透かすように傾ける。


 瓶越しでも感じられるほど濃い魔力が、わずかに空気を震わせた。


「……随分と思い切ったね」


「俺にはまだ必要ない。お前は欲しい。それなら使えるだろ」


「価値だけで比べれば、こちらの方が遥かに上だ」


 夜の王は静かに言った。


「これほどの龍の血は、私が今後どれほど生きても二度と手に入らない可能性がある。量まで考えれば、ミナ一人どころの話ではない」


 グレイの眉がわずかに動く。


「だったら決まりじゃないの?」


「そう簡単ではないよ」


 夜の王は瓶を卓上へ戻した。


「私はミナが好きだからね」


 その言い方には迷いがなかった。


「血の味だけではない。あの子がまだ小さかった頃から知っている。よく転んで膝を擦りむいていたし、母親の後ろに隠れてこちらを見ていた時期もあった。少し大きくなってからは、私を見るたびに自分から話しかけてくれるようになった」


 夜の王の表情が柔らかくなる。


「本を好きになったのも覚えている。気に入った本を見つけると、同じものを何度も読むんだ。内容を覚えてしまっているのに、それでも楽しそうに頁をめくっている」


 グレイは何も言わなかった。


 そこに嘘がないことは、もう知っている。


「だから困っているんだよ。君の条件は魅力的だ。しかし私は、ミナを手放したくない」


「なら、ミナが行きたいって言ってることは?」


「それも知っている」


 夜の王は目を伏せた。


 卓上の龍の血ではなく、今度は窓の外を見る。


「君と話してから考えていたんだ。あの子が海へ行きたいことも、その気持ちが一時の好奇心だけではなくなっていることもね」


「それでも駄目だって言っただろ」


「そうだね」


「今も同じ?」


 夜の王は答えなかった。


 グレイは椅子へ背を預ける。


「俺は、お前の考えを変えに来たわけじゃない。たぶん何を言っても、そこは簡単には変わらないだろ」


「随分と諦めがいいんだね」


「昨日話して分かったからな。お前は人間を大切にしてる。でも、自分のものじゃないとは思えない。そこを今ここで言い争っても仕方ない」


 夜の王は少しだけ目を細めた。


「それでもミナを連れていく?」


「本人が行きたいと言ったからな。だったら俺は、行ける方法を探す」


 グレイは卓上の瓶を指先で押した。


 小瓶が夜の王の方へ数センチ滑る。


「お前はミナを手放したくない。俺はミナを連れていきたい。お前はこの血が欲しい。なら、今はこれで決めればいいだろ」


 夜の王は瓶へ視線を戻した。


「君は不思議だね」


「何が?」


「私がミナを家畜として扱うことを嫌っているのに、そのミナを取引しようとしている」


「嫌だよ」


 グレイは即座に答え、それから少し言葉を足した。


「だから先に本人へ聞いた。ミナが嫌だと言ってたら、俺はこの話をしに来てない」


 夜の王がグレイを見る。


「ミナが望んだから、君は彼女を買う?」


「違う。あいつが自分で選べる状態を買うんだ。お前から見れば同じかもしれないけど、俺には違う」


 夜の王はしばらく黙った。


 やがて小さく笑う。


「なるほど。確かに私には、ほとんど同じに見える」


「だろうな。そこはもう諦めた」


「君は私を説得するつもりがないのかい?」


「ない。お前の考えを変えるより、ミナを外へ出す方が先だろ」


 夜の王は声を立てずに笑った。


「やはり君との会話は面白い」


「俺は今、結構真面目なんだけどな」


「私も真面目だよ」


 そう言ってから、夜の王は再び考え込んだ。


 長い沈黙だった。


 雨音が窓を打つ。


 やがて彼は龍の血を手に取った。


「一つ、確認していいかな」


「何?」


「ミナを連れていったあと、君はあの子をどうする?」


「別に何もしない。旅に付いてくるなら一緒に行くし、どこかで暮らしたいなら手伝う。ここへ帰りたいと言うなら、その時は本人と一緒に考える」


「血は?」


 グレイは眉を寄せた。


「欲しければ魔物から取る。ミナから飲む必要なんてないだろ」


 夜の王が少し驚いた顔をした。


「そうか。君はそういう吸血鬼だったね」


「前にも話しただろ。俺はそういう飼い方はしない」


 その言葉を最後に、グレイは黙った。


 夜の王も答えない。


 瓶を指先で転がしながら、何かを考えている。


 龍の血。


 ミナ。


 単純な価値だけなら比較にならない。


 けれど彼にとってミナは、数字で並べられるだけの存在ではない。それだけはグレイにも分かっていた。


 だからこそ、決断には時間がかかった。


「……分かった」


 夜の王が呟いた。


 グレイが顔を上げる。


「交換を受けよう」


「いいの?」


「惜しいよ。とてもね」


 夜の王は苦笑した。


「龍の血が欲しいのも事実だ。しかし、それだけなら私は断っていたかもしれない」


「じゃあ、何で受けた?」


「ミナが行きたいと言ったのだろう?」


 グレイは黙った。


「私はあの子を手放したくない。今でもその気持ちは変わっていないよ。ただ、君ならあの子を粗末にはしない。それも分かっている」


 夜の王は瓶を見つめた。


「私の手元に置いておくことだけが、あの子を大切にする方法ではないのかもしれない。少なくとも、今回はそう考えてみることにした」


 完全に変わったわけではない。


 それは言葉の端から分かった。


 夜の王はミナを対等な存在として認めたから手放すのではない。


 信頼できる相手へ所有を移す。


 彼の中では、まだその形なのだろう。


 それでも結果は変わる。


 ミナは外へ出られる。


「じゃあ、決まりだな」


「そうだね。龍の血は私がもらう。ミナは君へ渡す」


 その言い方に、グレイの眉が寄った。


 だが、言い直せとは言わなかった。


 ここで言葉だけを変えさせても意味がない。


 グレイは椅子から立ち上がった。


「ミナにも、お前から話してやってくれ。俺だけから聞くより、その方がいい」


「もちろん。そのくらいはさせてもらうよ」


     ◇


 夕方。


 雨は上がっていた。


 館の庭には濡れた土の匂いが残り、雲の切れ間から差した夕日が水溜まりを赤く染めている。


 ミナはグレイたちと共に館を訪れた。


 ライアンたちは部屋の外で待つことになり、応接室へ入ったのはグレイとミナだけだった。


 夜の王は窓際に立っていた。


 ミナを見ると、いつもと同じように笑った。


「来たね、ミナ」


「……はい」


 ミナは緊張したように両手を握っている。


 夜の王はその様子を見てから、グレイへ一度視線を向けた。


「グレイから聞いているかい?」


「少しだけ。王様から話してもらうって……」


「そうか」


 夜の王はミナの前まで歩いてきた。


「君は、グレイと一緒にこの街を出ることになった」


 ミナが息を止めた。


「……本当に?」


「本当だよ。海を見たかったのだろう?」


「はい。でも、王様は……」


「私は許さないと言ったね」


 夜の王は穏やかに笑う。


「少し事情が変わったんだ。グレイと話をして、君を彼女へ渡すことにした」


 ミナの顔から、喜びが一瞬で消えた。


「渡す……?」


「そうだよ」


 グレイは口を挟まなかった。


 夜の王が自分の言葉で何を話すのか、ミナがどう受け取るのか。


 そこに自分が答えを置くべきではないと思った。


 ミナは俯いた。


 やがて、小さな声が落ちる。


「王様……私のこと、愛していたんですか?」


 夜の王は迷わなかった。


「もちろん。実の子供のように思っている。愛しているよ」


 その答えを聞いた瞬間、ミナの指が強く握られた。


「じゃあ……どうして、私を手放すことができたんですか?」


 夜の王はすぐには答えなかった。


 初めて、少し困ったように眉を寄せる。


 ミナが何を聞いているのか。


 その意味を理解しようとしているようだった。


「君が大切なのと、君を手放せないことは同じではないだろう?」


 ミナの瞳が揺れる。


 夜の王は続けた。


「それに、君は海を見たかったんだろう? グレイならきっと連れていってくれる。だから私は、君にとっても悪い話ではないと思っているよ」


「でも……」


 ミナの声が震えた。


「私と、何を交換したんですか?」


 部屋が静かになった。


 グレイは夜の王を見る。


 隠すつもりはなかった。


 夜の王も同じだったらしい。


「龍の血だよ」


 ミナの目から、一粒だけ涙が落ちた。


「私、龍の血と交換されたんですね」


「そういう形にはなるね」


 夜の王は否定しなかった。


 ミナは唇を噛んだ。


 涙がもう一つ落ちる。


「王様にとって、私って……そのくらいだったんですか?」


「違うよ」


 夜の王の声は変わらない。


 優しいままだった。


「君と龍の血の価値を比べて、血の方が高かったから手放したわけではない。あれがどれほど希少でも、君を手元に置きたいという気持ちは今もある」


「じゃあ、どうして……」


「君が行きたがっていたからだよ」


 ミナが顔を上げた。


「以前の私は、それでも手元に置いておくべきだと思っていた。けれどグレイなら君を粗末にしない。それなら、君が望んでいる場所へ行かせても構わないのではないかと思ったんだ」


 ミナの頬を涙が伝う。


 夜の王はその涙を見て、ほんの少しだけ寂しそうに笑った。


「もちろん、寂しいよ。君がいなくなるのは」


「……私もです」


 その言葉は掠れていた。


「王様のこと、嫌いになれないんです。ずっと優しかったから。私が病気になった時も来てくれたし、本をもらったことも覚えてるし……全部、嘘じゃなかったって分かるから」


「嘘ではないよ」


「だから分からないんです」


 ミナは袖で涙を拭った。


「私を愛してるって言ってくれるのに、私が王様の家畜だったことも本当で……今だって、私をグレイさんに渡すって言うから」


 夜の王は黙って聞いている。


「私、嬉しいんです。海へ行けることも、外を見られることも。でも……こんなに嬉しいのに、すごく悲しいんです」


 夜の王はゆっくりと手を伸ばした。


 途中で一度止まり、それからミナの頭へ触れる。


 幼い頃から何度もそうしてきたのだろう。


 ミナも逃げなかった。


「それなら、今は分からなくてもいいんじゃないかな」


 夜の王は静かに言った。


「外を見て、海を見て、いろいろな場所へ行けばいい。それでも私を嫌いになれないなら、それで構わない。嫌いになったとしても、私は君を大切に思っていたことまで変えるつもりはないよ」


「王様は……最後までずるいですね」


 ミナが泣きながら笑った。


「そうかな?」


「そうです。私が怒ればいいのか、泣けばいいのか、分からなくなることばっかり言います」


 夜の王は少し考え、本当に分からないという顔をした。


「困らせるつもりはなかったんだけれどね」


 それを見て、ミナはさらに泣いた。


 グレイは少し離れた場所から二人を見ていた。


 夜の王の手は優しい。


 ミナを見る目も変わらない。


 そこにあるものを愛情と呼ぶことを、もうグレイは否定しなかった。


 ただ、その愛情の中にあるものを自分が受け入れられるかは別だった。


「王様」


「何だい?」


「私、海を見てきます」


「ああ。見ておいで」


「本当に、向こう側が見えないのか確かめてきます」


「晴れていればよく分かるよ。できれば朝と夕方の両方を見るといい。随分と印象が違うからね」


 ミナは何度も頷いた。


「それから、港も見ます。船にも乗ってみたいです。怖いかもしれないけど、それも自分で決めます」


 夜の王の手がミナの頭から離れた。


「分かった。君がそうしたいなら、グレイに頼むといい」


 その言葉にも、まだ小さなずれがある。


 許可する側と、許可される側。


 完全には消えない。


 ミナもそれに気づいたのかもしれない。


 けれど今度は何も言わなかった。


 代わりに一歩近づく。


 そして夜の王の身体へ腕を回した。


 夜の王が驚いたように目を見開く。


「ミナ?」


「今だけです」


「そうか」


 夜の王は少し遅れて、少女の背へ腕を回した。


 窓から差し込む夕日が二人の足元まで伸びていた。


 親子の別れに見えた。


 けれど、親子ではない。


 飼い主と家畜。


 その認識を最後まで変えなかった者と、その認識を知ってしまった者。


 それでも、そこで交わされている抱擁まで偽物になるわけではなかった。


 しばらくしてミナが離れる。


 目元は赤かった。


 夜の王は懐から布を取り出し、彼女へ渡した。


「使うといい。昔から君は泣くと目を擦るからね」


「……そういうところまで覚えてるんですね」


「もちろん。君のことはよく覚えているよ」


 ミナは布を受け取った。


 また泣きそうになった顔を隠すように、目元へ押し当てる。


 グレイはそこで初めて二人へ近づいた。


「そろそろ行こう。母親とも話さないといけないだろ」


「はい」


 ミナが頷く。


 夜の王はグレイへ向き直った。


「グレイ」


「何?」


「あの子を頼むよ」


 グレイは少しだけ眉を寄せた。


「頼まれなくても粗末にはしない。それに、ミナがどこへ行くかはこれから本人が決めることだ」


「そうだったね」


 夜の王は笑った。


 たぶん、分かってはいない。


 それでもグレイは、それ以上言わなかった。


 ミナが扉へ向かう。


 途中で一度だけ振り返った。


「王様」


「何だい?」


「行ってきます」


 夜の王は一瞬だけ目を細めた。


「行っておいで、ミナ」


 それだけだった。


     ◇


 館の外では、ライアンたちが待っていた。


 扉から出てきたミナの赤い目を見て、ライアンは何か言いかけたが、結局口を閉じた。


 ライカは何も尋ねず、持っていた布を差し出す。


「雨はもう止みました。少し歩いて帰りましょうか」


「……はい」


 ミナは小さく笑った。


 セバスは館を一度振り返っただけで、先に歩き出す。ロイは最後に出てきたグレイへ並んだ。


「終わったのか、主」


「ああ。終わった」


「納得した顔には見えないな」


 グレイは前を歩くミナを見る。


 ライカと並び、その少し前ではライアンが何か話し始めている。たぶん、泣いた理由を聞かずに済む話題を探しているのだろう。


「納得はしてない。でも、ミナは外へ出られる。それなら今はそれでいい」


「夜の王は?」


「最後まで変わってない。ミナを大切にしてるし、家畜だとも思ってる。たぶん、あいつの中じゃこれからも両方とも本当なんだろ」


 ロイは少し考えたあと、館を見る。


「面倒な奴だな」


「そうだな。でも、嫌いにはなれない」


 グレイは濡れた石畳を踏んだ。


「俺とは合わないけど、ミナを大切にしてたことまで嘘にする必要はないだろ」


 それ以上は言わなかった。


 通りの先から、夕食を作る匂いが流れてくる。


 雨上がりの内門には少しずつ人が戻り始め、家々の窓には明かりが灯っていた。


 ミナは途中で立ち止まり、自分の家がある方角を見る。


 これまでなら、何も考えずに帰っていた道。


 母親が待っている家。


 友人たちが暮らしている街。


 夜の王が守り続けてきた場所。


 明日になっても、その景色自体は何も変わらない。


 けれどミナは、もう同じ目では見られない。


「グレイさん」


 呼ばれ、グレイは足を止めた。


「どうした?」


「海って……ここから遠いんですよね?」


 グレイは少し考える。


「近くはない。でも歩いてればいつか着くし、途中にもいろんな場所がある。急ぐ理由もないから、見たいものがあったらその都度止まればいい」


 ミナの目がわずかに丸くなる。


「寄り道してもいいんですか?」


「旅なんてそんなものだろ。行き先だけ決めて、途中は好きにすればいい」


 ミナは黙った。


 やがて、ほんの少しだけ口元を緩める。


「……じゃあ、いっぱい寄り道したいです」


「それならライアンに言っとけ。あいつは余計な場所を見つけるのが得意だからな」


「姫さん、それ褒めてないっスよね?」


 前を歩いていたライアンが振り返る。


「半分くらいは褒めてる」


「残り半分が気になるんスけど」


「気にしなくていいだろ。今回は役に立つんだから」


「ほら、やっぱり褒めてないっス!」


 ミナが小さく吹き出した。


 ライカも肩をすくめながら歩き出す。


「にーちゃんが寄り道を増やすのは事実ですからね。ただ、ミナが見たいものを探すという意味では役に立つでしょう」


「ねーちゃんまで酷くないっスか?」


「事実を言っただけです」


 そのやり取りを聞きながら、ミナがまた笑った。


 泣いた直後の、少し掠れた笑い声だった。


 グレイはそれを聞いてから、夕暮れの道へ視線を戻す。


 海はまだ遠い。


 ミナがこれから何を見るのかも、どこで暮らすのかも決まっていない。


 それでいい。


 少なくとも次に進む道は、誰かに決められたものではなかった。


 雨雲の切れ間から差した夕日が、濡れた石畳の上へ長く伸びていた。

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